十九節 その銘は、神切虫

「あっ、馬鹿が二人、奥へ行くよ」

「命知らずが奥に行く」

「馬鹿が二人、死にに行く」

「それはいい、久々に人間の肉が食えそうだ」

「ああ、そうだね、食えそうだね」

「でも、二人とも男だぞ」

「男の肉はとても硬い」

「いやいや、煮れば大丈夫」

「大丈夫なだけさ、男の肉はとても不味い」

「一番に旨い脂の身が、男はとっても少ないからねえ」

「焼いても煮ても砕いても、男の肉はひどく硬い!」

「まったく、前歯が欠けそうに硬いよねえ」

「内臓だって、酒臭い!」

「文句ばかりを、いうでないよ!」

「ともあれ、ひさびさ、ひとの肉にありつける」

「肉だ」

「肉だ、肉だ」

「肉、肉、肉」

「脳みそはコトコトと煮込んでスープにしよう」

「心臓はカラッと揚げ物に」

「新鮮な肝臓は刺し身にして食べようか」

「腸はやっぱり煮込みかな。俺は煮込みが好きだなあ」

「肉はもちろん血もしたたるレア・ステーキ!」

「――あぎゃっ!」

「――ひいっ!」

「――ぎゅう!」

「――ああっ!」

「――げえっ!」

「――ふげっ!」

「――この、ひとでなし!」

 魔刀の閃光が七つ奔り、地面の一箇所に集まって「下品なおしゃべり」をしていた人面鼠の死体が七つできた。

 近くを歩いていたツクシの我慢に限界がきたのである。

「乱暴な奴らだ!」

「くっそう、覚えておきな!」

「退散だ、ここは一旦、退散だ!」

 口々に喚きながらひとの顔を持つねずみがツクシの足元で四散した。

「――ドブ鼠どもが」

 ツクシは不機嫌に呟いて魔刀を鞘へ帰した。朝から歩き続けたツクシとゴロウは、地下二十五階層の北西区に続く大坑道を進んでいる。

 この道の先が地図にある空白の部分だ。

「――ここいらで、人面鼠ペストが発生してたんだなァ」

 ツクシに歩み寄ったゴロウである。

「でかい骨だ」

 ツクシは岩盤の壁に背を預けた巨大な白骨死体を眺めていた。

 骨は赤錆の浮いた装甲鎧を着込んでいる。

「これはエイシェント・オーク・スパルタンの骨だろうなァ――」

 ゴロウがいった。

「スカウトの骨もいっぱい転がっているな。こいつらの肉は、あの鼠が食っちまったのか?」

 ツクシが大坑道の奥へ目を向けた。ここより上層に出現した様々な異形種の骨が、壁際の左右にズラリと並んでいる。白骨化しているので腐臭はない。

「――あのサイズは?」

 ツクシが奥へ歩いていった。

「これはグレンデルの骨みてえだな、青黒い色だしよォ――」

 ツクシの横について歩くゴロウである。そこの壁際にはグレンデルの骨格があった。ゴロウの言葉通りその骨は青黒い。

「――この周囲に散らばっているのは、犬の頭蓋骨がついたヒト型だな。こいつらはコボルトどもか」

 ツクシが辺りを見回した。

冥界ハデスへ続く道みたいだぜ、薄気味悪いなァ――」

 ゴロウが呻いた。

 この道は天道樹の根が少なく薄暗い。

「――おい、死体専門家。ちょっと来い」

 ツクシが膝をついて手招きした。

「あのよォ、死体専門家って――俺ァ、検死官じゃねえからな、死体になるのを止めるのが俺の仕事だからよォ――」

 ぶつくさいいながら歩み寄るゴロウである。

「こいつらは全部、同じ刃物で殺されているのか?」

 ツクシはコボルトの骨を眺めていた。助骨、胸骨、背骨が叩き割られて真っ二つになっている。そこにかつてあったコボルトの内蔵器官も同様の結果であろう。

 ゴロウがコボルトの骨をちょっと眺めたあと、

「そうだな、間違いねえ。同じ刃物を使って骨まで割っているなァ。見た感じだと一撃だ、こりゃあ――」

「――いい腕だ」

 ツクシが立ち上がった。

「一体誰が、これだけの数の異形種を殺したんだろうなァ?」

 続いて立ち上がったゴロウである。

「――考えたくねェな」

 ツクシが歩きだした。


「――悪夢を駆る騎士ナイトメア・ライダー

 ツクシは呟いた。

「――あれは凶風人パズスだよなァ」

 ツクシと並んで歩くゴロウである。

「――魔女の飼い蜘蛛アラクネーか。これまで見たことがない超級異形種の死骸もここらにはあるみたいだな」

 ツクシがいった。下層でツクシたちが苦しめられた超級異業種の死体が転がっている。しかし、殺されてから時間が経っているのか、人面鼠がその肉を食ってしまったのか骨格や外骨格しか残っていない。

