第17話 ショウイダン

「由香、一体どこまで行くの?」

 山の中、軽装でずんずん進んでいく由香をボクは追っていた。

「もう少しだよ。面白いものが見れる」

 由香は妖しい笑みを浮かべて、それ以上の説明はしなかった。

 不意に、由香が立ち止まる。

 彼女はその場で屈みこむと、ほら、と地面を指さした。

「猪の糞だ。新しい」

 近づくと、確かに猪らしい糞があった。

 鹿の小さく硬い糞と違い、猪の糞は区別がつきやすい。

 ボクは警戒するように周囲を見渡した。

「大人の猪だ」

 由香は立ち上がって再び山の中を進み始めた。

「もうすぐだ」

「ここは彼らの縄張りだ。不用意に立ち入るべきじゃない」

 ボクが警告すると、彼女は嗤った。

「先客がいるんだ。ここ最近、違法猟をやってる奴がいる」

 由香が何を考えているのか、ボクには分からなかった。

 樹々の間を抜けると、物音がした。

 反射的に足を止める。

 ボクは由香をちらりと見てから、独断で笛を吹いた。

 獣と間違えて撃たれたら堪らない。

 ボクの心配を打ち消すように、由香が軽い調子で言う。

「大丈夫だよ」

 由香は奥へ足を踏み入れた。

 つん、と獣の臭いが鼻をついた。

 同時に、何かが飛び込んできた。

 猪だった。

 巨大な質量と鋭利な牙がすぐそこまで迫っていた。

「由香!」

 反射的に由香の身体を引っ張って、地面に倒れ込む。

 受け身を取ると同時に、眼前まで迫っていた猪は動きを止めていた。

「カナメ、今のは良い動きだった。しかし、早とちりだよ。注意が足りていないな」

 ボクの腕の中で由香はおかしそうに笑った。

 それから立ち上がって土を叩く。

「あの猪はあそこから動けない。罠を踏んだ可哀想な子だよ」

 由香の言う通り、猪の足にはロープが絡まっていた。

 それでも、罠の可動範囲ならば自由に動く事ができる。

 猪は警戒するように一度距離をとって、こちらを威嚇していた。

「……猟期は、まだだよね」

「ああ、違法猟だ。前々からこの山を巡回してる奴がいるんだ。腕は良いね。私達みたいな遊びでやってるわけじゃない、プロの猟師だ」

 ボクは猪の動きに注意を払いながら、それで、と由香に問いを投げかけた。

「どうするの? 散弾銃はもちろん、空気銃だって持ってないよ。まさか、逃がすわけじゃないよね」

 由香はクスクスと笑って、バックパックを地面に下ろした。

 そして、中から空き缶を取り出した。

「カナメ、知っているかい」

 彼女は手慣れた手付きで、それに刺さっていた銅板を抜き取った。

「私達が普段、何気なくコーヒーに入れる砂糖」

 空き缶から不可解な音が響いた。

 嫌な音だった。

「それは、こんなにも恐ろしいものになりうるんだ」

 ひゅ、と彼女は鮮やかなサイドスローでそれを猪に向かって放り投げた。

 次の瞬間、激しい轟音とともに空き缶が炸裂した。

 閃光。

 激しい音で平衡感覚が失われる。

 咄嗟の事に身が竦み、身体の自由が奪われた。

 呆然とするボクの耳に、猪の悲鳴じみた鳴き声が轟いた。

 全ては一瞬だった。

 由香が放った空き缶は爆発を起こし、猪の半身を吹き飛ばしていた。

「ねえ、カナメ。資格や申請が煩わしい散弾銃なんていらないんだよ。身近なものと、ちょっとした知識。それだけで、格上の生物を殺す事ができる」

 焼けた臭いが、鼻をついた。

 赤色の肉片が、緑色の自然と対照的なコントラストを描いていた。

「必要なのは、目的と動機だ。それだけで全てが変わる。必要なのは、本当にそれだけだ。システムは強大で、あるいは、とても脆い。そして、カナメ。システムが巨大化するほど、そのセキュリティは脆くなる。私の言っている意味が、わかるよね。カナメ」

