【番外編】冬の話


 俺は、ばあちゃんちの隣に住んでいるのが誰なのか、今まで知ることなどなかったし、知ろうとも思っていなかったのだ。


 冬休みにばあちゃんちに預けられるのは初めてのことだった。夏休みにはよく遊びに行くのだが、冬に泊まりに行くことは今までなかった気がする。それが、今年は母さんが昔の友達と旅行に行くとかで、正月終わりの今日、俺はばあちゃんちに行くことになった。小学五年生ともなれば、もう慣れっこだ。

 電車で隣町に出向いた俺は、寄り道をせずまっすぐばあちゃんちに向かう。年末に降った雪の少し残った街には、何かと忙しそうな人々が行き交っている。正月の空気は肌に刺すように冷たかった。


 ばあちゃんちにくるのは随分と久しぶりな気がした。正面の扉から入ると、むせ返るような花の匂いに包まれる。色とりどりの花達が店内をすっかり覆い尽くしていた。

 ばあちゃん、と声をかけると、レジの奥から顔を出したその人は、まだシワの目立たない顔でにっこりと笑った。


「ユウト、いらっしゃい」


 *


 ばあちゃんの家は花屋だ。住宅街の一角で、他の家々に囲まれてひっそりと営業している。もともとは住宅街に並ぶような普通の家だったそうだが、道路に面した一室を改装してガラス張りにし、ショーケースなどを設置して花屋にしたらしい。そんな場所にあるので、常連か知り合いしか来ないような店だが、花屋をやっているばあちゃんは生き生きとしていた。

 俺はばあちゃんの手伝いで、たまに店番をする。ばあちゃんが奥の台所で家事をやっている間、レジのカウンターに座っているだけでいい。


「友達と遊びたいでしょうに、ごめんね」


 ばあちゃんはそう言うが、俺はあまり気にしていなかった。花の香りを嗅ぎながら、ゆっくりと宿題に取り組めるのは、俺的には好都合だった。



 心地よい香り、暖かい室内。だからだろう。

 気づけば俺は、意識を飛ばしていた。



 ふと目を覚ましたのは、物音がしたからだ。

 ハッとして顔を上げると、店内の入り口のあたりに人がいた。ひょろりと背が高く、黒いパーカーに黒いジーンズ、手には黒い手袋をはめた、全体的に黒っぽい男だ。狭い店内に背をかがめることもなく、すっとその場に立ち、花を眺めている。俺はその男の横顔をそっと見る。少し長めの黒い髪、ヒゲのない顔。割と若い男のようだ。俺の父さんよりも若いかもしれない。見覚えがない男だ、と思う。


 お客が来たらばあちゃんを呼ばなくてはいけないが、俺はなんとなくそれをし損ねた。その男がこちらを向く気配がなかったからでもある。もしかしたら、俺がいることに気づいていないのかもしれない。

 何を眺めているのか、と見れば、そこにはシクラメンがあった。柄の先に火が灯ったような花を咲かす、冬の花。強いピンクのもの、白いもの、その両方が混ざりあったもの。数個の植木鉢に、それぞれ綺麗な花を咲かせている。


