二人の鬼
ムスビは、鬼を見た。
たいへんな騒ぎになっている建屋の外に、鬼を見た。
わっと南の者が輪を作り、それを縮める。
「食い止めろ!女子供に、近付けさせるな!」
その声が、断末魔の叫びに変わる。
血が飛び、弧を残し、光。
刃。それが翻っている。
「矢だ!矢を使え!」
鬼を取り巻く男どもがぱっと散り、斜面になっているところから現れた弓兵から、雨のように、矢。それが地に足を付けて低い姿勢を取る鬼を目指し、獲物を目指す猛禽のように襲いかかる。
「──そんな」
鬼は、矢では死なぬらしい。どういうわけか鬼を目指したはずの全ての矢は、鬼が踏む土に突き立ち、鬼はまたゆっくりと姿勢を上げた。
一瞬、静寂。そして決死の声を上げ、鬼に立ち向かわんと刃を振り上げる者。ことごとく、血に沈んだ。
それが近付くにつれ、鬼のまとう衣やその背丈が、セキトウのものではないことを知った。
「お姉じゃ、ない」
そう呟くムスビを、九郎がちらりと見下ろす。
「東の山の鬼が、我が領地の砦をたびたび襲っている。お前は、あの者が何者であるのか知っているのか」
「し、知らない。あんな奴」
「お姉と言うのは、お前と共にいたあの娘ではないのか。なぜ、あの娘ではないとお前は安堵する」
「知るもんか。とにかく、俺はあんな奴は知らない」
近付いてくる。南の刀を、手にしている。血の滴るその刃が北のものなのであれば、もっと短かかるべきである。
男が握るのは、明らかに南の長さの刀。一息に大勢の血を吸わせ、斬れぬようになったのかそれを捨て、地に転がる屍体が握る刃を拾い上げた。
「若殿を、お守りしろ」
九郎の周囲の者が、我が身を盾にするようにして立ちはだかる。九郎もまた太刀を抜き、
「下がっておれ。怪我をする」
とムスビを制した。
南の刀を握った鬼は、その足を止めた。
「お前が、東の山の鬼か」
鬼は、それには答えない。
「なにゆえ、我らの砦を襲う」
「北の怒りが、憎しみが、この天と地の間に渦を巻いている」
声は、思ったより若い。顔は、深く被った鹿の革の頭巾のために分からない。
「見ておれ、南の者よ」
握った刃を、ゆっくりと九郎の方に向ける。
「お前たちが人とも思わぬ北の者は、今に手を組んで立ち上がり、お前たちをこの大地から一匹残らず消し去るだろう」
「待て。私の話を、聴け」
九郎である。怯えながら刃を握る家臣の前に出た。
「これまでの過ちは、どうしても正すことはできぬ。時を戻したとしても、我らは同じことをするだろう。しかし、聞いてくれ、東の山の者よ」
それは、はっきりとした強い声だった。たとえば、みじかい春の朝に山の頂から陽が顔を覗かせるような。それを浴び、身体の中が温まるのを感じるような心地に、ムスビはなった。
「これからのことは、今こうして生きて言葉を発する我らが決められるのだ。このあと、同じ痛みを抱かぬように。我らのどちらも傷付くことなく、分け合うことができるように。それを、我が家中でも甘いと言う者もある。他国の者で、それを嗤う者もある。しかし、これだけは言える」
九郎が、太刀を下げた。もし鬼が一足飛びに飛べば、たちどころに斬られてしまうだろう。それでも、九郎は、刃を向けるよりも言葉をもって説こうとする。
「わたしたちは、奪うためにこのアムンペツに来たのではないのだ。お前たちから分け与えてもらった恵みで、南にある我が領土の者を豊かにするために来たのだ。お前たちが持たず、我らが持つものがあるなら、与えよう。そうして、共に生きてゆこうではないか」
東の山の鬼もまた、刃を下げた。分かってくれたか、と九郎は嬉しそうに笑んだ。
「ならば、血を」
「なに?」
「血でもって、償え」
飛び散る土。鬼が、低く飛んだ。飛びながら、下げたはずの刃を翼のように広げた。
羽ばたき。それが、九郎を襲う。
しかし、ムスビは見た。刹那、飛び込んできた影が、九郎と鬼の間に至ったのを。そして、聴いた。鉄が激しく鳴る音を。
