十八節 最後の探索の夜

 地下二十五階層の道は、大小の通路がそれなりに整然と交差していた上の階層と違って曲がりくねっていた。道を間違えると突き当たりになる。岩盤が剥き出しになった天井は見上げて遠く、その道幅は全速力で走って移動すると息が切れるほどの広さだ。ただ、その大坑道の脇道は高さも幅もさほど大きさはない。

 ツクシとゴロウは、いつもより重い背嚢を背負って、ギルベルトが作ってくれた地図を片手に、えっちらおっちら進んでいると、分枝する道を頻繁に間違えた。景観の変化がほとんどないので現在位置の把握が難しく地図があっても迷ってしまう。この二人組は誤った小路の行き止まりに突き当たるたびにお互い口汚く罵り合った。罵り合ったところで間違いが訂正されるわけでもないのだが必ずそうした。そのうち、ゴロウが懐から赤えんぴつを取り出して、自分たちがいる位置を細かく地図へ書き込みながら慎重に進み始めた。壁面の岩盤へ定期的に鉄の錫杖を使って傷をつけ、それを目印に一度通った道を確認できるようにもした。

「おう、最初からそれをやれ。まったく、知恵の回らない髭野郎だぜ――」

 不機嫌な態度のツクシが偉そうにいった。

 ギリギリ歯噛みしたゴロウは顔を真っ赤にしたが反論しなかった。

 ともあれ、これで道に迷ことはなくなった。地図の中央にある出発地点――導式エレベーターのある地点から地図の空白部分は右にある縮尺を頼ると直線距離にして五十キロ近くだ。そこまでの道は曲がりくねっているので実際歩く距離は倍以上になる。

 夜になると天井を食い破る天道樹の根から陽光が消えた。それでも完全な暗闇にならない。天道樹の根は月灯りや星々の囁きまで伝えている。地図に記入されていた小路の奥の水場に辿り着いたツクシとゴロウは、そこで野営をすることに決めた。

 キルヒが届ける自然の光の下に導式ランプの灯りがひとつだけ点る――。

「――地図に水場まで書き込まれているのは助かるな。いくら道に迷っても飲料の心配だけはないぜ」

 ツクシは不機嫌な顔へ手に受けた清水をぶつけた。岩盤から突き出るようにして設置されたグリフォンの半身の石像が半円形の受け皿へ地下水を吐き出している。

 これまでもネストの上階でよく見た形状の水場だった。

 ゴロウが自分の背嚢を漁りながら

「ギルベルトは几帳面だからなァ。おい、ツクシの背嚢に備品のなかから取ってきた生ハムの原木が入ってただろ。あれ出せ」

「俺の背嚢から勝手に取れ。お前の手が届く場所にあるだろ。横着をするんじゃねェよ」

 ツクシは手ぬぐいを使いながらいった。

「おっと、これはァ!」

 ツクシの背嚢を開いたゴロウの顔が輝いた。

 強欲な感じの輝きである。

「ああ、クソ、失敗したな――」

 ツクシは顔を歪めた。ゴロウはツクシの背嚢から取り出した二本のバルドルを首印のように掲げている。

「――それを返せ、手前のものじゃねェ!」

 ツクシはゴロウの手からバルドルの瓶二本をひったくった。

「――何だよ。二本あるじゃねえか。おめェの分と俺の分だろ。数も合ってるぜ?」

 ゴロウは不満気である。

「都合良く考えるんじゃねェ、このクソ馬鹿髭野郎。このウイスキー二本は俺が日本へ持って帰るんだよ」

 ツクシがゴロウの横へ腰を下ろした。

 下が赤土の地面なのでゴザが敷いてある。

 ゴザを敷いたのはゴロウである。

「あァ、そのウイシュキは故郷への手土産にするのかよォ――おい、ツクシ、刃物を貸せ」

 ゴロウがツクシへ空になった手を突き出した。

「――まあ、そんなところかもな」

 ツクシが腰にあったもう一つの刃物――チムールの山刀を引き抜いてゴロウへ手渡した。

「ツクシ、おめェは独り身じゃあなかったか?」

 ゴロウは生ハムの原木を山刀で豪快に削り取った。原木から厚く切られ過ぎた生ハムは下に引かれた手ぬぐいの上へドサドサ落下して小山を作っている。

「もったいのねェ切り方をしやがって――」

 顔を歪めたツクシが、

「ああ、そうだぜ。独身貴族に何か文句があるかよ。ゴロウ、手前だってそうだろうが?」

「家族がいないなら、そのウイシュキは誰への手土産なんだよォ?」

 ゴロウが背嚢から日持ちする大きな硬パンを取り出した。ツクシは背嚢からザワークラウトの瓶とフォークを取り出した。これで、主食、野菜、肉類と一応は揃って食事の格好はつく。ツクシとゴロウがカレラから渡された贅沢なお弁当は日持ちしそうにないものばかりが入っていたので昼のうちに全部食べてしまった。保存食が中心の夕食はこのていどの貧相さだ。