「あれは魚みてえな形だぞ。変な生き物だよなァ――」

 ゴロウが壁際にあった異形の白骨を指差した。全長で十五メートル以上。巨大ななまずにひとの手足をつけたような形状の骨格がゴロンと寝転がっている。

「――それでも、まあ、ただの骨だ。危険はねェだろ」

 ツクシは大なまずの骨の脇を抜けていった。

「でもよォ、ツクシ。超級異形種の骨だけでも残ってるってことは――あァ、先に転がっているのもすげえな、これこそが冥界人デビルって奴かァ?」

 困り顔のゴロウが見つめているのは、行く手を遮るように地面に横たわった巨人の骸骨だ。目算で全長は二十メートル。腕は六本で頭蓋骨から二本の角が突き出ている。この冥界人が使っていた武器なのか巨大な剣が何本も地面に突き立っていた。年輪を重ねた樹木に近い長さのものだ。

「キルヒの結界がある場所で超級異形種は死体でも存在を保てない筈だ。だが、ここらは天道樹の根が少ない。実際、人面鼠どもはウロチョロしてた。ここだけ異形の領域が多少、広がっている可能性も――ぬあっ!」

 ツクシが冥界人の背骨の下を潜ったところで額を抑えて仰け反った。

「あ、で!」

 ゴロウも悲鳴を上げた。

 鼻先を何かに打ちつけたらしいゴロウは手でそこを押さえてかなり痛そうだ。

「おい、進めねェぞ、何だよこれ――」

 ツクシは無理に進もうとしているが頭がつっかかって進めない。

「何も見えないが、これは壁かなァ?」

 怪訝な顔のゴロウが手の錫杖で先の何もない空間を叩いた。

 音はしない。

 しかし、何かを叩く手応えは錫杖から伝わる。

「おい、横一線に壁みたいなものがあるぜ――」

 見えない壁を手でペタペタ探るツクシはパントマイムをしているような格好だった。

「やっぱり、これは壁なのかァ?」

 ゴロウが鉄の錫杖を見えない壁に叩きつけた。

 両手がビィンと痺れて、ゴロウは髭面を曲げた。

「そうとしかいえねェな――」

 苛立った表情のツクシはカニ歩きでパントマイムを続けている。

「地図を見ると回り道はないしなァ――おっしゃ、まずは俺に任せろ」

 懐から地図を引っ張りだして確認したゴロウが精神変換を開始した。

 両手でもった鉄の錫杖に、青い導式が巡って青い戦槌になる。

 奇跡の戦槌を両手で振りかぶったゴロウが、

「そぉらよッ!」

 気合と一緒に青い戦槌を見えない壁へ叩きつけた。

 ボォンッと大気が膨張する。

「――ゲフン。ゴロウ、それは破砕のなんちゃらか?」

 爆風に煽られた土煙をまともにかぶったツクシである。

「あァ、破砕の導式だが――どうだ、これで壊れたか――でえっ!」

 進もうとしたゴロウが鼻の先を手で囲った。ゴロウは涙目だ。鼻の先に何かがぶつかると誰だってかなり痛い。

「次は俺だ。ゴロウ、ちょっと退いてろ」

 ツクシが魔刀の柄に右手を置いて重心を落とした。ゴロウが慌てて脇に避ける。白い刃がひるがえって死神の翼が広がった。魔刀に七つの色をつけられた見えない壁は右と左へ音もなく割れてゆく。

