第十一話 「魚の餌」
「さぁカレン、まずはこれを読むのだ。好きなものからでいい」
ベッドに腰掛けて外を眺めるカレンの隣に、何冊も積んだ本をどんと置いた。
「えーと、『エイ・ケイをちょうだいな』『幕天と交換しましょう』『ナザシカエーイ』『マタピネダンの侍女』……」
専属の司書までいる書庫より持ってきたのはどれも貴族についての記述がある本だ。特に貴族の妻や令嬢が活躍するような物語を多く選んできた。
カレンにはそれらを読み込んでもらい、貴族の在り方というものを知る事から始めてもらう。
作法なんかが滅茶苦茶でも、自分が高貴なる者であるという心持ちさえしっかりしていれば案外バレないものだ。
「うーん、どれにしよう……」
「直感で選ぶといい。心配せずともカレンが立派な令嬢になりきれるとは俺を含めて誰も期待していない。元から立場も中身も正反対なのだからね。言うならば猿が人間の真似をするようなものさ。気楽にやりなさい」
「言ったわね!? 絶対になりきってやるんだから!」
カレンを軽く焚きつけてから、俺は仕事へ向かった。
それで昼過ぎには帰ってきて部屋に入ると、そこではカレンが全く同じ位置、同じ姿勢で本にのめり込んでいた。
「一応聞くけど昼飯は食べたのかい?」
「あっ、食べてないや」
あのカレンが食事もとっていないとは……。
これはそうとう熱が入っているとみえる。
だから俺も倣うように本を借りて戻ってきて、それから鍛錬を始めた。
「フンッ……フンッ……フンッ……。なるほど、賢者の石というものができたのか……何っ!? 無限の力だと!」
「ねぇ、気が散るんだけど」
「おやすまない、どうも歳をとると独り言が出てしまうものでねぇ。静かにしよう」
魔法で二百キロ程度に重くした歴史書を素振りしながら読んでいたら文句を言われてしまった。
「独り言もそうだけど動きの方が」
「……だめかな?」
カレンが必死に読み込んで新たな人格を練り上げている手前、ただぼうっとしているわけにもいくまい。
それにやはり、千年という空白は大きすぎた。
頭の中で過去の闘いを浮かべていただけで、指の一本も動かせず魔法の一つも使えなかったのだから当然鈍り錆びつくというものだ。
具体的にどの程度鈍ってしまったのかというと、一秒に二十発打てた必殺の拳が十八発しか打てなくなり。十キロ先にある針の穴を射抜いた魔法の矢も、今では九キロ先のそれを射抜けるかどうかにまで精度を落としてしまった。
それでもまともな感性の人間なら「十分すごい、すごすぎる」「それ以上何を望むというんだ」「お前頭おかしいよ」と言うだろう。実際、五百歳未満の俺も同じことを言うはずだ。
だが、肉体の限界を引き出した上で武を極めた魔人、雲の中を飛ぶ鳥を射落とすエルフ、たった一人たった一夜で城を建て千のゴーレムを製造するドゥーマン、そのようなまともじゃない世界を見てきたからにはそうは言えない。
強者の世界ではコンマ一秒遅れた、たった一ミリのぶれが生じた、などという僅かな甘さと衰えが命取りになるのだ。
かつては俺様に敵う者無しと確信していた時期もあったが、今では五指に入るかどうか。
だって、千年の間に新たな技術や魔法が編み出されていないわけがない。今読んでいる書物にすら、眉唾ものではあるが莫大なエネルギーの秘められた賢者の石とやらの記述がある。
とにかく、だ。この先それらとまみえた時、無傷で対処できるとは思えない。
ゆえに鍛錬を積む。己を高める。人間の限界点を目指し続ける。
すべては来たるべき未来でカレンと笑っていられるために。
「だからって指一本で逆立ち腕立て伏せ歩きしながら足で本を持って読んだり、天井に張り付いてカサカサ動き回りながら本を読むのはどうかと思うけど……」
