沖の神が語るには

 同じ頃、セキトウは、ムスビと二人、並んで歩いていた。進路は、西。理由はないが、あのサンシカの村を出て、明けてゆく橙を背負うようにして歩くと、そうなった。

 それから何日も、西に歩いた。山がちな地域を抜け、二人の前には一面の原野が広がっている。

 それを二つに分かちながら海に向かって流れる川が見え、その上に漁をするための小舟が、落ち葉のように浮かんでいる。

「村が、あるのかな」

 ムスビが駆け出し、大声で呼ばわりながら手を振る。小舟の上の者も気付いたらしく、手を振り返してきた。


「魚、獲れるのかい?」

 川べりに至ったムスビが、舟の上の男に話しかけた。

「ああ、この川も、ずっと降ったところの海も、よく獲れるぞ。魚だけじゃない。この間は、沖の神クジラが打ち上げられもした」

「沖の神が?すげえや」

 彼らにとって鯨というのは滅多にもたらされぬ大型の生物で、それが打ち上がったり弱って浅瀬にいたりすると、村の者総出で肉を燻して村中の腹を満たす保存食にしたり、皮を衣服や沓にしたり、髭を弓の弦や釣竿の穂先にしたりした。たとえば熊などの場合、それを村に持ち込んでから神を迎え、送る儀式をするが、鯨はあまりに大きいため、浜辺でその儀式をし、各部位や肉を解体する。

 そういうことがあるというのを大人の話によって聞き知ってはいたが、実際に目にしたことはない。ムスビは、その光景を思い浮かべて目を輝かせた。


 セキトウは、それを見ている。

 親も死に村も失い、これまで己の生きてきた証であった全てを奪われても、なおこのような目ができるものなのか、と。

 ムスビが薄情だからではなく、きっと、はげしい絶望と落胆に身を委ねてしまうのではなく、それに抗い、まだ見ぬ光を知ろうとする強さを持つからなのだろうと思った。

 妙なことかもしれぬが、それを、羨ましいと思った。


「ああ、坊主。この間も、沖の神が浜までやって来た。十年、いや、十五年ぶりか」

「ずっと、来なかったのかい?」

「いいや、毎年か、二年に一度は来たさ。だけど、全部南の連中に差し出さなくてはならなかった」

 久方ぶりの、というのは、沖の神がもたらす恵みを享受するのが、という意味であるらしい。


 南の者とは、どこにでもいる。

 ムスビには、半分、その血が流れている。それを呪わしく思うことが多いらしいが、無理もない。母を、育ての父を、身寄りの全てを、産まれた村を奪い、なおかつ自分のような子ばかりを拾って育てていたサンシカもまた、自分のために死んだ。出会ったばかりの彼女が自分のためにその身を盾にしたというのは、彼にとって衝撃であったろう。

 ──呪わしいのは、南の奴だけじゃない。このおれの中に流れる、血もそうだ。

 それくらいは、思っている。それを表に出さぬのは、共に草を鳴らすセキトウを気遣ってのことか。子供というのは、ときにこういう配慮をする。


「南の者に、差し出さなくともよくなったのか」

「そうとも。去年、今の若殿の代になってから、奴らが無茶を言ったり、乱暴をすることはめっきり減った。今年からは、沖の神の恵みはそれを見つけた村のものとせよ、ということになった」

 との、という語を聞き、セキトウはあの九郎右衛門のことを思い浮かべた。まだ若いが、そのぶん優しげで、乱暴はせぬと確かに口にしもした。

 ほんとうに、この辺りにいる南の者は、乱暴をやめたのか。いや、それがいきなり絶えてなくなることはない。げんにムスビの村は無くなり、サンシカは死んだではないか。


 なにがほんとうで、なにが嘘なのか。それを確かめる方法はない。ただ、この舟を器用に流れに静止させながら歯を見せて笑う男の言うことに嘘はない、ということは分かった。

「実はな、坊主。今から、沖の神を迎えにいくところなんだ。ほかの村の奴らに知られれば横取りされるかもしれんが、見たところお前たちは旅人だろう。一緒に来いよ。手伝えば、分けてやる」

 これが、北の民の本来の姿である。彼らは自ら持つものを分け与えることをその精神の基本にしている。それは、まず自分もまたあちこちにあるいのちから様々なものを分け与えられているからであり、もともと神は神だから誰が占有すべきものではないという考え方である。


「この辺りはまだいいが、ちょっと西に行ったところにある村じゃ、まだ南の連中がいいように振舞ってるって話だ。なんでも、若殿が治めるのはこの辺りまでで、向こうになると、また別のカミキタとかいう連中がいるらしい」

 南の者は北の者と違い、占有することをその精神の原則としている。彼らは何にでも名を与え、これは誰のもの、これは我のものと言い合うことを常とする。北の者には考えもつかぬことだが、彼らは大地をも切り割りし、占有する。その境が、この辺りなのだろう。


