二十二節 無余入滅、金剛界大曼荼羅殺人剣、那由他
ツクシは剣先をだらりと下ろした。
無造作に右手から刀をぶら下げる。これが、ツクシの構えだ。何の構えにもなっていないように見える。しかし、ツクシの無構えに対峙する剣鬼は末法の笑みを消した。見えるところに真実はひとつもない。ツクシから発せられる狂風のごとき剣圧を剣鬼は肌で感じ取った。
「どうやら、この男、
表情を消した剣鬼がジリッと腰を落として、抜き打ちできる十分な体勢を作り、神切虫の刃を白い鞘からゆっくり引き抜いた。白い鞘が地面に落ちる。
次に剣鬼の取った構えは、やはり、泰然として巨大な正眼だった。
「ヒョゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥウ――では、八手で参る。主は七手までしか持たぬよな。八手目で儂の剣に倒れようなあ――」
剣鬼は冥界のからっ風のような呼気と一緒に、ギッと唇の両端を高く吊り上げて末法の笑みを表情に戻した。その手の先にある神切虫も主人に合わせて「クキキキッ!」と小さく笑う。
「
ツクシに表情はない。
零秒間で八つの斬撃。
これをツクシへ打ち込んだ剣鬼の返答もなかった。同時に発生する八つの刃にツクシの魔刀が合わせた。虹と火が砕け散り大気が炸裂する。おおっと土煙が歓声を上げ、弾け飛んだ大気は弾丸となった。大広間の岩壁の所々が風圧で割れて砂になる。
お互いの手数は同じだ。
必然、ツクシと剣鬼は鍔競り合いになった。
剣鬼は鍔迫りで力比べをする前に虹をほとばしらせて消失した。
剣鬼、九手目の剣。
消失の零秒後、剣の鬼はツクシの背後にいた。
無防備なツクシの背を大上段から神切虫の刃が襲う――。
「――また小細工か、しゃらくせえ!」
ツクシが剣鬼の放った九手目の斬撃を刃で受けた。
虹が燦々ときらめている――。
「――ほっ、儂の九手までも受けおった!」
笑った剣鬼の姿はまたも消失、今度は数歩後ろへ零秒跳躍して、ツクシから距離を取った。
「――では、儂の奥義、十二手、いざ、参ろうぞ」
告げた剣鬼の構えはやはり正眼。
「さっきもいった筈だぜ。御託はいらねェ。遠慮をせずに全力で来い。でないと、俺のほうも、この『
無構えのツクシが低く呟いた。全身に受けた刀傷から血が流れ続けている。口は鉄の味が濃い。体温は下がり続け、全身の感覚がほとんどない。
流離いの剣士の命はもう先が短い。
しかし、その殺気だけは、殺意だけは凛々と尽きる気配はない――。
「――いざ、参るッ!」
剣鬼が吠えた。
零秒間に十二の斬撃がツクシを襲う。
沈黙したままのツクシが、魔刀を手繰って、その斬撃をすべて迎撃した。
その刹那、消失した剣鬼が、
「ほっ、ほっ、呆けた呆けた。いい忘れておったわ。儂の手は十二より上を持つ!」
嬌声を上げながらツクシの側面に出現し、
「そぅれ、十三手目!」
大地ごと二つに割る壮絶な逆袈裟の斬撃を見せた。
ツクシはその場から動かずに魔刀を振るった。
剣鬼の十三手目も、ツクシの魔刀が迎撃を完了。
「――ほっほっ、すまぬ、すまぬのう、ツクシよ。儂は持つ手を正確に数えたことがない。何しろ、儂は十二より上の手数が必要な相手とまだ
ざざっと
「また小細工か。いい加減に飽きてきたぜ、クソジジイ――」
右手の先にだらりと剣先を下げて。
無構えのツクシが無表情で呟いた。
「高めおる。ツクシ、主は儂を高めてくれおるなあーッ!」
剣鬼は狂喜した。
「――ジジイ、ひとつだけ教えてやる」
ツクシが真剣の眼光を剣鬼に送った。
「――何と驚いた。この儂に一手教授とな?」
喜びに沸いて甲高くなっていた剣鬼の声が太古に戻った。
「数や技術なんてのは喧嘩の問題じゃあねェんだ、このボケ老人がッ!」
