鬼が来る

 波が、引いた。それが激しく打ち付けるとき、陸にあるもの全てを沖に連れ去ってしまう。沖の神が陸を恋しがり、陸のものを沖に持ち去ってしまう、というように北の者は言う。

 このときに持ち去ったのは木々でも岩でも家でもなく、南の者のいのち。


「どうして。あんなことをしたら、南の連中がまた怒って攻めてくるじゃないか」

 ムスビが涙声で訴えかけるのに、セキトウは、済まん、と肩を落とすしかなかった。

 昨夜セキトウが斬ったのは、百人。ムスビは、ただ戦慄してそれを見るしかなかった。

 突き出される槍を、水のようにかわして。振り下ろされる太刀を、波のように避けて。ときに岩が海に転がり落ちるようにして受け止めて。

 寄せて、返して。セキトウは、波そのものだった。

 沖の神の歌を歌いながら、ひとつ、またひとつと血でもって裁く。血が飛沫となって飛ぶ度に、セキトウは低く、長く啼いた。沖の神が百のいのちを連れ去るのに、そう時間はかからなかった。

 セキトウの身体もまた、傷付いた。南の刃など波となったセキトウには無いのと同じであるが、自ら振るう剣のその激しさのために、自らの身体を壊すのである。

 たとえば、半端に刺青の刻まれた右腕は紫色に腫れ上がって上がらず、左脚は引きずるようにしてしか歩けぬ。激流となって打ち付けるときに身体を大きく捻るからか、あばらも折れて息すら痛みを伴っているらしい。

 それほどまでに傷付いて得たものは、南の者がまた報復のために攻めてくるやもしれぬという恐怖と危惧。


 彼らは、報復を口にしていた。東の山の鬼が彼らの砦を攻めたと言ったが、無論セキトウには覚えがない。

「とにかく、身体を休めよう。このままじゃ、お姉が本当に死んじまう」

 半分べそをかきながらムスビが言うが、言われなくともセキトウはもう座っていることすらできない。昏く、静かで、暖かな闇。それが彼女をそっと包み、彼女は抗うことなく従った。


 食い物を、得なければ。なにか、食べさせなければ。セキトウに力を取り戻してもらい、ここから離れなければ。

 あの沖の神の村からできるだけ離れ、森に入りはした。しかし、傷付いたセキトウが移動できる距離など知れているから、それほど離れてはいないのだ。

 また南の連中が来たら。セキトウを見つけたら。彼らの恨みの刃は、セキトウを生かしてはおかぬだろう。

 火を焚いていれば獣の心配はない。しかし、火を見た南の者が、セキトウを見つけてしまうかもしれない。闇から危険を払うはずの火が、かえって危険を呼ぶ。そう思い、火は焚かず、気を失ってしまったセキトウを岩穴のところまで力一杯引きずって隠した。

 その間に、獲物を探す。もし、いのちというものが分け与えるために存在するならば、この森の中のあらゆるいのちがセキトウに分け与えられるはすである。

 眠る鹿。兎の穴。目だけを光らせる狐。何でもいい。とにかく、獲物を。

 そう思い、駆けた。

 弓は、幼い頃から嫌というほど練習した。射止められない獲物はないはずだ。しかし、肝心の獲物が見当たらないのだから、ムスビはただ夜の森を無闇やたらと駆け回るしかない。


 夜の森とは、不思議である。闇が昼間見えていたものを全て隠してしまう。知っている森でも、目印がなければ必ず迷う。ムスビは当然の知恵として、わずかに漏れ出る月の光が濡らす土に小枝を折って捨て、自らが迷わぬようにした。