 周囲にへばりついた肉片を背景に、由香は目を輝かせる。

 その双眸の向こうには、肥大化して内部から食い破ろうとするような破壊衝動が蠢いていた。

 義務教育中の最後の秋。

 彼女はついに、その破壊衝動を哺乳類に向けた。




 焼夷弾が、落ちてくる。

 放物線を描く焼夷弾の向こうで、飛行生物に乗ってボクたちを見下ろす影が笑った気がした。

「ラウネシア! 撃ち落としてください!」

 ボクが叫ぶより早く、周囲の樹木が一斉に反応した。

 焼夷弾一つを撃ち落とすために、一斉砲撃が始まる。

 轟音がつんざき、空間が波打った。

 凄まじい量の木の実が上空へ投射され、中空で爆発を引き起こす。

 燃える欠片が、森中に散らばっていった。

「また来ます!」

 飛行生物の背上で黒い影が立ち上がり、ワイヤーのようなものを振り回し始める。

 まずい。

 一方的な攻撃を許してしまっている。

『カナメ、避難してください』

 ラウネシアの声とともに、頭上から甲高い音を立てて焼夷弾が降ってくるのが見えた。

 砲撃の雨を抜けて、燃え盛る焼夷弾が森に着弾する。

 強い爆発音とともに、火柱があがった。

 僅か数十メートル先だった。

 急いで駆け寄り、火の手を確認する。

 散らばった中の燃料が激しい炎上を起こしていたが、森に燃え移る様子はなかった。

 ラウネシアの森は、耐燃性を有している。

 軍蟲が持ち込んだ寄生植物はライターで炙っただけで簡単に燃え上がったが、ラウネシアの隷下にある植物たちは改良を受けていて滅多に燃えることはない。

 軍蟲の文明レベルでは、森中に延焼させる事は難しそうだった。

 それを目の当たりにし、思わず安堵する。

 上空を見上げると、黒い影を乗せた蜻蛉は戦果を確認するように旋回を続けていた。

 やがて森に延焼する様子がないことを見届けると、上空の影はすぐに反転した。

 残った軍勢を無視して蜻蛉型の飛行生物が引き上げていく。

 危ないところだった。

 もしこの森が耐燃性を有していなければ、ただ一度の侵攻で既にラウネシアは陥落していたかもしれなかった。

『今のが、新たな指揮官ですか』

 ラウネシアの声。

「多分、そうです」

 死すら恐れぬ突撃を見せる軍蟲と違い、蜻蛉に乗っていた影は冷静に状況を観察して後退していった。

 支配層に君臨している迷い人と見て間違いない。

『想定外の事態ではありましたが、やはり軍蟲は脅威ではありません』

 見ると、既に戦いは終結しつつあった。

 指揮官を失った軍蟲は統率を失い、圧倒的な投射量の前に倒れていく。

『カナメ。何も心配はいりません。カナメは私が守ってみせます』

 ラウネシアの熱の籠もった感情が届く。

 ボクは頷くことしか出来なかった。

 砲撃音に背を向け、ラウネシア本体に向けて歩き出す。

 これ以上ラウネシアの虐殺を見る必要はない。

『カナメ』

 歩いている間にも、ラウネシアが点在樹を介してボクに語りかけてくる。

『敵の指揮官に相当する何かは、迷い人だと推測しましたね』

 あの最適化は、ありえないものだった。

 迷い人が何らかの形で介入しているのは間違いない。

『もし敵が同郷の人間であったとしても、カナメは私を裏切りませんか?』

 ボクは思わず足を止めた。

 それから一拍置いて、はい、と頷く。

「ラウネシア。人は人に対して慈しみ、愛し合う力があると言われています」

 自然と言葉が飛び出した。

「でも、ボクはその力を持って生まれなかった。どこかに置き去りにしてしまった」

 脳裡に、由香の言葉がリフレインする。


「ねえ、カナメ。君は人間に対して一種のディスコミュニケーションを引き起こしている。植物の心を直接読み取れるという特性が、君と植物を近づけた。でも、人の心は読めない。その差異が、人に対しての共感能力を著しく低下させている」


 由香の言う通りだった。

 ボクは同族の人間に対して、共感性を著しく欠いている。

「その代わり、ボクは植物の心を読み取る事ができました」

 幼い頃からずっと、ボクは植物の心に触れて育ってきた。

 植物はボクの空虚な心を埋めてくれる大切な存在だった。

「ずっと、植物だけの世界を夢想してきました」

 自然に言葉が繋がった。

「だから、帰還願望はありません。あの世界は、ボクがいるべき世界ではなかったのだと思います。同族に対して特別な感情はありません。ラウネシアに最後まで付き合うつもりです」

 点在樹から驚きの感情が届く。

『カナメは、自分を人間ではなく植物に近しい存在と定儀づけているわけですか』

 その問いに、すぐに答える事ができなかった。

 ただ、頷いた。

「そうかもしれません」

 人と植物の違いは、何なのだろう。

 その境界は一体どこにあるのだろうか。

 細胞壁の有無?

 葉緑体の有無?