♦♦♦
夕暮れの涼しい風に吹かれて、次第に灯が灯され賑やかな夜の街へと変貌しつつある中を行く。
隣におわすご機嫌な少女の歩幅に合わせてはいるが、いつものように手を繋いではいない。
「ねぇ下僕、今は何がおいしいのかしら」
「はいお嬢様、この時期のこの地域では株野菜が旬でございます。とくに黒カブなんかは美容にも良いとされています」
各々が本を読み続けていたらあっという間に時が過ぎてしまったので、気分転換にとカレンを外食へ誘ったのだ。
そして嫌がるカレンにこれも練習だと言い聞かせて、お嬢様用の華やかなドレスを着せて外を歩かせることに。後押しで好きなものを好きなだけ食べさせてあげると約束したのが功を奏した。
カレンが貴族令嬢をつとめている間は、俺も倣って従者をつとめる。
ここに気兼ねない親子というものはなく、代わりに目上の者と目下の者という厳格な関係だけがある。
「見なさい下僕。あの男はまともな食事もとらずに安酒で酔い、あの女は甘いケーキを食べずに堅そうなパンを食べている。下民を見ているだけで笑いがこみ上げてきますわ! おーほっほっ!」
「…………カレン?」
「冗談に決まってるでしょ」
もしかしたら読ませる本を間違えたのかもしれない。
中年女性の司書に貴族令嬢の本はないかと聞いて、勧められたものをそのまま借りてきたのだが、あれにはかなり本人の趣味が入っていたのだろう。
「……こほん。夕食にはまだ早いですし、しばらく庶民の街を遊覧しますわよ。ついてきなさい、下僕!」
「お嬢様の命とあらばどこまでも」
それから腹を空かすのも兼ねてしばらくの間遊覧した。
遊覧といってもやることはいつもと何ら変わらない。
カレンの興味と好奇心の赴くままに練り歩き、疑問が湧いたのなら自分で考えさせてからヒントを与え答えを教え、高頻度で何か食べ物を幸せそうに頬張るさまを優しい目で見つめる。
普段なら親子の立場でするそれを、大貴族の令嬢とその下僕である教育係という役になりきってしているだけだ。
「下僕、これを割りなさい」
「あぁ、大クルミですか。屋敷に帰れば専用の器具があるのでそれまで我慢を」
「ワタクシは我慢をいたしませんの」
やはり読ませる本を間違えた。
実際にお嬢様にはワガママな子の比率が高いので間違ってはいないのだが、間違えた。
もう少し清廉潔白でお淑やかな人物が主役の本を読ませるべきだった。
「人様の手本になってください、とまでは言いませんからせめて人並みには……」
「小言はいいから早くやりなさいってば! アレンなら素手で割れるでしょ!?」
「はいはいかしこまりましたお嬢様。それと素が出ているざますよ」
もう止められそうにないと確信した。
この状態のカレンがいつものように厄介事を見つけて飛び込んでしまう前に、さっさと夕食をとって連れ帰ろうと思案した。
その時であった。
「ちょっと下僕、アレをごらんなさい」
「あー……」
カレンが顎先で指す方を見る。
日中ほどは多くない人混みの向こうで、二人の子供が路地裏へ無理矢理連れて行かれるのを目撃してしまった。
「見間違えではないでしょうか?」
「下僕ほどじゃないけど、ワタクシの視力もよろしくてよ」
どうして叡智神はエルフに高い視力を与えたもうたのか。
「アレはきっと、我々と同じように演技をしているだけでしょう。ええ、きっとそうですよ」
「そんなわけないでしょ! 早くいくわよ!」
どうして人族よりも強き心を与えたもうたのか。
そのせいでカレンに危険が迫っているのだ。
全て貴様のせいだ。
いつか俺様が神にでもなった暁には、ぶん殴る回数を一追加してやる。
そう決意して、カレンを見失わないように走り出した。
