二十一節 大三千世界で一等に不機嫌な男

 九条尽は笑わない子供だった。

 両親が残したアルバムや学校の卒業写真にツクシ少年の姿がある。その写真のいずれにもツクシ少年の笑顔はない。それは不満を溜め込んでいるというよりも、何かに怒っているような少年の表情だ。

 ツクシ少年は、生来、不機嫌な子供だった。

 例えば、小学校時代。

 たいてい、学校の教師が怒鳴ったり喚いたりするのは、自分の仕事の都合に悪いからであって、子供たちを慮ってのことではない。生徒は教師の仕事道具だ。一番うるさいのは、子供ではなくてその親になる。子供へは上から目線で威張り散らす教師も、総じて彼らの両親には平身低頭の態度になる。ツクシ少年はあまり勉強熱心でない子供だったが、直感だけは鋭かった。相手の目を見れば、教師の考えや感情が、ツクシ少年は理解できた。教育者と一応の肩書をつけた大人の怯んだ態度や性格を見ると、ツクシ少年はいつも苛立った。

 子供の前で仮にも教育する立場にいる大人が無様を晒すなよ――。

 そんな感じだ。

 ツクシ少年は問題児といえるほど目立って乱暴な生徒ではなかった。しかし、いざ覚悟を決めると貝のように押し黙って猛然と殺気奔るツクシ少年を周囲の大人たち――学校の教師は持て余して距離を置く。

 よくわからないが面倒な子供ガキだよな。

 これを下手に刺激して俺の仕事に差し支えても迷惑だ。

 可愛気も全然ないし、こいつの将来なんか、私の知ったことじゃないわよね。

 こんなクソ子供ガキの行く末は、どうせ犯罪者かチンピラだろう。

 勝手にしろ。

 俺は知らん。

 私は知らん――。

 そんな態度で教師はみんなツクシ少年を腫れ物扱いにした。

 一方、ツクシ少年は冷めた目で自分から距離を置きたがる大人の群れを眺めていた。

 まあこいつらあくまでお仕事だ。

 大人なんてみんなこんなものだろ。

 どいつもこいつも自分の損か得かしか考えていないんだろ――。

 ツクシ少年はそう思った。思っただけで口に出さない。ただ、むっつりと口を閉じて、ツクシ少年は不機嫌を溜め込んでいただけだった。

 中学に上がった頃、ツクシの父親が死んだ。

 理不尽に死んだ父親の運命に、ツクシ少年は泣きながら憤った。だが、あまり悲しんでばかりいると、夫に先立たれた自分の母親の顔が曇り続ける。であるから、ツクシ少年が泣いたのは父親の通夜のたった一日だけだ。このあとのツクシ少年は、どんなに辛くても歯をくいしばって哀しみをやり過ごすことに決めた。自分に課した義務感でツクシ少年の心にあった泉はヒビ割れた底が見えるほどにまで枯れていった。しかし、ツクシ少年はそれを苦に思わない。

 中学生になったツクシ少年は唯一仲が良かった同級生に誘われるがまま、剣道部へ入部した。少し練習しただけだ。ツクシ少年は全国大会に出場するまでの腕前になった。しかし、ツクシ少年は何事にも冷めた態度だったから、大会に出ても大活躍して注目を浴びたといえるほどの成績は残していない。部活動の練習も部員が嫌がる基礎体力作りをツクシ少年は延々真面目にやった。しかし、いざ竹刀を持って技を磨く段になると怠け出す。普通は逆である。当時からツクシは筋金入りの天邪鬼だった。

 しかし、

「ああ、竹の棒きれなんかで殴り合って勝ち負けをつけるのが、何になるもんかよ」

 そんな不貞腐れた態度でも、ツクシ少年は本番の試合になるとかなりの割合で相手から一本を奪ってしまうのだから大したものではある。当時の剣道部の顧問は――今時、頭髪にパンチパーマを当てたヤクザのような外見の厳つい男性教諭だった――その顧問は、ツクシ少年が持つ天性センスを見て目の色を変え、