ツクシが咆哮と共に放った斬撃は十五手。
十五の刃が一度に剣鬼を襲う。
「ほっほっ、抜かしおったな、
剣鬼は右転左転、流れるように神切虫の刃を十五
ツクシの十五に対して剣鬼は零秒に十六の斬撃を手繰ったのだ。
「あッ!」
ツクシが剣鬼と刃を己の刃と噛み合わせた。
ツクシ、十六手目。
お互い、どこまで手数が伸びるのか。
今の体勢はまたも、ツクシと剣鬼、顔を寄せ合うような鍔迫り合い。
「まだ、伸びる。まだ、伸びおる!」
剣鬼が喜び勇みつつ合わせた刃を渾身で押し込む。
「おい、ジジイ、ブッ殺し合いがそんなに楽しいか?」
唸ったツクシは剣鬼の刃に押されていない。
ツクシと剣鬼の鍔迫り合いは五分互角。
「無上の境地にまで儂が高まる、これが楽しからずやッ!」
剣鬼が叫ぶと鍔迫り合いをする刃の間から火の花びらが舞い散った。
押されはしない。
しかし、剣鬼の圧を受けたツクシの身体の方々から血が飛んでいる。
「――老いぼれを三途の川へ叩き込む前に、ひとつだけ訊いておきてェことがある」
全身の刀傷で激痛が燃えていた。
傷から流れる血が止まる気配はない。
それでも、ツクシは表情を変えなかった。
ツクシにとっての死は、もはや、覚悟の上にある。
「ほっ、主はこの儂を、この鬼を
剣鬼が口角を高々と吊り上げて笑った。
「――何のために、お前はそこまで剣に狂った?」
ツクシが訊いた。
バッと虹を散らして剣鬼の姿が消えた。
何体もの剣鬼が一度に出現して、数えきれないほどの呆けた顔がツクシを取り囲む。
ツクシはただ憮然と佇んでいた。
斬撃は応酬しない。
「な、何の為?」
零秒後、唯一人に戻った剣鬼がツクシから離れた場所へ佇んで視線を上へ送った。
「何の、何の為の剣だったか――?」
ツクシの問いかけに錯乱した剣鬼は太古の記憶を辿る――。
北部の貧村に生まれ――。
天賦の腕力に任せ、乱暴狼藉を重ね――。
鼻つまみものとして、
立身出世を夢見て、或る豪族の一兵になったものの、やる戦はすべて負け――。
それでもひたすら剣の道を研鑽し――。
地に二天なし、そう称されるほどの達人に成ったが――。
剣の
増長が吐かせる大言壮語の癖が、世渡りの
その剣豪は結局、世に広く認められることはなく――。
憂さ晴らしに書いた書画の方が、むしろ褒めたたえられる始末――。
この剣豪の評価は、終生、いち武芸者――。
強くとも、強くとも、強くとも、それは、ただの芸人――。
おのれ、おのれ、おのれ――。
悔しや、悔しや、悔しや――。
いずれは、俺の剣で、この天下を取る――。
いずれ、俺の剣の力で、すべてをねじ伏せる――。
地から離れて――。
天を超えて――。
高みへ、高みへ、高みへ――。
俺の名と流派を全宇宙へ知らしめ、この世のすべてを眼下へ――。
我執と愛刀を胸に抱き、年老いた剣豪は少ない弟子に見守られて、そら虚しく死んでいった――。
だがしかし、冥府に散失した筈だったその魂は因果の円環に捕まって――。
「――愚問。剣の道を極めるのは、むろん、この儂が為よ!」
剣鬼は天を裂く絶叫で魂を取り戻して正眼の構えを取った。
「自分自身のためか。ただ、それだけのために狂ったのか。お前は本ッ当にくだらねェ野郎だよな――」
無構えで吐き捨てたツクシである。
その右手の先にある魔刀がギラリギラリとせせら笑って主人の言葉に頷いて見せた。
「
眼尻を裂いた剣鬼が
戯れを捨てた剣鬼から発せられる剣圧で異形の巣が振動している。
剣鬼の姿が消失すると共に、ツクシの周囲全方向から襲いかかった斬撃は――。
「――三十四手。それまでか、爺さん、あ?」
またもその斬撃をツクシの魔刀がすべて迎撃した。
その上で、
