声と、眼
「もう、動いてもよいのか」
セキトウは、やわらかく自らにかかる声には答えず、右腕をそっと押さえた。
夜の風が冷たくなる頃には起き上がることができるようになり、はじめの雪が大地に降りる頃には立って歩くことができるようになっていた。
できるだけものを食い、身体を動かさなければならない。そうでなくては、折れた骨が上手く繋がらず、あとあと歩くことに不自由したり腕が上がらなくなったりする。古来からの知恵によりそれを知っているセキトウは、ムスビに付き添われて砦の中をあちこち歩き回るようになっていた。
彼女に手出しをすることは、若殿と皆に呼ばれる九郎によって固く禁じられていた。しかし、砦の中の人々の眼は冷ややかであった。
子を抱いた女が、じっとセキトウに向かって憎しみの眼を注いでいたこともある。お前のせいでお父は死んだんだ、と子供に石を投げられたこともある。セキトウは何も言わず、答えず、ただ己の身体が早く元通りになるようにと歩いて回るだけであった。あるとき、
「お姉。南の奴らのこと、何とも思わないのかい」
とムスビが問うた。セキトウは、
「何とも、とは」
とみじかく答えた。ムスビに対しては、言葉でもって応えることができた。
「お姉が南の奴らをやっつけてきたのは、南の奴らがもともと俺たちに無茶をしてきたからじゃないか。なのに、そのことを恨むなんて、おかしいと思わないのかい」
「さあな。わたしには、よく分からん」
当のセキトウ自身がこのような調子であるから、ムスビはどこに向かって拳を振り上げてよいのか分からぬらしい。だが、このときは、ムスビとセキトウの間にこれまでに無かったやり取りが生まれた。
「お前は、どう思う」
とセキトウが言葉を継いだのだ。ムスビは一瞬戸惑いを見せ、やがてまた快活に回る口を開いた。
「俺は、正直、南の奴らが憎い。お姉のことがなければ、こんなとこ、一日だっていたくない。だけど、おっ母さんが小さい子供を抱いている姿を見たりすると、南の奴らにもいのちってものがあって、暮らしがあるんだなあと思って、変な気持ちになる」
「お前は、正直だな」
「お姉が、いつも怒ったみたいな顔をしすぎなのさ」
「わたしは」
セキトウが、冷たい星を見上げた。
「なぜ自分が剣を振るうのか、自分でも分からぬ。この剣がなぜわたしにもたらされたのかも、分からぬ。ただ、わたしは産まれた村を、わたしを知る人を失い、この広い広い大地をさまよい歩くしかなかった」
ムスビが、目を大きくした。セキトウが自分のことを語るなど、なかったことである。
「わたしにも、お前が目にした南の者のように、あるいはこれまでに出会ってきた北の者のように、いのちがあり、生があるはずであった」
右腕の刺青を、そっと撫でる。ムスビは、いつも、ふとしたときに見せるその仕草に意味があるとは思っていなかったが、何か特別な意味があるのかもしれないと感じた。
「知らぬ間に産まれ、父と母、祖父と祖母、兄や父母の兄弟、ほかの村の者に育てられた。糧を分け合い、いのちを共にして生きてきた。そして、わたしにも夫となるべき人があらわれた。その人は身体が強く、しなやかで、歳も同じだった。小さい頃から、よく一緒に遊んだ仲の人だった。その人はわたしが妻となることを喜び、わたしの右腕に、わたしが痛がらぬようにそっと傷を入れ、自分で作った白樺の灰を塗り込んだ」
北の民の風習である。女は結婚するとき、その夫となる者から全身に刺青を施される。右手の甲からはじまり、腕へ、肩へ。左腕にもそれが施されれば、つぎは身体である。刃でもって薄く傷を走らせ、そこに白樺の木の皮を焼いた灰を塗り付けてゆくのだが、それがとても痛む。刺青の傷が癒えるまでは、夜になると熱を持ち、眠れぬほどである。
毎日、少しずつ。どれだけ痛くとも、それが終わり、癒えれば、夫となる人とあたらしい生を向かえ、あたらしいいのちを育むことができる。そう思い、女たちはその痛みを受け入れるのだ。
「だが、わたしの刺青は、右腕の途中で終わった。それを施すべき人が、南の者が村を襲ったことで消えてしまったからだ」
