第9話 吉田茂と3人の父親/吉田茂の子供たち

 吉田茂には三人の父がいる。

 

 有名なところから行くと、1人目は岳父、つまり妻の父、牧野伸顕まきののぶあきである。


 牧野は維新三傑いしんさんけつの一人・大久保利通おおくぼとしみちの次男。


 名字が牧野なのは大久保の親戚の家に養子に行ったためである。

 養子には行っているが、義父となる人が戊辰戦争で亡くなっているため、大久保家で育つ。

 

 牧野は政治的な立ち位置は『英米協調派』の『穏健派』である。


 吉田茂のイメージは、牧野に負うところが大きいと思う。


 外務省入省後、吉田茂は奉天領事館ほうてんりょうじかん赴任ふにんする。

 日露戦争後のことである。


 その後、牧野の長女と結婚し、ロンドン赴任になるが、数年後には安東あんとう領事となる。


 パリ講和会議の随員となるが、その後は天津てんしん総領事、奉天総領事と、吉田茂は中国にいる時間が、かなり長かった。


 吉田茂は対中強硬派である森恪もりかくと連携するなど、積極強硬派であり、時には軍部よりも強く、日本の満州権益は実力に訴えてでもという面もあった。

 

 森恪は日本の関東軍によって中国の軍閥政治家・張作霖が暗殺された『奉天事件』への関与が囁かれた、軍部との関係が深い政治家であった。


 また、森は『五・一五事件』の時には、軍に批判的と見られていた犬養毅いぬかいつよしが死んだと聞き、笑顔を浮かべたという。


(実際には犬養が反軍部ではないのだが、その話はこちらで→https://kakuyomu.jp/works/1177354054892641004/episodes/1177354054893435609


 吉田茂の大陸での外交姿勢が排日運動を引き起こした、吉田の『対満蒙私見』は典型的な帝国主義であるなどの意見もある。


 ここまでだけ見ると、吉田は強硬な帝国主義と見られそうだが、岳父である牧野が親米派であり、穏健な自由主義者であったため、吉田茂もそういう印象で見られており、このイメージは戦後にとても役に立つことになる。


 もちろん吉田自身が終戦工作に尽力した、軍部の圧力と戦ったなどもあるのだが、牧野のおかげであまり吉田茂が中国に長くいたことや、大陸での領事時代の発言・行動は取り上げられなくて済んでいる面も大きい。


 また、戦後日本では『軍部の暴走』特に陸軍の暴走のみが注目され、外務省や政治家の大陸での行いについては、語れることが多くなかったのもあるかもしれない。


 さて、2人目の父は実父である。


 吉田茂の実父は竹内綱たけうちつなと言い、自由民権運動の壮士だ。


 土佐の板垣退助の腹心であり、保安条例で追い出されたりもしている。

 同時に実業家であり、朝鮮で鉄道事業をしていた。


 茂の母は瀧子というそうだが、どこの人かわからない。

 ただ、吉田茂を妾の子とする記述があるため、竹内の妾なのかもしれない。

 茂の父が獄中にいるときに、茂が産まれたらしい。


 名字が違うことでわかるように、吉田茂は養子に出されている。

 

 かといって、関係が途切れたわけでもなく、奉天に吉田茂が外交官として赴任する際には関兼光の名刀と総領事への紹介状を渡している。


 自由党土佐派の議員としても、実業家としても成功していた。


 3人目の父は義父の吉田健三である。


 越前福井の人で、イギリス留学経験があった。


 横浜に英一番館えいいちばんかんと呼ばれた英国の商社、ジャーディン・マセソン商会横浜支店があるのだが、吉田は明治初期にそこの支店長になる。


 軍艦、武器、生糸などで業績を上げ、さらに退社して起業し、英語塾、新聞経営、醤油、電灯、麦酒などなど実業家として活躍し、横濱有数の富豪になった。


 吉田茂の父・竹内綱とは親友で、子供がいなかった。

 そのため、産まれた子が男の子ならもらう約束をしていたらしい。


 横濱有数の富豪となった吉田だが、11歳の吉田茂を残して、40歳で急死してしまう。

 

 吉田茂は莫大な遺産を残され、茂は『吉田財閥』と冗談を言っているが、巡査の給料が月6円の時代に、11歳の茂が50万円を手にする。

 

 吉田茂は商業学校は合わないだの、あちこちの学校に入ってはやめ、入ってはやめ、慶応義塾や東京理科大も中退しているが、外交官と領事館試験にはきちんと合格し、そこから外交官及び政治家の吉田茂の人生が始まっている。


 やはり3人の父の中で、影響力が一番大きいのは岳父・牧野伸顕だと思う。


 牧野は薩摩の人間であるが、伊藤博文や西園寺公望に近く、穏健で中立的で協調派で親英米であり、柔軟で若者にも優しく、芸術にも理解がある人格者だった。


 自分は吉田茂が活躍した時代にはまだ生まれていないので、その時代を生きた人からするとまた印象が違うかもしれないが、戦後の吉田茂のイメージは、牧野なしでは語れないと思うのである。


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 せっかくなので、吉田茂の子供についても追記する。

 

 吉田茂には吉田健一という息子がいる。

 しかし、彼は政治家ではなく、小説家である。


 小説家であるならば、さぞ、父をネタに書くこともいっぱいあっただろうと思う。

 だが、健一は存命中『落日抄―父・吉田茂のこと他』という一冊くらいしか本を出していない。


 健一は6歳まで祖父である牧野伸顕まきののぶあきに預けられていたものの、それ以降、吉田茂が中国やヨーロッパに行くのに付いていっている。


 長男である健一は吉田茂のことを良く知っているはずだ。


 ところが、健一はあまり父のことを語らなかったらしい。

 

 健一は母である雪子の死後、新橋の芸者こりん(喜代)を事実上の妻のようにしてそばにおいていたことに反発していたと言われている。


 妹の麻生和子は吉田茂の秘書のような立場で常にそばにいたが、健一は政治には関わらず、英米文学の評論や著作に従事した。

 

 そして、父・茂だけでなく、妹・和子とも折り合いが良くなかったようだ。


 次男、吉田正男も政治家にはならず、石川島播磨重工業に勤めていたらしい。

 

 吉田茂の話に息子たちが出てこないのは、このあたりが理由であろうと思われる。(もっともドラマによっては出て来ることも結構ある)


 子供として、一番出て来るのが三女の麻生和子なのは、彼女が父の秘書的役割であり、政治に一番近い位置にいたからであろう。


 吉田茂の子供はこのような感じであるため、「吉田」ではなく「麻生」が政界に残っているのである。

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