第5話 救助まで

とにかくここから這い上がらなければ---


 エレーヌは、腰を持ち上げようと、腕に思いきり力を入れた。しかし腕には全く力が入らない。次は足に力を入れ、踏ん張ろうとしたその時、左膝(ひざ)にヒリヒリとした強い痛みが襲った。膝の傷口からは血が流れていて、切れていることが分かった。再び上に向かってあらん限りの声を張り上げたが、声は届かない。今頃、リズは御者のところへ戻り、馬車で屋敷へ戻り、王と王妃に事のあらましを話しているに違いない。なんて馬鹿な娘と思いながらも、救助の者たちが来てくれるはずだ。このままいくらか平らなこの場所で動かずに、救助を待ち続けるのが賢明だとエレーヌは思った。


きっと助けは来るはず

救助が来ると信じて

このままじっとここで待とう

山で遭難したときは、下手に動かないほうがよい

何処かで聞いたことがある


 エレーヌはエプロンを取り、出血している膝に布をきつく巻き付けて縛った。こうしておけば、これ以上出血することはないだろう。目を閉じて痛みにじっと耐えた。しかしいつまで待っても救助の者は来ない。城内では皆が心配していることだろう。なんと無謀なことをしてしまったのかと、エレーヌは言いようのない後悔に苦しんだ。


私はここにいる

しかし伝えるすべがない

救助の者たちが山の奥深くの谷底にいる私を

見つけ出すことができるのだろうか

広く深い森の中のほんの小さな場所

見つけるのは不可能なのではないだろうか


―――エレーヌの不安は頂点に達した


 時間をはかる手段はないが、だいぶ時が過ぎたような気がする。血が固まってきたのを見るとわかる。が、何の物音もしない。このまま夜が明けるのを待とうか? これだけ下ってしまったのだ。隣国との国境に近いのではないだろうか。


 森の中にほんの少し射しこんでいた木漏れ日が次第に弱くなってきた。もうすぐ日が暮れてしまう。森は暗闇に包まれる。ここで一晩明かして朝が来たら戻れるのだろうか。エレーヌは不安と痛みで絶望的な気持ちになりながら、体を丸めてうずくまる。そして暗闇があたりを支配したとき、今日はこうしているしかないと悟り静かに目を閉じた。


 真っ暗な森の中は、意外といろいろな音で満ちていた。小動物の鳴き声や、風が吹くたびに木の葉のこすれ合う音がした。近くでかさかさと聞こえるのは、小動物たちが歩きまわる音だろうか。あるいは、もう彼らは眠っていて同じようにじっとしているのだろうか。ひょっとして蛇のような生き物もいるのではないか……

大きな木の切り株に座り頭を抱え、できるだけ体が冷えないようにした。



朝が来たのだろうか……


 鳥のさえずりが聞こえてきて、まどろみから引き戻されたエレーヌはそっと目を開けた。どうやら朝まで無事ではあった。しかし、いまだに救助は来ない。もう待っていることはできないと決心し、せめて人のいる場所まで出て誰かに見つけてもらえるよう、人の踏み入った形跡のある小道を探す。そうしてさらに下っていった。膝の傷は痛むが出血は止まったようだ。膝にできるだけ衝撃を与えないようにそっと脚を動かす。左足をかばい右足をついたその時、ものすごい激痛が足首に走った。まずい、右足もくじいたのだろうか。


人が踏み固めた道へ出られるのだろうか

もしこのまま出られなかったら

私は、私は、この森の中で朽ち果てていくのだろうか

希望を捨ててはいけない

私は子供のころから運がよかったはず

流行り病にかかった時も

何日も意識不明になりながら

生還することができた



 陽ざしはさらに高くなり、木々の間から射す太陽の光は、森の奥まで届くようになった。


さあ今のうちに道を探さなければ

再び闇夜が訪れる


 エレーヌは、痛む膝をかばいながら、少しでも足場の良いところを捜し歩いた。ようやく森の切れ間が現れ、踏み固められた小道に


―――出ることができた。


ここにいれば誰かが通るかもしれない

日に一度でも人の通りがあれば見つけてもらえる


 石を採りに出かけた日から、もう丸一日が過ぎていた。その間口にできたのは、岩から染み出た水だけだった。怪我をしてやっとの思いで小道までたどり着き、ほっとした瞬間、それまでの緊張感と疲れや痛みが襲ってきて、体をそっと道に横たえた。そのままエレーヌは深い眠りについた。



