黒く残る

「どうだ、善兵衛」

「いや、弥次郎。この肉は硬くてかなわんわ」

 斜面に築かれた砦の中、笑い声を上げながら男どもが火を囲み、鹿か何かの肉を食らっている。

「しかし、主膳しゅぜん様も、思い切ったことをしたものよ。殿が知ったら、何と言うか」

「いや、殿のおわす砦からは目と鼻の先。お咎めがあるなら、今ごろすでに何かしらのお達しが届いていようて」

「それも、そうだ。殿はまだお若いゆえ、主膳様には逆らえぬと見える」

 愉快、愉快。そう言って揃う笑い声に、錆びかけた色の声が重なった。

「そのへんにしておけ」

「これは、主膳様。失礼を」

 一同は半分くらいは髪の白くなった年嵩の男に向かって、頭を下げた。

「殿は、若すぎるのだ。それゆえ、北と南とが手を取り合うというような夢想を口になさる。この時勢、ひとたび向きを誤れば家が傾きかねぬのだ。しっかりと我らで殿を導いてゆかねばならん」

 主膳の発する重々しい言葉に、誰もが得心したような相槌を打った。

「大殿のときに得たこの地をよく治めねばならん。若殿の代で失うわけにはゆかんのだ」

 かつて、南の国においては、北の土地というのは切り取り次第になっていた。そらから月日が経った今は、複数の国──彼らはそれを家とか家中と呼ぶ──が勝手に境を引き、領有している。この川からあの谷、あの山からその野、というように、我が領分にある全ては、獣も、魚も、草木も、無論北の民までも己のものであると考えているらしい。

「今日の村は、憐れであった。しかし、北の者に情など要らぬ。犬畜生にも劣る分際でありながら、我らに楯突き、かつての誤りをまた繰り返そうとするのが悪いのだ」

 力でもって弾圧し、人を人とも見ぬ南の者ではあるが、かといって乱れを望んでいるわけではない。ムスビの村を皆殺しにしたのは抵抗に対する見せしめで、殺戮そのものを目的にしているわけではないということらしい。


 だが、悲しみは、生まれた。

 拭っても拭っても取り去ることのできない悲しみが。

 傷の痛みならいたどりの葉を擦り込めば治まろうが、今日生まれた痛みは、それでは癒せぬ。

「見よ。見事な星ではないか。儂は大殿に従ってこの地に来てから長いが、この星だけはいつ見ても飽きぬものだ」

 主膳は、そう言って濁った液体の注がれた土器かわらけを天に向けた。その視界にある星が、一瞬、塗り潰された。

 ごとり。

 何か重いものが、土を打つ。

 円になって座していた者のうちの一人が手にしていた肉を取り落とし、前のめりに崩れた。

 首が、無くなっていた。土に落ちたのはその者の首であるらしく、ころりと転がり、今にも肉を頬張りそうな顔で主膳を見上げた。

 焚かれた火をも塗り潰すような赤が、首を落とした者から噴き出ている。

 それを浴びる者がいることに、一座はここではじめて気付いた。

「何奴じゃ!」

 それは血を浴びて赤く、そして火に照らされて橙だった。深く被った擦り切れ笠の下の顔は、わからない。

「──泣け」

 ふわりと、鳥の羽が飛ぶように、春の綿毛が風に乗るように、笠の下で声がした。

「山の神は、海を求め──」

 わっと声を上げて抜刀しようとした一人の両腕が、ばさりと落ちた。

「海の神は、川と出会い」

 恐怖。人とは、見知らぬものを無条件に恐れる。それは闇であり、そこに潜む危険であり、それがもたらす死である。

 それらの全てが、ここにあった。

「川の神は、また山へと遡り」

 流れる影をどうにか捉えようと飛びかかった二人。その一人は影が逆手に握った光によって頭蓋を真横に絶たれてその中を満たすものを草に撒き、もう一人は振り抜かれたと同時に翻る同じ光に胸を貫かれた。