「あの、刀を持った男のことを、お姉は知ってるんだね」
ムスビは子供ではあるが、そういうことに察しがゆかぬほど幼くはない。彼は、理解している。セキトウが戦ったあの男が、彼女に刺青を施すべき人であるのだと。
「――生きているとは、思っていなかった」
「あいつも、お姉を探してあちこちを歩いていたのかな」
「どうだろうか」
また、刺青に触れる。まるで、それが生あるものとして生きていた頃の自分を繋ぐしるしであるかのように。
「わたしは、もしかすると、もともと夫となる人に与えられるはずであった身体の痛みがほしくて、剣を振るうのかもしれぬ。抜くことすらできぬこのクトネシリカが、すべてを奪われたわたしを決して癒そうとせぬのは、わたしが痛みを求めているからなのかもしれぬ」
ムスビが、訝しい顔をした。
これまでセキトウが剣を抜くのは、神がその身に降りてきたときであると思っていた。セキトウではなく、神がそれをするのだと思っていた。だが、セキトウが言うのがほんとうなら、セキトウが自らの身体の痛みを求めるから神が降りるのだということになる。
人の悲しみに、そして痛みに触れ、それを癒す剣。自らの知り人を失った人の悲しみを癒そうと、血を振り撒いてきた。
その剣が、決してその持ち主であるセキトウの痛みを癒そうとはせず、むしろ彼女の心と身体を蝕んでゆくばかりという悲しい宿命は、神のいたずらでも何でもなく、彼女自身望むからなのか。そうであるなら、これほど悲しいことはない。
己が人として生を紡いでいたときのことを思い、その証である痛みを得ようとして人の血を浴び、自らの骨を折り、肉を剥がし、それでも戦いをやめようとせぬ悲しい女に、そしてそれがセキトウであるということに、ムスビは涙を流さずにはいられなかった。
「そんなの、あんまりじゃないか。お姉は、お姉は──」
「なぜ、泣く」
セキトウは、少し驚いた様子である。そういえば、彼女は涙を流さない。人の痛みに触れても自らの身体が痛んでも、彼女は涙を流すことはない。
彼女が流すのは、赤い血。彼女にとっての涙とは、それをわずかでも薄めるためのもの。
では、その悲しみは、一体誰がどのようにして癒すのか。
この砦で過ごす間、そういうことがあった。
「もう、動いてもよいのか」
セキトウは、やわらかくかかる九郎の声に、答えずに眼だけを向ける。
「動かなきゃならないんだ。早くよっくなって、ここを出る」
ムスビがセキトウの前に立ち、彼女を庇うようにして言う。決して拭い去れぬ悲しみがあることを知ってからは、ずっとこうしてムスビがセキトウの守護者のようにして付き従っている。
「ここを出て、どうする。お前たちに、行くあてはあるのか」
「お前には、関係ない。どこへだって、行ってやるさ」
「行って、また血と憎しみと恨みの渦の中で己の血を流すのか」
九郎の声の色に、セキトウが眼を上げた。
「お前を、心から哀れに思う。俺は、思うのだ。人と人とは、必ず分かり合えるのだと。そこに、北も南もないのだと」
「そう言って、お前たちはいつも俺たちから奪ってばかりじゃないか」
ムスビが眼を尖らせる。それに九郎は苦笑を返してやり、屈み込んだ。九郎は若殿と呼ばれながら──すでに先代は亡く九郎が当主なのであるが未だにこう呼ばれていることが、彼の家中で親しまれていることと侮られていることを同時に物語っている──、こういう気さくなところがあった。
「そうだな。だから、俺は奪うのをやめたい。誰かがそれを始めねば、いつまでも始まらぬのだ」
「嘘つけ。そんなの、嘘だ」
「ムスビ」
九郎の声がひどく穏やかであることに、ムスビは戸惑っている。少したじろいで、一歩退いた。
「お前は、どうしたい。お前は、これからも南の者が好き放題にお前たちから様々なものを奪っていった方がよいと思っているのか」
「そんなこと、あるわけない」
「そうだろう」
「ああ、そうだ」
「ほら。俺たちは、同じではないか。同じ心を持ち、同じことを考えている」
ムスビは、言い返せない。喉に骨でもつかえたような顔をして、黙ってしまった。
「セキトウ」
