人を呪わば

街々かえる

人を呪わば


 まったく、ついていない。

 

 朝確かにそこに置いたはずの自転車がなくなっていることを確認した俺は文字通り頭を抱えた。鍵もかけていたはずなのに、怒りを通り越して自分の運のなさに呆れてしまう。


 ここ数日、運の悪いことばかりだ。

 昨日はバイトで皿を割ってしまうし、一昨日は新品のシャツに鳥のフンをかけられた。今日盗まれた自転車は、三日前にパンクしてタイヤ交換したばかりのものである。まあ自分のせいという場合もあるのだが、それにしたって悪いことが起こりすぎだ。

 だからバイトの帰り道、全くもって信心深くない俺が偶然通りがかった神社に寄るなんてことをしたのは仕方のないことだろう。『困ったときの神頼み』なんて、そんなことで解決されるはずはないと思っていたのだが。


 拝殿の前でパンパン、と手を叩き、どこにいるかも分からない神に祈る。くだらないこと、と思いつつ賽銭に五十円も奮発してしまう俺は半ばやけになっていたのかもしれない。

 拝殿に背を向け帰ろうとしたその時、声をかけられた。


「お兄さん、落としましたよ」


 背後に立ったその男性に、俺は声を掛けられるまで気が付かなかった。男性は濃い紫色の袴を履き、にこにことこちらに笑いかけている。この神社の関係者だろうか。神主だと言われれば納得できるような感じがした。

 男性がこちらに差し出した掌には百円玉が一枚乗っていた。


「……ああ、ありがとうございます」


 賽銭を取り出した時、財布から零れ落ちてしまったのかもしれない。全く気が付かなかったが。やはりついていない。

 リュックから愛用の長財布を取り出し、小銭入れを開く。そこでおや、と思い当たった。財布の百円玉はちょうど今日自販機で使い切ってしまったのではなかったか。


「あの、それ俺のじゃないかも……」


 俺は最後まで言うことができなかった。目の前の男性が俺の財布から千円札を抜き取ったからだ。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。ようやく状況を理解できたのは、男の手に、俺の財布にあったはずの千円札が一枚あるのを見た時だ。


「……え、ちょっと? 何やってんですか?」

「ああ、失礼。少し気になったもので」


 男は俺の言葉も意に介さない様子で、千円札をまじまじと見つめている。


「この千円札、少し貸してくださいね」

「は? ……いや、何言ってんですか?」


 返してください、と俺は右手を出し要求するが男は人差し指と中指で挟んだ千円札を手放そうとはしない。なんなんだこいつは。神主と見せかけた不審者だったのだろうか。だとしたらこんな奴に引っかかってしまうなどやはりついていない。


「まあまあ」


 男は依然としてにこにこと笑いながらこちらに問いかけた。


「貴方は呪いの存在を信じますか?」

「……はあ?」


 ノロイ……呪い? やはり怪しい気配しかしない。宗教の勧誘とかだろうか。


「あの、そういうの興味ないんで、返してくれませんか」

「いえ、決して怪しい宗教などではありませんよ。私はこの神社の関係者です。……あなたのためを思って言っているのです」

「……あんまりしつこいと警察を呼びますよ」


 俺がポケットから携帯を取り出すと、男は目に見えて焦った。しかし、千円札を返すそぶりは見せない。


「いやいや、少し待ってください。……最近、予定外の出費が多くあるのではないですか?」

「……は?」


 俺は一一〇番を打ち込む手を止めた。

 確かに、最近予定外の出費は多い。自転車のパンクの修理にシャツのクリーニング、皿の弁償。自転車は通学に必要だから、いずれ買わなければならない。一人暮らしの大学生にとっては痛い出費だった。

