二節 大要塞ネルガル陥落(壱)

 エンネアデス魔帝軍に抵抗するために結成された南北大陸連合軍へ参加した国家を羅列する。

 タラリオン王国。

 ドワーフ公国。

 ローランド正統魔帝国(※国という呼称だが大戦終結前は国土を持たない)。

 ラット・ヒューマナ王国。

 コテラ・ティモトゥレ首長国連邦。

 サルコマンド=レーン合衆国。

 エルフォネシア連邦国。

 グリーン・オーク共和国。

 リザードマン戦士国。

 エリファウス皇教国(大戦中、コテラ・ティモトゥレ首長国連邦内の小島で建国された、宗教国家である)

 七龍大連帯民主国。

 この他にも、南北西大陸にあった小さな勢力――例えば、歴史の闇からは決して出てこない吸血鬼の勢力やら、未だ謎が多い屍鬼の国やら、名もなき盗賊ギルドやら、各国の企業体が南北大陸連合軍への参加、もしくは資金提供などの協力をしていたようだが、情報としては曖昧なので詳細を省く。


 帝歴一〇三三年、土竜月の上旬。

『史上最大の作戦』

 戦史ではこう称されることが多い。

 灰色の凍土から南下突撃したローランド正統魔帝軍、海路から強引に上陸したタラリオン共和国軍の挟撃で『タラリオン王都奪還作戦』の初動は成功し、南北大陸連合軍は魔帝国支配下にあったグリフォニア大陸の西沿岸部を橋頭堡として確保した。

 そこまでに至る戦いで空軍戦力と海軍戦力の双方に大打撃を受けていたエンネアデス魔帝国は、グリフォニア大陸にあった帝国領土の南半分の放棄を決断して北上――本国へ向けて撤退戦を開始。その結果、タラリオン共和国とエンネアデス魔帝国の間にある国境線は開戦前の状態にまで戻った。タラリオンは実に二十年余の時間をかけて失われた領土を奪還したのだ。この時点で連合軍幕僚に入っていた魔帝国第八王子ローランド・ヨイッチ=ウィンは、屍鬼の国の女王であるイデア・エレシュキガルの協力で本来の力を取り戻した(成体となった)双子の黒不死鳥フェデルマ・フレイア姉妹と共に、『ローランド正統魔帝国』の建国を宣言する。

 国際社会はこれに同調(むろん、周到な根回しはあった――)、

「国際社会はエンネアデス魔帝国を国家と認めず、ローランド正統魔帝国の建国を支持する」

 共同声明を全世界へ発信して新魔帝国の建国を後押しした。

 大戦中、エンネアデス魔帝国は南カントレイア大陸の国家――サルコマンド=レーン合衆国の内政に干渉してまで戦火を各地へ押し広げた。ここで国際社会はエンネアデス魔帝国に対し復讐を宣言したのである。それと共に連合軍は双子の黒不死鳥の姉、フェデルマ・ジェニノス・ニジェルフォニックス=レヴィアタンを連合軍総司令官に選出。この彼女はカントレイア世界でも数えるほどしかいない不死属性を持った魔神であり、カントレイア世界最強の魔導師メイガスであり、かつては魔賢帝デスチェインの右腕として恐れられた魔帝軍総司令官でもある。復讐の旗頭とするにはもっとも適当な人選といえるだろう。この南北大陸連合軍の最終目標はエンネアデス魔帝国の解体、加えて、魔帝国領土内へローランド正統魔帝国の建国である。

 南北大陸連合全軍は旧タラリオン王都を起点に内陸へ進撃を開始――。

 同年、赤竜月の上旬。

 南北大陸連合軍は魔帝国制圧作戦用に戦場へ投入された新たな陸戦兵器――蒸気装甲車を中心にした機械化軍団の展開能力を活かし、魔帝軍を順調に退けつつ帝都チェルノボーグへ迫った。

 現在は魔帝国全軍が自国領土内に押し込まれている。

 グリフォニア大陸の中央北寄りを頭に万年雪を抱いて東西に高く走り抜けるデ・フロゥア山脈。そこから湧き出て東海岸へ向かって流れる大河アルーノ・リーベル。この大河上流にある山岳部では、魔帝国ゲリラ兵が連合軍への支援を明言した屍鬼軍を何とか食い止めていた。その下流の方面は、コテラ・ティモトゥレとサルコマンド=レーンの連合大艦隊が東沿岸部を制圧、上陸作戦の決行を今か今かと待ちわびている。