九郎が、ムスビの眼の高さに膝を折ったまま、セキトウを見上げた。
「この子は、産まれながらにして、奪われることしか知らぬ。歪みの上に産まれた子を、俺は心から哀れに思う。そして、お前のことも」
「だから、何だと言うのだ。哀れに思ったお前は、何をする」
九郎は、声を上げて笑った。
「それがな、セキトウ。何もできぬのだ。俺は、びっくりするくらい無力でな。この歳だ。家中の者は、俺のことを歳若であると侮り、いくら言っても言い付けを聞かぬ。定めを敷いても、それを平気で破る。俺が、口では厳しいことを言っても、ほんとうにそれに背いた家中の者を罰に処することはないとたかをくくっているのだ。そして、それはほんとうだ。どうしても、その者の妻子のことを思うと、つい赦してしまう」
「甘いな」
セキトウが、眼を九郎の向こうの景色に向けて呟いた。
「それでは、お前は何のためにここにいる。奪うでもなく、与えるでもなく。ただ口に泡するばかりで、何もせぬ。そういう男だ、お前は」
「そうなのだ、セキトウ」
九郎は、また笑った。
「ほら、また同じことを考えた。俺は南で産まれ、お前はここで産まれた。そうであるのに、同じものを見、同じように感じることができる。それは、俺たちが互いにおなじいのちであるからだ」
セキトウは、また言葉を閉ざした。九郎は、そこに自らの言葉を重ねた。
「セキトウ。しかし、だからといって、やめるわけにはゆかぬのだ。俺がここでやめてしまえば、俺の願いは、あるいは俺と心を同じくする全ての人の願いは、無いのと同じことになってしまうのだ。どれだけ無様と笑われようが、俺は決してやめない。願い、そのために我が心と体を使うことを」
「好きにすればいい。わたしには、関わりがない」
ぶっきらぼうに言うセキトウに今度は目線を合わせ、そしてその肩に両手を置いた。
「俺たちは、共に手を取り合えるのだ。同じものを、求めているのだ。お前が血に濡れることはない。俺は、かならずこの地から争いを──」
「ならば」
セキトウが、九郎の目の中を覗き込むようにして言った。ふわりと漂う甘い香りがして、それが何なのだろうと九郎の思考は一瞬乱れたが、しっかりと彼女の視線に応えるようにした。
「ここから去れ。今すぐに。この地は、お前たちにも様々なものを分け与える。しかし、それ以上のことを望むな。あるものは互いに与え合えばいい。しかし、無いものをねだるな」
「では」
九郎の静かな声が、漂った。
「お前は、なぜ、願う。なぜ、求める」
それに、セキトウは答えることができない。
「今、この地において、人々は乱れている。いつ我らを追い出さんとこの砦に攻めてくるか、分かったものではない」
それは、知っている。あちこちの村の者が互いに交わり、武器を手にして今にも戦いをはじめようとしている。そうなれば、ここに降る白い雪はいのちが散った証で染まり、夕の橙を経て夜には凍る。
そういう愚かなことが、目の前に迫っているのだ。それについて九郎がどのような方策を用いようとしているのかは分からぬが、彼は強い力を宿した声で言った。
「お前は、傷付いている。お前が、戦うことはないのだ。俺は、お前がここにいる限り、お前やムスビのことを守ってみせる」
セキトウが、目を丸くした。想像していたのとはまるで違うことを九郎が言ったからである。
「なぜ、わたしたちを守ろうとする」
つい、問うた。それに、九郎は笑って答えた。
「お前の悲しみを、知ったからだ。それを知り、お前を守らんとまだ伸びきらぬ手足を広げてみせるムスビの健気に、心打たれたからだ」
いや、それ以前に、と九郎はばつが悪そうに眼を逸らした。
「お前を、知ったからだ」
「九郎」
セキトウは、ぶっきらぼうな声の色を崩すことはない。
「鬱陶しい。この手を、離せ」
「おう、済まなんだ」
九郎はセキトウの両肩に触れたままの自らの手を慌てて離し、笑った。
セキトウは、そのままぷいと踵を返して立ち去った。冷たい風が吹くと、その肩にわずかな温もりが残っているのを感じた。
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