橙の刺青

「そうか、そうか」

 報せを受けた神北石見は、満足げであった。オニビシがアムンペツに入ってから少しの時間が経ち、もう夜になると風が冷たくなる頃になっていた。

 アムンペツにおいて二十あまりの村が集まり、一斉に蜂起した。彼らは棒や魚を獲るための銛や草を伐るための剣などを手にしていた。

 彼らは、口々に言う。子らのため、孫らのため、立ち上がれと。南の者を、許すなと。奪われるばかりの連鎖を断ち切り、与え合う暮らしを取り戻せと。

 オニビシが考えた通り、東の山の鬼が戦っているから共に立てという宣伝が効いたらしい。それを引き入れるとオニビシは言ったが、実際どうなっているのかは分からない。


 東の山の民。かつて、この地に一度だけ小さな争いがあったときも、その一人が立ち上がり、争いを治めた。そのときは北の者同士の争いで、最終的に争う者同士が手を取り合うことで治まった。

 そのときは、神よりもたらされた宝剣が血を吸うことはなかったのだと言う。ただ、この剣に痛みを吸わせよ。そして、血を吸わすな。という東の山の民の言葉で、争いは治まったのだと言う。

 その英雄譚を知らぬ者はない。そして、今はそのときのような小さな諍いではない。北の民がこの大地で生きてゆくことができるかどうか、己と同じように奪われてばかりの生を子にも強いるかどうか、という時である。

 立ち上がった者は、こうも叫んでいた。

 剣に、血を吸わせよ。


「これで、山根がお咎めを受けることは間違いのうなりましたな」

 古くからの家臣が、暗い笑みを浮かべて石見に向かって言った。

「そうだな。ほんとうなら、山根家中に謀者を入れられればよかったのだが」

「あの北の男、よく働くようで」

 神北家の中でも、オニビシを使うことに懐疑的な声は多い。だから、石見はここ一番の策は他の家臣のいないところで自らの口で授けた。

「北の者は愚かなことですな、殿。我らに従うしかないものを、未だ自分たちの細い腕でなにごとかを為せると思っている。全てがあの者のように我らのために尽くすことを望んで生きるなら、骨のある者ならあのように飼ってやってもよいものを」

「北の者は、狼だ。一見、従わせるのは容易いように見えて、決して犬にはならぬ」

 石見は、そこまで言って、言葉を止めた。自らの内で、何か思い当たったところがあるらしい。


 主人が沈思に入ったのを受け、家臣どもも口を減らした。そうすると、ただ火の揺れる音と梟の音だけが夜を支配した。

「仕上げに、入るとするか」

 石見はなにごとかを思い定め、杯を伏せた。

 そのあと神北の砦では人の動きが慌ただしくなり、それは朝になっても止まなかった。



「お前たちは、子や孫のために戦う。のちの世の人はお前たちのことをいつまでも物語り、神に聞かせるだろう」

 アムンペツの西側のある村に、オニビシはいた。南の刀ではなく、両刃の北の剣を火と月にかざしている。

「ほかの村の者も、同じように立っている。そして、我らは一つになり、いたどりの剣に導かれ、望みを遂げる」

 望みとは、南の者を追い出すこと。このアムンペツからそれは始まり、やがて他の地にもどんどん伝播してゆき、子が、孫が長じる頃にはこの大地には一人も南の者はおらぬようになる。まず、そのはじまりになる。

 歌の歌い出しとは、肝心なものである。神を送り返すとき、その歌のはじまり次第で神が興を失ってはならないからだ。

 もしオニビシの言うように北の者が皆立ち上がり、南の者を一人残らずこの地から追い出すならば、その皮切りとなる彼らはに捧げる歌のはじまりとしては申し分ない。

 誰もが声を上げ、手に握った粗末な、本来いのちを奪うためではなく営むために用いるはずの道具を振りかざした。

 それは、営みを奪われぬため。守らねばならぬものが苛まれることのないようにするため。

 声が、熱が、怒りが、恨みが、そして痛みが、悲しみが、渦を巻いた。

 夜でなくともそれは冷たい風となり、人の間を吹き抜けた。

 この風が吹けば、もうすぐ、雪が降る。それを北の者は知っている。

 雪の中で生きて来なかった南の者は、冬の間は動かない。ただ北の者から奪った蓄えを費やして、じっと砦に篭っている。あるいは、最小限の兵だけを残して一時的に南へ帰ったりもする。

 山根家がどうするのか彼らは知らぬが、どちらにしろ砦を囲んで火を放っては逃げを繰り返せばよい。仮に兵を出してきたところで、雪の中を北の民のように動けるはずがないのだ。