―――そのころ城は大騒ぎになっていた。


 急いで馬車に乗り城へ戻ったリズは、エレーヌと森へ行ったことを話さざるを得なくなった。リズは気が動転して、やっとの思いでエレーヌが谷底へ落ちてしまったことを話した。


「お前が付いていながら、なぜこんなことになったのだ。なぜエレーヌだけが谷底へ! おお、エレーヌ早く助けに行かねば」


「申し訳ございませんっ! 何とお詫びしたらよいものやら……わたくしの命に代えてもお助けしなければ、エレーヌ様!」


 王はすぐさま、救助に向かうよう命じた。


「今すぐ救助に向かうぞ、従者を呼べ!」


 従者たちは侍女と御者の案内で森へ向かい、エレーヌが転落した場所から下を見た。あまりの急斜面に、戦を経験したつわものたちでさえ目がくらんだ。大木にロープを結び、そのロープを命綱にして、斜面を下り捜索した。暗くなるまで捜索したが、その晩はエレーヌは見つからなかった。


 翌日も捜索したが、斜面にはエレーヌの姿も、彼女の衣服の切れ端さえも見つからなかった。

そのころには、彼女はもうあきらめて、道を探して下り始めていたのだ。


「何のために、こんなところに迷い込んだのだ、怯えてないで正直に話しなさい、リズ!」


「エレーヌ様は、エレーヌ様は……それを手にすると、相手の方が必ず自分を愛するようになるという言い伝えのあるミラクルストーンを採りに行きたいと……強くご希望されて、断り切れませんでした。申し訳ございませんっ!」


「何と! あいつの考えそうなことだ。しかし、めったに見つけることはできない石を、なぜ……」


「二日後にお会いになる方が、素晴らしい方だったら、その方の、その方の、心をつかむことができるのではないかと……」


「なんと、我が娘ながら、浅はかなことを考えたものだ。そんなことで、人の心など変わるものではないことぐらい、分からないのだろうか」


 アルバート王は、深いため息をつき悲嘆に暮れている。一人娘のエレーヌは何をやっても要領が悪く、心配だった。森のどこかに見を潜めて救助を待っているとよいのだが、あの急斜面から転落したら、もはや助からないのでは、とも思う。

 二日後に、隣国の王子ヴィクトルと合うことになっているが、何と言ってこの場をうまくやり過ごしたらよいのか、思案に暮れた。


「図鑑を作られた学者様のことを信頼なさっていたようで、これは必ずあると信じておいででした。わたくしも断れず……本当に申し訳ございませんでした。エレーヌ様にもしものことがあれば、私の命を差し出します!」


「そなたが命を捧げても、娘の命には代えられない。見つける方法を考えよう。ヴィクトル王子には、エレーヌは急病で伏していると書状を送ろう」


 アルバート王からの書状は、急ぎ隣国ボルブドール王国へ届けられた。父王からその話を聞いた第一王子のヴィクトルは、ひょっとすると自分に合いたくないのではと、半ば疑いを持ちながら父から話を聞いた。そんな気まぐれな姫に合っても仕方がない。こちらから願い下げだと。


 エレーヌ姫が病気だという書簡が届いてからの事だった。ハロルド王子が森の道を従者とともに辿っていたのは。その道は、ボルブドール王国の北側を通り、森の中で谷沿いの道には、小川が流れ、気持ちの良い森が広がっている。平野の多い城の周辺とは違った趣のある土地へ行くのがハロルド王子は好きだった。そこは王妃の生家のある場所へと続いている道でもある。



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