「旅人といえば」

 舟を下流に向けながら、男は世間話として口を開いた。

「ちょっと東の方には、神の山の生き残りが出るって話だが、知ってるか」

 セキトウは、答えない。知らぬということだと思ったらしく、男は彼らにとっての貴重な娯楽である噂話を提供してやろうと口を回す。

「神の山の者は、神を迎えたり送ったりするのではなく、獣の身体を借りる前の神そのものを、自分の身体に降ろすことができるらしい。神の住む国に、近いからだろうな」

 彼らが神と呼ぶものたちは、地に、空にあるあらゆる生命という器を借りて降りてきているものであり、そうでないときは深く、高い山にいるとされている。だから獲物を捕らえることは神を迎え入れることであり、その肉体を滅ぼすことは神をもといた場所に送り返すことである。そのとき、神が迷わぬようにと祈りを捧げ、またやって来てくれるようにと火を目印に焚き、物語を捧げる。

「神を降ろす者は、人の痛みを癒す剣を振るい、南の者を次々と殺しているらしい」

 ムスビは気まずくなったのか、何も言わない。男はまさかこの若い娘がそうだと思わず、娘が帯に剣を差しているのも、道中の護身と道の草木を払うためのものだと思っているのだろう。

「その者は、何のためにそれをするのだろうな」

 セキトウが、ふと口にした。ムスビが、それを見上げた。笠の奥の眼は遠くの山にあり、この緩やかな川にはないかのようであった。

「さあな。俺には、分からねえや。仕返しのつもりなのか、あるいはそれで失ったものが取り戻せると思っているのか」

「──そのどちらでもないだろうな」

 セキトウは、遠くの山から目を外さず、呟くように言った。男には聞こえなかったのか、面白がるような口調で自分の語るところを続けた。

「まあ、どちらにしろ、神を降ろす者の出番はなくなる。このままいけば、俺たちが南の連中にびくびくしていなくてもよくなるからな」


 そのまま、他愛もない雑談になった。男は年頃の娘でありながら、衣から覗く右手の甲だけに刺青を施され、顔にはそれがないことを不思議がったり、セキトウのことを聞きたがったが、セキトウは曖昧に鼻を鳴らず程度で答えなかった。

 もしかすると、セキトウの北では珍しい切れ長の瞳や凹凸の少ない頬などを美しいと思い、興味を持ったのかもしれない。

 そういう男女の機微はムスビには分かるような分からぬような、こそばゆいような思いがあるが、セキトウを見て美しいと思うのは舟を漕ぐ男だけではなく、ムスビもまたそうだった。

 それこそ、人のものではないような。なにか、見てはならぬものを見るような。そのような畏れにも似た、それでいてとても親しみのある何かを、セキトウに感じているのかもしれない。


「南の連中がわたしたちを苛まぬようになれば、人の痛みは癒え、かなしみは薄らいでゆくのだろうか」

「さあな。だけど、そうなるさ。俺たちが信じていなきゃ、この坊主みたいな子らが可哀想じゃあないか」

 視線を山からこの世に戻し、ムスビを見る。そうすると、はにかんだようにして目を逸らした。弓と矢を背負ってはいるが、身体には大きすぎる。願わくば、その矢で射るのは人と分けるための糧であってほしい。そう思った。

「そうすれば、わたしも、会えるだろうか」

 セキトウが何を言っているのか分からず、男は曖昧に笑って頷いた。


 川をゆったりと滑り、舟はやがて浜に至った。そこには多くの村人がすでに集まっていて、打ち上げられた沖の神の周りに木を削った飾りを置いたり、火を焚く準備をしたりしていた。

「見ろよ。あんな風に嬉しそうにしている連中を、見たことがあるか」

 たしかに、沖の神を囲む者の表情やそれぞれに交わす声の明るさには、セキトウやムスビが知らぬ何かがあった。それが彼らの指先にまで染み通って弾ませている。

「じきに、陽が暮れる。そうすれば、沖の神を海に送る」

 男は白い歯を見せて笑い、セキトウの半端に刻まれた刺青に手を沿え、村人が集まる方へといざなった。


 歌。人の歌うそれを、沖の神が聴いている。

 そこには、英雄の物語があった。

 いつなのか誰も知らぬほど昔にいた英雄。その者が愛する者を守るために傷付いたとき、神がそれを癒すためにいたどりを地にもたらした。

 その者が授かったいたどりを自らの痛みではなく人の痛みを癒すために使おうと欲したとき、その枝が、葉が姿を変え、剣になった。

 英雄は、それを振るい、愛する者を痛みから救い、悲しみを拭い去った。


 そこまで歌うと、村人は円になって夜の砂に腰を下ろした。そこで改めてセキトウたちの訪れを歓迎し、この恵みを分け合うことを勧めた。

「ありがとう」

 セキトウも薄く笑み、感謝を述べる。

 ただ痛み、苛まれ、悲しみ、怒り、憎むのではない。それを、分け合うことはない。

 分け合うのは天の、地の、海の、川の恵みであり、たとえば朝陽が昇るのを喜ぶような心持ちであり、人の痛みを知って自らの心に走る痛みであるべきである。


 切り分けたばかりの肉を焼き、口に入れる。血が、脂が、身体に染み渡ってゆく。こうして、いのちは続いてゆくのだ。

 母はまだ幼く、歯の生えきらぬ子に小さく切った肉を噛んで柔らかくし、与えてやっている。父はそれを見て、自分が食うべき分からさらに肉を切り分け、母に与えている。白髪ばかりの髭を伸ばした村長は、自分はこれまでに最も多くの恵みを受けてきたから、この肉に手は付けぬと言って自分の分も村人たちに与えた。

