ムスビ

 ──逃げろ。

 ──助けて。

 声が、赤く、赤く染まってゆく。まるで、陽が海に溶けて滲んでゆくように。

 あらゆるいのちが連綿たる輪を紡がんと力を宿す季節に落ちる陽は、いつもこの色だった。

 この季節、ときおり風は巻き、激しい雨をもたらす。彼女の声が海に溶けたのは、その雨が止んで垂れ落ちそうな雲が嘘のように赤く、赤く染まる日のことたった。


 人には、何の力もない。山の神たる熊は恐るべき力を持って穴を掘り獲物を仕留め、狼はどんな獣よりも速く駆けることができるが、人には何の力もなかった。あるとすれば、それは栗鼠や兎くらいの力であった。

 だから、人は知恵を身につけた。か弱く、脆く、傷付けばすぐに死ぬいのちは、大地に知恵を与えられた。

 たとえば、火。それでもって闇に潜む危険と恐怖を打ち払い、人はいつでも光のもとで生き、厳しい冬の寒さをしのぐことができるようになった。

 たとえば、衣やくつ。人のやわらかな肌はそれでもって守られ、棘のある葉や木の枝にいちいち傷付いたりしなくて済むようになった。

 たとえば、剣。これでもって人は自らのゆくべき道を塞ぐ草を、枝を払うことができるようになり、山の深く、神の領域にまで足を踏み入れ、道を拓いて別の人々と交流ができるようになった。

 たとえば、弓や罠。これでもって離れた場所にいたり昼間は出会うことのない獲物を糧とし、分け与えられるようになった。

 野にも、山にも、川にも、海にもいのちがあった。その全てが、神だった。人は、それらから与えられた知恵でもって糧を得、自らもまたその大いなる円環のうちの一つとして、何かしらのものを返した。

 人とは、それでよかった。だから、力など必要なかった。大いなる円環の中にいる限り、力とは人には必要のないものだった。

 しかし、人は力を求める。それは、その環の旋回の形が歪むからであり、それによって生じる軋みが声となるからであった。

 あの雨上がりの赤の中でセキトウが同じ色に輝くそれを手にしたのは、そういう理由であるからかもしれない。


 その赤がぱちりと弾け、セキトウは身を起こした。夢を見るときは、たいていこういう夢である。

 森の中を、幾条もの橙が貫いている。ぱちりと弾けた赤は、獣を避けるために焚いていた火のなれの果てのものが爆ぜた色だった。

 朝。世界を支配する橙は、闇の神へと天地が受け渡されるときのそれとはまた異なる色であった。その橙の光に貫かれながら、それでいてまるで交わらぬような顔で、セキトウは身を起こした。

 昨日獲った兎の肉の残りを少し捌いて火にくべ、口に入れる。燻したり干したりできればよいが、木組みをしたりひとところに留まる理由がないので、そのとき食うものをそのとき得ながらひたすら歩いている。余ったものは残し置けば、べつの生き物の糧となり、神々の元へと還る。だから、まだ足などに肉の残った兎をそのまま捨てても勿体ないとは感じない。


 鳥の声。それを運ぶ、風の音。青い匂いを立てるのは、足元の草。それを踏む音と自らの呼吸の音。それを感じながら、歩いている。

 ただひたすら、求め歩く。それを、もう四年も続けている。

 南の者が築く砦も、あちこちに増えた。はじめ、彼らは珍しいものを求めてこの地にやって来て、北の民の持たぬものと自らが求めるものとを交換した。北の大地には、これよりさらに北や東に広がる大陸の国からもたらされはしたが、彼らにとって使い道のないもの──きらきら光る珠や、小さな動物のなめらかな毛皮、美麗な織物など──がたくさんあったから、そういうものをくれてやった。

 南の民は喜び、北にはなかった刀の作り方やより遠くまで飛ぶ弓の作り方などをもたらした。そういう月日が、長らく続いていた。

 しかし、あるとき、北の民の中で小さな諍いが起きた。それは、ある川を遡上する鮭をどちらの村が獲るか、という内容のものだった。

 なぜか南の民がやってきて、こちらの村が正しい、いやこちらの村に理がある、などと騒ぎ始めた。そして、南に無数にひしめき合うの国のうちの一つがある村の味方をし、別の国がもう一つの村の味方をした。