 すると、先ほどまでじっと花を見つめていた男が、ふと花のほうに手を伸ばした。そしてピンクのシクラメンの植木鉢に手を入れ、花を一つ、摘みとった。


「な……」


 一瞬、言葉が出てこなかった。男は摘みとった花を目の前に持ち、じっと見つめている。


「何やってんだよ、あんた!」


 俺は気づいたら声を上げていた。男はゆっくりとこちらを振り返る。


「店主はいないのか」


 男は手に持った花を植木鉢の側に置くと、少し辺りを見回してからこちらを見る。俺は男の冷静さに少し戸惑いながら続けた。


「……それは、うちの商品だぞ!」

「店主はいるのかと聞いている」


 全く会話が成り立っていない。男はじっとこちらを見つめている。


「花が可哀想だとは思わないのかよ……!」


 俺が上げた声に、男は眉をピクリと動かし、少し目を細めた。


「思わないな」

「だからって……!」


 俺がさらに詰め寄ろうとした時、ガタリ、と音がして奥の部屋からばあちゃんが出てきた。


「騒がしいね、どうしたの……あら」


 ばあちゃんは店内の男に気がつくと驚いたように目を見開いた。


「あのさ、ばあちゃん、あの人が花を……」


 俺が言い終わる前に、男はとても面倒そうに大きくため息をついた。そしてばあちゃんの方に近づいた。


「花屋をやるのなら、ちゃんと見ていろ。こんなガキに任せるんじゃなく、な」


 男は変わらず冷静な様子でばあちゃんにそう言うと、くるりと向きを変え、花屋の外に出て行ってしまう。


「あ、ちょっと待て!」


 俺は男を追いかけ、外に飛び出した。

 しかし、どうしたことか……男の姿は、もうどこにも見当たらなかった。


 *


 首をかしげながら店内に戻ると、部屋から出てきたばあちゃんが、サンダルをはいて花屋の中を見回していた。


「あの人が見ていたのは、どの花?」

「え……シクラメンだよ」


 すっかり勢いを削がれた俺は、ばあちゃんに聞く。


「……ばあちゃん、あの人と知り合いなの?」

「ええ、もちろん。ずっと前からのお隣さんだよ」

「ええ!?」


 シクラメンを眺めるばあちゃんはなんでもないことのように言う。


「隣って、あのでかい家?」


 頷くばあちゃんに、俺は驚きを隠せなかった。ばあちゃんちは曲がり角に位置していて、接するように隣り合う家というのは一軒しかない。普通の家にしては大きな家で、庭にはいつも色とりどりの花が咲いている。前に若い女の人が花に水をやっているのを見たことがあった。だから、てっきりその人の家だと思っていたのだが……。しかし。


「なんであの人はこんな嫌がらせしたんだろう……」

「嫌がらせ?」

「だって、花を取っただろ」


 そう言うと、ばあちゃんはにっこりと笑って、こちらに花を見せてきた。あの男が摘みとった花、シクラメンの一房だ。


「よく見てごらん。少し先の方が枯れているでしょう」


 よく見れば、確かに花びらの先が少し色を失って茶色くなっているのがわかった。


「これは……あいつが摘んだから?」

「いいえ。あの人は、これが枯れているから摘んだのよ」


 訳がわからず首をかしげると、ばあちゃんは優しく笑った。


「シクラメンはね、枯れた花があったら摘み取らなければいけないの。それがこのお花にとって、いいことなのよ」


 枯れた花をそのままにしていると、土からの栄養が十分に他の花に行かず、綺麗に咲くことができないのだという。


「お花を綺麗に咲かせるためには、そういうこともしてあげなくちゃいけないのよ」


 じゃあ、あの男がやっていたのはそういうことだったのか……。俺のつぶやきに、ばあちゃんは頷いた。


「この頃少し忙しかったからね。ここまで見てあげられてなかったのよ。この子達に悪いことしたわ」


 そう言ってばあちゃんは花をそっと撫でた。


 *


 ばあちゃんはしばらくシクラメンに向き合い、枯れた花を取り除いていた。ぱさり、ぱさりという音が静かな店内に響く。


「俺、知らずにあの人に悪いことした……」

「そうかな」


 俺の呟きに、ばあちゃんが答える。


「うん、そうだよ」


 花が可哀想だとは思わないのか……なんて、花のことを一番わかっていないのは、俺だった。


「うん、こんなもんかな」


 シクラメンの様子を見終わったらしいばあちゃんは、ピンクの花を撫でた。そしてふと思いついたように、俺にその植木鉢を差し出した。


「ユウト、これをお隣さんに持っていってくれる?」

「……なんで俺が?」


 戸惑う俺に、ばあちゃんはにっこりと笑う。


「私はこれからもう少し他の花の様子を見てみるから。ユウトに行って欲しいんだよ。それにね」


 そこでばあちゃんは一呼吸置いて続けた。


「その時にどうにかできることは、その時やらなきゃダメなのよ。でないと、後で後悔するからね」


 そう言って、ぐい、とこちらに植木鉢を差し出した。


「知らなくて間違えたことは、ちゃんと謝れば許してくれるよ」


 ほら、と微笑むばあちゃんに、俺はおずおずと植木鉢を受け取った。


 *


 チャイムを鳴らすと、少しして先ほどの男がドアから顔をのぞかせた。


「お前か」


 男の格好はさっき見た時のものと全く同じだった。手に黒い手袋をはめているところも同じだ。

 俺は男の顔を見据えた後、深く頭を下げた。


「ごめんなさい、俺、知らなくて……」


 正直恥ずかしくて仕方がない。目をつぶって、男の次の言葉を待った。


「お前、あの花屋の息子か」


 続いたのは、意外な質問だった。俺は頭を上げる。


「……いや、孫だよ」

「……そうか」


 確かにばあちゃんの見かけは若い。勘違いするのもあり得るが……。それきり黙ってしまった男に、俺は植木鉢を差し出した。


「これ、ばあちゃんから。教えてくれてありがとうって」

「いらない」


 拒否するように返ってきた返答に、俺は戸惑う。やっぱり怒っているのだろうか。


「違う。俺は、花は嫌いなんだ」

「嘘だ」


 と、思わず口に出した。俺は振り向き、玄関前の庭を見る。そこには沢山の花が植わっていた。キキョウ、コスモス、リンドウ、キク……。時期の違う花がこんなに咲いているのは、ちゃんと管理をしているからだ。部屋の中にも、植木鉢に花が沢山植わって置いてあるのが見えた。そんな人が、花を嫌いなはずがなかった。


「ああ……」


 そう呟くと、彼はおもむろに手にはめていた黒い手袋を取った。そして庭に出てくるなり、そばに咲いていた花に手をかざす。

 その途端、その花は見る間に色をなくし、力をなくしてしまった。その花だけではない。周囲の花も影響を受けるように、次々と力をなくし、枯れていった。あっという間に,綺麗な花園が、灰色の地と化してしまった。

