神を呼ぶ声
沖の神の村に長居するのは、やめた。
「どうしてさ。みんな、いい人じゃないか。どうせなら、もうちょっと」
と、ムスビはあの沖の神のよく脂の乗った肉の味を思い出してにんまりと笑うが、セキトウは、
「ゆくぞ」
とみじかく言い、長に逗留の礼をすべく立ち上がった。
「お行きなさるか」
長は白い髭を笑ませて旅装に戻ったこの神を降ろす娘を迎えた。
「恵みを分け与えていただき、ありがとうございます」
「なんの。恵みとは、もともと海や大地にあるもの。もともと、誰のものでもない」
古い北の価値観が、ここにもある。それに触れる度、自分が血をこねて遊ぶ悪霊であるような気がして、胸の中でいたどりの葉を噛むように苦い。
何も分け与えず。何も生まず。ただ壊し、血で裁きを下す。セキトウ自身がするのか、神がそれをするのか、分からない。だが、右手に半端に刻まれた刺青の通り、自分は人になりきれぬ、歪んだ存在であると思えた。
その右手に、長はちらりと眼をやった。
「あなたのことを、聞いてもよろしいかな」
「どうぞ」
べつに、拒む理由はない。この村で恵みを分け与えたのなら、セキトウは旅人として自分が見聞きした遠い地のことを話してやるべきなのだ。沖の神を迎えたときにはその機会は得られなかったから、長の質問に答えてやることで彼女は義務を果たすことができる。
「だれかの妻になる。それを待つ間に、あなたの村は無くなったのですね」
旅の間の話ではなく、言葉のとおり、長はセキトウの身の上話を求めている。話してどうなることでもない、とセキトウは思っているが、長が興味を持つのだから仕方がない。
「そうです。ちょうど、刺青がはじまって、すぐに」
「女たちはその刺青が馴染むまで、全身を包む痛みと熱に苛まれる。それが強いほど、それを刻んだ夫のことを想う。あなたは、それを知ることなく、一人になったのですね」
それが、証。セキトウは、右腕の肘から先にしか、それを知らぬ。
「兄や、村の男は、わたしたちを守るために戦いました。この刺青を刻んだ
「あなたを見た神が、あなたの痛みを癒さんとして、もたらしたのでしょう」
この剣が、セキトウを癒したことはない。むしろ、苛み続けている。沖の神が歌ったように、神の舞とは彼女の小さな身体が舞うにはあまりに激しい。これまでも、その激しさのために、肋が折れたり腕が上がらぬようになったり、脚が紫色に腫れて歩けぬようになったこともある。
心配なのか、ムスビがそっとセキトウの衣の袖を取った。血が染みて汚れているが、乾いていた。
「この剣は、何も癒さぬのです。わたしの思うように抜くことすら、できぬのです」
人の悲しみを吸い、血の裁きを。人の叫びに答えるなら、なぜセキトウ自身の痛みに答えぬのか。
「それでも、人はあなたを見る。血に汚れ、自らの身体を壊してでも人の痛みを癒そうとする、あなたを」
長がムスビを見て、あたたかく笑んだ。
「引き止めはしません。あなたは、多くの人の呼ぶ声に従い、旅を続けるのですから。しかし、またいつでも、立ち寄ってください。あなたの歌の、続きを楽しみにしています」
セキトウは深々と感謝を述べ、ムスビを伴って村を出た。
二度、日が昇って落ちた。
小高い丘を覆う森で、二人は火を見つめていた。
「ねえ、ほんとうなの?」
夜がそうさせるのか、ムスビの声は心細げである。彼が見つめる火の橙のように、揺れていた。
「その剣を振るい続ければ、お姉が死んでしまうって」
おそらく、そうだろう。あまりに激しい神の舞は、人の身体を確実に蝕んでゆく。舞っているときこそ自分が自分でないような、明け方の夢のような心地であるが、それが終わり、自分がこの天地の狭間に戻ってきた途端、耐え難い疲労と痛みに襲われる。それを、四年続けてきた。もうあと四年も続ければ、生きていられぬかもしれぬ。
「死んだことがないから、分からない」
その実感がありながら、ムスビの問いに答えることはなかった。なぜだろうと思いながら橙に己を映して、おそらく死ぬと言ってしまえば、ムスビが怖がると思ったからだと知った。
そういう心地は、久方ぶりだった。かつて己を包んでいた世界に満ちていたものが、これほど頼りなく、珍しいものであるのかと驚いた。
星を、見上げた。そこに、いくつもの物語があった。決して歌われることのない物語が。自分が死んだら、誰が星を見上げるのだろう、と思うと、立っていられないほどの心細さを感じる。
同時に、それでよい、とも。あの日の橙が、心を染めきってしまっている。どうにか別の色にと思うが、もたらされるのは血の赤ばかり。