 そうして腹を満たしたあと、歌は続く。

 このようなときは、客であるセキトウも座に混じり、歌うものである。村人は訪れた旅人がどのような物語を語るのか、楽しみにしている。

「英雄は、求める」

 一人が、歌いはじめる。その節回しは南にも大陸にもないもので。彼らしか知らぬものであった。

「その剣を、鞘に納める日を」

「時が経ち、英雄の愛する者は老いて死に、英雄は剣を鞘に納めることができた」

「それ以来、剣は鞘から抜かれることはなくなった」

「鞘に納まった剣は、英雄と共に神のもとへ帰った」

「そして、人がまた痛むとき、剣はまた人のもとへ返される」

 そこで、セキトウの番である。村人たちは目を輝かせ、その歌うところを待っている。

「人は、求める。かなしみが癒えるようにと。しかし、人は、知らぬ。どれだけ剣を振るっても、かなしみは癒えぬのだと」

 澄んで、それでいて針の葉が擦れ合うような切ない掠れがある歌声。それに、村人は冬を思った。やわらかな雪、凍った木、全てが白く塗り潰され、止まった世界。しかし、その雪の下にかならず宿っているいのちの力。それを感じた。

 セキトウは客だから、より多くの物語を語らねばならない。だから、彼女の歌は、続く。

「痛みは、波」

 村人が、囃し立てた。今まさに送らんとしている沖の神のため、それに因んだ歌を歌おうという趣向だと思ったのだろう。

「寄せては引き、引いては寄せるもの」

 腹を満たす前の歌は立って舞い、後ならば座したまま歌うものである。しかし、セキトウはゆるりと、静かな海のように立ち上がった。

「砂に残るのは、痕。あらたな波が来て、それがひととき癒えても、引いて、また痕になる」

 クトネシリカ。それを、手に取った。

「寄せては引き、引いては寄せ。寄せては引き、引いては寄せ。わたしは低く、長く啼く。訊け。耳を傾けよ。波の向こうの、遥か沖に。そこにある、痛みのはじまりに」

 ムスビが、目を見張った。普段は抜くことができぬと言っていたはずのクトネシリカを、ゆっくりとセキトウが抜いたのだ。

「しかし、人はそこには至れぬ。波を掻き分け、沖に出ても、深く、暗く、つめたい痛みに包まれ、沈みゆくだけ」

「お姉――?」

 そっと、声をかけた。セキトウは聴こえていないのか、波になって歌うのをやめようとしない。村人も、セキトウの様子がただならぬことに気付き、座したままそれを呆然と見ている。

 剣が波となり、火に照らされて橙になった闇に打ち付けた。誰も斬られはせぬが、それは息が止まるほどに恐ろしく、そして美しいものだった。

「人よ」

 神を送るはずが、人に語りかける歌を歌っている。

「だから、せめて、泣け」

 泣け。泣け。癒えぬなら、消えぬなら、せめて、泣け。

「右の手には、証。奪われ、苛まれる者の持つ証。女は、自らに願いをかけるはずであった男を求め、探し、ただ彷徨う。神は、女にもたらした剣でもって、どうにか女の痛みを癒そうとする」

 しかし、剣で痛みは癒えぬ。剣を振るえば振るうほど、むしろ痛む。

「か細き腕は、骨を絶つたびに崩れ。たおやかな脚は、地を蹴るたびに壊れ。腹のうちも、胸も、そのいのちのすべてを神の糧とし。それでもなお女は、自らが人である証を求め、歩く」

 村の長が白い髭を砂に垂らし、ひれ伏した。彼は、今目の前で波そのものになって揺れ舞い歌うものが旅人でも女でもなく、これから帰ってゆく沖の神そのものであることに気付いた。

「かなしき女は、人であるがゆえ、かなしみを拭い去ろうとする」

 だが、痛みは繰り返す。そして、悲しみが痕になって残る。

 歌の節が、途切れた。

 ゆっくりとクトネシリカが鞘に戻るにつれ、冬の大地が、海が、夏の夜に戻った。

 セキトウは力を失い、砂に両膝をついた。

 神は、沖へと帰った。神もまた、物語の結末は言わぬものらしい。人よ、それを求めるならば進み、知れとでも言わんばかりに。

「あなたは、神か」

 村の長が、震える声で言った。セキトウは何も言わず、ただ肩をはげしく上下させるのみであった。己のいのちを確かめるように。波が、寄せて引くように。

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