願う女

「お姉!」

 火が爆ぜるように上がるムスビの声で、セキトウは太刀を片手で受け止めたまま、折っていた膝を立ち上がらせた。

「風の神と、雨の神。出会って舞って、地の神を喜ばす」

 歌である。誰も知らぬ歌が、血で臭う赤と橙の闇に濡れている。

「彼らは声をひそめ、たがいに交わす」

 ムスビの背に、ぞわぞわとしたものが走ってゆく。なにか、良くない葉を誤って口にしたときのように、それは背骨を伝って全身を痺れさせた。

「彼らは交わり、そして呼ぶ」

 クトネシリカが、男の満身の力のこもった太刀を弾き返す。その放つ閃光は、まるで、

「雷の神」

 さながら、落雷。ひたいから腹まで凄まじい斬撃で断ち割られた男は、火の橙を血で塗り込めながら崩れ落ちた。

 もう一人の男が、あまりの出来事に悲鳴を上げる。

「痛み、蹲る、ちいさきものよ」

 後ずさり。生き物としての本能が、そうさせる。太刀を取る勇士としての気構えなど、吹き飛んでしまっている。

「肌を切り、証を刻まれしものよ」

 腰が抜け、尻餅をつき、それでもなお目の前の圧倒的なものから少しでも遠ざかろうとする。

「ちいさきものよ」

「た、たすけてくれ」

 助けて、という言葉ほど、空疎な響きを持つものはない。ここで、この男を救う者など、いはしないからだ。

「ちいさきものよ」

 半端に刺青の刻まれた右手をだらりと下げ、クトネシリカを揺らしている。ちらちらと橙が蝶のように翻り、男の目を刺す。

「癒えぬ痛みを抱え、苛まれるなら──」

 ゆっくりと、冬の前の川のように、ゆっくりとクトネシリカが上がる。

「──せめて、泣け」

 そして、春の訪れを知り、草の芽が雪から頭を出すように、頭上に構える。

「泣け」

「や、やめてくれ」

「泣け」

 ムスビは、目を穴のようにしてセキトウの背を見ている。

 今、神が、数々の神が彼の目の前にいる。目の前にいて、歌い、舞っている。セキトウの中で互いに出会い、睦み合うように舞っている。

「泣け、クトネシリカ──」

 火を、また宿した。赤と橙の閃光が、男の肩口から臍までを通り過ぎる。

「──わたしの代わりに」

 血振り。そして、納刀。


「ム、スビ」

 サンシカの声。もう、死が彼女を包もうとしている。それが、ムスビに分かった。

「サンシカ」

 ムスビは駆け寄り、その手を取った。ぐっしょりと濡れているそれからは、温度は失われつつあった。

「無事、でしたか」

「どうして、おれなんかを。今日、はじめて会ったばかりなのに」

「それでも」

 咳き込んだ。赤いものが、彼女の唇を飾る。そうすると、まるでこれから好いた男がやって来るのを待つ娘のように見えた。

「それでも、あなたは、生きなければならない」

「なんで。どうして──」

「あなたも、誰かが願いをかけ、産んだ子だから。あなたも、誰かに願いをかけ、分け合い、与えてゆかねばならないから」

「そんなの」

「セキトウを、守ってあげて」

 セキトウを。思ってもいなかったことである。

「あの剣は、誰をも等しく裁く。決して、北の者だけを救い、南の者だけを裁くようなものではないの。痛みや悲しみに、北も南もないの」

「北も、南も──」

「あの剣は、それを振るう者を、最も苛む」

 宝剣クトネシリカ。ムスビは、てっきりセキトウが神の代わりに人を救うために授かったものだとばかり思っていた。

「あの刃で裁くたび、セキトウの身体は蝕まれている。神の舞を舞うには、人の身体は脆すぎる。骨は鳴き、肉は裂け、まるで獣に食われるようにして、あの剣に、それが呼ぶ神に食われているのです」

「そんな、じゃあ、お姉は──」

「そして、身体だけでは、ありません」

 消え入りそうないのちで、ムスビに何かを伝えようとする。

「彼女の、心も」

 心。それをも食らう剣。神を宿すというのは、人の器は、あまりにも小さい。ゆえに、まるで餌のようにして自らの心を剥き出しにして、放り出さなければならない。そのようなことを、声を掠れさせながら問うた。

