邂逅
「待ってくれよ!」
息を切らせて追いかけてくるムスビに気付き、セキトウは足を止めた。
「おれも、一緒にいく。弓だって使えるし、魚の獲り方だって」
ほかに、生きるべき場所がないのだ。彼を産んだ母も、彼を子と思い、育てた伯父も、村の知り人も。誰もが死を受け、その血をいたずらに大地に吸わせた。だから、ムスビは山にでも入り、生きられるだけ生き、あとは飢えて死ぬしかないのだ。
旅を続ければ、食うには困らぬ。北の人というのは分け与える精神を濃く持っていて、訪れた旅人にはそれが誰であろうと食い物や衣服を与える。セキトウの後ろについてゆけば、食うには困らぬ。そう思ったのだろう。
「──やめておいた方がいい」
笠の下で力なく笑うセキトウを見上げ、ムスビははっとした。まだ取れぬ、濃い血の臭い──すなわち死の臭い──が漂っているのだ。
「わたしがゆく先には、お前の生はない」
ムスビの母は、ムスビを愛したという。その父も、ムスビの母を愛したという。そうして産まれた子が求めるべきものなど、セキトウがゆく血の河のその先にはあるはずもない。
そういうことを、はじめて降る雨のようにささやかに言い聞かせようとしたが、ムスビはそれを遮り、意外なことを言った。
「お父は、お母とおれの父親が愛し合っていたと言い聞かせた。だけど、そんなのは嘘だ」
「なぜ、そう思う」
「南の奴らが、そんないい奴なはずがない。あいつら、村を襲って、あんなひどいことを。きっと、お母だって、無理矢理に。それで産まれた俺を可哀想に思って、お父はそんな嘘をついていたんだ」
ほんとうのことは、分からない。実の父母によるものか、あるいは偽りを述べて彼を傷つけぬようにしたという育ての父か。何にせよ、彼は彼を想う人の優しさのために養育されてきたものであるが、それを断ち切られたばかりの彼がそのことを認知するのには長い時間がかかるであろう。
セキトウ自身、ムスビと同じ目に合っている。知り人の全てを奪われ、女にすらなれず、刺青を半端に刻んだ男は村の焼け跡をどれだけ探しても死体すら出ず、ただ神が与えたか偶然か、決して抜けぬクトネシリカだけを握りしめて。
それが光を放つのは、人の悲しみを癒すため。しかしただ南の者を屠ることしかせぬ刃を振るっても払っても悲しみは消えず、傷も癒えぬ。
それを、生と呼べるのか。ゆえに、セキトウはムスビが我が後ろに続かんとすることに躊躇いを見せている。
しかし、だからといって、今ここでムスビを放り出してゆくのは、彼を殺すに等しい。どれだけ歪んでいても、それは生。少なくとも、死よりはましである。
拒むことができなかった。ここでムスビを無理やりに引き離し、起き去ることができなかった。
セキトウが頷くと、ムスビは飛び上がって喜び、彼女の歩幅に遅れまいと必死でついて歩いた。
「お姉ほどの腕だ。村を探して困ってる人を助けて歩けば、食うには困らねえな」
ムスビは自らを苛む感情から目を背けるようにして、明るい声を出した。
「俺のお父は死んでしまったけど、その剣で、たくさんの人を助けてやっておくれよ」
自分を育てた者の死。村の知り人も、もう誰もいない。それは分かってはいるが、その重みはまだ感じていないらしい。セキトウも、そうだった。自らの知り人の全てを失ったとき、はじめは、その事実だけが道の上の石ころのように存在して、あまりにも何も感じぬものだから、自分の心が壊れてしまったのかと思った。
しかし、そういうものは、夜にやって来る。火を焚けば獣は寄り付かぬが、だからといって眠りと夢を避けられるわけではない。
ムスビはこれから、何度も何度も同じ夢を見るのだろう。そしてその夢を繰り返す度に、己がこの天地の間にたった一人になってしまったことを改めて知るのだ。
「兎だ」
ムスビが、背に負った彼の身体にはやや大きい弓に手をかける。あれを射って、自らの腕前を見せようというのだろう。
しかしセキトウはそれをそっと制し、足元の小石を拾って打った。
兎の頭蓋をそれは砕き、彼らの食糧とした。
「見事なものだな」
不意に湧いた男の声に、セキトウはクトネシリカを鞘ぐるみ構えて跳び下がる。
「やあ、驚かせてしまったか」
