三節 大要塞ネルガル陥落(弐)

 アルーノ・リーベル河の向こう岸に大要塞ネルガルが見える位置である。

「飛び道具持ちは厄介だ。先に死んでもらったぜ。恨んでもいいが悪く思ってくれるなよ。刃物ヤッパを振り回すくらいしか能がねェ。それが、この俺という男の人生でな――」

 戦場の伝説が唸りを上げた。

「――とか何とかなあ。こんな遠くで大見栄を切っても敵さんには、まあ、全然聞こえねェよな。俺の刃は殺気の出元へ必ず届くが、声のほうはどうやっても届かねェ。この脅しで素直に要塞を通してもらえると面倒が省けて、ありがたいんだが――」

 ボヤいた戦場の伝説が――ツクシが老い始めた顔を歪めた。顔を歪めると眼尻や口の脇にあるシワが深くなる。要塞にいる敵が放った殺しの兆し。これに反撃する形でツクシは右手の先にある魔刀の刃をお互いの間にある時間と空間を省いて飛ばした。しかし今は要塞の方面から飛んでくる殺気がない。殺気の出元を狙って刃の出現座標を特定する真・零秒斬撃はもう飛ばせない。

「ああ、奴らビビって跳ね橋を上げ始めやがったぞ。クソッ、根性なしどもめ、計算違いだ――」

 ツクシがうつむいた。要塞から迫り出した跳ね橋は使えないとなると、アルーノ・リーベル河を泳いで渡らなければならない。中流とはいってもグリフォニア大陸の東部地方では長さ幅共に最も巨大なアルーノ・リーベル河は、おじいちゃんが泳いで渡るには少々厳しい河幅がある。

 無理である。

「どうも、これは逆効果だったな。こっそり行ったほうが良かったのか――?」

 ツクシは魔刀を鞘へへろへろ帰した。超遠距離から一方的な斬殺を見せられたら、敵は心底萎縮して当然だ。しかし、加齢で頭が鈍くなりつつある(元々鋭くもない)ツクシは、そんなこともわからない。考えるのも面倒くさい。カントレイア世界の大戦乱に巻き込まれ、そのなかで斬ったはったを繰り返すうち、ツクシは還暦にあと一歩で届く年齢になっていた。

「んはぁあ――んあぁあ?」

 ツクシは背嚢を拾い上げながら間延びしたジジイっぽい呻き声を上げた。要塞とは逆の方向――南方の遠くで土煙が上がっている。ツクシが目を凝らすと何らかの集団が騎乗生物に乗って向かってくる様子だ。

「また、フェデルマが追手を差し向けたのか。あの女、細かいことに逐一うるさいからな――」

 渋面のツクシはそのまま南を見つめた。この南方に設営された前線基地――南北大陸連合軍総司令本部から黙って抜け出してきたツクシは、えっちらおっちら一人で歩いて最前線までやってきた。ワン・マン・アーミーとして、今や戦場の伝説と化しているツクシは、タラリオン共和国に籍を置く軍人の立場にある。階級は共和国陸軍特務大佐である。タラリオン共和国軍の経理部から給金だって毎月貰っている。しかし、給料をもらっても、ツクシは司令部の命令を一切、聞かない。であるから、敵には逃げ回られ、味方から追い回されるのが戦場の常になっていた。

 連合軍総司令官フェデルマの命令は、

「十分な戦力が集結するまで全軍は前線より南で待機せよ」

 とのことであったので、まあ、当然――。


「――おおう」

 ツクシは目を見開いた。南からやってきたのはフェザー・ラプトル騎兵隊だ。フェザー・ラプトルはウビ・チテム大森林に生息する小型の肉食恐竜で、かなり獰猛な生き物である。これを乗りこなせる種族はカントレイア世界でも極限られる。フェザー・ラプトルに騎乗できるのは、この肉食恐竜同様に屈強な野生力を持つ――。