鬼の刃が、止まっている。どれだけ押しても、それは動かぬようだった。
深く被った笠。地を噛むようにして、鬼の力を大地に流す脚。低く身を沈め、うっすらとした吐息を。それが、一定の律動をもって天に溶けてゆく。
「お姉」
ムスビの恐れていたことが、起きた。
セキトウが、来てしまった。その身に、神を宿しながら。
ただでさえ起き上がれぬほどに傷付いた身体でそれをすれば、どうなるか分からぬ。南の者を次々と屠る鬼がいて、それがセキトウであると思われれば、彼女は南の兵に追われることになるだろう。
さまざまなことがムスビの頭の中を駆け回るが、とにかく、セキトウは今ここに来てはいけなかったのだ。
では、来ていなければ。
来ていなければ、九郎はその身体から血を噴き出して死に、自分もまた死んでいた。南の連中に殿と呼ばれる九郎の死によって、このアムンペツの者どもは怒り狂い、あちこちにある北の村のことごとくを滅ぼしにかかるかもしれぬ。
そうなれば、アリクシのような、あの村の子のような、そして自分のような者が多く出る。そして、それすらも一人残らず死に、土に転がるかもしれぬ。
それをさせぬため、神はここに来たのか。そうならば、なぜセキトウの身体を使うのか。
これ以上戦えば、セキトウは、
「死んじまう」
ムスビが、悲痛な声を上げた。
「お姉。やめてくれ。死んじまう」
九郎が力を交える二人の鬼から身を離し、深く息をつく。
「あの娘は──」
ムスビがお姉と呼ぶ若い娘が、自分を守った。あのように短い刃で、南の太刀の一撃を。それ以前に、あれほど若い娘が、なぜあの鬼の凶剣を止めることができるのか。
──人は痛み、それをまた人に分け与えようとする。
歌。
それは、歌だった。悲しく、
──痛みを与えられた人は、また痛みを求める。
求め、与え、分かち合い。拭えぬ血を拭うため、血を流して。そして痕を残し、その色に染まる。染まった人は、人に同じ色であれと求め、また人を染める。
──その痛みを癒すは、
そこで、歌は途切れた。鬼が渾身の力でセキトウを蹴飛ばし、身を離したのだ。
宙で冬の前の葉のようにしてふわりと翻り、地に降りるセキトウ。その身体は、やはりゆっくりと揺れている。
血が、脈を打つのに似ている。
「どうして」
その姿をしっかりと認めた鬼が、声を発する。驚きの響きが含まれていた。
「どうして、お前が」
向けた太刀が、揺れている。
「癒えぬなら、せめて」
セキトウが地を蹴り、また鉄を鳴らした。
「せめて、泣け」
仰ぐようにして、あるいは天から星が降るようにして、地を風が這うようにして、川の流れが岩を打つようにして。霜が降りるように、雪が静寂をもたらすように、それが溶けてまた流れるようにして。何度も何度も、鉄を鳴らした。
「泣け、クトネシリカ」
鉄が鳴るのは、剣が泣くからなのか。
待て、とそれを制する鬼の言葉は、セキトウには届かぬらしい。半身になって剣を軸にするようにして身体を逆さにし、鬼の背後に降り立つ。
背から、貫くつもりらしい。しかし、そのために強く踏み込んだとき、セキトウの白い
「お姉!」
身体が、もう保たぬのだ。これ以上戦えば、セキトウは神というかたちの無いものとその身体を分け合い、死んでしまう。
「いたどりの剣が、お前の手にもたらされるとは」
鬼は動けぬようになったセキトウからぱっと身を離し、柵として立てられた丸太の上に一度降り、そしてそのまま闇に消えた。
「お姉!」
慌てて駆け寄る。これほど短い間に、二度。一度は百からなる南の者をことごとく斬り、二度はセキトウに似た神の舞を舞う鬼と渡り合った。
人の身体とは、それをするには脆すぎる。骨を飛び出させた左脚を真っ赤にし、大きく肩で息をするセキトウは、風に吹かれた砂が崩れるように地に転がった。
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