第18話 ラウネシア
森の中を歩きながら、過去を振り返る。
植物が水不足を訴えていれば、水をやるくらいの利他的な部分はあると自負している。
それでも、同族である人、それも見知った個体の事故に対しては何も感じない。
幼少期から続くこの状態は、今でも変わらない。
ボクの共感能力は植物に対しては正常に機能したが、人間に対しては何ら機能してこなかった。
バリケードのトゲトゲ植物を抜け、内層に入る。
『カナメは、私の事をどう思っていますか』
不意に、ラウネシアが核心に触れる。
今までも好意を隠そうとしてこなかったラウネシアだが、直接こういった確認はしてこなかった。
ボク自身も、ラウネシアのそうした動きはもっと先だと考えていた。
予想外の問いかけに、反応が遅れる。
食料を依存している以上、下手な返答は出来ない。
「……今まで、植物に対しての感応能力は一方的なものでした。植物の心は読めても、植物がボクの言葉を理解することはありませんでした。ラウネシアは、ボクが初めて双方向的なコミュニケーションを可能とする植物で、特別な存在です。だから、ボクはラウネシアに肩入れする事を決めました。相手の迷い人の思考、考え方。それに対する対抗手段を、ボクは惜しみなくラウネシアに提供するつもりです」
質問の意図を理解しながらも、真っ向から答える事は避けた。
協力関係であることを強調し、それ以外の感情についての言及は避ける。
ボクの言葉に、ラウネシアは一瞬の空白を空けて、それから告げた。
『カナメ。貴方のそれが本心であることはわかります。確かに貴方は、人間と植物という種族の間に立ち、自己同一性に対して疑問を抱いている。そして、私は貴方の考える植物と人のどちらにも属さず、貴方と同じように二つの種族の境界に立った存在であり、貴方は私を特別視している。しかし、それ以上に踏み込もうとはしない。私の好意に対し、カナメは一線を引き続けている。私がそれに気がついていないとでも思っていましたか?』
対応を誤った。
背筋を嫌な汗が伝った。
周囲を覆っていた草木がなくなり、視界が開ける。
すぐ先にラウネシアの本体が見えた。
彼女の瞳と、目が合った。
『貴方が私に対し、一線を引く理由はなんですか? 種族が違うからですか? しかし、貴方は自身の種族というものに対して懐疑的になっていたはずです。そして、自分と同じように曖昧な存在を求めていた。違いますか?』
何故。
そう問われて、ボクは答えに詰まった。
種族の違い。そんなものは、どうでもいいとさえ思う。
ボクは何故、昔から夢見てきた双方向的なコミュニケーションが可能な植物体に対して、距離を置こうとしているのだろう。
『私は、魅力的ではありませんか?』
ラウネシアの手が、ゆっくりとボクに向かって伸びる。
改めてラウネシアを見ると、その整った容貌が目を引いた。
樹体から突き出るような上半身は、一糸纏わない木質化した綺麗な裸体を晒し、長い髪に隠れるように、若草色の透明な瞳が不安そうに揺れていた。
彼女の手が、ボクの頬を撫でる。
冷たくて硬い手だった。
『何故ですか? カナメ自身も、わからないのですか?』
困惑の感情が、ラウネシアから伝わる。
人に対して感じてきた異物感。
理解できないという感情。
それとは裏腹に、ラウネシアの感情は手に取るように分かる。まるで、同族のように。
そんな彼女に対して、ボクは何故、必要以上に警戒し、距離を置いているのだろう。
根源的な問いに、ボクは答えられない。
『拒否は、しないのですか?』
彼女の腕が、ボクの身体に絡みつく。
獲物を捕らえる食虫植物のように、彼女はゆっくりとボクを取り込み始める。
間近で、彼女の唇が湿っている事に気づく。
そういえば、植物も性的興奮状態にあれば、粘液を出す事もあったな、とどうでもいい事を思い出す。
次の瞬間、ボクはラウネシアに強引に引き寄せられ、彼女の硬い唇と接触していた。
間近に、彼女の瞳があった。
恐ろしく人間味のある、濡れた瞳がボクを捕らえるようにじっと開いていた。
『私は、貴方に好意を抱いています。激しい好意です。ずっと、何十年も、何百年も、ずっと、待っていた』
互いの口が塞がっていても、感応能力が彼女の心を拾い上げる。
『貴方の生存を確約します。私は、貴方の全てを肯定しましょう。私は、人間が生きる環境を整える種族的な能力を保有しています。その全てを、貴方の為に使いましょう。その代わり、貴方はその命が尽きるまで、私を愛してください。そして、二人の種を残すのです』
口の中に、彼女の舌が侵入する。
ラウネシアに舌という機構が存在することに驚き、同時に納得する。
彼女は人と生殖するために進化した種で、その模倣は完全らしい。
背中に回された彼女の腕が痛いほどに強く絡みつき、瞬きすらせず間近でボクを見つめ続ける透明な双眸に、ボクは身動き出来ず、彼女の愛情表現はどこか捕食行為のようだった。
ラウネシアは迷い込んだ人から遺伝子を取り込み、子孫を残す種族だ。
彼女は人の生存に必要な食料を創りだし、そして、人を模倣する能力に長けている。
ラウネシアの樹体は植物そのものでも、樹体から生えるラウネシアそのものは人間と呼んでも差支えが無いほどに完成されている。
彼女の唇は人のように柔らかいものではなかったけれど、人と同じように愛情を表現する彼女にボクは内心驚いていた。
反射的にラウネシアを突き飛ばそうとするも、理性がそれを制止した。
ラウネシアを拒絶することは、不利益に繋がるだろう。
いや、そもそも拒絶する必要があるのだろうか。
