第三章 暗躍

オニビシ

 オニビシは、駆けた。久方ぶりに、息が切れている。

 まさか、こんなところで。

 その生死すら、定かでなかった。いくら探しても死体は見つからなかったが、まさかクトネシリカを授かり、南の者を裁いて歩いていたとは。

 復讐か。決して戻らぬものを取り戻そうと、足掻いているのか。そうせぬ限り己の生はないと思い定め、血に狂っているのか。


 村には、古くから神をその身に降ろす歌や舞が伝わっていた。いにしえの人は、それをしていたのだという。もともと、人と神とはごく近いものなのだ。神の山の民は、獣の身体を借りる前の神と交信することをしていた。

 時とともにその技は失われ、歌や舞という形だけが残った。だから、ほんとうに神を身体に降ろす者がいるなどと信じてはいなかった。

 ましてや、セキトウが。

 古い歌では、人の痛みを癒すために神はクトネシリカをもたらすという。全てが南に蹂躙され、その生の存続すら危ういこのときにこそ、それが必要だということか。


 自分は、違う。彼は、思う。

 自分は神などではなく、人の力で求めるべきを求め、為すべきを為すと。

 そのため、南の衣服を着、南の言葉を使い、南の刀を差し、魂まで南に染まった。

 自分が、東の山の鬼になる。そうしてアムンペツを乱し、山根九郎右衛門を追い出し、神北石見のものとする。その片棒を担ぐことで、南の者として名実ともに生きる権利と千の財を得る。そのために、神北家に飼われている。

 それは、建前である。石見が己の求めることのためにオニビシを飼い、利用しているように、オニビシもまた己の求めることのために神北家の企みを利用している。


 アムンペツは、乱れきっている。そろそろ、仕上げに入ってもよい頃だ。

 しかし、セキトウが現れた。それは完全に想定外だった。噂になっている鬼を本物にしてやろうと乗り込んだら、本物が実際にいてそれと出くわしたのだ。

 予定を変えるか、あるいは急ぐか。

 ことを為すに、機を見る。これは、南の者がよく言うことである。それを、オニビシは知っていた。

 その機を逃せば、仕損じる。神北の企みなど、どうでもよい。己の求めることを仕損じてしまえば、何のために南に飼われ、南の者になりきっているのか分からぬ。そして、この先も永遠に北の大地は南のいいように支配され、そこで生ずるあらゆる恵みも、営みも、いのちも、魂までも南のために消費されるのだ。

 それを許すわけにはいかない。

 オニビシは、駆けた。丸四日かけて駆け続け、神北の砦に戻った。


「なんと。鬼が、まことに出たと言うのか」

「はい」

 復命を受けた石見は、驚きの声を上げた。

「鬼とは、やはり噂通り、恐ろしいものか」

「はい」

 オニビシは、いかに鬼が恐ろしいかを語ってやることにした。

「鬼と人は言いますが、あれは鬼神をその身に降ろすのではなく、鬼神そのものなのです」

「なんと」

 石見は、オニビシの語ることに興味を注いでいる。オニビシはそれを見て取って、膝をにじらせた。

「人の身体で舞うにはあまりにも激しい血と刃の舞。それを前にすればいかなる矢の雨も槍の林も、無いのと同じ。一人で百の軍でも屠れましょう。いえ、神の舞に身体が食われ、壊れきらぬかぎり、腕一本でも戦うことをやめぬのです」

「そのようなことが、まことに――?」

「あるのです。北に渦を巻く怨嗟が、それをもたらしたのでしょう」

「では、その鬼神には、手が付けられぬと申すか」

「いいえ」

 声の調子を変えた。南の者は、こういうときよくそうする。ついでに手を軽く叩いて見せてやればよかったかもしれぬと思い、そのようにした。

「天は、石見様の方を見て微笑んでおりまする」

「どういうことだ。詳しく申せ」

「はい。あの鬼の名は、セキトウ。この私が産まれた村の出で、私の古い馴染みです。それを説き、こちらに引き入れ、我らのために剣を振るわせることができれば」

「しかし、鬼はこの大地から我らを追い出すために、砦を襲うのだろう」

「ええ。アムンペツの民も鬼の導きで立ち上がらせ、軍を為し、一息に山根家の支配を覆してしまえばよろしい」

 そのあとは、とオニビシは腰の刀をひとつ鳴らした。役目の済んだセキトウを殺してしまえばよいということである。

「お前に、任せてよいのだな」

 石見は、念を押した。この場に、他の家臣はいなかった。石見としてもアムンペツを奪うのにこういう暗いことをしているという自覚があり、なおかつその詰めの話だから人払いをしている。鬼がほんとうに出たとなれば恐れをなす者も出るかもしれず、家中の意見が割れる恐れがあるのだ。

