赤橙の女

本庄 照

赤橙と呼ばれた女

 赤橙せきとうと呼ばれているその女の顔を見たものはいなかった。

 見たものは死ぬ、ただそれだけの理由で。


 赤橙という名前は誰かが勝手に名付けたものだ。彼女の優雅な手、しなやかな指、それが冬の寒さに赤橙色になったのを見て、赤橙と呼びはじめた者がいる。


 赤橙の顔を見た者はいないのに、その手を見た者だけはいる。殺し屋のその手を見るときは、その手にかかっているときだというのに。その不可思議さと、不気味さと、言葉の響きから、赤橙の噂だけはこの世の中に広く滲むように伝わっていった。


「赤橙を探しに来たの?」

 うん、と石に腰を下ろした青年は呟いた。私はため息をつこうとするのをこらえて、質問をもう一つ重ねた。

「赤橙を探してどうするの」

「僕を殺してほしい」

 青年は間髪入れずに言った。私は驚いた。この娯楽のない山奥の村で、そのような刺激的な言葉を聞くとは思わなかったからである。


「というのは嘘だ」

「なあんだ」

 出会って少し言葉を交わしただけなのに、私は既に青年に振り回されていた。


「殺してほしい人がいるんだ」

「でもそうやって喋っていたら、その相手に気づかれてしまうんじゃなくって?」

「まさか。この国に一体どれだけの人間がいると思う?」

「でも、人の噂は怖いわ」

 私は首を振る。この村にある唯一の娯楽、それは人の噂だ。彼のような小汚い旅人も、そしてその余所者と話す私も、既に村中の噂となっているだろう。だがそれでもいい。噂しか娯楽が存在しないと思い込んで、こんなに珍しい余所者と喋ることが娯楽になるということを忘れている人間などどうでもいいからだ。


「じゃあ、僕はそのことを話さずに赤橙を探せばいいのかい」

「そうすべきだわ」

 青年は笑った。私は真面目に言ったのに。

「それじゃあ、僕は旅をするだけだ」

「どのみち、冬になると手が赤橙色になる女というだけで赤橙を探すなんて不可能だもの。あなたは既に単なる旅行をしているに等しいのよ」


「まあそりゃそうだねぇ。僕も赤橙を探す旅行なんて止めた方がいいのかもしれない。君のような可愛らしい色白の女の子に声をかける旅行にしようかな」

「あら、そんなことを言うのはよして」

 若い男のいないこの村で、顔だちも悪くない青年に軽い言葉を言われると、私はまだ舞い上がってしまう年ごろでもあった。


 おそらく、この村で薄汚い旅人を泊める者などありはしない。もちろん宿坊もない。探そうと思えば親切な人間はいるかもしれないが、既に夕暮れになってしまっているから、それは難しい。

 となると、私が彼を泊めることになるのだろう。噂にもなるのだろう。私は気が重い。村人たちなどどうでもいいが、とにかく面倒くさい。


「あなたは、赤橙の噂の出所を知っているの?」

「いや。君は知っているのかい」

「噂の出所は後宮よ」

 行ったことはないが、後宮はこの村よりも更に噂の力が強いのだという。後宮にはそれほどまでに娯楽がないのか、と私は思っている。


 行きましょう、と私は自分の家を指さした。夕日の柔らかいように見えて鋭い光が私の背中を刺している。外で夜を迎えるのは危険だ。


「どうして、それを知っているんだい」

 ほら、そう来ると思った。

「赤橙は、私の母だから」

 彼が私に続いて家に入り、扉を閉めた瞬間にそう言ってやった。


「狭い家だけど、この村の中では悪くはない家よ。どうぞ、座って」

 私は彼に床を勧めた。動揺している彼は素直に私に従って座った。

「……そのお母さんは、どこにいるんだい」

 青年は驚いている。表には出そうとしていないが。

 彼は本当に赤橙を探しているのだろうか。冗談だと思っていた。今まで、赤橙を探している人などに会ったことはない。

「死んだわ。この家は、母が遺した家よ」

 本当のことだ。彼の目の色が変わる。驚き、悲しみ、絶望、いろいろなものがまじりあっている。


「私の母はこの村で生まれて、村一番の才女として育てられて都の学校にも行って、後宮の下女になったわ」

 山村で育った私の母は、驚くほど毒と薬に詳しかった。下女にそんな知識など必要ないが、ある時に仕えていた皇太子が母の毒の知識に勘付き、自分専属の殺し屋として登用したのである。自らの栄華のために。皇帝には何十人もの皇太子がいる。そこから皇帝になるには、熾烈な争いが必然的に生じるからだった。