「ツクシ、お前には才能がある。高校に上がっても、大学へ行っても、大人になっても、剣道を続けるんだ。次は真剣にやれ、真剣だぞ。九段を目指せ。九段は達人の世界なんだぞ」

 そういって暑苦しく勧めた。このパンチパーマの男性教諭は毎年剣道の昇段試験に挑戦している心底からの剣道愛好者だった。しかし、ツクシ少年のほうはといえば、高校へ進学したところでぱったり剣道から離れた。ツクシ少年は愛想悪く、人付き合い悪く、常時不機嫌で天邪鬼な自分と仲良くしてくれた純朴な友人に義理を通して剣道部に入部しただけだ。ツクシ少年は剣道に対する興味が今も昔もまったくない。しかし、地元の公立中学を卒業して、地元の公立工業高校に進学してからも、剣道部の顧問だった男性教諭は電話口へツクシ青年を呼び出して、「ツクシ、剣道やれ剣道、剣道やっているか?」と、しつこかった。

 俺のほうが手前てめえに通す義理は何ひとつとしてねェ。

 しつこいんだよ、このパンチ頭のクソ教師が。

 大の大人が自分の好き嫌いや価値観を若い奴へ押し付けているんじゃねェよ。

 マジでみっともねェぜ――。

 口には出さない。電話の受話器を握ったツクシ青年は、むっつりと不機嫌になっただけである。ツクシ青年の父親が死んだとき、労災や民間の保険で幾ばくかの金が家計に落ちたが、それらの金銭は建てたばかりだった持ち家のローン返済に回された。その新居も結局、維持が困難になって売り払った。売値は土地込みで購入したときの半額以下だった。

 高校に上がった頃、ツクシ青年と彼の母親は古ぼけたアパートに引っ越して暮らし始めた。母子二人の生活だ。母親は介護職の資格などを取ってこまめに働き母子家庭の生活を支えた。ツクシ青年のほうも休日はアルバイトなどをして生活費や小遣いの足しにした。高校生活では部活動に所属するような暇もなかった。友人も極々少ない。教室で言葉を交わすだけの男友達が二、三人、ツクシ青年にいた。そのていどだ。

 ツクシには高校生時代の楽しい思い出がひとつもない。休日や放課後はたいてい肉体を使ったアルバイトに明け暮れて疲れたまま通学し、座学の授業中に居眠りをしていたことだけが記憶に残っている。そんな高校生活であったから、当然、ツクシ青年の学業成績は惨憺たるものだった。

 高校卒業後のツクシは陸上自衛隊へ入隊して除隊して、警察官となって刑事に出世し容疑者を事故で殺め、その同時期にあっさり母親に死なれ、そこまで蓄積されていた不満が腐って炸裂して、結局、すべてを挫折した。

 高校卒業当時の話だ。

 このひねくれてねじくれたツクシ青年にも青雲の志は――世のため、ひとのために働いて、俺自身は幸せな家庭のひとつも作ってやろう、といったようなささやかな志は多かれ少なかれあった。しかし、最終的には失敗した特殊社会人時代の心的外傷トラウマで、ツクシの性根は本格的な螺子者ねじものになった。三十路を過ぎた頃には不機嫌の塊のような中年男がひとつ出来上がる。

 そのあとのツクシは運送ドライバーとして東海地方では大手の運送屋に就職した。車の運転が好きなわけでも運送屋をやりたかったわけでもない。ツクシが何社か面接をして偶然拾われたのがその会社――ナユタ運輸だっただけだ。三十路の山を越えたあとのツクシは食い扶持のためだけに仕事をしつつただ漫然と生きた。特殊社会人時代に覚えた安い女遊びと大量の安い飲酒、それに日に十本前後のタバコくらいしか、ツクシには趣味がなかった。