 信じられない光景に、俺はしばらく呆然としていた。


「あんた……何者?」


 立ち上がった男に俺は問う。


「そうだな……」


 少し考えるようにしてから、男は言う。


「俺は『死』だよ」


 ひゅうと吹いてきた冷たい風にか、俺は体を震わせた。ずっ、と顔を近づけてきた男に、俺は少し後ずさりする。


「だから、お前も殺してしまうかもしれない」


 男は、唇の端を釣り上げて笑った。


「わかったら、さっさと行くんだ」


 気づけば、俺は逃げるようにその場を後にしていた。


 *


 花屋の扉を開けると、ばあちゃんがレジの向こうで待っていた。


「ちゃんと謝れたかな」

「うん、でも……」


 ばあちゃんは、俺の手の中にある植木鉢を見て、少し困ったように笑った。


「そうだね……明日また、渡しに行ってごらん」



 ◇



 次の日の朝、やけに目が冴えて、花屋で花を眺めていると、ばあちゃんが二階から降りてきた。


「早いね。……今度はこれを持って行って」


 ばあちゃんが差し出してきたのは緑の苗が植わった植木鉢だった。おそらくシクラメンとは違う花だ。しかし、これは……。


「花が咲いてないよ」

「いいんだよ、それで」


 ばあちゃんはなんだか子供みたいに、いたずらっぽく笑った。


「絶対に渡すんだよ」


 ばあちゃんに声をかけられ、俺は隣の家へ向かった。


 *


 チャイムを鳴らす。なかなか出てこないので、チャイムを連打していると中からドタドタと音がした。

 ガチャリ、とドアが開いて、出てきたのは昨日の男だ。着ている黒いパーカーは、まさか昨日のと同じものだろうか。


「またお前か。今何時だと思ってる、朝の六時だぞ」

「六時は学校に行く時間だろ」

「……ガキは元気だな」


 あくびをしている男の手には手袋がない。頭にも少し寝癖がついているし、よほど急いで出てきたらしい。

 ともかく、俺は植木鉢を前に差し出した。


「ばあちゃんが絶対に渡せって」

「まだ諦めてないのか? いらないと言っただろうが」


 途端に目を釣り上げた男に、俺は少し怯む。


「俺に関わるな。……死にたくなかったらな」


 男は鋭い眼光でこちらを睨む。俺は後ずさりしそうになる足をどうにか押しとどめて、男の顔をまっすぐに見つめた。

 こんなことをして何になるのか、俺にはわからなかった。しかし、俺はこの男が何者なのか、知りたくなってしまったのだ。そしてそれが、これでわかるような気もしていた。

 俺が植木鉢をぐいと押し付けるようにすると、男はとても迷惑そうにしつつ、植木鉢を受け取った。


 その瞬間、植わっていた苗が動いた。

 俺はもちろん、植木鉢を持った男も、驚いたようにただそれを見守っていた。

 ピクリ、と動いた蕾はみるみるうちに頭をもたげ、次の瞬間、パッと、白い花を咲かせた。丸みのある大きな花びらが黄色いめしべを囲う、綺麗な花だ。そうしてみるみるうちに苗木にいくつもの花が開いていく。

 その美しい光景に、俺は言葉が出なかった。


「クリスマスローズ……」


 男がそう呟く。この花はそう言う名前らしい。


「はは、やってくれる」


 しばらくして、男は呆れたように笑い始めた。


「……あんた、『死』なんかじゃないじゃん」


 雲の合間から差し込んできた光に、白い花が照らされる。その花は、いっぱいに咲き誇っていた。


「だましたな!」


「……だまされるほうが悪いんだよ」


 男はそう言って笑った。


 *


「寒かったでしょう? お汁粉を食べようか」


 家に帰ると、ばあちゃんが待っていた。

 お汁粉はばあちゃんの得意料理だ。そして俺の大好物でもある。俺はお汁粉をすすりながら、ばあちゃんの話を聞いていた。


「冬は寒いけどね、その分、温かいものが美味しいでしょう? 日本は四季があるから、様々な景色が見えるのよ。春に芽生え、夏に育ち、秋に実る。そして冬は、蓄えの季節。冬がないと、他の季節も味気なくなってしまうわ。冬だっていい季節よ。そうでしょう?」


 俺は頷き、熱々の餅をくわえた。

 寒くて、多くの花が枯れてしまう冬。けど、冬もなんかいいかなって、そう思った。


 外はいつの間にか雪が降っている。積もれば、雪遊びが出来るかもしれない。餅は、案外長く伸びた。



 ◇



「ばあちゃん、雪止んだよ!」


 雪は思ったより積もらなかった。ばあちゃんちの部屋から、ふと隣の家の庭を眺める。そこには、沢山の花をつけた白い花が、一株植わっていた。



 終


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