「人よ、村々を回れ。我らと心を同じくする者を、もっと集めるのだ。そして、雪が降ったら、このヌタプケシに戻って来い」

 ヌタプケシというのは、北の言葉で野の下という意味である。なだらかな丘陵と一面の原野が続き、冬になれば見渡す限り真っ白の世界になる。そこに、北の者が集う。そこから、白になった世界は赤になる。彼らがその手に握る橙に照らされながら、赤く。

「この日のために、俺は南の家に長く入っていた。北に産まれた誇りすら捨てて。いや、そのようなものは、とうに俺の村と俺を知る人と共に焼けて灰になった。南の者を、許すな。我らの痛みを、その血でもって癒させるのだ」

 また、声。そして、風。オニビシは、知らない。欺いて入り、機会を窺っていたはずの神北家もまた、自分を心底信用してはおらず、思うところの全てを打ち明けずに隠していることを。

 互いに、欺き合っていることを。

 いや、彼は知らないというより、気にしていないのかもしれぬ。南の者が何をしようと、どう手を打ってこようと、彼の求めるものは南にはないからだ。

「おそらく、この大地には、これまでになかった血と死が積もるだろう。しかし、それらは全て雪が清め、春が洗い流してくれる。だから、恐れることはない」

 さらに、声が重なった。潮が満ちてゆくような感覚にしばしの間酔い、オニビシはその村をあとにした。



 ──セキトウが、生きていた。生き残っていた。

 一人になると、さきほどまで自分を包んでいた人の熱が無かったかのようになり、知らずのうちに星を見上げていた。

 その星にも、物語があった。


 神が棲む山の村。そうは言ってもその営みはほかの村とたいして変わることはなく、夏になれば山べりに、冬になれば海沿いに降りて暮らしていた。山の恵み、川の恵み、海の恵みに溢れ、あちこちからやって来る人とそれを分け合って過ごしていた。

 ほかの村と違うところがあるとすれば、彼らには古の英雄が神を降ろして舞ったという舞があった。

 あるとき、村のありかを見定めにやっていた南の者がやってきた。村の者は南の者であろうと訪ねてきた人をもてなし、恵みを分け与えるという北の心に従い、冬の間に捕らえて村で飼っていた熊を屠り、その肉や内臓を分け与えた。

 そのとき熊を屠るのに用いられたのが、神の舞である。無論、そのときにセキトウのように神を降ろす──セキトウにほんとうに神が降りているのかどうかは分からぬが──者はいなかった。その必要もなかった。

 だが、神の舞というのは、実際に神をその身に宿していなくとも、南の者を恐れさせるには十分であった。

 はじめ、剣を用いてそれを振るう真似事を何人かでする。剣舞のようなものかと思い、南の者は喜んだ。しかし、そうするうち、それをする者たちの息が合い、整ってくると、ときおりぞっとするような刃筋になることがあった。

 武器の扱いに長けた南の者には、その刃筋は、間違いなく肉を裂き骨を断つためのものだということが分かった。

 そして、繋がれた熊に一人が向かうと、地を激しい雷が打つような斬撃を与えた。

 熊は喉、胸、腹を裂かれ、即座に絶命した。南の者が驚いたのは、その斬撃の恐ろしさもさることながら、血がほとんど流れ出ていなかったことである。

 ──これほどの技を持つ者は、南にはいない。

 南の者が立ち去ってからすぐ、何人もの兵がやってきた。それらはいきなり家々に火をかけ、矢を放ち、瞬く間に多くの村の者を殺した。

 オニビシは他の男どもと共に棒を手に南の兵に立ち向かったが、飛んできた矢に打たれ、気を失った。

 再び目を開いたときには、もう彼の産まれ育った村はなかった。親も、親の兄弟も、村の長も、坂の下の家の女も、それが抱いていた赤子も、みな血を流すか黒焦げになるかして死んでいた。

 ──セキトウ。

 彼は、必死で探した。探したが、どうしても見つからなかった。あちこちに横たわる黒い丸太のような亡骸のうちのひとつがそうなのか、あるいは南の者に連れ去られたのか。

 行くべきところも生きるべき場所もなくした彼は森を彷徨い、野を抜け、山を避け、川を渡り、その間に幾度も星を見上げた。見上げる度に、星には悲しい物語が与えられた。


 ──セキトウが、生きていた。

 彼は今、また星を見上げている。そして、右手の甲から膝にかけてを、ゆっくりとなぞった。火の橙が、セキトウの刺青のようにそれを飾った。

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