「この、クソジジイ!」
痛罵と共にツクシが消失する。
出現と共に、翼を広げたツクシが剣鬼の肩口を狙い斬撃を叩き込んだ。
「ほっ、また伸びおった、これで三十五手目!」
虹のきらめきと共に神切虫を跳ね上げて、ツクシの刃を巧みに逸らした剣鬼は笑ったが、しかし――。
「ほっ――」
剣鬼が言葉と動きを止めた。転生石に侵食された剣鬼の骨肉を割っても血は飛ばない。しかし、その白い着流しが斜めに切り裂かれている。剣鬼は上半身にあった着流しをはだけた形になった。
ツクシの刃がここで剣鬼を捉える――。
「――さあ、どうする? 爺さんの『立っている場所』まで俺の刃は届いたぜ」
無構えのツクシが地を這うような低い声で告げた。
「――おおっ、ツクシよ、いよいよ儂と同じ高みまで登ってきよったな。焦がれ続けた末、儂は遂に巡り会えたのだ。同じ段で高め合える稽古の相手に!」
正眼の構えで剣鬼がいった。
「ジジイ、表情が随分と硬いぞ」
ツクシがいった。
それは、異様なまでに平坦な声音だった。
例えるなら両端が消失し視界に全部は映らない地平線のような声だった。
「否、否、否否否――これは高まっておるのだ。儂はこれまでになく高まっておる――ゆけるぞ。このまま、儂は剣神の域へゆくのだ!」
剣鬼は口角から涎を散らして身震いし、末法の笑みを見せつけた。
「ああ、仏さんでも神様でも何にでもなっちまえ。そんなことは俺の知ったことじゃねェ。だが、爺さんよ、俺に勝つのはもう無理だぜ」
ツクシは魔刀の柄を両手で握った。
「――何を?」
剣鬼が眉を寄せた。
ここにきて、ツクシが「構え」を取ろうとしている。
ツクシの腕から流れ落ちる血が垂れて、彼がもつ魔刀の刀身をひたひた濡らした。
「――血を出しすぎた。俺の体力は限界だ。いや、俺の命の限界――まあ、俺が生きる死ぬも、もうどうでもいい。とにかく、俺には爺さんと遊んでいる時間が残ってねェって話だ。最初は戸惑った。しかし、この『
ツクシが顔を上げた。
それは青白く
だが、その目だ。
その瞳だけは、まだ、はっきり生きている。
無尽蔵の殺意でツクシの双眸は蒼く冷たく燃えている。
「せめてもの情け――」
言葉と一緒に、ひときり包丁の切っ先がゆるりと上がった。
「情け、とな――」
剣鬼の声が掠れている。
「次の
ツクシは切っ先の直線で相手の喉元を狙う正眼の構えである。
剣先も、
明鏡止水。
「面白い、小童、儂を一太刀とほざいたか――?」
そうはいったものの。
剣鬼はぞくりと魂を震わせた。
ツクシの正眼の構えは達人の目から見ても大全。
仕上がっている。
次に来るのは間違いなく、その全生命を賭した、必殺の斬撃であろう。
それが何手なのかは、わからぬが、これで決着――。
ゆるく笑った剣鬼はツクシ同様、正眼に構えた。
ツクシと剣鬼。
お互いがもつ魔刀で、正眼の構えを作った身体が同時に虹の光に包まれて消失――。
――初手。
ツクシの刃は剣鬼の肩口を狙った。
「このていどの一太刀でこの儂を斃すとな。ツクシよ、何の戯れを――」
刃の先に奔る兆しを読み切った剣鬼は神切虫の刃をそこに合わせ、ツクシの斬撃を難なく弾き返すと拍子抜けした顔になった。
「――遅れて、二手目か?」
剣鬼は横殴りに胴を狙ってきたツクシの刃を神切虫で事もなげに弾き返した。火花も散らない。ツクシの振るった刃は、極端に遅く、止まっているような速度だった。
その直後、
「ツクシがおらぬ?」
異変を察して剣鬼が目を見開いた。
この場にいるのは剣鬼ただ一人。
ツクシはいない。
「ただ、斬撃のみを残してこれはどのような?」