 そして、アルーノ・リーベル河中流である。

 元はタラリオン王国のアウフシュナイダー領であったこの場所へ、大戦の初期に構築された魔帝国の大要塞ネルガルには魔帝軍の主力陸戦部隊が結集していた。敵の大要塞南方に本営を構えた連合軍本部は、連合軍に参加している各国へ打診、増援を待つことを決定。

 快進撃を続けてきた連合軍はここにきて膠着状態に陥った。

 連合軍側にとっては難攻不落の大要塞。

 魔帝軍側にとっては最終防衛線の要。

 大要塞ネルガルの正面大門には、アルーノ・リーベル河を横断する、大きな跳ね橋がある。その跳ね橋の先――戦場最前線には要塞からの砲撃を受けて頓挫した連合軍側の蒸気装甲車が行列の進行を止めた蟻のように並んでいた。その周辺に散らばった連合軍兵士の死体(タラリオン王国軍の兵士が多い――)は、空を周回するハゲタカと地から沸く虫に食われ、白骨になっている。

 場所は大要塞ネルガルを囲う高い外壁、その外壁南部の頂上付近にある南方監視塔の小部屋だ。

 天気は快晴。

 風は穏やかで視界良好――。

 銃眼から突き出した魔導望遠鏡を覗いていた魔帝兵が、

「――ザイール軍曹。南方から一人来てるぞ。距離は、二カンマ二・トリブレ・スリサズフィート(※おおよそで二キロ)だ」

 監視塔の一室にある机で、一人カード遊びをしていたザイール軍曹が、面倒くさそうに椅子から立ち上がって、

「一人だと? オットー、俺に見せてみろ」

 無言のまま魔帝兵――オットー伍長はザイール軍曹へ場所を譲った。

「あれは廃品回収屋スカベンジャーか?」

 ザイール軍曹は望遠鏡を覗いて呟いた。接眼レンズに近い彼の瞳の色は紫だ。ザイール軍曹はダーク・ハーフである。現在の魔帝国は労奴法を一部改定、魔導の力が高い魔人族との混血種――ダーク・ハーフは下級帝国市民としての階級を与えられるようになった。もっともその身分も前線で不足する魔帝軍の兵員を補充するために用いられているのだが――。

「さあね、でも間違いなく要塞へ向かって歩いてくるだろ」

 ザイール軍曹同様、名誉魔人族のオットー伍長がぞんざいにいった。このザイール軍曹とオットー伍長は上官と部下になるが、同じ魔帝国の狙撃部隊に配属されて、長く一緒に転戦をしてきた狙撃手とスポッターの間柄なのでナアナアと言葉を交わしている。年齢も同じくらいだ。

「――ああ、自殺志願者だな?」

 ザイール軍曹が望遠鏡から身を離した。

「――そうかもな」

 肩を竦めながら望遠鏡を覗き込んだオットー伍長である。

「あの男は何でこの要塞へ――ネルガルへ一人で歩いて来てるんだ?」

 ザイール軍曹の眉が寄った。望遠鏡で見えたのは、濃いオリーブ色の外套を羽織って、首に赤いスカーフを巻きつけ、ボロボロのワーク・キャップを頭に乗せた男だった。その男は要塞からの砲撃で耕された南の平原を淡々と歩いてくる。そこは一ヶ月ほど前、怒涛のごとく進撃してきた連合軍の機械化陸戦部隊を、ネルガルの火砲と魔導式陣砲の威力で後退させた場所だ。これは南北大陸連合軍のグリフォニア大陸北上作戦が始まってから魔帝軍が記録した唯一の大勝利でもある。以来、ここは両軍が睨み合う戦場の最前線になった。共和国軍のグレイ・ワイバーン航空騎兵――造物主機構デミウルゴス・システムの応用原理で生体改造された強化型ワイバーンを駆る騎兵が偵察に飛来することは稀にある。しかし、対空砲と対空四連装機銃が上部へびっしり並ぶ要塞上空にまで飛来してくる命知らずはいない。ましてや歩いて近寄ろうと試みるものなど、これまで一人もいなかった。