「――ゲロゲロゲッ!」

 フェザー・ラプトルの上にいた、金色で縁取られた豪華な黒革鎧を着込み、深緑色のマントを背になびかせた、ド偉そうなヒト型大トカゲ――リザードマン族の男が上へ飛んだ。手足としっぽをピンと伸ばしてものすごい跳躍力である。

 ツクシは高々と舞い上がった偉そうなトカゲ野郎を憮然と眺めていた。

 眺めているうちに着地したヒト型大トカゲは綺麗な土下座の姿勢を作って、

「ゲロロ! 師匠、ご無沙汰しておりました。何のお変わりもなく!」

 ツクシの足元で土下座をしているのは、リザードマン戦士国は北夷討伐軍集団を率いる将軍ゲッコ・ヤドック・ドゥルジナスである。

「ゲゲ、ゲッコ大兄、この御方が例の――」

「ゲロゲ、この御方が、ゲッコ大兄の御師匠、聖戦士パラディンクジョー・ツクシ――」

 土下座のゲッコの後ろだ。

 フェザー・ラプトルの上にいたリザードマン戦士の二人が呻き声を上げた。

「おう、ゲッコ、三年振りくらいか。見るからに元気そうだな。何だ何だ、ゲッコ大兄だと? じゃあ、そっちのトカゲ二人は話に聞いていたお前の弟かよ。北大陸くんだりまで遥々はるばるつれてきたんだな。お前らは本当にいくさが好きだよなあ――あとな、会うたびに土下座は、そろそろやめてく――」

 ツクシは口角を歪めて語りかけたが、地に平伏したゲッコは顔を上げない。その肩がぶるぶる震えている。師匠との再会に感動している様子である。

「ゲッ、ゲッゲロゲロゲロッ、聖戦士パラディン殿!」

 一斉にトカゲが鳴いた。

「あのな、お前らまで揃って――」

 ツクシが顔を歪めた。ゲッコに追随してきた千名余のフェザー・ラプトル騎兵が一斉に下馬して土下座である。

「おい、ゲッコ。まだ南から何か来るぜ。お前ら、何をつれてきた?」

 顔を歪めたままツクシが訊くと、

「ゲロ、もう追いつかれたか!」

 ゲッコが南へ視線を送って殺気立った。

 フェザー・ラプトル騎兵隊に続いてツクシを追ってきたのは、ウビ・チテム・大オオカミの背に跨った緑鬼の集団だった。これも総勢で千名余。鬼の金棒のようなポール・アームを背負って、巨体から盛り上がる筋肉の上へ銀色の装甲鎧を被せている。

 グリーン・オーク共和国軍の装甲騎兵部隊だ。

 大オオカミに騎乗したまま、背の黒マントをなびかせて進み出た、一際派手な武装の――黄金の装甲鎧姿の女戦士が装甲兜の面当てを引き上げて鬼の笑顔を見せると、

「久しいねえ、ツクシ。元気そうじゃないかい!」

「女将さんか! 何年か振りになるな。お互い年齢としを取ったよなあ――と、いいたいがな。女将さんは昔と変わらず若く見えるぞ。まったく、羨ましい限りだ――」

 ツクシは老いぼれた感じの動作で視線を落とした。グリーン・オーク族はヒト族より長く生きるので、エイダの容姿はゴルゴダ酒場宿の女将をやっていた頃とほとんど変わらない。

「ぶわっははははっ! ――でも、トカゲ野郎に先を越されるくらいだからねえ。あたしもヤキが回ったもんだよねえ!」

 肩を揺らして大笑していたエイダが表情を消してゲッコへ視線を送った。

「ゲッゲッゲッ!」

 ゲッコは不敵に笑ってエイダへ視線を返した。リザードマン戦士国も南北大陸連合軍に参加しているので、同様に連合へ参加を表明したグリーン・オーク共和国と同盟の間柄になった。ただまあ、この両国は長い間いがみ合いを続けてきた。お互いにある恨みが完全に消え去ったわけでもないようだ。