 独身男の一人暮らしの生活である。

 そこまでのツクシの人生で女の気配がまるでなかったわけでもない。贔屓にしていたガールズ・バーやキャバクラにいた安っぽくて派手な商売女と仲良くなって、私生活でも付き合ったことが、若い頃と三十路を過ぎた頃で二度あった。しかし、いずれも上手くいかなかった。ツクシという男は甲斐性がないし口下手でもある。そもそも、女のわがままを「はいはい」と喜んで聞くような性格でもない。こういう男が派手な若い女と付き合っても上手くいかないのは、まあ、至極当然の話だ。

 ツクシのほうもていどの悪い女と二度も深く関わりあって散々面倒な思いをした所為で、

「金を払って女と遊ぶていどが、後腐れなしで丁度いいや――」

 そんな感じの乱暴な考えを確立してしまった。

 あとはといえば、ツクシは何かに追い立てられるように自分の肉体を鍛えていた。これは趣味ではない。汗をすべて絞り出せば心中にある説明できない憤りが、不機嫌な気分が外へ流れだすような気がしただけだ。

 ツクシは休日になると朝早くからスポーツ・ジムに通って、重さより回数を重視したウェイト・トレーニングを丹念に行ったあと、プールでくたくたになるまで泳ぐ。昼が来たらジムを上がり、金のあるときは贔屓にしていた焼き鳥屋へ行って深夜まで酒を飲む。金のないときは、自宅で安酒を大いに呷る。

 それが、ツクシの休日である――。


 ――ツクシがスーパー・マーケットの買い物袋を左手にぶら下げたて、車の鍵と貸部屋の鍵を右手で振り回しながら、自宅にしている古ぼけたアパートの一室の前まで来ると、

「――あっ、クジョーさん、うっすうっす!」

 ちょうど隣の部屋から出てきた大柄な若者が大声で挨拶をした。短い黒髪に野暮ったい眼鏡の若い彼は肩から四角いバッグを下げている。これから出かける様子だ。ツクシの家の近所には国立大学のキャンパスがあるので、ツクシが部屋を借りている築二十五年の安アパートはほとんどの部屋が県内外から来た学生で埋まっている。住人は貧乏学生が多い。この近所にある大学は工学系なので女の子の住人はほぼいなかった。女らしき住人なら一人いる。おおむねは野郎の園である。

「――おう、お隣の苦学生。いつものバイトか?」

 ツクシが挨拶に応じて口角を歪めた。

「あっ、そうっすそうっす!」

 苦学生氏は腰が低い感じだ。

「そうか、まあ、若いうちは何でも気張ってやっておけよな」

 ツクシの姿が若草色の古びたドアで隠れた。

「うっす、あざっす、いってきます!」

 頭に手を置いて立派な体格を丸めた、むさ苦しい感じの苦学生氏は恐縮している。特にトラブルになったわけでもない。しかし、苦学生氏はこの中年男の隣人を堅気ではない人間だと思い込んでいた。

 目つきが鋭すぎる。

 半袖シャツから覗くその腕がたくましすぎる。

 そして、いつも酒臭くて不機嫌そうである。

 平穏な日常で生活しているひとにはとても見えない。

 何よりも、その中年男は醸している雰囲気が異質だ。

 生まれてきた時代を間違えてしまったのだろうか。

 ドアが閉まった貸し部屋の前に残る空気は凛然として堅物――。


 休日のツクシはジム通いの帰りに近所のスーパー・マーケットで酒のつまみになりそうな惣菜を買い込んで帰宅した。あとは安アパートの一室に引っ込んで夜更けまで安酒を呑んだくれるだけだ。今日のおつまみは、ねぎチャーシュー、さつま揚げ、夕食兼用の切り分けられた海苔巻きが六個、その具はかんぴょうだった。合計で八百円くらいの値段になる。行きつけの焼き鳥屋をツクシが訪れるのは給料日のあとの贅沢で、他は家飲みで済ましている。