 オニビシは黙って頷き、行け、という石見の声に合わせてその姿を闇に溶かそうとした。

「お前は、なぜそうまでして我らに肩入れをする」

 姿が消えてしまう前に、石見の声がオニビシを呼び止めた。

「恩義がございます」

「恩義?拾ってやった恩義を、働きで返すと申すか」

「それは、建前」

「なに?」

 オニビシは振り返り、にやりと笑った。

「私は、人として生きたい。これからこの大地で人として生きるには、南の者でなければならぬのです。今さらそれに逆らっても、どうにもなりません。私は、ここで人として生きていくため、あなた方に忠を尽くす」

「なるほど。お前のような者も、いるということか」

 いかにも、本音を吐露したような風を装うことができた。しかし、内心では、

 ――犬畜生にも劣ると我らを蔑むが、南の者こそ蛙。せいぜい、地下で鳴くがいい。

 と吐き捨てている。北の民にとって蛙とは罪あるものの生まれ変わった姿であるから、他のいのちとは区別される。オニビシにとって神北石見など、ただの蛙でしかないのだ。


 彼は、アムンペツに戻った。あのセキトウがいた西の端の砦――そこが山根九郎右衛門の本拠である――を避け、あちこちの村を回った。

「東の神の山の民である」

 と自らのことを宣伝し、

「私と志を同じくする勇者が、一人戦っている。それは実りを、恵みを、女を、子を守るためであり、明日を守るためである。この北に渦を巻く痛みを剣に吸わせ、癒えぬ悲しみを宿し、血でもって南の者に裁きをもたらして回っている。お前たちは、それをただ見るのみか。勇者は、まだ夫も持たぬ娘であるぞ。そのような者ですら一人戦っているというのに、お前たちはまだ南の者の欲しいままに奪われ続けることを肯んずるのか」

 と説いた。

「しかし、若殿はそうではない」

 と反論する者があれば、

「南の者は、その集まりを家と呼ぶことは知っているな。家の中にも様々な考えを持つ者があり、それを束ねるはずの山根九郎右衛門はまだ若く、軽んじられている。思い出せ。南の者が、我らを獣にも劣ると言ったことを。自らの欲のままに女を犯し、子を殺し、糧を奪い、笑っていたことを。それが一夜にして塗り変わることはないのだ。それが、南の者なのだから」

 とさらに説いた。


 いくつかの村は、オニビシの求めに応じた。いっとき南の者が大人しくなったとしてもそれは今このときだけの話であり、たとえば時間が経って山根九郎右衛門がおらぬようになれば、また同じ悲劇が繰り返されることを恐れた。

 根から断たねば。それが、彼らの共通の思いであった。根から断つとは、この北の大地から南の者を一人残らず追い出すか、殺しつくすこと。全ての北の民が手を取り合って立ち上がれば、南の者とて太刀打ちはできぬ。彼らはそう考えた。

 北に眠る怨嗟は、それほどに深い。

 渦を巻き、それがあちこちでぶつかり、凝り固まりつつある。

 何かが、動き始めているのだ。

 その報せを聞いた九郎は俯き、皺を寄せた眉間に手をあてがった。

「なぜ、分かり合えぬのだ――」

 傍らには、セキトウ。手当てをされ、眠っている。山根家の兵の多くが彼女によって死んだが、その報復をすることは固く禁じた。目覚めるのを待ち、彼女の言い分をまず聞き、そののち必要であれば南の者と同じように詮議にかけ、悪であるならば裁くべきだと重臣たちを説き伏せた。

「これが、あたらしい山根だ。従わぬ者は、もはや山根にあらず。どこへなりともゆくがよい」

 とまで言った。重臣どもは従ったが、明らかに面白がらぬ顔をしている者もいた。

 家中すらまとまらぬ。その上、民が反発を強めている。

「このようなとき、争いを嫌うお前たちは、どうするのだ」

 眠るセキトウに問うた。無論、答えはない。それを護るようにして傍らに座り込んだまま眠ってしまっているムスビが、かくりと舟を漕いだだけである。

 その手は、セキトウの右手をしっかりと握っていた。

 半端に刻まれた刺青が、うっすらと上下していた。

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