 ツクシが本格的な睨み合いを始めたエイダとゲッコを眺めていると、

「――ツクシ!」

 今度は軽やかな女の声である。

「おう、ミュカレも来ていたのか。お前はいつ見ても若いよな――」

 ツクシは呆れ顔だ。戦装束バトル・ドレス姿のミュカレが白馬の上で微笑んでいる。その後ろにはエルフォネシア連邦軍の騎馬弓隊五百騎が控えていた。エルフ族特有の男女比率の問題で女性兵士が圧倒的に多い。揃ってみんな人外の美形である。

「――ツクシ」

 遅れて声をかけたのは、月毛の馬クーサリオン・セカンドに跨った、数少ないエルフ族の男性だった。ツクシにも見覚えがある赤い弓――狙撃手の長弓スナイパー・ロングボウを背負っている。

「カルロさん、何年振りになる?」

 ツクシが目を見開いた。

「何年振りか数えるのも面倒だ。エルフ族は嫌になるほど長く生きる――」

 カルロは少しだけの笑みで旧友との再会を喜んだ。

「ツクシ、エルフォネシア連邦北部方面騎馬弓隊も、今から貴方のエンネアデス退治に参加するわ」

 ミュカレがいうと背後に控えていたエルフの戦士が一斉に頷いた。

「へえ、エルフどももかよ。連合軍総司令――フェデルマの話じゃあ、エルフォネシア連邦は北大陸まで援軍を出すのを随分と渋ってたって話だったが――しかし、呆れるほどいい女ばかりだな。これを全部、相手にするとなると、俺一人の子種袋じゃあ、とてもじゃないが足りそうにねェぜ――」

 ツクシが馬上にいる美貌の戦士を見回した。前述の通り女性の美人が多いのだ。ツクシは目移りしている。

「私に任された手勢だけを上層部うえの許可なしで引っ張ってきたの。本国ではきっと大騒ぎね」

 ミュカレは苦笑いだ。

「今のお前の立場は、エルフォネシア連邦陸海軍参謀に加えて、外務大臣も兼任中なんだろ。そんないい加減でいいのか?」

 ツクシは眉根を寄せた。

「あのとき、私たちのゴルゴダ酒場宿を、王都と一緒に燃やしてくれちゃったじゃない。エンネアデス魔帝国、絶対に許せないから――」

 ミュカレの瞳が殺気でまっ平らになった。

「俺がミュカレに同伴を申し出たのも、個人的な復讐が動機だ――」

 大要塞ネルガルへ視線を送ったカルロである。

 タラリオンの王都が陥落したあの日。

 ネストへ避難する王都の民で溢れた十三番区の防衛に参加していたアルバトロスと悠里、それに、アヤカは行方不明になった――。

「――なるほど、お前らは私怨で戦うってわけか。しかし、王都が陥落したのは二十年近く前の話だぜ。女の恨みはマリアナ海溝より深いな。くわばらくわばらだ」

 口角を歪めたツクシが視線を送ると、

「ええ、そうよ。女の恨みは海より深いの。ツクシは今まで知らなかった?」

 ミュカレが病んだ微笑みを返した。

「――ツクシさん」

 今度は重量のある声だ。

「おおっ、セイジさん!」

 ツクシは高い声を上げた。

「本当にお久しぶりです」

 坑路馬に乗って進み出てきたのは、元ゴルゴダ酒場宿の料理人で、今はドワーフ公国軍司令官の一人になったセイジだ。後ろには彼が率いていたドワーフ重騎士隊の面々が坑路馬の上で厳つい髭面を並べている。