 俺がいぶかしげに男を睨むと、何故か納得したようにうんうんと頷いている。


「やはりそうでしたか……。しかしまだ呪いの力は弱い、心配しなくても大丈夫です」

「……ちょっと待ってください、さっきから呪いとかなんとか……なんなんですか?」


 若干苛立ち交じりにそう言うと、男は打って変わって真面目な顔をして、こう言い放った。


「貴方、呪われてるんですよ」





「…………はあ?」


「信じていませんね?」


 そりゃそうだろう。突然怪しい男に、貴方は呪われています、と言われて信じるわけがない。俺が眉をひそめていると、男はまたひとりで納得するように頷く。


「そうでしょうね。しかし、呪いは案外簡単にかけることが出来てしまうんです。……私たちのすぐ近くに存在しているんですよ。気づかないだけでね」


 そう言うと男は指に挟んだ千円札を掲げて見せる。


「貴方の場合は、この千円札が原因ですね」

「……はあ。……その千円札に呪いがかかっていた、とでも言うんですか」

「ええ、その通りです」


 冗談交じりに言えば、当然とでも言うように返してくるので困惑してしまう。


「呪いがかけられたこの千円札を持っていたために、貴方にも影響が出たのでしょう」


 つまり俺がその呪われた千円札を持っていたがために、出費につながるようなこと……不運が次々起こっていたと言うのだ。


「……俺はそんな、その千円札が呪われてるなんてちっとも知りませんでしたけど」

「人はこういった、物に込められた他人の悪意を敏感に感じ取ることが出来てしまうんです。厄介なことにね。……暗示をかけられた状態、とでも言えば分かりやすいでしょうか?」

「俺の知らないうちに、呪いにかけられていた、と?」

「呪いとはすなわち人の思いの塊……人の思いも強くなれば他人に影響を与えるんです」





 にわかには信じがたいことだった。俺が呪われている? しかもその原因は千円札? 本当にそんなことがあるだろうか。


「……じゃあ、俺が誰かに恨まれてて、それでその誰かに呪われてるってことですか」

「いえ、そういうわけではありません。狙った相手はわかりませんが、このお札に誰かが呪いをかけていた、というだけのこと。お札、特に千円札は多くの人の手を渡りますからね。たまにハズレを引いてもおかしくない」


 男はそう言いつつ指に挟んだ千円札をひらひらと振って見せる。千円札には真ん中に濃く折れ目がついており、ずいぶん多くの人の手を渡ってきたのだろうと思われた。


「お金にはよく、呪った相手を散財させるような呪いがかけられるんです。少し念じただけでかけることができ、それで効果は抜群ですから、たちが悪い。……貴方の財布から酷い邪気を感じたのでね、少し確かめさせてもらいましたが、よかったですよ」

「ジャキ?」

「……いえ、こちらの話です」


 神主は千円札を眺めながら独り言を言うように話していたが、ふとこちらを向くと笑顔を作る。


「しかし、貴方は運がいい」

「え?」

「私のいるときにこの神社に来たのは幸運でしたよ。これはこちらでお祓いしておきます。なに、祓いさえすればただの千円札ですよ」


 呪い。いきなりそんなものの存在を知らされて、素直に信じることはできなかった。しかし、最近の運の悪さを考えると、どこか納得してしまう自分もいることは確かだ。

 落ちかけた陽が辺りを濃いオレンジに染めている。燃えるような光の中、男の手の中の千円札からどす黒い煙が立ち上ったような気がして、背筋に何かが這うような、ぞくりとした感覚を覚えた。


「帰ります」


 リュックを背負い直し男に背を向けた。一刻も早くここから立ち去りたい気分だった。


「そうですか。……ああ、お金は、どうします。今すぐ邪気を祓って差し上げることもできますが」

「そんな気味の悪いもの、いりませんよ。好きにしてください」


 俺は返答を待たず鳥居に向かって歩き始めた。


「わかりました、ではこちらで処理しておきます」


 男の声はそれ以降聞こえてこなかった。

 俺は帰る途中一度も振り返らず、まっすぐ家へ向かった。金輪際この神社に来ることはないだろう、そう心に誓って。





 それから数日後、盗まれた自転車が戻ってきた。元の場所に何事もなかったかのように置いてあったのだ。呪いが解けたおかげ、と考えるのは自分でも馬鹿らしかったが、そう思う自分がいるのも確かだった。そしてそれ以来、特別運が悪い、と思うこともなくなった。