「だから、彼女を、守ってあげて。そばに、いてあげて」

 それを最後に、サンシカは、血に沈んだ。ムスビは、セキトウの背を見た。ぺたりと足を広げて血の海に座すその背にはすでに神の姿はなく、ただの女の小さなそれがあるのみであった。

 浅く、ゆっくりと、息をしている。

 生きているのだ。


 夜が明けてから、サンシカの亡骸を子らと葬ってやった。彼らは、等しく嘆き、涙を流していた。彼らの涙を血のついた手で拭ってやっても、サンシカと南の男の血が混じったものが跡になって残るだけであった。

「どうして、サンシカ様は、殺されてしまったの」

 少女が、悲しみを溢れさせながらセキトウに問うた。それに、セキトウは答えることができなかった。ただ、少女に、悲しみの眼を向けてやるしかなかった。


 セキトウはまた、森の夜にいた。ひとりではなく、ムスビもいる。それに、狼の親子。何か食うものはないかと、訪ねて来ているらしい。

「サンシカ、可哀想だったね」

 セキトウは答えず、ただ針葉樹が穿つ闇に浮かぶ星を見上げた。

「おれのせいだ。おれが、サンシカの家に行かなければ」

「そうなると分かっていれば、誰でも行かぬさ。この闇が晴れて朝が来たら何があるのか、誰も知ることはない。瞬きをし、ほんのわずかな闇に包まれて、次に目を開いたときに何を見るのか、誰も知ることはない」

 だから、お前のせいではない。セキトウは力なく笑い、そっとクトネシリカに手をやった。


 一人の女がいた。その女は、自分の全てを失った。しかし、子らには同じ思いをさせまいと心に決めることができる強さを持っていた。

 奪うのではなく、分け合い、与える。ものを作り、それを人に与えて、糧を得る。憎しみや恨みや怒りではなく、手を取り合うことで生きてゆく。その術を、子らに教えた。彼らが長じれば、同じように自らの子に、分け合い、与えることを教えるだろう。

 そのために、女は我が身を削り捨てた。いのちを擦り減らし、子らに言えぬ方法でもって、子らに見せなければならぬものを見せた。

 しかし、それは、途切れた。

 痛みを知り、悲しみを吸い、血でもって裁く剣を握る女が、訪れたからだ。

 願う女を失った子らは、どのようにして生きてゆくのだろう。何を見、何を見せ、生きてゆくのだろう。

 人は、願う。子に、願いをかける。己を知る人に、どうか幸あれと、日々願う。願うことで、はじめて人は生きられる。

 そこに、北も南もない。血によって裁かれた者もまた、誰かの子であり、誰かの願いを受けて長じた者なのだ。

 人が人から奪うことに、理由はない。少なくとも、この大地に暮らす者に、その理由を知る者はない。

 人とは、分け合い、与えなければならない。それが、人の願い。

 悲しみを怒りではなく、やさしさに変えて生きてゆく女は、北に渦を巻く理不尽と痛みによって、その願いを遂げぬまま死んだ。

 そこには、やはり痛みだけが残った。

 また、星に悲しい物語が与えられた。


 北も、南もない。ムスビの母も、我が子にそう願いをかけたという。

 ムスビがその意味を知る日は、来るだろうか。ムスビ一人の力でどうなることでもない。

「お姉」

 ぽつりと、橙に照らされた呼びかけを、発した。セキトウは、星からムスビに眼を落とした。

「ごめんね」

 どういう意味なのか分からず、戸惑ったように眼を狼の方にやった。セキトウの視線を受けた狼の子が、尻尾をひとつ振った。

 この母もまた、子に願いをかけているのだろう。健やかであれ、長く生きよ、少しでも長く生きよと願い、食い物を求めて歩くのだ。

 狼も、いのち。狐も、栗鼠も、熊も、草も、木も、魚も、人もまた、いのち。

 いのちであるかぎり、願う。

 いのちであるかぎり、繋ぐ。

 それを歪め、阻むもの。

 それを、裁く。

 クトネシリカとは、そういう剣であるのかもしれぬが、それは答えではない。

 ただ、分からぬことを闇の中で求めて彷徨い歩くセキトウの、ぼんやりとした思考の中で漂う想念にすぎない。

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