 ツクシは台所で顔と手を乱暴に洗ったあと脇の古い冷蔵庫を開けた。なかには発泡酒と野菜ジュースが隙間なく詰め込まれている、そこから五〇〇ml入り缶の金色の発泡酒をひとつ抜き出したツクシが床板を裸足でギシギシ鳴らしながら居間へ戻って定位置についた。

 ほとんど家具のない古びたアパートの一室で座椅子に座ったツクシである。

 古新聞の束が肘掛け代わりだ。この古ぼけたアパートは、ツクシが生まれ育った地元にある。しかし、ツクシは元々人付き合いが少なかったし、孤独を苦にしない性格でもあったから、酒の相手はいつも小さなテレビだけだ。

「――暑いな」

 ツクシは発泡酒の缶に口をつけながら部屋の窓を開けた。季節は七月上旬で気温は高い。だが、ここ数日は雨模様を見ない空は晴れ渡り、窓から吹き込んでくる風は爽やかだ。

 青田を打って流れ込むとまではいかないが――。

「――うん」

 特別な意味もなく頷いたツクシは座椅子に戻ってテレビのリモコンを手にとった。小さなテレビの電源が入る。テレビ画面で芸人コンビがくだらないことを大袈裟に騒ぎ立てていた。ツクシはどうにか他人を笑わせようと作為的な人間を見ると上限なしで苛々し始める。ツクシはお笑い芸人を詐欺師同然だと考えていた。それなので、スポーツ中継があるときはそれは観る。ツクシに好きなスポーツはひとつもない。だが、演技でない分、バラエティ番組よりもマシだった。少なくともリアルではある。しかし、ツクシが脇にあった今朝の新聞の番組表を見たところ、今の時間にスポーツ中継はひとつもない。デジタル化されたテレビにも昨今は番組表が表示されるのだがそれを使わない。リモコンの操作が逐一面倒だ。そんな横着な理由である。

 顔を歪めたツクシは公共放送のチャンネルに切り替えて、ニュース番組見ることにした。だが最近は男のニュース・キャスターも女のアシスタントも中身のないことをよく喋る。本質や正直さのない言葉は駄弁りになる。取るに足らない駄弁りをテレビから聞かされて、益々不機嫌になったツクシは衛星放送のチャンネルに切り替えて映画を観ることにした。その時間帯のチャンネルはモノクロの邦画が放映されていた。そこでようやく苛立ちは消えたが、発泡酒の缶が空になっていることに気づいたツクシはまた顔を歪めた。

 ツクシが向かった先は台所の冷蔵庫だ。酒の補充である。座椅子に戻ったツクシは発泡酒を飲みながら映画を眺めた。酔った視線は映画にある。しかし、ツクシはそのたいていの時間帯で考えごとをしていた。特にテレビ画面に他人の笑顔が映ると悶々と考え込むことが多くなる。

 俺はこれまで生きてきて腹から笑った記憶がねェ。

 俺の気分は何故、こうまでいつも不愉快で不機嫌なのか。

 俺は高卒で威張れるような学歴がない。

 潰しの利かない職歴でもある。

 これは日本だと人生に失敗した負け犬もいいところだ。

 世の中に対する引け目。

 自分の境遇に対する不満。

 それが俺の不機嫌の原因なのか?

 いや、それはちょっと違うだろうぜ――。

 ツクシの口角がぐにゃりと歪んだ。ツクシは社会で成功しなかった自分を本気で見下せるほど、世の中や他人の視線を重く見ていない。では何故、自分の胸のつかえが取れないのか。理解できないことでまた顔を歪めたツクシは自分の不機嫌を茹で上げた。

「これは、きっと、酒が足りねェんだろうな――」

 単純に判断したツクシは、アイス・ペールに冷凍庫の氷をしこたま詰め込むと、コップと一緒にテーブルへどんと置き、大容量ペットボトル入りの焼酎を持ってきて座椅子の横へドスンと据えた。これは安酒の王様だ。