 そのまま、静止。

「天と地の、その繋ぎ目に──」

 歌だろうか。絶命して自らに倒れかかってくる男の体重を支えながら、影は呟いている。

 そのゆらゆらと揺れる身体には一定の脈があり、まるでいのちの鼓動がそのままあらわれているようだった。

「──産み落とした者を、なんと呼ぼうか」

 胸を貫き、背から飛び出しているのは、刃。それが、火と星を宿して輝いている。

 肉が裂け、骨の割れる音を立てながら、それを引き抜き、また別の一人に向かって影は跳躍する。

「曲者ぞ!討ち取れ!」

 ようやく、主膳は何かしらとてつもない凄腕の刺客が襲ってきているものと判じ、まだ生きて刃を握っている者に向かって声を上げた。

 騒ぎになっている。砦の中の者が、異変に気付きはじめたのだろう。

「どうやって、ここに」

 この砦には、七十からなる兵が詰めている。主膳のいるのは砦の中央部の広場だから、騒ぎはじめているのはその周囲である。

 斜面の上も、下も、横合いも、どこも騒がしくなっている。すなわち、この赤と橙に揺れる影は、誰にも見られることなくここに至ったということになる。

 そのようなことが、あるものか。

 また一人。わっと声を上げて恐怖に震える腕を怒らせ、太刀を振り上げた。影はこんどはそれに応じ、岩を叩く激流のようになってその男を通り過ぎ、腹から様々なものを飛び出させた。

「馬鹿な」

 主膳には、信じられない。これが、人の動きか。この凄惨な太刀技は、人の振るうものか。まるで、天の、地の怒りをそのまま宿したかのようなそれに、ただ顎を震わせるしかなかった。

 まさしく、人ではない何かであった。

 これに名を与えるなら。

 ――鬼神。

 主膳がそう思ったとき、弦鳴りがした。騒ぎを聞きつけ、このおぞましい赤橙に揺れる影を見て取った者が、矢を放ったのだろう。

 ぱちりと、眼が合った。笠の奥で血と火の色を宿した、ふたつの目と。

 その瞬間、飛来した矢は、掴み取られていた。

「産み落とした者は、ただ痛み」

 待ってくれ、と声に出そうとした。しかし、それは乾いてへばりついた喉によって阻まれた。

「痛む痛みを、どうして癒そうか」

 生きている者が、またわっと輪を縮めた。しかし、それはまたこの天地を支配するふたつの色を濃くするだけであった。

「せめて、泣け」

 主膳は、これから自らを包むものをすでに知っている。この一瞬の間に、それは有り余るほど彼の視界に積み上げられている。

「泣け」

 ずぶりと、腹に何かが入ってきた。それははじめ熱く、すぐに冷たくなった。

「泣け」

 助けを乞おうとした。誰に向かって。今の彼を、誰が助けるのか。

「泣け」

 入った刃が背骨を削るのが分かる。身体が、悪霊に支配されたようにして痙攣するのを、どうしようもない。

 ただ二つの目が、じっと自分を見ている。口から血泡を吹きながら目を飛び出させている自分が、そこにいる。

「泣け、クトネシリカ――」

 背骨ごと、横薙ぎに。それで、主膳もまた二つの色に染まった。

「――わたしの代わりに」

 血振るい。そして、納刀。

 ムスビの村を襲い、ムスビに痛みをもたらした者どもは、こうして裁かれた。


「お姉」

 血まみれになって戻ったセキトウを見て、その握り締める剣を見て、ムスビはセキトウが何をしてきたのか知った。

「あいつらも、死んだの」

「死んだ」

 ムスビは、両手を真っ黒に汚していた。死んだ村の者を、土に埋めてやっていたらしい。

「それでも、悲しみは癒えぬな」

 ムスビは拳で自らの頬を流れる涙を強く拭った。知り人を葬るために手についた土が、黒い線になってそこに残った。


 セキトウはまた森の中、火に向かっている。

 見上げると、針葉樹がぽっかりと穿った闇から星が覗いていた。

 ある男がいた。その男はセキトウを知り、自ら知り人を守らんとして武器を取り、勇を振るって立ち上がった。その結果その男も村の者も皆殺され、男が守ろうとしたムスビだけが生き残った。

 ムスビの母は、南の者であるはずのムスビの父と愛し合っていたという。わたしが愛し、わたしを愛した人との子であるムスビには、北も南もないのだと言ったという。男はそれを知り、ムスビを我が子として育てた。父として彼を守らんとし、死んだ。

 ムスビは、どうして生きてゆくのだろうか。

 生きてゆくことが、できるのだろうか。

 見下ろしてくる星に、悲しい物語が与えられた。

 この歌は、誰も歌い継がぬのだろう。

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