みそかに降る雪
山田沙夜
第1話
昨日の朝は雪が積もっていた。
今日は雲ひとつない。微風。気温二度、「夜明け前はマイナス一度でした」とお天気ニュースが言った。
十時にお願いした引っ越しの軽トラックが、もうすぐ来る。一台で運べるように、荷物は減らしに減らした。
両親は「志摩で就職して実家暮らしになるのだから、何も持って帰るな!」とニヤつきながら言った。
ほんとうに晴れてよかった。
「片岡綾」の表札を外してショルダーバッグに仕舞った。ショルダーバッグと一泊用グッズをあれこれ入れたリュックは、引っ越し荷物にまぎれてトラックで運ばれてしまわないように、寝室にしていた屋根裏部屋へ置いた。
家電や家具、食器、雑貨などの小物は、昨日までに貰われていき、残った布団は院生となって大学に残る友人が、お昼前には取りに来る。彼女は来客用だと言うが、来客もいろいろで、ほぼ某男子で特定だ。
わたしは志摩で就職して、実家暮らしになる。
卒業式までに何度か名古屋へ来る予定だけど、この二軒だけ残った古い長屋へ来られるだけの余裕があるかどうかわからない。わたしは何枚も二軒長屋の写真を撮った。
大家さんはお隣の竹居須江さん。昭和元年の生まれで、昨日十二月二九日がお誕生日だった。須江さんの好物、砂糖菓子の「二人静」を持ってお見舞いに行くと、病室の手すりを頼りに歩いていた。
「春が歩行器を買ってきたんだよ。もう、年寄りくさいったら」
嬉しそうに言っていた。大丈夫、じゅうぶんにお年寄りです。なんといっても九三歳なのだから。
四輪歩行器は重量感があり、安定感があった。
わたしの大学生活は須江さんの九〇代とともにあって、高齢を生きることの楽しみと幸福、辛さと悲しみを、たったの四年間だけどあふれるほどに見せてもらった。
ずっとひとり。独り身を通した須江さんを、一日置きに姪の春美さんが訪ねて来た。両親を早くに亡くした春美さんにとって、お隣は実家なのだ。
近所の仲良し多田鈴子さんは、たぶん毎日来ていたと思う。
「こんにゃくとゴボウの煮物、食べてヨ」
「ぬか漬け、食べる?」
商人宿「多田旅館」のオーナー鈴子さんは八三歳、ほかにも果物やらお菓子やらいろいろいただいた。母より二つ年上の春美さんからも差し入れがあって、わたしの食生活は豊かなのだった。
十二月三日の朝、須江さんは起きてこなかった。預かっていた鍵を初めて使った。
布団で寝ている須江さんが静かすぎる。呼んでも、身体に触れても、目を覚まさない。
わたしは救急車を呼んだ。
「綾ちゃん、お世話かけて悪かったねぇ。あ……これダンナ、こっちは長女。あと息子がふたりおるけど……」
病室で、春美さんは泣きはらした眼をしていた。
鈴子さんはずっとわたしの手を握っていた。
須江さんは少しやつれた頬と少しくぼんだ眼でわたしを見て、うっすら笑った。点滴を免れた右腕を布団の上に出して、弱々しいピースサインをしてみせる。ソフトボールを握ったようなピースで、手に力が入らないようだった。
その様子を見て、春美さんはまた泣いた。
わたしが須江さんの右手を両手で包むと、鈴子さんがその手を両手で包んだ。
「綾ちゃん、伯母から聞いとる? あの長屋ねぇ……」
「四月末で売ることにしたと聞きました。そのお金で老人ホームへ入ることも」
「綾ちゃんも聞いとったんだね」
昭和が終わったときにそうすりゃよかった。
「伯母さんはくどくどくどくどそう言うんだけど……んでもそんときは伯母さん、まだ六〇そこそこでしょ。ホームで暮らさんとうちんとこへ来ていっしょに暮らそうよって、何度も誘ったんだけどね……。やっぱり伯母さんの大事な家だもん。伯母さんもよう売らんかったんだね。
わたしも、伯母さんが生きとるうちは、頼まれてもあの長屋をよう売らんに。伯母さん、遠慮せずに、うちへ来りゃいいのに……」
須江さんは姪の世話になる毎日より、姪が訪ねてくれる毎日がよかったのだと思った。
一人を貫いて生きてきたのだから。
「小町におるで、お茶しにいりゃあ」
須江さんが入院すると、鈴子さんから中二日ほどで、夜九時すぎにスマホに電話がかかるようになった。
「小町も十二月で店を閉めるんだと。わたしも今年いっぱいで旅館を閉めるんだけどね」
多田旅館、素泊まり五千円。
「ほとんど客がおらんようになってきて気楽にやっとったけど、なんか二年前ぐらいから外人さんが泊まるようになって、忙しなってまって、二千円も値上げしたのに、ほんでも客が来るんだに。わたしも八三だでね、キツくてかなわんもんで、満室だ言って断っとったんだがね。
ほうしたら、旅館を売って欲しいと、わりに大手のホテル屋が言ってきたんだワ」
懇意の弁護士に間に入ってもらって、売買契約をしたという。ビンボー旅館の女将さんにしてみたら、「眼ん玉が飛びでるほど」の売値だったらしい。
それはそうだろう。名古屋中心部、地下鉄へは歩いて五分の場所だ。
長男の同意を得て、弁護士に近くの介護付き老人ホームを契約してもらって、そのままお金の管理をしてもらうことになったらしい。
「それがさ、旅館を建て替えたりせんと、耐震補強して、あの古い旅館のまんまで使うんだと。そういうのが流行っとるらしいんだに」