 それぞれの国の者同士は争うことはなく、彼らに焚きつけられた二つの村同士が争った。それが、この北の大地においてはじめて人と人が争い、戦い、殺し合ったときである。

 そうなると、また別の国が別の村を焚き付けて争いに参加させ、それに抗するように別の国が別の村を、という具合に、戦いの輪はそれこそ野に火を放ったように広がった。

 その収拾のつかぬ代理戦争とそれがもたらす混乱は、最終的には南の地にそれを統べる者が立ったことで収まったかに見え、北の者は安堵し、互いに傷つけ合ったことを悔いた。


 しかし、南の国は、この豊かな大地から退くことはなかった。争いの原因は北の者にあるとし、果てのない大地がもたらす全ての恵みは南のものであるとした。もちろん、それを承服せぬ北の民は多くあり、それらは村ごとに固まって立ち上がった。

 しかし戦い慣れぬ彼らは、瞬く間に南の兵に打ち倒された。ある村は丸ごと焼かれ、ある村は長の見ている前で男の首を並べて刎ね、村中の女を犯し、それを逆さに吊るすのを見せ付けたのちに長をも殺され、滅した。

 元来、彼らは交易をよくする。自然、村というのもあちこちの谷や野、盆地や川沿いなど相互の交通の便のよいところに拓かれていた。南の者は奪ったり滅ぼしたりした村に砦を築き、ほかの村におかしな動きがないか監視するようになった。


 やがて南の国を統べる者も老いて死に、また別の者が別の仕組みを作り上げた。そうすると、今度は南の者は豊かさを求めるようになり、北の民を使役し、その恵みを供与させることを始めた。どちらにしろ、力でもって押さえつけられたのでは、北の者も黙って従うしかない。

 従わない場合は、大抵はろくなことにならぬ。だが、南の民の全てがそうであるわけではなく、中には北の民との融和を望む者もいた。


 男が、幼い子の手を引いて駆けている。その息は切れ、笑いながら追いすがる南の兵の手が今にも届きそうである。追いつかれればどうなるのか、男も知っているのだろう。たとえその息が止まってしまっても駆け通すくらいの勢いで足を必死に回転させている。

「それ、新右衛門。回り込め」

「ほら、こっちじゃ、こっちじゃ」

 まるで子供が遊戯でもするように、男を追い詰めてゆく。そしてその手が男が連れる幼子の背にかかったそのとき。

「痛ぇ」

 ちっぽけな石飛礫。それが南の兵の一人の額を打った。これは、北の民が兎を獲るときなどによくやる方法で、上手い者が投げれば小さな飛礫でも兎を射殺せる。

 額から流れる血を手に取り、南の兵が野太い声を上げる。

「誰だ!」

 その声が搔き消える木の影が意思を持ったように姿を成し、道にあらわれた。それは鹿の革の外套を身にまとい、深く笠を被っていた。

「なんだ、矮人ちびじゃねえか」

 北の民は、南の者に比べて小柄である。ひときわ小柄なその姿は五尺あるかないかという具合だったから、余計に南の男はそう言った。

「どこの誰か知らんが、我らにこのような仕打ちをしてただで済むと思うな」

 今まで鼠を追う狐のようになっていた男どもが、追いかけていた男と幼子そっちのけにわっと勢いを持って影に飛びかかる。はじめ、影は抵抗を示したようだが、見る間にあちこちを殴られ、蹴られ、地面に転がった。

「そら見たことか。馬鹿め」

 男どもは転がる者を足蹴にし、唾を吐きかけ、興が冷めたとでも言わんばかりに立ち去った。


「ありがとう、ありがとう」

 手当てを施すためにいたどりの葉を擂り潰しながら、男は何度も礼を口にした。

「あんたがいなければ、今ごろ俺とこの子は──」

 幼子が、いたどりを擂る棒の動きを追いながら座している者の頬や額に浮かんだ赤い痣にじっと視線を注いでいる。身体は小さいが、その視線や面立ちははっきりしていて、十くらいの歳なのではないかと思えた。