 本当に呪いはあるのか。ここ最近そればかりが頭の中を占めている。

 自分に呪いをかけたあの千円札の元の持ち主を恨むと同時に、こんなことを考えるようになった。本当にあの時、俺が呪いにかけられたとするなら、俺が人に呪いをかけることも可能なのではないか。

 気付けば財布を手にしていた。確かあのうさん臭い男は少し念じれば呪いはかかると言っていた。中から千円札を取り出し目の前に掲げる。

 呪いたいほど憎んでいる人物がいるわけではない。しかし、興味が先に立った。俺の呪いで誰かが不幸になる。それはババ抜きでジョーカーを隣に引かせる感覚に近かった。

 好奇心と負の感情の中で、俺は自分が薄ら笑いを浮かべていることに気が付けなかった。





「人を呪わば……」


 リュックを背負った若者の後ろ姿が見えなくなったのを確認し、紫色の袴を履いた神主は一人つぶやいた。


「まあ、いいとしましょうか……」


 その時背後からくすくすと笑う声が聞こえた。


「みーちゃった!」


 からかうような声にため息をつきながら振り向くと、拝殿の陰から背丈の小さな、つり目の少女が飛び出した。


「いけないんだ! 神主様、またお客さんからお金を巻き上げてる!」

「何を言うんです。これは彼の意志で私に託していったものですよ。だからこれは正当な報酬と言えます」


 千円札を懐に入れ、生真面目に答えるが、少女はいまだからかうようにくすくすと笑う。

 所持品に邪気をまとわせてくる参拝客はずいぶん前から存在していた。昔は呪いの存在を知っている者も多かったから、自ら相談してくる客も多く、対処はたやすかった。しかし最近は呪いなど信じないし、自分が呪いにかかっていることに気付くことのできる人間も少ない。

 呪いは人の手を渡るたびに人の思いを吸収し、増幅する。その分効力を増した呪いは人に大きな災いをもたらす。……それを防ぐために、その効力が小さいうちに処理しようとしているのだ。


「ほんとにその人のためを思ってるんなら、呪いだ、なんて言わなければいいのに!」

「……ああ、確かにその通りですね」


 少女の言っていることはもっともだった。人間は呪いが存在することを知ると、かけられることを恐れると同時に、自分でもかけてみたくなる。呪いである、ということを伝えることでそういう加害者側を増やしていることは否めなかった。


「しかし、かけられる側に呪いであることを意識してもらわなければ、縁が断ち切れませんし」


 拝殿の軒下に入った男は人のいない境内を眺める。その目はどこか憂いを含んでいるように見えた。


「……それに、私は後のことにまで関与できませんからね。人を呪えばどうなるか……そのくらい誰にでも分かるでしょう」


 

『人を呪わば穴二つ』。

 人を呪ったら、その分だけ自分にも災いが降りかかる。彼は常々その言葉を参拝客に話していたが、最近はそれもすっかりしなくなってしまった。それは彼が、人はどれほど忠告しても他人を呪うことをやめられないものなのだと、気付いてしまったからなのかもしれなかった。



「ふうーん……ねえねえ、今回も祓ってあげようか?」


 狐のような目の少女は、笑顔を消した神主の男の顔を見上げ、笑いかけた。


「大丈夫ですよ、今回のはそんなに強くありませんでしたから」

「なんだ、つまらないなあー」


 瞬時にいつもの柔らかな笑顔に戻った男の返答に、少女は頬を膨らませる。


「そうですね、今回の千円で油揚げを買ってあげますから。また困ったときは力を貸してください」

「わーい!『わいろ』、だね! 神主様、わるーい!」

「な、それは少し違うのではないですか?」


 拝殿の軒下、男と少女は笑う。

 人の思いが呪いを生み出し、人に災いをもたらす。それを知りながら人を助けてしまう彼は、やはり人間のことが好きなのだ。たとえそれがさらなる呪いを生み出すことになろうとも、呪いをかけられている人を放っておくことができないのである。

 辺りを橙色に染めていた陽は山の向こうに隠れ、闇が周囲を包んでいく。

 そして明日も、彼は誰かに声をかけることだろう。



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