鈴子さんは楽しげに笑っているけど、寂しさを隠すことはできない。言葉の折々に「若けりゃ、ね」と口に出る。
もっと若けりゃ、旅館を手入れして耐震補強などもして、自分でやっていきたい……。
「綾ちゃん、三〇日の引っ越しトラックに乗って実家帰るの?」
「近鉄で帰ります」
「そんなら三〇日はうちへ泊まってかん? あんた、うちの旅館に泊まったことないでしょ。泊まってきゃぁ。ただで泊めたるで」
一泊二食、ただし素泊まりなので二食は外食で鈴子さんの奢りだ。
ちょっと迷って、わたしは頷いた。
「三十一日に帰る」と母に知らせたら、「うん、ゆっくりしておいで。荷物はそのまんま綾の部屋に置いといてもらうね」と言った。
はい、荷ほどきなど期待しておりませんとも。
引っ越しは無事終わり、四年間住んだ家は空っぽになった。
居酒屋「信兵衞」で熱燗の三千盛を飲みながらいろいろ注文して、一つのお皿をふたりでつついた。〆はお茶漬け。鈴子さんは海苔茶漬け、わたしは鮭茶漬け。
帰り道、雪が舞っていた。
多田旅館の庭の木々は旅館を隠すほど枝を伸ばしている。雪化粧はまだだ。
「庭師さんも歳とって仕事をやめちゃったんだ。後のことはホテル屋さんに丸投げだねぇ」
鈴子さんがそう言いながら見上げた空は薄っすら灰色で、月はなく、星はひとつも見えない。
鈴子さんと枕を並べて寝た。
旅館の電話が鳴っている。鈴子さんは寝返りをうって無視する。一〇回鳴って電話が黙った。
数秒後、鈴子さんの携帯電話が鳴り出した。さすがに鈴子さんもわたしも飛び起きた。
薄暗い常夜灯の明かりのなかで、鈴子さんの唇が「春美ちゃん」と動いた。わたしを見たまま、携帯電話に聞き入る。携帯を持つ手が震えている。
「うん、うん。わかった。すぐに長屋を見に行くワ。うん、春美ちゃんが来るまで長屋で待っとるでね。大丈夫、あったかくしてくで、心配せんでええから。あんたも気をつけるんだよ」
鈴子さんは両手で顔をごしごしして、またわたしを見た。
「電気をつけますね」わたしは蛍光灯の紐を二度引いて、部屋を明るくした。
鈴子さんが「須江さんがいなくなった」と言った。午前六時八分だった。
エアコンがつけっぱなしの部屋は暖かかった。
髪だけ梳かして外へ出た。
昨夜のままに、雪は舞う程度の降りかただが、さすがに地面は一面、白い。自転車と自動車と、人の足跡がくっきり残っている。
鈴子さんから借りた宿泊者用の長靴は雪道に頼もしい。早歩きでも滑らずに歩ける。
二人並んで長屋への道を曲がる。
「あ……」
病室で見た四輪歩行器が停まっている。薄っすらと雪がかぶっていた。
「須江さん……」
そばへ行こうとした鈴子さんの足が止まった。わたしはフリーズして動けない。見えているものが信じられない。
それはリアルで実体にしか見えない。でも、ありえない。
テレビや映画で見る、第二次世界大戦当時の「兵隊さん」の服を着て、帽子をかぶった青年と、袖丈が短い着物にもんぺをはいた二十歳そこそこの女性が並んで立っている。
若い女性は須江さんだと、はっきりわかる。須江さんの面影のままに、微笑んでいる。
二人は雪をかぶって足元に横たわる須江さんを愛おしそうに見つめて、それからわたしと鈴子さんを見た。
二人の間柄を知らしめるように、若い須江さんが青年に身体を寄せ、青年が須江さんの肩を抱いた。
雪が舞っている。
わたしたちは見合ったままそこにいた。
息をきらして、春美さんが到着した。自転車をとばして来たらしく、雪まみれだ。
「あ……」
春美さんが横たわる須江さんを見て、若い二人を見る。春美さんも動けない。
「伯母さん……。その人、木下透さん……?」
若い須江さんがうなずいた。木下さんは敬礼して帽子を取り、二人は深々とお辞儀をした。そして背中を向け、歩いていく。
舞う雪が二人を包むように、二人は舞う雪にとけこむように姿が消えていった。
春美さん、鈴子さん、わたし。ただ静かに舞う雪を見ていた。
はっとして、三人同時に携帯電話を持った。
救急車を呼ぶのは春美さんにまかせた。
救急車が来て、すぐにパトカーが来た。須江さんの息がないのはわかっていたが、救急車は病院へ運び、須江さんの死亡を確認した。
「寒いからね」とか言われて、鈴子さんと一緒に警察へ連れていかれていろいろ聞かれた。
須江さんの葬儀は一月五日。
春美さんが一枚の古い写真を見せてくれた。かしこまった須江さんと木下透さんが写っている。写真の裏には、昭和十九年一〇月 木下透 竹居須江。
写真は須江さんの胸に置かれた。
「元旦に伯母さんの家へ行ってこの写真を探したのよ。一度だけしか見たことがなかったから、見つからないかもしれないと諦め半分だったけど、鏡台の引き出しに仕舞ってあったの。桐の小箱に入れてあった」
たった一度、懐かしそうに、悲しそうに、須江さんは春美さんに写真を見せた。
須江さんは笑みを浮かべたまま、何も言わなかったのだと春美さんが言った。
「木下さん、戦死……したのかな」
誰も知らない。
noteより転載(2018/12/31擱筆)
みそかに降る雪 山田沙夜 @yamadasayo
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