 ツクシは氷の詰まったコップを王様の涙で満たすと、ねぎチャーシューを齧りつつ、またはさつま揚げを頬張りつつ、かんぴょうの海苔巻きを口へ放り込み、猛然と安酒の王酒を呷りだした。西の空を紫に染めていた夏の陽はすでに落ちて部屋は暗い。テレビの画面の灯りだけが部屋の照明だ。網戸のある窓は閉めない。ツクシは片田舎に住んでいる。開け放した窓からそろそろと訪れる夜風はそれなりに涼んでいた。

 ツクシは暗い貸し部屋で夜風を浴びながら不機嫌に酒を飲む。

 テレビは様々な場面を映し出した。

 何やらという流行りの商品を紹介する経済ニュース番組。

 それが終わると、大仰おおぎょうで味のない演技をする若い女優の顔。

 ハンサムだけが取り柄の若い男優の顔。

 この二人が繰り広げる見応えのない恋愛劇が始まった。

 稚拙なメロ・ドラマの次は各国の美しい風景だけスポイルした旅番組である。

 続いて始まったドキュメンタリー番組は戦争の悲劇を次々映した。

 テレビから垂れ流される情報は無責任で、いい加減で、情報であるのにも関わらず、ツクシにとっては何の意味もないように思えた。ツクシは目元が赤らむほど酒に酔っているのだが不機嫌な面構えだ。

 この無尽蔵に不機嫌な理由が今宵も見つからない。

 ツクシは空になったコップへ焼酎を乱暴に注いだ。

 アイス・ペールの氷はもう切れている。

 補充する気もないようだ。

 おかしい。

 今日はいくら飲んでも全然、酔わねェ。

 どうした、俺の王様。

 しっかりしてくれよ――。

 ツクシは王様の涙を乱暴に喉へ流し込む。

 次の瞬間、眼前に青空があった。

 青空の頂上に届けといわんばかりの大きな入道雲がツクシを見下ろしている。

 真夏だった。


「――おう。何だ何だ、何がどうした?」

 怪訝な顔のツクシである。

「部屋で酒を飲んでいた筈だが――俺は酔い潰れたのか?」

 ツクシは辺りを見回した。

「これは自分が中学生のときに使っていた通学路――?」

 ツクシはすぐ思い出した。左右に田畑が広がって視界が大きくひらけた、自動車が一台がようやく通れる田舎道は、この先に駄菓子屋がぽつんとひとつ営業をしていた筈だ。ツクシが見やると遠い位置にやはりその駄菓子屋がある。その軒先で『氷』と書かれた吊り下げ旗が夏の風に揺らいでいるのが見えた。瓶入りのコカ・コーラやみかん水が四角いガラスの冷蔵庫にたくさん並んでいる昔ながらの駄菓子屋だ。自身へ視線を向けると、ツクシは半袖の白い開襟シャツに黒いズボン、それに頭へ黒い学帽を乗せた姿だった。学校指定の通学カバンも背負っている。年齢も外見も中学生だ。

「――そうだ、タカシ、タカシはどこだよ?」

 ツクシはいつも一緒に登下校していた唯一の友達を――タカシという名の同級生を探した。しかし、夏の陽射しが跳ねる白い道にいるのはツクシただ一人だけだった。他に誰もいない。音もほとんどない。遠くに見える防砂林から蝉の鳴き声だけが聞こえた。

 太平洋が近い通学路――。

「――ああ、そうだった。タカシは死んだ。死んだんだよな。俺はあいつの葬式にも出られなかった。あのクソ小隊長、あのとき半殺しにしてやればよかったぜ」

 ツクシは若く細い身体を怒りで震わせた。当時、陸上自衛隊にいたツクシは休暇が取れずバイク事故で死んだ友の葬式に出られなかった。ツクシは粘ったのだが、当時の所属長に「任務を優先しろ」だとかそんなことをいわれて特別休暇申請を突っぱねられた。この任務とは日常の訓練だ。他にも色々とあったのだが、陸自生活に嫌気が差した最も大きな出来事がこれだった。ツクシはそこまでの生涯でただ一人きりだった友人へ別れがいえなかった。葬式のだいぶあとで墓参りに行った。そのときツクシは自分に課していた禁を破って友の墓前で涙を流した。