「これで斬れたのか?」

 ゴロウが聞くと、

「そうみたいだな」

 応えたツクシの足は先へ進んでいる。


「――ゴロウ。奥」

 ツクシが呼びかけた。

 その視線はまっすぐ大坑道の奥だ。

「あァ、ツクシ――」

 ゴロウは硬い声と一緒に頷いた。

「見えるか?」

 ツクシが訊く。

「見える」

 ゴロウが頷いた。

「馬鹿でかい青い石だ」

 ツクシの目にはそう見えた。

「いや、赤く見えるぜ」

 ゴロウの目にはそう見える。

「いや、今は紫だな」

 ツクシが唸った。

「いや、緑色だぜ」

 ゴロウが唸って返した。

「橙色だ」

 ツクシが低い声でいった。

「黄色だ」

 ゴロウも重い声だった。

「今は水色に見えるな、全部で七色――」

 ツクシとゴロウの歩く先は大広間に繋がっていた。

 その中央に巨大な石の塊がある。

 台座はない。

 それは地から浮いていた。

「俺から見ると今は銀色だぜ。どうやら、あれが転生石なんだろうなァ。俺たちは異形の巣の核に辿りついたみたいだぞ。とうとう、やったなァ――」

 目を凝らしたゴロウは感慨深そうだ。

「ゴロウ、注意しろ」

 ツクシが低い声でいった。

「あァ、やっぱり先客いるのか。まァ、そう簡単には、いかねえよなァ――」

 ゴロウが呻いた。

 巨大な転生石の前にひと影がひとつある。

「ツクシ、あれは何者だァ?」

 おおむね円形の大広間の出入口だ。

 ゴロウは転生石の前に座るひと影に警戒して岩陰に身を隠している。

「まあ、見た感じはひとだよな。それなら、普通に話しかけて訊けばいいだろ」

 ツクシは背嚢をその場に下ろして歩いていった。

「――あ、あァ、そうだな。あァ、いや、それでいいのかなァ?」

 ひどい困り顔になったゴロウも背嚢を下ろしてツクシの背を追った。

 巨大な転生石――見上げるような大きさの奇跡の巨塊を背に、ひとらしきものが座っている。座禅だ。座禅を組むひとは瞑想していた。ザンバラ髪も、顎鬚も、口髭も、白髪が多く混じった灰色で伸び放題で、白い着流し姿だった。シワが深く刻まれた顔を見ると老齢だろう。姿形は老人。だが、その老人を構成するのは血肉ではない。異形の巣の奥底で座禅を組む老人の身体は所々透過していた。その肉体にむらむらと広がる血管や神経の線や内蔵が外から見える。神経を走る信号パルスが虹を散らした。顔の半分も透明でまぶたを閉じていても眼球が外から見える。