 皇太子の秘密の願いなど、下女の母に断る権利はない。皇太子は母を使い、後宮の権力争いを勝ち上がった。頭のよかった彼は、誰にも疑われることなく、ひっそりと立場を固めていった。赤橙はこうして後宮に誕生した。


 赤橙は何人手にかけただろう。五人、十人、いやもっと。

 いくら食物に気を付けていても、赤橙の手腕と脳には勝てない。後宮の人々は、まるで病のように見える毒に倒れていった。


 だが、皇太子はついに最上の地位をつかむことはなかった。


「皇太子は死んだの」

 なにも、毒に詳しいのは世の中で母だけではない。他の皇太子も毒を扱う殺し屋を使ったということだ。勿論、赤橙のような辣腕ではなかったそうだが、赤橙を擁する皇太子という油断が、弱い殺し屋に付け入る隙を与えてしまった。


「それで赤橙はどうしたの?」

 青年は優しく尋ねた。

「彼女は後宮から姿を消したわ」


 殺しを命ずる皇太子はもういない。彼女は殺し屋の女・赤橙ではなくなった。

 だが、山村にも劣らない後宮の噂話の力はすさまじく、赤橙の存在は噂としてすでに広まっていた。皇太子がいなくなって、赤橙が腕を振るわなければ、疑いは彼女にも向いてしまうだろう。それを恐れた彼女は、さっさと後宮から姿を消してしまった。ずっと仕えていた皇太子を失った今、新たな主人を持てない、という建前で。


 万一、赤橙が私の母であることが判明しても、後宮で姿が見えなければ捕らえられることはない。だが、その後の後宮で偶然に生じた不審死は全て赤橙の仕業とされ、赤橙が母であると勘付かれることはなかった。

 それどころか、噂は後宮を飛び出して都へと広まってしまった。決して姿を見せず、足のつかない方法で殺す完璧な殺し屋として、赤橙は都で有名な存在になってしまったのである。一種の英雄として。


 母はそれを悔しがった。彼女にも矜持があったからである。殺し屋は影の存在でなければならない。それがこんなに有名になってしまって。決して表に出せないこの悔しさを、母は長い間かみしめていた。

「母は結局、都で生活するのを苦にして、生まれ故郷のこの村に私を連れ帰って、私と一緒に暮らして、数年前に死んだの」

「死ぬって、どうして?」

「ただの病よ。母は正真正銘の赤橙だけど、病には勝てなかった」

「もう、赤橙はいないのか」

 私は頷いた。そう、赤橙はもういない。


「なぜそんなに赤橙にこだわるの? 世の中に殺し屋なんて沢山いるのに」

「この世で最高の殺し屋だからさ」

 青年は悲しそうに首を振った。外はもう夜だ。普段なら寝てしまうが、私は油に火をつけた。明かりが必要だからである。


「あなたはこれからどうするの?」

「さあ、どうするかな。赤橙は存在しないとわかってしまったことだし。ぶらぶら旅でもするかな」


「でもだめよ。それはできない」

 私は立ち上がって彼に背中を見せた。


「あなたをこの家から出すわけにはいかない」

 私は後ろを向いたまま鋭く言った。

「あなたは赤橙がこの村にいることをはじめから知っていたのね」

「ど、どういうこと?」

 正直な男だ。今まで小賢しい演技をしてきた割に、いざとなると声の動揺を隠すことすらできないのだ。


「赤橙は都で噂される殺し屋よ。赤橙を探している人間が、こんな山奥の村に来るわけがない」

 私は目の前に立てかけてあった鋤を素早く取り、青年の喉元に突き付けた。


 この青年は、夕暮れ前にふとこの村に現れて、そして日が暮れるとともに私の家にやってきた。噂は村中に広がっているだろうが、ひと月もしないうちに村人は忘れる。所詮、噂を噂としてしか消費できない者たちなのだから。