「――しかし、今日はいい天気だな、タカシ」

 ツクシは先に逝った友へ語りかけながら南の空を見上げた。

 おうっ、と応じた青空が涙で滲む。

「でかい帆船みたいな雲だ。あれになら俺は乗り込める――」

 ツクシは潔白の眩しさに目を細めた。

「ああ、そうか。俺の不機嫌は、あの不愉快さは――」

 目を細めたまま、ツクシは呟いた。

 細めた目にも真夏の強い陽射しは入ってくる。

 不機嫌が消え去っていた。

 胸のつかえが落ちていた。

 ああ、俺がこれまでずっと不機嫌だった理由は――。

「――いや、もうどうでもいい。遅ればせながら、俺も、ようやく、この場所に辿りつけたんだ」

 ツクシは笑った。

 青雲の航海へ出航予定の白い帆船へ先に乗り込んだ友人たちが手を大きく振って、あるものは飛び跳ねながら、ツクシをわあわあ呼んでいる。

 旧友のタカシ。

 山男のチムールとヤーコフ。

 若き勇者グェン。

 本物の貴族リカルドと麗しき令嬢ニーナ。その後ろで笑みを浮かべているのはリカルドの息子でニーナの兄のレオンだ。

 日本から異世界へ来訪した戦士、山田孝太郎。

 荒々しくも清々しい冒険者たち――ベリーニ三兄弟、アレスにボゥイ、ロジャーとアドルフとゾラ、それにガラテアとイーゴリのドワーフ夫妻。

 賑やかな三人娘、リュウとフィージャとシャオシン。

 たった今、長い舷梯げんていを使って青雲の帆船へ乗り込んだゴロウが振り返って、大声で何かをいった。

 ツクシの耳にははっきり聞こえなかった。

 しかし、見たところ、

「ツクシも早く乗れよォ!」

 ゴロウは歯を見せる笑顔と一緒にそんな内容のことをいったようである。

 驚くことに、ツクシと敵対してきたひとの姿も白い帆船の上にあった。

 餓鬼集団レギオンマディア・ファナクティクスのリーダー、ヤサグレ貴族フランクとその仲間。アマデウス冒険者団の団長シルヴァとその団員。エイシェント・オークの軍団の中心で、仁王立ちしたオークの王様は腕組みをしていた。飼い犬を呼びながら死んだ初老の女は小奇麗な身なりで彼女の愛犬に囲まれている。

 かつて敵だった彼ら彼女らは苦笑いでツクシへ視線を送っていた。

 どの顔にも敵意はない。

 それは、和解だった。

「なるほどな。もうお互い、すべては終わったことってわけか――」

 ツクシもひどく苦い笑顔になった。

 そして、苦笑いのまま足を踏みだした。

 今からツクシも永劫の青空をゆく航海へ参加する。

 参加する筈だった――。


「――何だと?」

 ツクシの足が止まった。迷い迷って迷い尽くした挙句の果てだ。ようやく再発見した青雲へ地平線の下から次々黒い梯子が伸びてきた。青雲が描かれた壁画へ長い梯子を立て掛けているような形だ。その無数の梯子を灰色の作業服のようなものを着た、手足と首が異様に長いヒト型が、ペンキの缶を片手に登り始めた。彼ら彼女らは型枠にはめたように、全員が無関心な態度だ。その作業員たちは機械的で機能的で淡々としていて、感情の温度がまったくない。

 作業員は昆虫人間のような有様だった。

「おい、何だよ――」

 ツクシが呻いた。

「やめろ!」

 ツクシが顔を歪めた。

「やめろ、やめろよ!」

 叫ぶ声が震えている。

 昆虫の作業員たちは白い帆船を様々な色で塗っていった。ペンキが垂れて混じり合いすぐまともな色ではなくなるのだが、作業員の群れは気にしていない。ツクシにとっては至上に美しかった青雲の帆船が無感動で混雑した色合いに塗りつぶされてゆく。同時に、船上にいたひとの――ツクシの仲間の動きと表情が緩慢になった。

