第9話 三匹目ですか?
いつものように猫どもの餌を買い帰宅した日のこと。
アパートの前に、何やら人だかりができていた。
と言ってもそれほどの人数ではない。
大家とアパートに住む老夫婦、そしてシングルマザーとその娘といういつもの顔ぶれだ。
皆、しきりに何かを見つめている。
「何かあったんですか?」
大家が答える。
「これ、見てください」
そこには段ボールが置かれていた。
その中には、身を縮める一匹の猫がいた。
「猫!」
思わず声をあげてしまった。
どうしてこう、私には不必要な猫の縁があるのだろうか。
その猫はグレー、というより銀猫と言うべき、美しい毛並みをしていた。
猫の容姿判定能力には長けていないが、うちの黒兵衛や斑丸と比べたら、遥かに容姿の優れた猫なのは明らかだった。
ほっそりとしてしなやかな体。瞳は大きく、顔はシャープな逆三角をしている。
うちの猫どもが典型的な日本猫だとすれば、この猫にはエキゾチックなムードが漂っていた。
しかし怯えているようで、身を小さくしたまま一向に動かなかった。
「何があったんです?」
「あたしゃ見てましたよ。若いアベックがね、どっちもイマイチなナリをした、はっきり言ってブスだったんですけど」
「アベックの容姿はどうでもいいんで、続きを話してください」
この大家はいちいちどうでもいい情報を盛り込んでくれる。
「ああ、すいませんね。で、そのアベックがね、アパートの前に車を停めたんですよ。それで、「ここの人は猫好きだから」とか言いながらね、この箱をポイッと投げ捨てて行ったんです」
シングルマザーの娘が口を挟む。
「にゃんにゃん、捨てられちゃったの。おうちがないの」
そうかそうか、捨てられちゃったか。
何故それを私に報告する?
「酷いことしますよ。生き物をゴミみたいに捨てて」
「いつかバチが当たるってもんだ」
老夫婦が口々に言う。
「でも、こうやって捨てられた命を拾ってあげた人はね、必ず徳を積んでいつかは極楽浄土に行けるってもんですよ」
うんうん、いきなりえらく話が飛んだが、誰が拾ってあげるって?
猫のチンケな命ごときを、いくつ積んだら極楽浄土まで辿り着くというのだ?
その場にいた全員の目が私を見つめていた。
両手には大量の猫餌。
これを猫好きと言わずなんと言おうか。
「それじゃあ宜しくお願いしますね」
ちょっと待て大家。何を宜しくだって?
アパートの住人は「さて、もう大丈夫だ」と言わんばかりに、一斉にその場を離れ出した。
残されたのは段ボールに入った銀猫。
怯えた瞳でこちらを見つめている。
暫しの沈黙。
私は猫を抱き上げた。
実際に触れてみると、体は見た目以上にほっそりとしてしなやかで、驚くほど軽い。
薄い体毛の下では、ゴツゴツとしたあばら骨が浮いている。
このまま放っておけば、飢え死にか病死以外の末路はないだろう。
猫は無抵抗で抱かれているので、部屋に連れ込むのは簡単であった。
こうして私は、流されるがままに捨てられた銀猫を連れ込んでしまったのだ。
だって、あの空気の中、誰が見捨てられる?
あの時「うちはもう猫はいいんで」などと言えるほど、私の心は寒冷地ではない。
さて、黒兵衛と斑丸といえば、予期せぬ来客に驚き目をまん丸くしている。
銀猫は怯えた様子のまま、部屋の隅にうずくまってしまった。
先陣を切ったのは黒兵衛だった。
銀猫に恐る恐る近付き、尻の匂いを嗅ぐ。
そして一言
「シャー」
と威嚇し、足早に離れる。
猫という奴はどうして自ら尻の匂いを嗅ぎ、一方的に威嚇するという身勝手な行動を取るのだろうか?
やられた方にしたら、たまったもんじゃない。
もしも見知らぬオッサンが突然肛門の匂いを嗅いだ上、「クソが!」などと捨て台詞を吐いて立ち去って行ったら、私は迷わずその背に蹴りを入れる。
続いて斑丸が銀猫に近寄った。
スンスンと鼻を鳴らして顔の匂いを嗅ぐと、一発額にパンチを食らわせ、その場を去った。
こうして黒兵衛と斑丸による新人への洗礼は終わった。
銀猫はニャンともスンとも言わず、ただじっと身を丸めているだけだった。
大家の話によれば、こいつはアベックに捨てられたらしい。
どのような理由があるかは知らないが、一度は家族として迎え入れた猫を、いとも簡単にゴミのように捨てたというわけだ。
私は銀猫がひどく不憫に感じてしまい、とてもこのまま飼育を放棄する気にはなれなかった。
とはいえ我が家に三匹目。ただでさえマトモな仕事にありつけない小説家風情に、三匹も猫の面倒が見られるだろうか。
私の心配をよそに、黒兵衛と斑丸は餌を寄越せと騒ぎ出した。
「待て待て、今やるから」
銀猫も食べるだろうか?
ひどく元気を失っているようだが。
猫餌を器によそい、床に置く。
その時、聞いた事のない鳴き声が響き渡った。
「ギャワオーッ!」
声の主は銀猫だった。
目を爛々と光らせ、一目散に猫餌へと向かってくる。
銀猫は黒兵衛と斑丸を蹴散らし、一心不乱に餌を貪り食った。
勢いに圧倒された黒兵衛達は、ただ呆然と銀猫を眺めるのが精一杯だった。
銀猫はあっという間に三匹分の餌を平らげる。
そして満足げに毛繕いを始めた。
安心したのか、自ら座布団の上に乗り、スヤスヤと眠り始めた。
何故貴様は「最初からこの家の猫でした」と言わんばかりの振る舞いができるのだ?
飯さえ食えばもう我が家なのか?
猫の図々しさにはほとほとあきれかえる。
暫し呆気にとられる私の足を、黒兵衛が噛みつく。
「ニャッ」
どうやら餌を寄越せと言っているらしい。
自分の分は銀猫に取られてしまったのだから。
私は再度、黒兵衛と斑丸に餌を与えた。
「なあお前ら、あんなに意地汚い新顔を迎え入れていいのか?お前らの飯まで食い潰しちまう」
二匹は目の前の餌に夢中だった。
食べ終わると、私の質問に答えるわけもなく、スイッとその場を去っていった。
これは二匹なりの「勝手にしやがれ」という合図だろう。
どうやら私は、新たに三匹目を迎えなければいけないらしい。
銀猫は安心した様子で眠っている。
美しい猫だ。
きっと丁寧に世話をすれば、より美しい猫に成長するだろう。
もはやこのような呪文を唱えながら、自分で自分を納得させるしかない。
さて、銀猫よ。貴様にも名を授けよう。
実は貴様の顔を見た瞬間から、なんとなく名が決まっていたのだ。
「銀次郎」
私は彼にそう呼び掛けた。
例外なく三匹目も雄だったのである。
銀次郎は眠っている。
大丈夫。黒兵衛と斑丸だって、きっとすぐ慣れるはずだ。
私はすんなりと受け入れてしまった三匹目から逃避するように、三匹分の汚れた餌皿を洗うのだった。
猫の瞳に銀河が浮かぶ ネコリーノ・ニャンコロビッチ @neconeconeco
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