ツクシの刃が剣鬼をまた襲った。これも、剣鬼は神切虫をひるがえして軽々と弾き返した。動作には余裕があったが剣鬼の表情には余裕がない。ツクシの刃を簡単に弾き返すことはできる。しかし、それを避けることは決してできない。剣鬼が左右に足をさばいても風景が追ってくる。前へ進んでも、後へ零秒跳躍しても、やはり周辺の風景が追ってくる。剣鬼の立ち位置は永劫に変わっていた。視線を巡らすと剣鬼は漆黒に瞬く星々に囲まれている。
それは小さいが、蒼く、強く光る無数の星々だ。
「――天地すらも消えておる。
剣鬼はツクシの三手目を弾き返しながら叫んだ。
「こ、これはッ!」
剣鬼がまた叫んだ。
四、五、六、七――ツクシの遅い刃が
「ない、ない、此処には『手数の概念』がない!」
剣鬼は極端に遅いツクシの斬撃を弾き返しながら叫んだ。
「儂はいくつの太刀を返せばよいのだ?」
呻いた剣鬼を襲う刃は十三ある。
「儂は、幾度、剣を振ればよいのだ?」
十三の刃を弾き返した傍から次の刃が剣鬼を襲う。
「むっ、無尽蔵に刃だけが――!」
剣鬼は息を呑んだ。
全方向から数えきれないほど。
無限大。
「だが、斬るべき相手は――ツクシの姿は見えぬ。わっ、儂の振る剣は、ツクシ、主へ決して届かぬというのか――!」
剣鬼はツクシの振るう刃のきらめきのみを目にして呻いた。それでも、この剣豪は天に届くとまでいわれた達人である。剣鬼はツクシの放った六十四手の斬撃をすべて弾き返した。
それは止まって見えるほど遅い刃だ。
止まって見えるほど遅いのだが、しかし、それは絶対に止まらない刃だ。
断固必殺――。
「――そう、なのか」
剣鬼が硬い声で呟いた。四方八方から、上から下から、あらゆる方向から、ツクシが放つ遅い刃が続けて剣鬼を襲う。
「わ、わかった。儂が歩んできた剣道の長さは無定量。もとより終わりがない。終わりがないとは――前後左右、高さ低さ、無限に広がり続ける道のこと。かっ、神ですらも、歩みきれぬほどの――これは『不毛』ッ!」
剣鬼は必死で神切虫を手繰り寄せ、ツクシの遅い刃を弾き続けた。相手の手数を数えることをもう剣鬼はやめていた。そんな余裕はない。無限大に継続するこの場所では数に意味がなくなる。
星々が
そこに独りぽつねんと取り残された剣鬼が神切虫の長い刃を、
縦に、
横に、
縦横無尽に、
白い軌跡を残してひるがえし、
「こっ、此処は宇宙か。ツクシ、主が創った世界なのかッ!」
虹を散らし、
髪を振り乱し、
裂けた着流しを浮かせつつ、
剣鬼は迫り来る無限の刃を神切虫を踊らせ打ち払っているが――。
「――何故だーッ!」
剣鬼が悲鳴を上げた。延々と迫るツクシの遅い刃のひとつが剣鬼の左手首にかかった。断ち切られた左手が剣鬼の眼前にある。それは地へ落下しなかった。切断された左手が、灰色の髪を振り乱した剣鬼の前に浮いている。
この場所には天も地もない――。
「――何故だ、何故、主だけが夢想の境地へ辿りつけた。名を失うほど修行を重ね、辛酸を
剣気は問うたが、その返答はツクシの遅い刃だった。剣鬼の右膝に一閃が奔った。右脚の半分を失った剣鬼がぐらりと揺れる。だが、倒れない。切断された右足は前後左右、上か下か、どこへ行ったらいいものかと迷ったような動きを見せて、その場に漂っている。
剣鬼の身体もまた同様――。
「――わ、儂に応えよ、ツクシーッ!」
剣鬼の右腕がツクシの刃にかかって離脱した。
神切虫を握ったままの右腕が風車のようにくるくる回っている。
「後生じゃ、後生じゃ、後生じゃあ、ツクシ、儂に応えてくれいッ!」
慟哭と一緒に剣鬼の身体が上半身と下半身の二つへ別れた。
「お、おらぬ、この場所にはおらぬというのか、ツクシは――」
剣鬼の上半身が呻いた。
「だが、主の刃は確かに儂の身を削り取って――」
剣鬼の問いかけにツクシは応えない。