このように歪んだものを、いのちと呼べるのか。ましてや、神など。
ムスビに、自分を見せるべきではないと思う。それなのにムスビを振り切って夜の森に消えてしまわぬのは、何故なのだろう。
「お姉。あれ」
ムスビが声を上げて、セキトウはまた橙に濡れる夜に戻った。見ると、丘の下を、いくつもの橙が列をなしてゆく。
──南の軍。
直感した。百を超えているだろう。
「沖の神の村を、目指している」
弾かれるようにして二人は立ち上がり、駆け出した。
そこに至る前に、軍が何のためにどこを目指していたのか知った。
「ああ──」
セキトウが、草に膝をつく。
沖の神の村から、火の手が上がっている。
「お姉。みんなが」
ムスビに手を引かれ、セキトウは立ち上がった。駆けながら、胸の中に悲しみが、そして怒りが満ちてきた。
北の者に乱暴をせぬのではなかったか。
なぜ、海の恵みを受け、それを人に分け与えて喜ぶ彼らが、このような仕打ちを受けなければならぬのか。
女の亡骸。一太刀で背を割られている。なにかに助けを求めるようにして手を伸ばし、息絶えていた。
長のところに。このようなとき、村人たちは長のところに集まるものである。
そこには、まだ生きている者がいて、長を中心にして南の軍と対峙していた。
「南の方々に、問う。なにゆえ、このような仕打ちを。若殿は、我らに何もせぬと、共に手を取り合い、生きてゆこうと仰ったはず」
長の声。セキトウに語りかけていたのとは違う、嵐のような激しさがあった。
「笑止」
鎧をまとった南の者が答える。
「お前たちが、我らの砦を襲ったのではないか。我らこそ、お前たちにあのような仕打ちを受ける謂れはない。お前たちが、あの東の山の鬼に襲わせたのだ」
「何のことか、分かりませぬ」
「しらばっくれるな。あの東の山の鬼が、たしかに申した。この地にある者どもの恨みと怒りが、鬼神を呼んだと」
互いの声が、荒ぶってゆく。
「東の山の鬼を雇い、我らを追い出そうという魂胆なのだろう。若殿が、せっかく手を取り合ってと仰せであるのに」
「可哀想に。砦にいた者の多くが死んだ。女も、子供もだ」
報復。東の山の鬼というのはセキトウのことであるようにも思えるが、無論セキトウには彼らが言うようなことをした覚えはない。
「違う。我らは、喜んでおりました。沖の神の恵みを返していただき、はじめの夏なのです。あなたがたに分け与えるだけの肉も髭も、ちゃんと取り分けておりましたものを」
「黙れ、
南の男の一人が、ついに太刀を抜いた。あたりに立ち込めた火の橙の臭いに、血の赤のそれが混じった。
「長!」
村の男たちが騒ぎ、手にしていた木の棒や魚を突く銛などを一斉に振り上げ、南の者に打ちかかった。
北の者と南の者が争い、どうなるかは、語るまでもない。瞬く間に北の者はその血を大地に吸わせ、屍を土に転がした。三つが五つとなり、十となるのに、そう時間はかからなかった。
「痛ぇ」
南の男の一人が声を上げ、手を押さえて振り返る。鞘のままのクトネシリカを握ったセキトウの燃える瞳が、そこにあった。
「なんだ、この女」
「どいつもこいつも、一体何なんだ。いきなり荒っぽくなりやがって」
わっとセキトウを男どもが取り囲む。
「お姉!」
ムスビが声を上げるが、セキトウを襲う暴力をどうすることもできない。セキトウは賢明にクトネシリカを振るって応じようとするが、殴られ蹴られ、すぐに地に転がった。
「もう、いい。やめろ。若殿から、沙汰があるはずだ」
南の一人が溜め息混じりにそう言うと、争いはひととき止んだ。
「沖の神よ」
セキトウを見ながら、長が絶え絶えの息で語りかける。どちらも、土に身体を預けきってしまっている。
「なぜ、このような目に」
答えてやることはできない。ただ理不尽な暴力とそれによってもたらされた死が、そこにあった。
「沖の神よ」
縋るように。助けを、求めるように。
「すべてのいのちに、恵みを与えよ。すべてのいのちと、分かち合え。すべてのいのちと――」
波が、来た。そして引き、戻ることはなかった。
「お姉!」
ムスビが涙をこぼしながら叫び、セキトウに駆け寄り、それを抱き起こそうとしたとき、セキトウの身体にも波がやってきた。
ゆったりと。
寄せて、引き、痕を残して。
そうして立ち上がり、
「――泣け」
「お姉、駄目だ!」
沖で輝く月のようにクトネシリカが閃き、傷付いた身体はムスビが伸ばした腕をすり抜けて南の者どもの方へと打ち付けた。
それは、波そのものだった。
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