 どれくらい駆けたか、分からぬ。脚が、もう回らぬようになっている。見上げれば、針葉樹が悪霊のように口を開け、頭から飲み込もうとしているようだった。

 その悪霊の口の中に光る星の具合で、もう夜明けが近付きつつあることを知った。

 戻らねば。そう思い、振り返った。


 火。それが、近付いてくる。人の話し声も。

「なんだ、子供じゃないか」

 咄嗟に脇の藪に飛び込んだが、火をかざされ、あっさりと見つかってしまった。装いは、南の者。

「あの村の子供だろうか」

「なんでもいい。連れて帰ろう」

「だが、こんな子供を」

「子供とは言っても、多少のことは分かる歳だろう。問題ないさ」

 男どもは恐怖に震えるムスビについて、あれこれと論じた。そしてその手を伸ばし、彼の自由を奪った。


 離せ、とどれだけ叫んでも、いましめを解かれることはなかった。どれだけ暴れても、まだ力の宿らぬ身体を抱え上げる男には敵わなかった。

「しかしまあ、木の枝で目印とはな。自分の居場所を知らせるようなもんだ」

 そう言って、一人が笑う。

「俺はてっきり、あの目印の先に東の山の鬼がいるのかと思っていたけれど、こんな子供だったとはな」

 男どもの雰囲気は、和やかである。しかし、連れてゆかれた先でどのような仕打ちを受けるのかと思うと、小便をどれだけ漏らしても漏らし足りぬほどであった。

「離せ、やめろ」

「小狸が、吠えおるわ」

 担ぎ上げられるムスビの前を歩く一人が振り返り、黄色い歯を見せて笑う。

「まあ、そう牙を剥くものではない。若殿が、機会を与えてくださっているのだぞ」

「そうだ。お優しすぎるという声も家中ではあるが、何かの間違いかもしれぬ、間違いなのであれば正されなければならぬと仰せなのだ」

 若殿。あの沖の神の村の男も、その言葉を用いた。北と南とで手を取り合ってゆくべきだという、おおよそ南の者とも思えぬような考えを持つという。

 沖の神の村は、たしかに沖の神を迎えた。しかし、あの男は、どれが誰かも分からぬような無惨な形になって死んだ。


 何がほんとうで、何が嘘なのか。それを判ずるにはムスビは子供でありすぎた。それでいて、自分の目の中の世界が光に満ち溢れているのだと信じるには長じすぎている。

 だから、男どもの態度がこれからムスビをどのようにして殺してやろうかと画策するようなものではなく、そのくせ彼の身体をがんじがらめに縄で縛ることについての理解が追いつかないのだ。


 追いつかないまま、砦に。ムスビがそれを目にするのははじめてであった。北の者にとって南の兵の砦というのは悪霊が棲む沼地に等しく、好んで近付く者はいない。

 臭いが違う。丸太を組んで作られた門をくぐりながら、そう思った。門の中には屈強な男たちばかりがいて好き放題にものを食らったり女を追い回したりしているような様を想像していたが、そうでもない。北にはない臭いで満ちた砦ではあるが、武器を持たぬ男もいて何かを作ったりしており、女が子の手を引いて歩いていたりもする。

 北の民の村と何ら変わらぬその営みが奇妙でもあり、南の者とて妻を持ち子を成すのだから当たり前かと得心する思いもある。

「おいおい、なんだって、そんな子供を」

 ムスビを連れて戻った一行に、声をかけてくる者。

「馬鹿。若殿の言い付けだ。話がしたいのでだれでもよい、北の者を連れて来いと」

「だからって、そんな子供。怖がっているじゃないか。若殿なら、自分から出向くと仰せになりそうなものだが」

「家中でも、若殿のお考えについてよく思わぬ者はまだ多いらしい。危ないだとか何かあればどうするとか、そう言っては若殿のなさろうとすることを止めるのだ」

 だから、自分はここに連れて来られた。ほんとうなら、その若殿という者が北の者と話すためにやってくるはずだった。

 何の話をするのか。あれほどひどいことをしておいて。沖の神の村はそのまま無くなり、セキトウは口もきけぬほどに傷付いた。

 どうにかして、戻らなければ。そう思っても縄をどうにもできぬし、できたとしてもこれだけの数の男どもの中をどう潜り抜けてゆけばよいのか分からぬ。

 砦の最奥にある建物の中に入れられ、そうやって考えるうち、引戸が開く音がして、ムスビの周りにいた者どもは居住まいを正した。

「なんだ、子供ではないか」

 若い声。外にいることが多いのか、よく日に焼けた肌に白い歯を貼り付け、笑っている。腕の鷹を供の者に渡し、軽い足取りを戸内に踏み入れる。

 その姿を見て、やはり、と思った。以前に道で出会い、兎のことでやり取りをした男である。南の者の名は長くてムスビには覚えるのが難しいから、

「九郎」

 とだけ呼んだ。周りの大人が、これ、と小さく声を上げて窘めようとするが、九郎はよい、よいと笑い、あのときと同じようにムスビの目線に膝を折った。

「まさか、お前がここに来るとはな。北の者と、話し合いがしたかったのだ。大きな行き違いが起きているようだからな。一人か。お前が姉と呼んだあの娘は、どうした」

「離せ。俺を、ここから出せ」

「落ち着け。子ばかりの村には、ゆけたのか。あそこでも悲しいことが起きた。さぞ、大変であったろう」

 今もし両手の自由がきき、ムスビがこの九郎に負けぬ身体を持っていたなら、飛びかかって喉笛に噛み付いていただろう。

「誰のせいで、そうなったと思ってる」

 ムスビの瞳と声に、子が宿してはならぬものがあるのを感じ、九郎は悲しげな顔をした。

「そうか──。お前が怒るのも、無理はない。では、あの娘も?」

「お姉は、生きてる。死んだりするもんか。だけど、怪我をしてる。俺が付いていてやらなきゃならないんだ」

 その物言いにただならぬものがあるのを感じ、九郎は短いため息をついた。

「離してやれ。この子のいたところまで、送り届けてやるのだ」

「しかし、北の者を連れて来いと仰せになったのは、殿ですぞ」

「愚か者」

 この頼りなげな九郎のどこからこれほど強い声が出るのかと思うほど強く一喝すると、発言した者はぱっと頭を下げた。

「話し合いをするために、事情も分からぬままの者を無理やり連れて来てどうするのだ。離してやれ」

「しかし、急がれませぬと、家中の者も黙ってはおりますまい。ひいてはお上も──」

「うるさい」

 九郎は腰から短刀を抜き、ムスビの縛を解いた。

「悪かったな。お前のいたところまで、しっかりと送り届けさせる。安心せよ」

 帰れる。そう思った。ここは、あの沖の神の村からそう離れてはいない。つまり、陽の暮れる前にセキトウのところに戻れる。


 そう思ったとき。

 表が、騒がしい。

「何事だ」

 眉を吊り上げ、九郎が立ち上がる。

「見て参ります」

 一人がそう言って開いた戸の向こうから、叫び声。続いて、異変を知らせる鐘の音。

「鬼だ!鬼が、来たぞ!」

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