応えなかったが――。
「――嗚呼、まさか。主は己自身を斬り捨て、道のそのもの、世界そのもの、刃そのものにッ!」
ここで頓悟した剣鬼の目がようやくツクシの姿を捉えた。
だが、そこは怖気立つほど遠い。
霞むほど遠く魔刀を正眼に構えたツクシが見えるだけである。
そこに剣鬼の刃は決して届かない。
久遠の距離、永大な面積、膨張し続ける時間――。
剣鬼は未来永劫そこへ辿りつけないことを知って絶望した。自我の重さを斬り捨てれば、ツクシの立つ位置にまで剣鬼も届く。そこが剣鬼の目指した世界でもある。頭では理解した。だが、できない。剣鬼はツクシに届かない。我執をひたすら練り上げて魔境へ入り、魔境そのものと成った剣の鬼が、己自身を、我執を斬り捨てるということは、それ、すなわち――。
これは力と欲に目が眩んだ挙句、道を踏み誤ったものが未練がましく使う、陳腐な常套句である。
ただそこに呆然と立ち竦んでいた剣鬼は、
「ツクシよ、そんな、馬鹿な――」
剣鬼は五体満足の姿だった。確かにその足で地に立っている。しかし、その剣先は力なく垂れ、顔は弛緩し、目は虚ろだ。
無構えになった剣鬼は恍惚していた。
呆けた老人の顔をツクシの魔刀が縦一閃に割った。これは何の工夫もない正眼からの面打ちである。左右真っ二つに別れた剣鬼が崩れ落ちた。主人の手から離れた神切虫が宙を一回転、その刃を主人の亡骸の近くに突き立てる。
これが剣に呆けた剣豪の墓標になった。
「爺さん、馬鹿は手前自身だぜ――」
ツクシが魔刀ひときり包丁で横一閃、虚空を薙ぎ払った。
「俺は宣言通り一太刀しか使ってねェよ」
ツクシは右手の先に魔刀をぶらさげたまま静かに告げた。虹の光を失った剣鬼の亡骸は泥人形のような色に変わった。
見ているうちに我執の魂は跡形もなく崩れ去った。
ツクシが発する那由多の殺意――無限大に膨らむ『殺しの兆し』に呑まれた剣鬼は、そこにはない刃――零の刃を相手に戦い続けて自滅した。
転生石の剣鬼は、自分自身が創った魔境へ――
「――しかし、クソ痛ェな、畜生」
ツクシが顔を歪めた。致命傷を全身に作って奥義を尽くし、剣鬼の因果を断ち斬ったツクシはまさしく青息吐息だ。ツクシは痛みに耐えながら大広間の中央に浮いた転生石へのろのろ歩み寄った。歩いたあとに落ちた血が点々と黒く残っている。
「――さて、あとは
転生石に映ったツクシの顔は土気色だ。
死相のツクシがふっと眉根を寄せた。
魔刀が主人に呼びかけている――。
「――お前が無駄口とは珍しい。それとも、これは死に際の幻聴ってやつなのか?」
魔刀は語る――。
――かつて、転生石はあらゆる世界の中心にたったひとつだけあり、ひとびとの想いを支えていた。運命はひとの自由にならないものだから、届かぬ想いの受け皿はあったほうが良い。誰かがそう考えた。そう考えるひとが多くなって強い想いから誕生した奇跡の石、それが転生石である。
すべての世界が絶望に沈まぬように。
そう望むひとの光と共に転生石は誕生したし、実際、そのように機能もしていた。しかし、ひとの望みは増え続けて重量を増し、ある日、すべてのひとの望みを処理しきれなくなった転生石は自壊して砕け、無限に並行してある世界の方々へ飛び散った。飛散した転生石の欠片は、それを偶然手にした個人の望みに応えるようになった。そうして、一個人の望みを受けるようになった転生石は世界の均衡を乱し始めた。
これを憂いた無限複層並行世界の管理者は、当時、無限にある世界のなかでも随一と称されていた老刀匠へ仕事を命じることにした。それは、七色に光る不思議な塊――転生石の欠片と一緒に老刀匠の枕元へ舞い降りた神託だった。
「原因と結果の繋がりが生みだす必然を――因果の円環を断ち斬る剣を、転生石で創れ」