 オットー伍長が望遠鏡を覗きながら、自分の側頭部に指をつけて、くるくると円を描いて、

「きっと、あいつはオツムがこうだぜ」

「はっ! しかし、偵察に出ているヒッポグリフ騎兵が報告してこないな。歩いている奴に撃ち落とされたのか。となると、奴はこの前線に鳥撃ちにきたのか? ここで狙える獲物は、死骸にたかるハゲタカくらいだがな。食えるのか、ハゲタカ?」

 ザイール軍曹は笑っている。

「いや、奴は銃を持ってない。ヒッポグリフどもは報告するまでもないって判断したんだろ」

 オットー伍長がいった。

「――非武装? 奴は民間人なのか?」

 首を捻ったザイール軍曹が顎へ手をやると、朝にうっかり剃り残した硬い髭が指先に当たる。

「いや、軍曹。奴はサーベルを持っている――」

 オットー伍長が望遠鏡の側面に何個かついたツマミを調整した。

「――導式機関剣か――まさか、導式剣?」

 ザイール軍曹が呟くようにいった。導式機関を利用した刃を持つ敵の兵種は面倒が多い。導式機動歩兵や導式剣術兵ウォーロック・ソードマン、最悪なのは三ツ首鷲の騎士だ。もっとも、ザイール軍曹は緋色の外套をまとうタラリオン王国軍司令官を直にその目で見たことはないし、望遠鏡の先にいた男は濃いオリーブ色の外套を身にまとっている。

「いや、そうは見えないな。しかし、妙な形のサーベルだぞ――?」

 オットー伍長がいった。

 外套の男の剣帯から下がっているのは、

 銀色の柄頭、

 草色の柄巻、

 円形の鍔がついた――。

「とにかくサーベルなんだろ。奴の武装はそれだけか?」

 ザイール軍曹が訊くと、

「――あっ、ああ、それだけだ。妙なサーベルが腰に一本ぶらさがっているだけだ」

 何かに気を取られていたオットー伍長の声が裏返った。

「オットー、本当に銃はないのか?」

 ザイール軍曹が武器ラックへ歩み寄った。

「背嚢は背負っているようだが――何度見ても銃は持っていないな。タラリオンの兵装でも反乱軍の――ローランド反乱軍(※魔帝国側ではローランド正統魔帝軍を反乱軍と呼称している)の兵装でもない。ひょっとして、噂になっていた連合の増援が南方からもう到着したのか? でも、たった一人だからな。あの無警戒な様子だと敵の偵察兵リコンでもなさそうだし――」

 オットー伍長がぶつぶつと応じた。

「何者にしろ、ここで当てておく」

 オットー伍長はオットー軍曹が覗いている望遠鏡の隣へ銃をガシャンと据えた。二脚がついた長い銃身の銃である。大戦前期は装甲車や装甲した敵を相手に大活躍していたPzB三八型対物ライフル銃だ。

 オットー伍長が接眼レンズから目を離して、

「軍曹、やるのか。しかし、対装甲ライフル銃パンツァー・ヴュクセを使っても、まだ相手は最大射程範囲の外に――」

「敵に舐められるわけにはいかんだろ。模造魔導石芯入りだ。三分の一トンヴ×四トンヴ完全被甲飛翔弾」

 ザイール軍曹が通常のライフル弾の倍以上大きい銃弾をオットー伍長へ見せた。

「ああ、歪の力で落下と風の煽りを軽減する弾。それ、本当に使うのか。物資が足りてないんだ。また中隊長チューさんにドヤされるぞ」

 オットー伍長はあまり乗り気でない様子だ。

 ザイール軍曹は構わずに、ボルトを引いて超長距離狙撃用にあつらえられた特別な銃弾を薬室へ送り込むと、

「一発だ。この一発で当てれば中隊長の文句も半分。オットー、さっさと魔導望遠鏡の情報を俺に寄越せ」

「二発弾丸を使うと、やっぱり中隊長の文句は倍になるのか?」

 オットー伍長は顔をしかめた。この二人の魔帝兵は狙撃手とスポッター――二個で一組だから上官から叱責されるときも一緒だ。

「――風」

 ザイール軍曹がスコープを覗いて促した。

 オットー伍長は顔をしかめたまま魔導望遠鏡を覗いて、

「南東から風速五カンマ四。メートル・セカンド単位だ。弾丸の効果であるていどは無視できても、弾丸のドロップは二スリサズフィート以上。推定で八スリサズフィート前後は北西に弾が流れる――だってよ。だが、こんな無茶な距離だと、こいつの計算だってアテにはならんね――それで、ザイール軍曹は当てるほうにいくら賭ける?」