「ドワーフ公国軍は山岳部のゲリラを相手にしていると聞いていたが――しかし、セイジさんもあの頃から何も変わってねェな。その若さがうらやましいぜ」

 ツクシが苦く口角を歪めた。

「ツクシさんも昔と変わりません」

 セイジも目を細くした。

「いや、俺はなあ――」

 ツクシがボロボロのワーク・キャップを手にとって、

「ほら、セイジさん、これを見てくれ。みっともねェだろ。喧嘩を繰り返しているうちに、こんな白髪交じりになっちまった――」

 まあ、ハゲてはいない。

「ツクシさんのご活躍、手前てまえ、何度も何度も耳にしておりました。ここからは私とドワーフ兄弟も、ツクシさんの喧嘩でいりに同行して、微力ながらお手伝いさせて頂きます」

 セイジが重い声で伝えた。タラリオン王都の陥落後、エンネアデス魔帝国に蹂躙されたドワーフ族は国を失い、カントレイア世界の各地へ四散した。その各所で魔帝国に対する抵抗運動を続けていたドワーフ族が元の領土――デ・フロゥア山脈の麓にあった公国領を取り戻したのは半年前のことである。

「そいつはありがてえ。この先の陣中のメシだけは心配しなくて良さそうだな」

 ツクシがワーク・キャップを頭に戻して口角を歪めた。

「はい、それも自分に任せてください」

 微笑んで頷いたセイジである。

「――ゲロ、師匠、先の大要塞をやはり正面突破するつもりですか?」

 ゲッコがフェザー・ラプトルの上から訊いた。昨今では導式翻訳機の改良でリザードマン族の言葉も流暢なものになっている。

「ああ、ゲッコ、お前と俺は付き合いが長いからわかっているな。回り道はしねェ。まっすぐ行く。そのまま一直線に帝都へ殴り込んで、エンネアデスの首を取る」

 ツクシが頷いた。

 深々と頷いて返したゲッコが、

「流石、師匠! さあ、ものども、師匠の言葉を聞いたな。今日、死ぬ準備は良いか。我らリザード戦士騎兵隊が、この先の要塞へ、一番槍をつけるッ!」

「ゲロゲロゲッ! ゲッコ大将軍、万歳、万歳、万歳!」

 リザードマン戦士が手にもった偃月刀と円形盾を打ちつけて気勢を上げた。

 エイダが不満気に鼻息を荒げて、

「アンタら、ちょっと待ちな! ツクシは相変わらずだねえ。他に何の策もないのかい?」

「ああ、俺は頭が硬いし悪いんだ。自分で百も承知だぜ。年寄りになってからは耳まで遠くなってきやがってな。参るよなあ――」

 ツクシが顔を歪めた。

「耳が遠くなったから命令も聞こえずに、一人でここまできたのかい。ツクシ、アンタの喧嘩の相手は国家だよ。それを相手に一人で斬り込みとは馬鹿も極まった話だよねえ――」

 エイダは苦笑いである。世界各地から集まってきたエイダたちは連合軍の本営でこのツクシと合流する予定だった。しかし、そこにツクシがすでにいないことを知って慌てて追ってきたのである。

「そういうの、年寄りに冷水というのよ、ツクシ」

 馬上のミュカレがいうと、

「――くふっ!」

 同じく馬上のカルロが珍しく顔を背けて吹き出した。

「いやいや、ミュカレ、それは違うぜ。ジジババって生き物はな、いつでも死ねるからこその価値があるんだ。だから、命を惜しんで保身に走るジジババを世間様じゃ老害といって嫌うのさ。若い奴らに軽く見られて邪魔者扱いのみっともねェ生き方なんてな、俺は断固としてお断りだ。ああ、俺は齢六十近くの大年寄りだ。だから、いつだって俺は死ねる。いつだって死ねるのが、ジジイの俺が持っているアドバンテージだ。刃物ヤッパを商売道具にしてきた俺がよくもここまで生き伸びたもんだ、奇跡だぜ。だから、俺はこの世にもあの世にももう何の未練もねェ。いつだって、どんと来やがれだ。これが若い奴らに真似できるかよ、あぁん?」