「これは俺の世界だ。俺が唯一、大切にしている世界なんだ。俺の希望にそんな汚ない色をつけるのはやめてくれ!」

 ツクシは絶叫した。

 作業員は誰一人として振り返らない。ただ淡々と作業を続け、青雲の帆船を不機嫌に染め上げていた。彼らは没頭することに没頭している。

 自分の頭では、自分の感情では、何ひとつとして考ることをしない――。

「――やめてくれ」

 ツクシが泣き顔になった。

 作業員の塗りたくった色は、もはやそれが何色か明言するのが難しいほど不機嫌な色合いで混じり合って、白い帆船を照らしていた夏の陽光をも遮った。

 ツクシが愛したひとびとの顔はもう見えない。

 整然とすることに失敗した色で着色された帆船の上で、鈍い色の甲虫になったヒト型が恐ろしく緩慢に前脚を振りながら、「ギイ、ギイ、ギイ!」と歪んだ鳴き声を上げている。

「もう、やめろ、頼むから、やめてくれ――」

 ツクシは涙と一緒にうつむいた。

 絶望。

 敗北。

 拒絶。

 虚無。

 終幕。

 しかし、それらは断じて、断じて否である。

 だらりと下がった右手の先に確かな重さが戻っていた。

 それは意志あるひとのもとへ絶対の覚悟と共に必ず帰ってくる。

 ツクシの瞳を覆いつくさんとしていた暗雲を雷光のごとき殺意が斬り裂いた。

「ああ、そうか――」

 魔獣が呟いた。

「なるほど、そういうことかよ――」

 死神がいった。

「手前らが、俺を苛んでいた不機嫌の正体――!」

 ツクシは顔を上げ、終焉を呼ぶ秩序の群れをはっきり睨む。

 それは世界の秩序を主張しながら、実際は、ひとの均衡を、ひとが持つ本来の生活を、ひとの感情を犯し続ける異形の群れだった。

 ツクシの手に一度は手放した筈の魔刀ひときり包丁がある。

 ひときり包丁が、ギラリと一声、白く笑う。

「――至極簡単にいうとな。俺が気に食わねェものは、絶対に、断固として、死ぬまでずっと気に食わねえって話だぜ」

 今わの際。

 彼岸で男の執念は閃光を放った。

 それは身の内で鍛えに鍛え上げた心剣の光だった。

 執念の刃は望まぬ未来を一刀のもとに両断した。

 執念は現実を凌駕りょうがする。

 非情な現実を、非情な世界を変えるのは、ひとの執念のみである。

 男は迷いの先にある結果を意志で斬る。

 日本から迷い込んだ異世界で怒りにまかせ、両の手をひとの血で濡らした。

 ひとを辞して魔獣へ生まれ変わった。

 殺戮を続けるうちに魔獣は死神へ化けた。

 愛するものたちとの別離に心を打ち砕き。

 血で血を洗う必死を経て。

 死に物狂いに狂い尽くし。

 そうして、いよいよ、ようやくだ。

 男はその境地へ辿り着く――。


 ――カントレイア世界。

 異形の巣ネストの最下層。

 転生石のある大広間。

「おい、爺さん――」

 転生石の前にいたツクシが振り返って、

「――此処ここで死んでもらうぜ」

 魔刀ひときり包丁の切っ先を剣鬼へ向けた。

 完全に呆けた様子だった剣鬼は、

「何と何と、この男、土壇場どたんばで新たな剣を頓悟とんごしおったか――」

 そう呟くと、表情へ末法の笑みを取り戻した。

 ツクシは時と空間を己の刃で斬り裂いて戦場に舞い戻った。

 消失から出現までに要した時間は、零秒。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る