 肉体を透過している箇所は時間を追って場所を変える――。

「――おい、そこの座禅を組んでる爺さんよ」

 ツクシの呼びかけである。

 老人の反応はない。

「おい、爺さん、耳が聞こえねェのか!」

 ツクシが怒鳴った。

「おいおい、ツクシ、ツクシ!」

 ゴロウが老人に歩み寄ろうとしたツクシの肩を掴んだ。

「――何だよ、ゴロウ、うるせェな」

 ツクシは迷惑そうだ。

「ああよォ、その、何だ――ここは、もう少し下手に出てみたらどうだ。相手は一応、赤の他人なわけだしよォ?」

 困り顔のゴロウが説得をしたが、

「――嫌だ」

 返事は一言だった。

「まァ、おめェにいっても無駄だったなァ――」

 諦めたゴロウがうつむくと、

「おい、そこの爺さんよ、聞こえているなら返事をしろ」

 またツクシが乱暴な言葉を投げつけた。

「――ようやく来たか」

 老人が呟いた。遥か太古から聞こえてくるような重々しい声だった。

 老人が双眸を開くと、その体の内側を駆け巡る信号パルスが密になり、その動きが早くなった。

 七色の稲妻に彩られてその老人は覚醒する。

 無意識に下がりそうになった足を踏ん張って、

「俺たちは、そこにある転生石を、もらいに来た」

 ツクシが要件を告げた。老人は目を開いただけだ。しかし、それだけでもツクシは放出された何かが嵐を呼んだような錯覚を受けた。

 表情を強張らせたゴロウが固唾を呑み込み、その喉仏で大きな音が鳴る。

ぬしが来るのを待っていた」

 老人は座禅の姿勢のまま応えた。

「――か、会話は成立するみてえだなァ。しかし、こいつは本当にひとなのかァ? 見た目がどうも――これはどういえばいいんだァ?」

 ゴロウがツクシに身を寄せて小声でいった。

「これは、どうなんだろうな。まあこの際、そんなのどうでもいいぜ。おい、爺さんよ、それを――転生石を大人しく俺たちに譲ってもらえるかよ?」

 ツクシが転生石へ目を向けた。

 転生石は少し遠い位置で宙に浮いている。

 譲れといっても持って帰れるような大きさではなさそうだが――。

「それはならん」

 老人の声音は変わらない。

「やっぱり、そうくるだろうなあ――」

 ツクシが顔を歪めた。

「ツクシ、こいつ、武器を――カタナを持ってるぜ!」

 ゴロウが目を丸くして警告した。

「――ああ、わかってる」

 ツクシは老人の脇にある刀を見やって、

「爺さん、ちょっと訊いてもいいか?」

 白い鞘、白い柄、金の柄頭。

 金色こんじきの鍔に神獣グリフォンを模した細工が施されている。

 刀身は長い。

 三尺四寸、いや、それ以上はあろうか。

 それは、まさしく、大業物――。

「――いや、どうしても答えてもらうぜ。何のためにネストへ異形を召喚していた。すべての元凶は、爺さん、あんたなんだろ?」

 ツクシは目に殺気を漲らせて唸った。

「儂は求めた」

 老人が視線だけを動かしてツクシを見やった。

「――何をだ」

 睨み返したツクシである。

「強いもの、遥かな高み、神域――」

 老人が目を細めた。

 それは何かを値踏みをするような態度だった。

「ここまで来た道の様子を見ると転生石の力で召喚した異形種どもを、召喚した手前の手でブッ殺していたんだろ。まったく、わけがわからねェぜ。何のためにだ?」

 ツクシが顔を歪めた。

「剣の稽古が為」

 老人は短く応えた。

「――稽古。そんなことのためにか?」

 ツクシの声が極端に低くなった。

「――そんなこと?」

 逆に老人の声は少し高くなった。

「そうだ、そんなことのためにだぜ。爺さんよ――手前が呼び出したものの所為で、一体、何人のひとが死んだと思っている!」

 ツクシが怒鳴った。

しきにあらず」

 目を細めた老人は波打つことを永遠に止めた水面のごとき応えを返した。

「――ゴロウ」

 ツクシが横目でゴロウを見やった。

「あ、あァ?」

 ゴロウが強張った髭面をツクシに向けた。

「この爺さんは完全に頭がイカレてるみてェだな」

 ツクシの口角が歪んだ。

「――そうみてえだなァ。いや、そうなのかなァ?」

 困り顔のゴロウが視線を戻すと、白い柄の刀を左手に老人は立ち上がっていた。

 立ち上がる動作がなかった。

 気配もない。

 無拍子――。

「――クソッ!」

 ツクシの右手が魔刀の柄へ滑った。

 表情を引きつらせたゴロウが鉄の錫杖を両手で持って身構えた。

 老人は左手に柄ごとの刀を下げた姿勢のまま動かない。

「――爺さんの得物はそれなのか?」

 もう、面倒くせェ。

 問答無用で斬っちまおうかな――。

 迷いながら、ツクシが訊いた。

「――銘は『神切虫かみきりむし』。主も業物を持っておるな?」

 老人がツクシの腰の物へ視線をやった。

 老人が持つ刀の銘は神切虫。

「――俺の得物に銘はねェ。こいつはただの『ひときり包丁』だ」

 ツクシは老人との間にある魔合マアイを図っていた。歩幅にして四歩ていどだ。これは間違いなくツクシの魔刀が持つ必殺の距離だ。しかし斬り込めない。ツクシの魔合は老人を捉えていない。老人とツクシとの間にある距離は実際にある距離よりもずっと長い。気が遠くなるほど、恐怖するほどまで、それは長い。説明できる理由はない。ここまで殺し合いを重ねてきた直感だ。

 ツクシの歪んだ顔にじわりと油汗が浮く。

「――ひときり包丁。良い銘だ」

 老人は身動きをせずにツクシの魔合を外しながら頷いた。

「だから、ひときり包丁はこの刀の正式な銘じゃねェぞ。俺がそう呼んでいるだけでな――とにかく、俺は九条尽だ、ツクシでいいぜ。おい、今から爺さんと俺は決闘なんだろ。なら、名を名乗れよな」