 ツクシは顎を上げて息巻いた。

「――ずっと変わらず、ツクシは螺子者ねじものなのね」

 ミュカレが弱く笑った。

「ツクシさん、私の作っためしを食うまで死なんでくださいよ。兵糧はいいものを持参してありますから」

 セイジが真顔でいった。

「セイジさんは酒も持ち込んできたのか?」

 ツクシも真面目な表情である。

「むろんです」

 セイジが深く頷くと、

「やれやれ、この世は未練が多いよな。気軽に死ねなくなった――」

 ツクシは視線を落として口角を苦く歪めた。

「いえ、それでいいと思いますよ」

 セイジの目元が笑った。

「セイジさんには、相変わらず負ける――」

 呟いたツクシが、

「――じゃあ、一丁、やるとするか?」

 大要塞ネルガルへ視線を送った。

 老いて尚、刃のような眼光である。

 要塞を抜けて北上。

 そこにエンネアデス魔帝国の首都がある。

 氷の海に囲われた白亜の帝都チェルノボーグ――。


 ――翌日の早朝。

 ゲッコ率いるリザードマン戦士隊が泳いで渡河を決行した。ネルガル要塞内部への潜入に成功したゲッコとリザードマン戦士の精鋭千名余は、魔帝兵との激闘で数を半数近くまで減らしたが、南方の大正門の制圧に成功して跳ね橋を下ろした。それを合図にして、要塞南方で控えていたエイダが率いる装甲騎兵隊とセイジが率いるドワーフ重騎兵隊が突撃を開始。ミュカレ率いる騎馬弓隊が呼び出した精霊と共に援護する。ツクシもゲッコから借りたフェザー・ラプトルを駆って正門へ突貫した。全世界で死闘を繰り広げてきたツクシは、カントレイアにあるたいていの騎乗生物を乗りこなせる。

 正面の門が開いてしまった以上、戦うしか道がない。

 要塞内では魔帝国の陸戦部隊がツクシの部隊を迎撃した。

 要塞にある魔帝兵は十万以上、このすべてが最精鋭である。

 攻めるツクシの兵力はせいぜい三千名足らず。

 しかし、魔帝兵の相手は戦場の伝説と、それが率いる猛者のなかの猛者揃いだ。

 ひと当てふた当てで装甲した魔帝兵の列が血飛沫と一緒に崩れていった。

 連合大本営で合流予定だった南北大陸連合の司令官たちが、少数の手勢を率いて先行したことを知り、激高した連合軍総司令官フェデルマ(その直前まで、本営から姿を消したツクシを探し回りながらカリカリ苛々していた――)は、連合全軍へ進撃を命令したが時すでに遅しだ。

 ローランド正統魔帝軍の近衛第一機械化軍集団を率いたローランドとフレイアが最前線に辿り着いたときには、大要塞ネルガルで一番高い監視塔のてっぺんに大きな白旗がはためいて、偵察に来たらしきタラリオン共和国空軍のグレイ・ワイバーン騎兵編隊がその上空を悠々旋回していた。

 時間を置かず、連合軍の北大陸内陸にある戦力のすべてがここへ集結する。

 南北大陸連合軍の進撃が始まる――。


 §


 ネルガル陥落とほぼ同時刻。

 場所は帝都チェルノボーグ中央に位置する白鯨宮殿モーヴィ・ディック・パレスだ。

 かつて、白鯨宮殿の背面に建設された後宮には、エンネアデスが全世界から集めた性奴隷が収容されていた。今、そこに女は一人もいない。後宮内部で計画されていたエンネアデス暗殺計画が露見したとき、エンネアデスは自分が趣味で収集していた性奴隷を――たいてい二十歳前の様々な種族の若い女性数百人を一人残らず様々な方法を使って処刑した。全員、殺したのである。