 あるいは総体としての死、という概念の違いだろうか。

 過去に何度も考え、そして、結論が出なかった問いだった。

 ボクは本当に、人間なのだろうか。



 

「先輩は、本当に植物が好きなんですね」

 中学三年生の夏。

 園芸部の後輩から、そんな言葉をかけられた。

 雑草に水をやっていたボクは、その言葉に思わず振り返った。

「先輩は、花壇とか野草とか、そういう事を全く意識してませんよね」

 ボクは手を止めると、じっと後輩の顔を見つめた。

「きみは、花壇に生えているからという理由で花に水をやるの?」

「え、いえ、あの、それ以外までは責任を持てないな、と思って」

 責任。

 奇妙な話だ、と思った。

 それを望む声が聞こえるからやっているだけだ。

 植物に責任を求められて、花壇の世話をしているわけではない。

 ただ猛暑によって水分が不足し、葉温が上昇してしまっていた。

 タンパク質で構成されてる以上、過ぎた熱は毒になる。

 だから水やりをしているだけに過ぎない。

「あの、先輩は、どの高校を受験されるんですか?」

 緊張した様子で、後輩が言う。

「第一志望は東かな。一番経済的だしね」

「……意外です。先輩は、もっと上を目指すんだと思っていました」

「それは、買いかぶりすぎじゃないかな」

 水やりを再開する。

 猛暑の中、跳ねる水しぶきが心地良かった。

「先輩は、そこでも園芸を続けられるおつもりですか?」

「どうかな。学内の活動にこだわるつもりはないし、家の庭でも出来る事だからね」

「お父さんが、植物学者なんですよね。すごいです」

「うん。その影響が強いかもしれない」

 ボクは雑談を続けながら、順番に水をやっていく。

 後輩は、ボクの後を追いながら話を続けた。

「珍しい植物とか、お庭にあるんですか?」

「国内では珍しいものも多いよ。管理が難しいみたいだけど、父がよく見てるから」

「あの、先輩」

 不意に、どこか力が入った声で後輩が言う。

「私、あの、今度、先輩のお庭を見せてもらってもいいですか?」

 意外な言葉に、ボクは水やりをしていた手を止めた。

 水をやっていた野草から目を離し、後輩の方を見る。

 その時、彼女の後ろから影が姿を現した。

「カナメ、後輩に手を出すのは感心しないよ」

 由香だった。

 後輩の背後から現れた彼女は、後輩の肩を軽く叩くと申し訳なさそうに言った。

「ちょっと外してもらっていいかな? カナメと話があるんだ」

「え、あ、はい」

 突然現れた上級生に、後輩は頭を下げるとすぐにその場を離れていった。

 怪訝な顔をするボクに、由香が困ったように言う。

「カナメは、東を受験するのか」

「今のところは。由香はもう決めたの?」

 由香は少し悩むような素振りを見せた後、悪戯っぽく笑った。

「そうだね。カナメと同じところ、という風に答えておこう」

「……県外には行かないんだ」

「最終学歴以外はどうでもいいし、環境に左右されるほど脆弱ではないつもりだよ」

「ある程度の、コネ作りにはなる」

「どうでもいいよ。学閥なんて今時流行らない。それに、そんなものが必要な環境に入るつもりもない」

 それから、由香は面白そうに笑った。

「私はね、君と遊んでいる時が一番楽しいんだ。特異だよ、君は。お受験用の勉強が出来る奴なんていくらでもいる。でも、君はそういう分類からは一線を画している」

 だから、と由香は言葉を続ける。

「私は当分、キミと遊ぶ時間が欲しいと思っている」

「例えば、違法猟で捕まっている猪を実験に使う遊びとか?」

 水やりを止めて、嫌味を言う。

 由香に嫌味は通じないらしい。彼女は面白そうに笑うだけで、反省する様子は微塵も見せなかった。

「そうだよ。キミ以外では、あんな遊び出来ないからね」

「あまり趣味の良い遊びじゃない」

「カナメ、キミはそうやって忠告する振りをするけど、本気で嫌がったり、嫌悪感を覚えている訳ではない。そうだろう? そうするのが普通だと思ったから、身につけた常識に従って普通に振舞っているだけだ。心の中では、全てがどうでもいいと思っている。違うかな」

 ボクは何も答えなかった。

 由香を相手に嘘をつく必要もなかったし、かと言って肯定する必要もないように思えた。

「まあいい。後、一つ、確認だ。カナメはあの後輩と仲が良いのかい?」

「特には。園芸部員として以外は、交流もないよ」

 由香は、そうか、とだけ言うと、踵を返して背を向けた。

 気まぐれに話しかけてきて、気まぐれに帰る。

 由香には良くあることで、ボクは特に気に留めず水やりを再開した。

 その後日、後輩が階段から転落して入院したと顧問から話があった。

 ボクの心は、当然のように何も動かなかった。

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