 気をそがれたツクシが魔刀の柄から右手を外して顎をしゃくった。

「――儂の名!」

 老人はその視線を遠望の過去へ送って唐突にほうけた。

 そのまま魂までも失ったかのような老人の表情かおだ。

 しかしすぐ老人は正気に戻って、

「――嗚呼、名か。儂が名を持っていたのは遥か昔だ。今は失念した」

 それは太古の声だった。

「――何だと?」

 ツクシは眉根を強く寄せた。

「いうなれば今の儂は鬼」

 先の一瞬、揺れ動き失いかけてものを今ここで括りつけたような老人の声だった。

「――鬼?」

 ツクシとゴロウが同時にいった。

「儂は望んで剣の鬼に成った」

 それは遠望の声だ。

 また老人は魂を手放しかけているような表情になっている。

 半分透けたその顔のなかで巡る七色の稲妻が不規則な動きになった。

 この変な爺さん、だいぶ弱っているみたいだな。

 放っておいても、このまま死んじまうだろ――。

 口角を歪めたツクシが、

「へえ、なるほど。差し詰め、爺さんは『剣鬼』ってわけか?」

「剣鬼、儂は剣の鬼――」

 虚ろに呟いた老人は、

しかり、然り!」

 涎を流しながら叫び、

「だが、だが、儂は――」

 突然、うなだれて呻くと、

「いつまでも鬼の立場に甘んじて――」

 顔を捻じ曲げて唸ったあと、

「甘んじている、つもりは、ない!」

 その顔を上向けて絶叫した。ひととは異質の様相ではあったが、これまであくまで泰然としていた老人の表層を食い破り、その内側から殺しの気配が怒涛のごとくほとばしった。まなこと瞳孔を開き、歯を自分で砕くほど噛み、口角を引きつらせたその表情は、ひととはまったく異なる形相。

 剣鬼は異形の形相に成っている。

「――ゴロウ、これはどうも話が通じる相手じゃねェ。始めるぜ!」

 ツクシの右手が魔刀の柄へ滑った。

「あァ、いつでも来いや!」

 ゴロウが防護のペンダントの力を借りて導式の防壁を展開した。

 黒い鞘から魔刀の白刃が躍り出る。

 死神の翼が広がった。

 すでに虹色の殺陣が大気を満たしている。

 剣鬼の視線はまだ上向きで、これは心ここにあらずの姿勢だ。

 左手から下げた刀の柄に手すら添えていない。

 このまま一刀両断。

 ツクシはそのつもりだった。

 勝ちを確信した、その零秒後――。

「――何!」

 ツクシは眼前に出現した剣鬼の顔を見た。

 剣の鬼は笑っていた。

 神切虫の白い鞘は後方の宙にある。

 剣鬼はすでに抜き身。

 ツクシの背を悪寒が駆け抜ける。

 虹の光を散らしたツクシは消失し、その零秒後に数歩後ろへ出現した。ツクシは無意識のうちに退いた。零の世界から帰ったツクシの全身から冷や汗がどっと噴き出した。ツクシはゴロウの背を見ている。その背には黄金の導式が巡っていた。ゴロウは予定通り防護の導式陣を展開していたのだ。ツクシも予定通り敵を葬り去る予定だった。しかし、ツクシの魔合はまたも外れた。外されたのである。神切虫の長い刀身を右手から下げた剣鬼はツクシの一歩半ほど前で佇んでいた。

 剣鬼まであった筈の距離が、数歩分の距離が今はない。

 ツクシは表情を消した。

 踏み込めない。

 遠い。

 遠すぎる。

 剣鬼までの距離が戦慄するまでに遠い――。

「――ゴロウ。こいつは『最悪に超ヤバイ敵』だ。すぐに逃げろ、できるだけ距離を取れ!」

 ツクシは怒鳴ったが、ゴロウは背を見せたまま動かない。

 剣鬼もまた、ツクシを彼の魔合に捉えたまま動かない。

 ツクシの頭の芯から身体全体へ痺れる感覚が広がった。

 俺は、この爺さんに、ビビってるのか――。

 顔を歪めたツクシが右手にあった魔刀の柄を強く握り直して、

「――何だと?」

 柄がぬめっている。

 黒革鎧の袖口から漏れ出た――。

「――血か?」

 ツクシが胸元に左の手をやった。

 革鎧に傷はない。

 だが間違いなく痛む。

 剣鬼の攻撃をかわし切れずにツクシは斬られた。

 血は出ている。

 肉だけが斬られた――。

「――爺さんの刀は防具を斬らずに『俺の身体だけ』を斬れるのか?」

 ツクシが呻くように訊いた。

 剣鬼は返答の代わりに神切虫の切っ先をすっと引き上げた。

 神切虫の動きは手先から伸びる、もう一本の腕のようだった。

 長い刀身が剣鬼の技術と融和して完璧な体を成している。

 泰然自若にして万事万端。

 剣鬼は自然じねんを体現した巨大な正眼の構え。

 その痩躯がぐわっと膨らむ。

 剣圧に押されたツクシは呻き声を呑み込んだ。

 剣鬼はギッと両方の口角を上げて異形の笑みを見せた。

 末法の笑みだ。

 股を開き腰を落としたツクシは、無意識のうちに脇構えを――刀身を隠し、間合いを誤魔化すための構えを取って、

「ゴロウ、早く動け。お前はここから、すぐに逃げろ!」

 声を出すとツクシの胸に痛みが走った。

 口のなかに鉄の味が広がる。

 胸に出来た刀傷は肺臓まで届いているのか――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る