♦♦♦
街路から路地裏へ曲がるとそれが目に入った。
「おめぇよぉ、どうしてくれんだよこれよぉ」
二人の成人男性がカレンよりも小さい子供二人を隅に追い込んで威圧している。
口ぶりからするに何か子供達が二人に対してやらかしてしまったそうだ。
「ちゃんと弁償しやがれ。親も呼んでこい」
「おい待て、まずは一発殴ってからだ。気が済まねえ」
「お止めなさい、愚民」
男の片方が子供の胸倉を掴みいよいよ殴ろうとするところで、カレンがいつもよりも丁寧な口調で止めに入った。
「あぁん? 何だよおめぇ」
「そこで何をしているのかしら?」
「このガキ共がいきなりぶつかってきて俺の酒を全部溢しやがったんだよ」
「だからよ、今から弁償してもらうんだよ。邪魔すんじゃねぇよ」
半分酔っている様子の男が多少ふらつきながらこちらを向いて、空の酒瓶を逆さまにして振る。
その後ろで壁を背に逃げられない子供二人のうち、片方の手には遊びで使うボールがあり、酷く怯えた目で助けを乞う……って、またこの二人か。
俺の記憶が正しければ、あの日馬車に轢かれそうになっていた子達で間違いない。
この子達はそういう不幸な星の下にでも生まれたのだろうか。
むしろ今日までよく無事で生きてこれたなとつくづく思う。
「見世物じゃねえんだ。さっさと失せな」
「そうはいきませんわ。あなた方のような愚民こそ目障りですもの。その子達を放して消えなさい」
「んだと!?」
「どこの嬢様だか知らねえが、調子に乗ってんじゃねえぞ!」
「あら怖い。まさか、ダルボ家の一人娘であるワタクシに逆らうおつもりかしら?」
キッと男達を睨みつけて権力という切り札を切った。
「あぁ!? 俺は機嫌が悪ぃんだ! 貴族だろうが王様だろうがぶん殴ってやるよ!」
しかし二人がカレンの言葉に怖気ることはない。
酔って正常な判断ができないというのもあるが、良くも悪くも権力に屈しない人間はいる。
こういう輩には直接力で叩くか、本能に恐怖を感じさせるほかない。
「……よろしいですわ。口でわからないようでしたらワタクシが相手になってあげましてよ」
カレンの唇が怒りでわなわなと震え、両手で握りこぶしを作る。
「お嬢様、暴力はいけませんよ。もちろん魔法も。ご主人様に迷惑がかかります」
「…………はぁ、わかったわよ」
そして動きやすいようにドレスの裾を捲って縛ろうとした寸前に制止した。
たしかに今のカレンならば酔った暴漢の二人や三人を軽々転がせるくらいなんてことはないが、それをしてはいけない。
今はカレン・メーテウスではなく、カレン・ダルボという貴族の一人なのだから。
カレン本人は気にせずとも「野蛮で粗暴な娘がいる」「一体どういう教育をしているのだ」という悪評がトラスアに降りかかる。トラスアに敵対者がいればそれに与することになってしまう。
だから暴力はダメだ。
あくまで賢く温和に、貴族的な解決策を。
『でも、どうすればいいの?』
『さっき買った大クルミを一つくれ』
次の一手が何も考え付かないカレンに瞬きで告げると、すぐに閃いた顔をしてくれた。
「なんだ? やっぱりビビってんのかぁ? お嬢様よぉ!」
「ワタクシの手を汚したくはありませんもの。だから下僕、やっておしまいなさい。ご褒美はそうね、これをあげるわ」
「かしこまりました」
カレンがぽいっと投げた大クルミを掴み取って、それを何度か軽く握る。
「そこのお子様達。今からとても恐ろしい事が起こるから、目を瞑って耳を塞ぎなさい」
「あー? そんなハッタリで俺達がビビると思ってんのか?」
子供達がちゃんと言われた通りにしてから、俺はカレンを背後に隠して男達の目の前に出た。
「おぉん? やんのか兄ちゃん?」
