第5話
翌朝、私はベッドサイドに飾った花を撫でてから家を出た。
彼はいつ手紙を出してくれるのだろうか。そんな浮ついたことを考えていたため、私は足元の段差に気付かなかったらしい。
「危ない!」
そう聞き慣れた声と共に、私の身体は誰かによって受け止められる。目の前で、あの焦げ茶の髪が揺れた。
「大丈夫か?」
走ってきたのだろう、息を切らした彼が私の顔を覗き込む。
「ええ、ごめんなさい。ありがとう。」
私はすぐに彼から離れ、落としてしまった荷物を拾った。彼に触れられたところが嫌な熱を持っていた。
「まったく、気を付けろよ。お前はいつもどんくさいんだから。」
「なによ、失礼ね。」
「じゃあどうしてそんなところで転んでるんだよ。」
そう言って、彼は笑った。
「考え事をしていたの。」
「そうかそうか、でも気を付けないとまた転ぶぞ?」
「もう。あ、もう行かなくちゃ。今日も頑張りましょうね。」
「ああ、頑張ろう。」
嫌な熱は、いつまでたっても引かなかった。久々に感じた彼の匂い、温もりは昔のままで…。これが他の女のものになっているるのかと考えるだけで、私の方が怒りに燃えてしまいそうだった。
しかし燃えるという単語を思い出し、私はふと昨日出会った彼の髪の色を思い出す。そして、良き友達になれたらいいなと思った。
「昨日はどうだった?」
サイレンが鳴り、休憩時間に入ってすぐに彼女が感想を求めてきた。
香水女は、意外にも農夫ともう関係を持ったらしい。魔女は頑なに口を割ろうとしなかったが、私が大学生の友人ができたと告げると少年に求婚されたと答えて皆が目を丸くした。
「いや、私が亡くなった母親に似ているらしくてね。」
そう苦笑する魔女は、紛れもなく魔女の形相をしていた。
私達の談笑で休憩時間は終わってしまい、帰り際、彼女に晩餐に誘われたのだけれども私は彼からの手紙が来ているのではないかと期待してしばらくは家に帰ると伝えた。
「良かったわね。」
と、彼女は意味ありげに笑って去っていった。
家について郵便受けを見ると、そこにはなにもなかった。
私はそのことに落胆しながらも、きっと明日には届くはずだと期待をしてその日は早めに眠りについた。
朝、郵便受けを覗いてみてもそこには何もなかった。手早く荷物を纏めて、仕事場に向かう。今日はジョンはいなかった。寝坊だろうか。
そして更に追い打ちをかけるかのように、今日の仕事はいつにも増して忙しかった。小休憩のサイレンが鳴って、私は彼女とパンを食べながら手短に赤毛の彼について報告をした。
「友達になったわ。」
「…それで、どうなの?」
「どうって、友達になったわ。良き友達になれたらいいと思うの。」
「友達、ねえ。」
「ええ、友達よ。」
「そう、それは良かったわ。」
私の言葉で彼女は何かを察したらしい、また詳しく話を聞かせることを条件に私は彼女からデザートにリンゴの薄切りをもらった。
しかし、そんな私の期待も虚しく彼からの手紙は愚か便箋の一つも送られてはこなかった。もしかして動揺して間違えた住所を記入してしまったのか、もしかして彼は私のことはすっかり忘れてしまったのではないか。もしかしたら彼は幻だったのではないか。
そんなことを考えているうちに五日が経ってしまった。
五日目にしてやっと、郵便受けにやけに分厚い大きな封筒が入っていた。
高鳴る気持ちを抑えながら、食事とシャワーを済ませてそれを開封した。封筒の中には高級感漂うレターセットが十組と、ペン、インク、そして彼からの手紙が入っていた。真っ先に私が手紙に目を通すと、遅れたことの謝罪と彼もまた、初めてのやりとりに浮かれて張り切ってしまったとの旨が簡潔に彼らしい整った字で書かれていた。
また、二枚目には彼の詳しいプロフィールや近況が想像しやすいように書かれている。楽しいその内容は、彼が喋るように人柄が見て取れた。
私はどのような返事を書こうか悩んでしまう。そして、プレゼントされたレターセット一式をじっくりと眺める。いかにも高そうなそれらは私の部屋の古ぼけた机には恐ろしく似合わないほど輝いていた。それにこんな高価な物をいただいても、私は彼に返すものの見当がつからない。
どうしたものかと頭を悩ませているうちに、太陽が昇ってきてしまった。急いで支度をして家を出ると、珍しく同僚の彼女が私の家の前にいた。
「おはよう。彼からの手紙は届いた?」
「え、ええ。」
「良かった。彼、悩みに悩んで貴女へのプレゼントを決めたそうよ。」
どうやら彼女は、彼に頼まれてわざわざ私に伝言をしに来たらしい。
久々に彼女と仕事場に向かう朝は、なんだかむず痒かった。
暫く歩いていると、こちらに向かって歩いてくるジョンの姿が見えた。
「おはよう。今日も一日頑張ろう。」
「ええ、頑張りましょう。」
ジョンは、私が一人じゃないと立ち話はしない主義だ。同僚と並んで歩く私を見つけた途端、彼もまた駅の方へと歩き出してしまった。
「ねえ、今の彼が幼馴染?」
「ええ、そうよ。」
「随分と素っ気ないのね。」
「これが二人になると違うのよ。」
「そうなのね。それにしても、彼と同じ学年なのね。」
「どうして?」
「タイの色が学年によって違うのよ。」
「そうなの?初めて知ったわ。」
「教えてもらっていなかったの?」
「ええ、私には関係ないことだから。」
私はそんなことに軽くショックをおぼえながら、今日も一日汗を流した。
休憩時間、香水女があの日の時の農夫と一緒に外に出て行くのが見えた。
「お熱いのね。」
「ほんと、いいわね仲良しで。」
彼女は能天気に笑いながらパンを食べていた。
「彼に返事は書いた?」
「いいえ。私は字も下手だから、下書きに下書きを重ねて書くつもりよ。」
「そう、でも彼はそんなことは気にしない人よ。」
「どうして?」
「彼は旦那の知人の息子さんなのだけれども、昔から礼儀正しくてとてもいい子だったと聞いているわ。」
「そうなの。」
「貴族の息子さんかと思わなかった?」
「それは、彼の所作から感じたわ。」
「それが、生まれは全然違うのよ?けれども家の教えでああなってしまったのね。」
彼女は立ち上がり、返事は遅れないようにと忠告をしてから戻ってしまった。
「確かに、ジョンとはとても違ったわ。」
彼はとても紳士で、それでいてよく気が付く人だった。
私は下書きに下書きを重ねて、手紙の返事を出した。まずはプレゼントのお礼に、お返しについての質問。そして簡単な自己紹介の返しに、特筆することもない私の普段の生活について書いてみた。大学に通う彼は私のことを退屈でつまらない人間だと感じるだろうか。そんな不安もあったけれど、すぐにその返事はやってきた。
「お返しはいらないけれど、君が休みの日はいつかな。そうだわ、書き忘れていたなんて…!」
彼は歴史を学んでいるため、私が働いているような工場に興味を抱いたらしい。今度詳しく話す旨と休日の日を添えて、私はすぐに手紙を出した。
冷たい溜息 陽花紫 @youka_murasaki
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