ボクは何故、ラウネシアを拒絶しようとしているのだろう。
何故。
その自問に、由香の顔が頭に浮かんだ。
「カナメは、本当に花が好きなんだね」
夕暮れの中、花壇の前で屈みこんでいたボクに、由香が声をかけてくる。
中学の卒業式を間近に控えた冬。
ぱらぱらと降る雪を払うように、ボクは立ち上がって彼女を見た。
「そうだ。知っているかい、カナメ。実は私にも花が咲いてるんだ。下半身の、ちょうど股の辺りなんだが」
「真面目な顔で下ネタ言うのやめない?」
呆れて言うと、彼女は肩を竦めて、それから薄暗くなった空を見上げた。
「まあ、つまり、何が言いたいかというと」
珍しく歯切れが悪く、由香は躊躇するように言った。
「その、私たち、付き合ってみないか」
ボクは由香を見つめたまま、想定外の言葉に息を止めた。
彼女は夕暮れの空を無意味に見上げたままで、ボクの答えを待っていた。
「付き合う……」
小さく反芻すると、彼女はバツが悪そうにボクを見て、それから視線を彷徨わせた。
「そう、つまり、別に、難しく感じる必要はない。あー、だから、男女の意味合いを将来的に含めるという意味で、今すぐに、という話でもなく、私はただ、いや、カナメ、君が、私に対して、少しでもそういう意味を持てるならば、私はそれだけで良いんだ」
動揺した様子を見せる由香の姿があまりにも見慣れないもので、ボクは小さく笑った。
「……少しだけ、時間をくれないかな。ちゃんと考えてから、返事を出したいから。多分、良い返事を出せる。でも、その前に一度、自分の中でしっかりと整理したい」
ボクの言葉に、由香は安堵の表情を見せる。
「……わかった。いつまでも待つ。どういう答えでも、受け止めるから」
答えは、すぐに出すつもりでいた。
由香を待たせるつもりはなかった。
でも、結果的に、そうはならなかった。
由香から告白を受けた直後、父が倒れたと連絡が入った。
脳梗塞だった。
発見が遅れて、父はそのまま生命活動を停止させた。
残されたボクは、父と離婚していた母に引き取られる事になった。
母は既に県外に住居を移していて、ボクは予定していた高校とは別の学校に通う事になった。
父の死は、想像しなかったほどの動揺をボクにもたらした。
何もする気力がなく、ぼんやりと庭の植物を眺めることしかできなかった。
暫くは、植物以外の何かとは対話をしたくなかった。
由香との関係は、そこで切れてしまった。
正式な答えを返す機会は、失われた。
彼女と再会したのは、新しい高校に入ってから数ヶ月経過した時だった。
母を介して電話があり、久しぶりに会わないか、と言われた。
彼女の家族を含め、一緒にキャンプに行こうという話になり、ボクたちはそこで再会した。
束の間の再会だった。
ボクたちは二人でキャンプ場を抜け出して、彼女と川沿いを歩いていたはずだったのに、気がつけばこんな森に迷い込んでいた。
結局、しっかりとした返事を出す事はできなかった。
それでも、帰還願望はない。
人間で溢れている人間社会。
そこにボクがいたこと自体が間違いだったのだと、今は思う。
ただ、由香に返事を出す機会が失われてしまったのが、唯一の心残りだった。
『カナメ。貴方は、私を拒絶しますか?』
ラウネシアの思考が、ボクの思考を押し流す。
拒絶。
何故。
もう、由香はいない。
ラウネシアは今まで出会った中で唯一、感応能力を双方向的に利用できる植物体だ。
ボクが心のどこかで望み続けていた存在そのもの。
この森におけるボクの生存に於いて、彼女の存在は必要不可欠なものだ。
漠然とした拒絶を続けるのはもう、止める時期なのだろう。
ボクは目の前のラウネシアを、そっと抱き返した。
途端に、ラウネシアの歓喜の感情が周囲に広がった。
『ああ……私を、受け入れてくれるのですね』
森が、ざわめいた気がした。
ラウネシアを中心に、森全体に歓喜の色が広がっていく。
森そのものが一つの生命体のように、一つの感情に支配されていく。
その変化に、ボクは恐怖にも似た感情を覚えた。
ラウネシアを抱いた腕が、小さく震えた。
あまりにも巨大な、感情の渦。
感応能力によって、これだけ巨大な感情を拾い上げるのは初めてだった。
森全体が、揺れていた。
ボクの感情と彼女の感情の境界が、薄れていく。
彼女の巨大な感情に意識が塗りつぶされていき、自己意識が希薄になるのが分かった。
曖昧になる自己認識の中、漠然とした危機感がボクを突き動かした。
「ラウネシア!」
叫ぶ。
途端に、ラウネシアの感情に変化が訪れ、森中に広がっていた一つの巨大な感情が霧散した。
全身の力が抜け、ボクはラウネシアにもたれかかるように倒れこんだ。
『カナメ?』
ラウネシアが動揺するのが、感応能力でわかった。
自然と、息が荒くなる。
気がつけば、全身が汗がぐっしょりと濡れていた。
感応能力でこれほどの巨大な感情を拾い上げたのは、初めてだった。
「……あまりにも強い感情を向けられると、感応能力の許容を超えるようです」
『ごめんなさい。カナメ。あまりにも嬉しくて、私は……』
ラウネシアの動揺が大きくなる。
先ほどの歓喜の感情ほどではないにしろ、巨大な感情だった。
感情の振れ幅が大きい。
『ああ、カナメ……』
ラウネシアが、再び身体をすり寄せてくる。
それに伴い、甘い香りがした。
甘ったるい香りと、ラウネシアの腕がボクに絡みつく。
食虫植物のウツボカズラに捕食された、ハエの姿が脳裡をよぎった。
今のボクはそれと大差ないかもしれない。
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