 支配した地域へ独善的な圧政を続けた魔帝エンネアデスは、その間、反体制派の暗殺者に命を狙われたことが数えきれないほどあった。そのたび、反体制派に対する粛清は徹底的に行われた。カントレイア世界で二十年間以上だ。エンネアデスは魔帝国の内外で血と骸を繋ぎ合わせ史上類を見ない暴虐の歴史を築き上げた。そして、当然の話だが、流した血の復讐を受け続けた。一度、強力な爆発物で命を狙われたエンネアデスは左腕と左足の先を失って顔半分が崩れている。

 その誰もいなくなった後宮の最上階の一室だ。

 薄暗い豪華な部屋で猜疑心と恐怖に満ちた赤い瞳がひとつ光っていた。

 不具の魔帝エンネアデスは、大きなベッドの上に座って、眼前の薄暗がりを見つめながら、残った右手で転生石の王笏を大事そうに抱えている。魔帝国敗戦の色が濃くなったこの数ヶ月の間、魔帝国から逃亡し反乱軍のもとへ――次期魔帝となるであろうローランドのもとへ走るものが身分を問わずに相次いだ。エンネアデスはこの世界のすべてから見放されている。帝国民はむろんのこと、直属の部下も身の回りの世話をする使用人も魔帝軍も自身で結成した政策チームや技術開発チームも、もうエンネアデスは信用できない。実際、そのなかから自分の命を狙うものも多数出た。

 最近のエンネアデスは、ほとんどの時間帯をこの私室に引き篭もって、元々飲めない酒などを無理に飲んで過ごしていた。この転生者は負け戦続きで収集がつかなくなった魔帝国と同様、カントレイア世界への興味をなくしたのだ。

 気の抜けた表情のまま、エンネアデスは盆の上にあった酒の杯を手にとった。中身はブランデーに柑橘系の香りをつけたリキュール酒だ。これを炭酸水で薄めたものが、エンネアデスの好みだった。

「また、俺は上手くいかなかった、どうしてだ?」

 エンネアデスは、甘い酒を薬のように飲み下しながら、このていどの感想を酔いと一緒に頭のなかで反芻した。

 しかし、それでもエンネアデスは絶望の淵にいるとまではいかないのだ。

 彼の手には最後の切り札――転生石の王笏がある。このまま帝都が落ちてエンネアデスが命を失っても、転生石の力があればまた別の世界へ生まれ変わることができる。生まれ変わっても、やはりこの男は生まれ変わった先で自身の邪悪を存分に発揮する計画だった。エンネアデスは転生石を見つめた。様々な色に変わるその石のなかに自分が生まれ変わる次の世界が見えるような気がする。

「この世界にもう未練はない。だが、このままでは気分が悪いな。連合軍の連中を――いや、この世界にいるすべての連中をできるだけ多く殺してから、次の世界へ旅立つことにするか――」

 エンネアデスが暗く笑った。

「――皇帝陛下、よろしいでしょうか?」

 ノックの音と一緒に女性の声だ。

「――入れ」

 エンネアデスがいった。

 女執事ネメスが黒いファイルを片手に入室してきて、

「皇帝陛下、戦況に変化がありました。つい先ほど要塞ネルガルが敵襲を受けて陥落したとの連絡が前線から――」

 魔帝エンネアデスの私室へ訪れることができるのは、このダーク・ハーフの女性執事――元乳母ただ一人だけになった。他は誰一人としてエンネアデスに近寄ることを許されていない。エンネアデスは、この世界で唯一信頼できる仮の母親の戦況報告を上の空で聞きながら、転生石をぼんやり見つめている。

 魔人として、魔帝として、この世界に転生した葉山黒人は、まだこの時点で気づいていない。

 暴虐の魔帝の運命を刈り取らんと、帝都チェルノボーグへ歩を進めているその男は因果の円環を断ち斬る流離さすらいの剣士。

 魔帝エンネアデスへの――転生者・葉山黒人への距離を、零秒必殺、宿命の刃が詰めている。

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