この世でただひと振りの神剣を鍛え上げる。
「儂の生涯で得た技術をすべて捧げるのに相応しい仕事じゃな――」
老刀匠は神託を受諾して残り少ない生涯をその仕事に捧げた。
そうして、持てる技術のすべてを注ぎ込み、鍛えに鍛え上げたその刃は――。
「――ああ、そうか」
ツクシは頷いた。
「それが、
魔刀を創った刀匠へ、
魔刀を手に戦ってきた先人へ、
魔刀そのものへ、ツクシは語りかけた。
魔刀の刀身が白く微笑んだ。
我らは責務を果たしたのだ。
魔刀はそう応えた。
「思えば、お前にも世話になったよな――ゴボッ!」
ツクシは背を丸めて血反吐を吐いた。赤土の路面に大きく黒い染みができるほどの吐血だった。
「――おう、ゴロウ。じきに俺もそっちへ逝くみたいだぜ」
ゴロウの亡骸を見やったツクシは血に濡れた口元を手の甲でぬぐい、口角をぐにゃりと歪め、できる限り明るい声で、
「じゃあ、最後に俺から
そういうと、
「――ぜっ、と!」
袈裟斬りに一閃。
ツクシの魔刀が転生石を叩き斬った。
ずい、と切断面からズレた転生石が二つに割れて、路面へドンドンと落っこちた。路面に落ちた巨大な転生石は輝きを失って、さらさら大気に溶けてゆく。
ゴッ、ゴッ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ――。
異形の巣が震えた。割れた岩盤が落下する。心臓を止められたネストの断末魔の声である。
ツクシと魔刀ひときり包丁に斬り伏せられて異形の巣は入滅した。
「これでいいんだろ。じゃあ、あばよ、此処でお別れだ、ひときり包丁――」
ツクシは背を伸ばして別れを告げた。視界が狭まって見える範囲にも黒い霞がかかっている。身体の感覚も手足の感覚もほとんどなくなった。
呼吸も細い。
意識が途切れ始めている。
「あばよ、俺の異世界カントレイア――」
ツクシの視界が暗転した。
もう身体を支えきれない。
微笑んだツクシは地面へ倒れ込んだ――。
§
「――おいッ!」
恐ろしく不機嫌な形相であり、また不機嫌な声だ。
気迫で後へ右足を出して倒れることを何とか阻止したツクシである。
「――おいおい、冗談だろ。素直に死なせてくれよな」
ツクシが歯噛みをすると、その歯の隙間からじくりと血が漏れた。
「こ、ここは、まさか――」
ツクシが視線を巡らせて顔を歪めた。辺りは昼のように明るい。家々は黒煙を吹き上げて燃えてオレンジ色の照明になっていた。しかし、戦火に炙られた夜空を見ると時刻は夜更けらしい。魔鯨戦艦が戦火の照明を腹に受けながら爆撃を敢行している。空中要塞から飛び立つヒッポグリフ騎兵とグレムリン航空兵をワイバーン航空騎兵隊が迎撃している。地上からは光球炸裂弾が断続的に打ち上がっていた。
最下層から転移したツクシが出現したのは天国でも地獄でもなかった。
災禍の祭日である。
ネスト管理省の敷地前の正面大正門だ。
必死の形相の避難民の波が家財道具と一緒に、東から、西から、南から、正面大正門へ向けて押し寄せている。
「――これは、どういうことだ」
ツクシは避難民の波に揉まれていた。
「キュアァアァァーアッ!」
悲鳴と一緒に撃墜されたグリーン・ワイバーンが不時着すると、その巨躯が大通りの南側で燃えていた家に突っ込んで、火の粉と燃える建材を撒き散らした。火に巻かれたグリーン・ワイバーンはまだ生きていた。熱さと痛みで暴れている。
ツクシの最後の相棒――魔刀ひときり包丁は、まだ自分の右手にある――。
「――ああ、まさか、お前のほうはまだ『
ツクシは土気色になった顔を歪めて見せたが魔刀は何も応えない。