 この二人の魔帝国軍人がやるこの賭けは、ザイール軍曹の全勝になっている。ザイール・ルジマトフ軍曹は三桁単位に近い敵兵を狙撃銃で仕留めた、魔帝国のエース・スナイパーなのだ。それでも、オットー伍長は、この賭けを続けている。これは彼らのゲン担ぎだ。

 戦場から生きて帰れる幸運のおまじない――。

「一エンネアデス大シルバー」

 抑揚がなくなったザイール軍曹の声である。

「大銀貨一枚ていどじゃ、今日日きょうび、タバコも買えないぞ?」

 オットー伍長が胸元のポケットをまさぐった。

「――じゃあ、二枚と半分」

 ザイール軍曹がやはり平坦な声でいった。

「二枚と半分なら、ちょうどタバコ一箱分だな。良し乗った。頼むから外せよ」

 オットー伍長が胸元のポケットから紙巻きタバコの空箱を取り出して、それを握りつぶした。

「いや、俺は当てるね――」

 ザイール軍曹の指が冷たい引き金にかかった、その瞬間――。

「――的がこっちを見た。まさか、俺たちに気づいたのか?」

 ザイール軍曹が呟いた。スコープの照準の先にいた男は背嚢を投げ捨て重心を落とし、その外套の裾を大きく広げている。昨今では防弾繊維をふんだんに使った軽武装服に取って代わられて骨董品のようになった古い防具を着ている。黒い革鎧だ。黒革鎧の男は顔を上げ、ザイール軍曹へはっきりと視線を送っていた。

 遠目から見てもわかる。

 刃のような眼光だ。

 男の右手の先にも白く光るものがある。

 ギラリと笑うその刃の渡りは二尺と四寸――。

 ザイール軍曹は斜めにズレた照準を見つめていた。

「――肉眼で? そんな馬鹿な。ここから的までの距離は二トリブレ・スリ――馬鹿な――!」

 表情を失ったオットー伍長の顔と軍服が戦友の血に濡れた。銃ごと真っ二つになったザイール軍曹が臓物と一緒に銃眼から垂れ下がっている。監視塔のさほど大きくない石造りの一室にはザイール軍曹とオットー伍長の他は誰もいない。敵がいない部屋で、ザイール軍曹は斬殺された。

「馬鹿な、何を、どうやって――?」

 オットー伍長はぎこちない動作で望遠鏡を覗いた。間違いなく敵は二キロ先にいる。望遠鏡のなかにいる敵は右手の先に血塗れた刃をぶら下げ、まっすぐオットー伍長を睨み返していた。

 虹のきらめきが大気に満ちる。

 ああ、間違いない。

 何てこった。

 奴が戦場の――。

 オットー伍長は頭を真っ二つに割られて崩れ落ちた。

 二つに割れた望遠鏡が床を転がってゆく。


 §


 大要塞ネルガル内部。

 南壁司令塔の最上階にある司令官執務室だ。

「ゾルタン司令官殿、駄目でした。要塞南の火砲の陣地にいた味方は全員、斬り殺されましたッ!」

 駆け込んできた若い魔帝兵の報告した。

「司令官殿、南の壁面にあった監視塔も各部屋全滅!」

 続いて駆け込んできた壮年の魔帝兵の報告である。

「お、俺は見たぞ、見たんだ、刃だけだ、全員が刃だけに殺されたんだ!」

 初老の魔帝兵が悲鳴と一緒に駆け込んできた。

 ゾルタン司令官は壁面にかかった魔帝国旗の下にある大きな机で悠然と構えて、

「――不可視化迷彩装甲かな。敵の特殊部隊が要塞の内部まで侵入しているのか。尊師ハダ、お前の配下は――魔導師手品師どもは何をやっている。要塞内に対導式兵器用魔導結界を展開し忘れたのか?」