薮から現れたのは、若い男である。その周囲には、やや年長けた男。長い交流とこの百年の弾圧のために、北の者でもほとんどの者が南の言葉を理解するし、話すこともできる。北の者はどちらかといえば短身で凹凸の多い顔をしており、南の者はそれよりは長身で平たい顔をしていることが多いが、中には南にも凹凸の激しい顔の者はいて、だから、ぱっと見ただけで区別がつかぬことがある。しかしこの場合、男が美々しい衣を纏っていて同じく華麗な装飾の施された太刀を吊っており、年嵩の男たちはそれを守るようにして太刀の柄に手をかけているから、一目で南の、それも相応の立場の者であることが分かった。
「俺の鷹よりも早く、兎を射止めるとはな」
男の視線の先には、旋回する鷹。それが、見定めた獲物を奪われて所在をなくしたように降りてくる。
腕に止まったそれに餌付けをしながら、男はセキトウに笑いかけた。
「この鷹は、狙った獲物は決して外さぬ。石の飛礫にそれを奪われたとあっては、彼も立つ瀬がない」
「だから、その兎をよこせ。そう言いたいのか」
ムスビが恐れを跳ね返すように食ってかかる。それに、男は笑って首を横に振った。
「まさか。お前たちの、夕の飯になるのだろう」
「そんなことを言って。騙されるもんか。俺たちを捕まえて、食ってしまうつもりだろう」
男も、その取り巻きも、声を上げて笑った。そして男はすぐに、なぜか悲しげな光を瞳に宿し、ムスビの視線に合わせて膝を折った。
「童。名を、なんと言う」
男の声と表情があまりに優しげなので、ムスビは戸惑った。
「俺は、
「──ムスビ」
「ほう。南の言葉のようだな。よい名だ、ムスビ」
殿、そろそろ。取り巻きの者が九郎右衛門を促したが聞かず、なお言葉を重ねる。
「お前は、ムスビの姉か。案ずるな。お前たちに害を与えるつもりはない」
そこではじめて、セキトウは構えを解いた。クトネシリカは、今は抜くことができぬ。抜けぬならそれはただの棒であり、セキトウはただすばしっこいだけの女である。クトネシリカの抜けぬときに戦いになればたいてい酷い目に合うが、今はその心配はなさそうであった。
「旅をしているのか。父や母は、どうした」
「南の奴が、よく言うぜ」
ムスビの呪詛にも似た眼差しに、また九郎右衛門は悲しげな笑みを返した。
「そうか。すでに、
「弟ではない」
セキトウの物言いは、端的である。
「では――?」
「お前たちに、身寄りも村の者も全て殺された」
「それで、お前が面倒を。もしかすると、それは、この西の村か」
九郎右衛門には、心当たりがあるらしい。彼の装束などからして、彼がこの辺りを領有する家の者の中でも格の高い――セキトウも、南の者の長のことを殿、と呼ぶことは知っている――者であるならムスビの村の一件は耳に入っているはずで、九郎右衛門は心の底から憐れむ声を上げ、折っていた膝をもとに戻した。
「これより東、わが領土の端に、行くあてのない子らを引き取ってくらす女の長が治める村がある。ムスビに行くべきところがないのなら、そこに預ければよい」
「嫌なこった。預けられたって、お前らがまた攻めてきたら、同じじゃないか」
「案ずるな」
九郎右衛門は、哄笑した。
「この北において、我らとお前たちとの争いは絶えぬ。しかし、俺の領土において、それは決して許さぬ」
「馬鹿を言うな。じゃあ、なんで俺のお父は死んだ。村のみんなは、なんで死んだ」
「済まぬな、ムスビ。詫びても、詫びきれぬ。関わった者は厳罰に処し、ただちに南へ――」
「その必要は、ない」
セキトウが、遮る。
「どういうことだ」
「お前の家の者がこの子の村を襲ったということだけを知り、その者らがどうなったかは、まだ知らぬようだな」
「何か、あったのか」
「そのうち、分かることだ」
ムスビを促し、セキトウは東へと足を向けた。行くあてのない子ばかりを引き取って育てている長の村にゆくつもりである。
九郎右衛門らは、それを見送った。彼らは、気付いていない。今言葉を交わした笠の娘の纏う墨で染めた衣に、乾いた血がこびりついていることに。自分とそれが連れる子を護るようにしてかざした鞘の剣が、おそるべき裁きの剣であることに。
そして、この娘が、神々をその身に降ろし、それを振るうことに。
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