「お前の子か」

 その痣が動き、女の声になった。子がじっと視線を注いでいるのは、同じ歳格好の女には必ずあるはずの刺青がなく、娘のようであるのを不思議に思っているからかもしれない。

「俺の子じゃない。俺の妹の子だ。妹の子だから、俺も自分の子として育てている。そういう意味では、俺の子だ」

 父はすでにおらぬらしい。病か、あるいは南の者に殺されでもしたか。

「お姉」

 と、幼子が声を発した。それで、少年であることか分かった。目が大きく優しげで、黙っていては少年なのか少女なのか区別がつかぬのだ。

「その剣、ほんもの?」

 少年が指差す先には、鞘に納められた剣。

「お前、名は」

「ムスビ」

「南の言葉だな」

「お姉の名は?」

「──セキトウ」

 それも、南の言葉である。セキトウのほんとうの名ではないのかもしれぬが、彼女が何も言わぬものだから分からない。

「セキトウ。あんたは、どうして旅を?」

 男が、セキトウの身の上を不思議がって訊いた。旅装束で剣を帯びている刺青のない女など、聞いたことがないからだ。

「あるものを、探している」

「それは、何だ」

「お前の妹は、南の者に殺されたのか」

 男は言葉にはせず、静かに肩を落とした。

「わたしも、身内を殺された」

「誰を」

「父を。母を。兄を。村の、知り人の全てを。我が夫となるはずであった人を」

「あんた、もしかして──」

 男が目を見開いた。

「東の、神の山の村の生き残りか」

 セキトウは答えず、傍らの剣にそっと手を添えた。

「そうならば、その剣が、歌にあるクトネシリカか」

 北の民は、歌を歌い、詩を詠む。それはいにしえの英雄の物語であることが多い。北ではあらゆるいのちが神であるとされ、それを村に迎え、送る──すなわち、得た獲物を屠って糧とする──とき、歌を歌い、詩を載せて物語を捧げる。それは古くから伝えられているものであることもあれば、さいきんの話題であったりもする。

「俺の村でも、その剣を歌うことがある。南の国に滅ぼされた東の神の山の生き残りが、神に剣を与えられた。その剣は人の痛みを癒し、南の者を屠る、と」

 結末は、ない。神が気になってまた村にやって来てくれるよう、あえて結末を設けぬのだ。

「南の者は、噂している。東の神の山の村が滅んだとき、一人の娘が生き残ったと。その娘は奪われた知り人を取り戻すため、次々と南の者を屠る鬼になったと」

 復讐とは、男は言わない。その意味の語は、北にはないのだ。セキトウは答えないが、その沈黙が回答だと男は思ったらしく、しきりと頷いて、まるで神でも見るようにして目を輝かせた。

「鬼神を宿し、歌い、舞いながらその剣を振るうとは、ほんとうなのか」

「そのように、よいものではない」

 セキトウは短く言い、右腕を押さえた。手の甲から前腕の途中までだけ刻まれた半端な刺青が、痛みに揺れている。

「さあ、手当てを」

 男はできるだけ痛みを与えぬよう、そっといたどりの葉を傷に塗りはじめた。


「おれには、南の血が流れてる」

 手当てが終わって食事を振る舞いながら、少年がぽつりと言った。

「南の血が流れてるから、ほんとうなら、村じゃ生きていけないはずだった」

 それは、そうである。この百年、北の者にとって南の者というのは悪霊よりも恐ろしいものであり、その血を半分受けているということが喜ばれるはずもない。ときおりこのムスビのような境遇の者がいて、そういう者は産まれたときに殺されてしまうか、いくらか長じることができても結局、迫害の対象となり村では暮らしてゆけず、山の中で一人生き、飢えて野垂れ死ぬしかない。

「だけど、お父が」

 と、ムスビは男をそう呼んだ。

「この子は南の者の子じゃない、自分が妹と通じてできた子だと言った」

 それは、北の者の掟では罪である。背を木の棒で何度も打たれ、皮が弾け血が噴き出す苦痛に耐えて、男はムスビを守った。

「こら、ムスビ。余計なことを言うんじゃない」

 聞かなかったことにしてくれ、と男は懇願したが、セキトウは特に興味を示す様子もなく、与えられた食事を口に運んでいる。鹿の肉を燻したものと芋だけの簡素なものだった。

「しかし、俺は、勇気が持てた気がするよ」

 男は肉を頬張りながら、笑った。

「あんたは女の身だが、そうやって勇敢に戦っている。あんたは、英雄だ」

 セキトウの眉が、わずかに曇った。

「わたしには、最も似つかわしくない言葉だ」

 傍らのクトネシリカに眼をやる。ただ無造作に転がされているだけだった。

「こんど南の奴がやってきたら、俺も戦うよ。こいつを守るために」

「やめておけ」

 セキトウは、即座にそれを止めた。

「南の者は、殺しが上手い。どうやったって、には敵わない」

 現に、セキトウはこの村にやってくるとき、手ひどくやられてしまっている。

「この子のためだ。あなたが死んでしまっては、どうにもならない」

 それきり黙り、食事を進め、食い終わると手当てと食事の礼だけを言って村を去った。


 夜。近くの森で、火を焚いて過ごした。獣とは火を恐れるが、たまに火を焚いていても狼がやって来ることがある。火に近付いてくる狼というのは人に慣れていることが多く、兎の肉などを与えてやるとひと吠えして尻尾を振った。