 ゾルタン司令官が机の脇で佇んでいた魔導師ハダへ目を向けた。

「――騎士ゾルタンよ。それは違う。違う。敵の生体反応は要塞内部にない」

 魔導師ハダはうつむいたまま視線を上げない。

「では、敵はどこにいるというのだ?」

 ゾルタン司令官は顔をしかめた。生粋の帝国軍人を自認するこの魔人の男は、身と心を国家ではなく魔導へ捧げることに躊躇がない魔導師メイガス連中を苦手にしていた。このゾルタン・イド・ミスリヴェチェク南壁防衛司令官は魔帝国の近衛騎士団――聖なる嵐の騎士団エリス・ヴォロチに所属する魔人族の騎士であり、魔導師ハダ・イド・ムスターファは宮廷魔導師団メイガス・テンプラーに所属する魔導師だ。大要塞ネルガルには総司令官が一人、司令官が五人いて、これらの司令官の補佐役をハダのような魔導師が勤めている。

「――騎士ゾルタン。敵はこの要塞の南だ」

 魔導師ハダは年齢的には初老の男性だ。しかし、魔導の力で長い寿命を削ってきたその肌は立ち枯れた樹木のようで、その枯れ木が深紫色のローブを着ているような立ち姿だった。

「――要塞の外だと?」

 ゾルタン司令官は益々顔をしかめた。

「今、儂の目が奴を見つけた。始末をつける――」

 魔導師ハダが顔を上げてギシリと笑った。その眼窩の両方に眼球がない。魔導師ハダは自分の眼球に羽を生やして要塞外の様子を偵察している。この彼が得意とするのは肉体を魔導の力で変質させ、遠方より敵対する相手へ危害を加える変生の魔導式である。

「ぎゃ!」

 突然、魔導師ハダが仰け反った。

「しっ、しくじった! 儂が飛ばした眼球の位置が奴にはわかったのか、何故――?」

 身体を丸めた魔導師ハダの眼窩から血がだくだく噴いている。

「間抜けな手品師だ。自分で飛ばした目を敵から撃たれたのか」

 フフンと目元を笑わせたゾルタン司令官が、

「――何!」

 次の瞬間には絶句した。

 魔導師ハダの首が落下した。

 遅れて崩れ落ちた魔導師ハダの身体から流れる血が絨毯に黒いしみを広げてゆく。

「――あ、ああっ、魔導師様!」

 部屋の脇にある机で書類の整理をしていたダーク・ハーフの秘書が悲鳴を上げた。

 報告にきたまま司令官室の出入口で佇んでいた若い魔帝兵が、

「ゾ、ゾルタン司令官殿、この攻撃は――」

「一瞬だけだが見えたぞ。敵はカタナの男だ。凄まじい剣さばきの――」

 ゾルタン司令官は敵の姿をほんの一瞬見えたといった。しかし、実際に見えたわけではない。それは修練を積み重ねた剣士のみが感じ取れる気配だった。

 刃の先に走る「殺しの兆し」が作った印象イメージ――。

「に、虹の光だ、虹の光――カタナ、虹、死神――!」

 壮年の魔帝兵が後ずさりをした。この魔帝兵の目に映ったのは部屋に散った虹の光だった。その虹も今はもう消えている。

「せっ、戦場の死神!」

 秘書の手から書類がバラバラこぼれ落ちた。

「何を馬鹿な、あんな根も葉もない噂――」

 ゾルタン司令が顔をしかめた。しかし、しかめた顔から一切の血の気が引いている。ゾルタン司令官は魔帝兵の間でまことしやかに語られていた『戦場の伝説』を目撃した。ゾルタン司令官は間違いなく目撃をしたのだが、目撃した事実から目を背けた。

 これを認めると正気を保てない――。

「もう駄目だ、もう駄目だ。奴と出会ったら一方的に殺されるぞ――」

 若い魔帝兵が泣き声でいった。

「戦場の死神と遭遇したどの部隊も、誰一人として生きて帰ってこなかった――」

 壮年の兵士が震え声でいった。

「貴様ら、落ち着け!」

 脇の連絡管を手にゾルタン司令官は怒鳴ったが、

「とうとう、ネルガルへあの死神がやって来たぞーッ!」

 司令官室の外で震えていた初老の魔帝兵が叫びながら廊下を駈けていった。

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