「オラ、こいよオラ」
「……お嬢様、本当にやってしまってよいのですね?」
二人の挑発を無視し、カレンに確認する。
「やりなさい」
俺は許可を受けてすぐに、手の平に乗せた拳大のクルミを顔の前まで持ち上げ。
狼でも噛み砕けないとされる堅い殻を、親指と人差し指と中指で挟んで砕いた。
それをしかと見せつけられた二人からは、魂を抜かれたように威勢が消えて固まった。
「どうかしら? 実を言うとワタクシの下僕は人間ではないのよ」
「い……いや、そんなはずはねえ! ただ怪力なだけで……」
「オジョウサマ。クルミ、タベテモヨロシイデスカ?」
「いいわよ」
動揺する二人を尻目に一度カレンの方を振り返り、そこで耳の下から耳の下まで横一直線に口を裂き。
「ひぃっ!?」
「あ……ぅあ……」
再度正面を向いて砕いたクルミを殻ごと口に放り込み。
顎をカパカパと外し入れしながら何度も見せつけるように咀嚼し、飲み込んだ。
「いい食べっぷりでしょう?」
腰を抜かしてへたり込んだ二人にカレンが尋ねる。
しかし彼らはうんともすんとも言わず震えたままだ。
「オジョウサマ、クルミモウナイ?」
「ないわよ。……あぁでも、そこに美味しそうな人間がいるじゃない。クルミがなければ人間を食べればいいじゃない」
「タベテイイノ?」
「骨まで食べてしまいなさい。残った肉は池の魚の餌にしてさしあげますわ」
カレンの嗜虐的な視線と俺の餌を見る目に当てられた二人は大粒の涙を溢しながらも勇気を振り絞り、二手に分かれて俺とカレンの横をすり抜け声も出さずに逃げて行った。
子供の頃にしか信じていなかったような化け物を直に見てしまったのだ。さぞや忘れられない思い出となるだろう。
「ほらあなた達、もうよろしくてよ」
「え……あれ……?」
「ぼくたち、助かったの……?」
ぎゅっと瞑っていた目を開いた子供達は、あの二人が消えたのかと半信半疑できょろきょろと見回す。
それで本当に危機が去ったと分かるやカレンに何度も頭を下げ始めた。
「あの、えと……。ぼくたちお金とかぜんぜんなくて」
「お礼とか、その」
「ワタクシが好きにやっただけだから構いませんわ。早く帰りなさい」
「でも……」
「下僕、やりなさい」
「ハイ」
ばぁっ、と。
今度は縦に切り込みを入れて四つに裂けた口を顎を外して大きく開いてみせる。
頭から丸かじりしてやろうかという意志を持って見つめると、子供達は叫び声を上げながら一目散に逃げていった。
「おーほっほっほっ!!」
そして最後には、カレンお嬢様の愉快な笑い声だけが路地裏に響き渡った。
ひと段落ついてから俺は顔を元通りに治してカレンと目を合わせ、パシッとハイタッチ。
そしてカレンが小さく笑い、つられて俺も小さく笑い、すぐに二人揃って腹の底からアハハと大笑いした。
「くくっ! 完璧だったぞカレン!」
「でしょ!? アレンこそ何よあれは! 最初見た時あたしも泣きそうになったんだけど! あの子供達、絶対今日の夜寝れなくなるわよ!」
「アレは怪物六十号だ。カレンもやりたいのなら顎の外し方から教えてあげよう」
「ぜったいにイヤ!」
カレンが否定するのに被さるように腹の音が大きく鳴った。
ので、二人で深呼吸してから路地裏を出てついに夕食を食べに向かう。
きっといつにもまして飯が美味しく感じられるだろう。
「……ところでカレンや。さっき『残った肉は池の魚の餌にする』と言っていたが、もしかして見たのか?」
「えっ? 見たって何を?」
「屋敷で飼っている魚に俺の手足を食わせているところを」
「えっ」
「えっ」
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