 暗がりの藪に、気配。この狼の仔だろう。小さな足をおっかなびっくり動かし、近付いてくる。母狼が口に咥えた肉を離すと少し匂いを嗅ぎ、かぶりついた。

 親とは、子を守り育てるもの。あらゆる生き物において、そうである。あのムスビの母は、今のムスビの悲しげな目を見ることはない。見れば、母も同じ目になるだろう。代わりに、その兄が同じ目をしている。

 妹の子だから。我が身を盾にしてでも、それを守る。自分が訪れたことで妙な気を起こさねばよいが、とふと思ったとき、人間の気配がして跳ね飛ぶようにして身構え、鞘ごとクトネシリカを眼前に置いた。

「――ムスビ?」

「お姉」

 ムスビが赤に染まっているのは、火に照らされているからではない。血だ。それが、火の橙と混じっている。

「火が見えたから。よかった――」

「何があった」

 駆け寄り、半ば放心状態のムスビの両肩に手をやる。

「村が」

 それだけを言い、村の方を指差した。

 遅かった、と思った。思ったときには、駆けだしていた。

 村に再びたどり着いたとき、その足を止め、立ち尽くした。

 夥しい数の屍。血とはらわたを撒き散らし、倒れる村の者ども。死んでいる者だけではなく、中にはまだ息があって苦痛に呻いている者もあった。

 そのうちの一人が、ムスビが父と呼ぶ男だった。

「何があった」

 それを抱き起こすと、セキトウの炭で染めた衣の黒がぐっしょりと濡れた。黒は、赤には染まらず、ただ黒である。

「南の、奴らが」

 手には、しっかりと木の棒が握られていた。

「戦ったのか」

「あんたみたいには、戦えなかったよ」

「馬鹿な」

 抵抗したのだ。自分が、ここに来たから。男はセキトウに出会って奮起し、折り悪しく襲ってきた南の者と戦ったのだ。おそらく南の者は食い物を求めに来たのだろうが、抵抗に激昂し、皆殺しにしたのだ。

「なあ、セキトウ――」

 男の声は、今にも消え入りそうだった。

「痛い。助けてくれ。その剣で」

 胸を一突きして楽にしてやろうにも、このクトネシリカは抜くことすらできない。

 セキトウはただ男を強く抱きしめてやるしかなかった。そして、それをするうち、男の身体からは力が抜けていった。

「ムスビを、たのむ」

 頼むと言われても、どうすることもできない。

「俺の妹は、あいつの父を愛していた」

 血泡と共に、意外なことを言った。おそらく、最期である。男が何を伝えようとしているのか、セキトウには分からない。

「南とか、北とか。そんなことはこの子には関係ない。わたしが愛し、わたしを愛した人との間の、この子には。妹は、そう言っていた」

 しかし、ムスビの父とは違う南の者にさんざんに犯され、死んだ。

「だから、俺は、あいつを自分の子だと思うようにした」

 それが、男の妹がたった一つ求め、できぬままになってしまったこと。

「ムスビを、たのむ」

 たのむ、たのむ、たのむ。男は、何度もそう言った。

 事切れてもまだ言い足りぬような顔をしながら少しずつ冷たくなってゆく男の目をそっと閉じてやり、土の上に横たえた。

 そこへ、ムスビが追いついてきた。

「お父」

 セキトウは、屈みこんだままゆっくりと振り向いた。

「お父は、死んだの」

「――死んだ」

「どうして」

 答えることはできない。自分が、ここに来たから。いや、南の者が、とてつもない暴力でもって北を支配しようとするのが悪いのか。セキトウには、分からない。だから、問うてやるしかなかった。

「悲しいか」

 と。

 そのままクトネシリカを握り、ふらふらと歩いてどこかへと立ち去ってしまった。その背を、ムスビは呆然と見送るしかなかった。

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