 今日この男を殺せば、すべては平和に解決する。


 生まれて初めての殺人だ。赤橙ほど艶やかな手腕ではないが。私にも人殺しの血が流れていたということらしい。


「やめてくれぇ」

 青年は情けない声を出した。

「謝る。赤橙の正体を薄々勘付いていたことを、隠していて申し訳ない。真実を話すから」

 私は彼の喉元から鋤を外した。だがまだ手元には置いている。青年は正座して私と向かい合った。


「私に声をかけてきたのも、すべてを知っていたからなのね」

「すべてを知っていたわけではないが、赤橙の関係者だとは思っていたよ。だって、君はこんな山村にいるのに色白じゃないか。生まれつきのものなんだろう? 冬に手が赤橙色になるということは、本家の赤橙は間違いなく色白だ」

 その通り、母は色白だった。そういう家系なのだ。


「都の人間は、私の母が赤橙だと知っているの?」

「まさか、僕が独自に調べただけだ」

 青年は首を振った。

「調べる……?」

「僕は、赤橙に殺された皇太子の息子さ」


 私は言葉を失った。母が殺した人間の息子、とは。つまり、赤橙に復讐しに来たということか。


「復讐しに来たわけじゃない」

 私がまた鋤に手を伸ばしたのを見て、青年は慌てて弁明し始めた。

「言っただろう? 皇帝には皇太子が山のようにいる。つまり、皇太子たちにも山のような子供がいるということさ。僕もそのうちの一人だ」

 そこまで言って、彼は首を軽くひねった。続きは分かるだろう、と言わんばかりに。


「皇帝の孫という立場はなかなか厳しくてね。けれども、父が死んで僕は民間の人間になった。一応直系だからそれなりの厚遇さ。僕は環境と自由を手に入れたんだ。むしろ僕は感謝しているんだよ。父にはほとんど会ったこともなかったから、死んだところで思い入れなんてないしね」

 彼はペラペラと喋る。目を見ても嘘はついていなさそうだが、半信半疑で話を聞いておく。


「君は、自分の父親が誰なのか、赤橙から聞かされているのかい?」

「知らない」

 いや、本当は考えてこなかった。母は絶対にその話をしなかった。

「僕と君は血縁関係に――」

 私が床を強く叩いたら彼は黙った。


「……僕は今、民間にいると言っただろう。今はね、役所にいるのさ。役人だね。官僚と似たものと考えてくれればいい」

 税を役所にたくさん取られる山村の人間は、役人に良い気持ちを抱いていないのだが、そのことを青年は知っているのだろうか? 随分自信満々だが。


「それがどうしたの?」

「役所と言っても色々ある。昨年から、軍の担当になれたんだ」

「だからどうしたの」

 雑談の止まらないおしゃべり好きに、私は少し飽きていた。それに気づいたのか、彼はすぐに本題に話を切り替えた。


「僕の目的は、赤橙を見つけ出して参謀として使うこと。そして、軍の人間となって、殺しの腕を振るってもらう、ということだ」

 ばかばかしい。後宮の謀略と軍の策略はまるで違うのに。


「君はこの村で育っている。皇太子の血と、赤橙の血を引いた人間、そして長らく赤橙に育てられた人間。君には殺しの技術だけを求めているわけじゃない。そこが、赤橙を使っていた皇太子と異なるところだね。僕が求めているのは君の頭脳さ。君には未来がある。君は新たな赤橙になるんだ。僕が必ず育て上げる」

 あまりにも自信満々だ。ばかばかしいのだが、単純にそれだけでは切り捨てられない気がした。


「父のことは言わないで」

 私が言い返せたのはこれだけだった。

「はいはい」


 まだ……、まだ、私は彼のことを信用しきったわけではない。だが、この噂話だらけの村を捨てることができるのは、悪いことではなさそうだ。



*時代考証もへったくれもないですが、現代語訳したということで許してちょんまげ。

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赤橙の女 本庄 照 @honjoh

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