「――な、何かいえよな。と、とにかく、俺はまた西へ歩けばいいのか――クソッ、これはさすがにひと使いが荒すぎるだろ――」
ツクシは震える手で魔刀を鞘へ帰すと大通りを西へよたよた歩きだした。ネストへ殺到する避難民の流れに逆行する形になる。流血して左右に揺れながら歩くツクシは瀕死の様相だ。しかし、家財を担いだり荷車に乗せて引きつつ血眼で避難を続けるひとの群れは、ツクシへ視線すら送らない。空爆や火災の被害なのだろう。ツクシ同様、瀕死の状態で破れた服や皮膚を引きずりながら亡霊のように歩いているひとの姿も多かった。道には避難する最中に力尽きたひとが多く倒れている。
そのたいていはひどい火傷を負って黒ずんだ死体だ。
「お、おい、次の流離いの剣士が刃の引き継ぎに来る気配がねェ。俺の引き継ぎはどうしたんだ。クソッ、避難民が、ひ、ひとが多すぎて――」
ツクシが呻いた。戦火に追われ逃げ惑うひとは数えきれない。しかし、ツクシの刃を引き継ごうとするものは誰もいない。空から落とされる爆弾はもちろん、王都の東に迫る魔帝軍の地上戦力から投射されたらしい砲弾も頻繁に飛んできている。
だから、まあ、ひとびとが避難を急ぐのは当然の話ではあるが――。
「おい、俺はどうすればいいんだ、ひときり包丁よ」
ツクシは腰にある魔刀の柄へ左の手を置いた。
「おいおい――ここでダンマリか。ふざけやがって、お前って奴はマジで使えねェぜ。おっ、俺が死ぬのはもう構わねェがな。こ、これは、かなりの未練だぞ、後味が悪すぎる――」
ツクシは土気色の顔を真っ白にした。
「と、とにかく、
歯を食いしばったツクシは管理省の高い白壁に肩をつけて強引に歩いた。
「こっ、この刀を――ひときり包丁を次の流離いの剣士へ引き継がねェと――で、でないと、俺はマジのマジで犬死だ。最後の最後で格好がつかねェとかな、勘弁してくれよな――」
ツクシは呻いたところで路面の死体に躓いた。
それは老人の死体だった。
爆炎で焼かれていなくても、全体が真っ黒な泥のような老人だ。
王都でよく見かける浮浪者の死体――。
「――ま、こりゃ、さすがに無理だ」
そう呟いたのは石畳の路面へうつ伏せに倒れたツクシである。
立ち上がる気力はともかく、力が残っていない。
「ああ、路面がちょうどいい暖かさだぜ――」
迫る死で凍えたツクシは街を燃やす炎で熱くなった路面が、暖かいベッドのように感じられた。
「――い、いや、クソッ! おい、引き継ぎはどこなんだ。早く来い、早く来い。お、俺はもう死んじまうぞ!」
ツクシは唸り声と一緒に視線を前へ――西へ向けた。一度はツクシの魂へ向けて大鎌を振り上げた運命の女神も渋い顔でその刃を引き下ろした。
この男はおそろしく執念深いのだ。
「あ、あれは――」
ツクシの霞んだ視界が西から来るひとの集団を捉えた。
周辺の避難民と様子が違う。
兵員に囲まれた荷車の一団だ。
「あ、あれはラファエルとアズライール、か?」
ツクシは呻いた。西から来る集団を先導しているのはガス・マスクで顔を隠した墓掘り人兄弟だ。彼らは容貌が特徴的なので、死の霞がかかったツクシの目でも判別できる。
「お、俺が今から死ぬから、ご丁寧にも墓のほうから歩いてきたってわけか。やれやれ、だぜ――」
呟いたツクシが、
「もう知らねェ、勝手にしろよ、くそったれ――」
この男らしい辞世の句を残して路面へ額をつけた。
そのままツクシは夢のない眠りの世界へ落ちた。
それでも、である。
俺にできることは、まあ、たいていやり遂げた。
文句はねェよな――。
そんな気分だったツクシは歪んだ微笑みを見せている。
(十二章 血刀の果てに 了)
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