「しつこいな、うるせェな。このウィスキーは、ヤマさんのご両親への手土産だ。ほれ、ゴロウ、これを見てみろ」

 ツクシがバルドルの瓶をゴロウの顔の前に突きつけた。

「あァ、その銘柄のウィシュキの裏にヤマの顔があるのか。それで、か――」

 ゴロウの眉尻がガクンと下がった。

「これを持っていけば、ヤマさんの家族に俺がヤマさんの関係者だってわかるだろ。まあ、これはエイダの入れ知恵なんだが――」

 ツクシはバルドルの瓶を見つめている。

「なるほどなァ、でも二本あるだろォ。一本は余計じゃあねえかァ?」

 ゴロウは自分の手にある革水筒を見つめていた。

 この中身は赤ワインだが飲むのを躊躇している態度だ。

「確かに俺が日本へ生きて帰れるとは限らねェ。ここで一本は空けちまうか――」

 ツクシは呟いた。

「おっしゃ、じゃあ、ここで飲むかァ!」

 ゴロウが勢い良くいったが、

「お前へくれてやるために持ってきたわけじゃねェからよ」

 ツクシは背嚢をごそごそやりながら冷たく突き放した。

「このウイシュキ、十二年モノだなァ。バルドルの銘柄なかで一番、値段が高いやつだ。俺ァまだ飲んだことがない。金貨二枚に近い値段だったかなァ?」

 ゴロウはツクシのウィスキーを断りもなく手にとって、銘柄ラベルをしげしげと眺めている。

『バルドル、レジェンダリ・カスク・ブレンデッド、十二年』

 表のラベルにはそんな飾り文字が並んでいた。

「ああ、もう、本当に卑しい髭野郎だよな――」

 諦めたツクシが背嚢のなかから二つタンブラーを取り出した。

「ツクシはタンブラーまで背嚢に入れてあったのかァ。用意がいいよなァ――」

 ゴロウは二つ並んだ陶器製のタンブラーを見やって満面の笑みである。

「これは俺の愛用品だ。日本へ帰ってもこいつらを使ってやろうと思ってな。まだあるぜ。このタンブラー・コレクションは異世界こっちでできた俺の恋人みたいなものかも知れん。オラ、ゴロウ、ウィスキーを返せ――しかしなあ、これから帰れるにしても俺は気が重いぜ。日本へ帰ったらまた職探しからだ。年齢も年齢だし、まともな仕事が見つからんだろ。そもそも俺が日本から失踪して丸二年に近い。俺の住処ヤサにしていたボロアパートは、どう考えても、もうなくなってる。国民年金や国民健康保険やら住民税の支払い請求が来ているだろうしな。貯金ゼロの俺はそれを払う金がない。異世界こっちに迷い込んでいるうちに誕生日が来たから運転免許証の更新にも行けなかった。だから、俺が持っていた数少ない資格も失効しているわけだ。考えれば考えるほど気が滅入ってきたぜ、おい――」

 ツクシは暗い顔でぶちぶち愚痴りながら、二つの杯へ慎重にウィスキーを注ぎ入れた。

 注ぎ入れるだけで酒の芳香が漂う。

 これは高級な酒の証だ。

「ツクシ、おめェはニホンへ帰っても、身を寄せるアテがひとつもねえのかよ?」

 ゴロウが鼻の穴を二つ大きくしながら訊いた。

「自慢じゃないが、綺麗さっぱりアテはない。俺には両親も兄弟も嫁も子供も女もいねェし、友人なんてしゃらくさいものは一人たりともいねェ。親戚とも疎遠だ。親戚と付き合いがあるとクソ子供ガキどもが正月にお年玉をせびりにくるだろ。それに加えて冠婚葬祭があるたび金が出て行くからな。親戚付き合いなんて面倒だし迷惑だ。盆、暮れ、正月と電話や玄関の呼び鈴が鳴っても俺はひたすら無視してやったぜ。最後にはカッとなって電話線を元から引っこ抜いた。三年くらいその態度を貫いたら目論見通りだ。親戚どもは誰も俺に構わなくなった。クソ煩わしい縁故エンコが切れて、清々したぜ――」

 ツクシが口角を歪めてウィスキーの杯をゴロウへ手渡した。狙っていたウィスキーのおこぼれにありついたものの、困り顔になったゴロウが、クズ発言を自慢気に連呼したツクシをじっと見つめた。ツクシは自分の杯へ鼻先を突っ込み目を細め、高級ウィスキーの芳香を堪能している。

 いつも不機嫌なツクシが今は珍しく幸せそうに見えた。

 視線を落として諦めたゴロウが手の杯を呷って、

「おお、こいつは、うめえなァ!」

「高級ブレンデッド・ウィスキーは酒を飲み慣れた舌からすると、味わいが丸くなりすぎる傾向がある。だが、こいつは――バルドル十二年は飲み飽きしない程度の甘さ、まろやかさに抑えてあるな。バニラだのナッツだの花のような香りだの様々な香りが混じっている。それぞれが酒の甘さに負けないからひとつひとつの香りがビビットだ。だが、全体の味は酒精の角が立ってない。口に含むと喉と舌を焼かずに、すっと胃へ落ちて飲みやすい。これは、お値段相応の味だぜ。あのデブ社長、どうしてなかなかやるじゃねェか――」

 ツクシは杯をそっと舐めて目を開いた。

「――親戚からも相手にされねえか。じゃあ、ニホンのツクシは天涯孤独の身ってわけだな。それでもツクシはニホンへ帰るのか。それはまたどうしてなんだ?」

 ゴロウは手の杯を見つめて訊いた。

「俺が日本へ帰ると決めたから俺は日本へ帰るんだ。他に理由なんてねェぜ」

 ムッと不機嫌に手の杯を睨むツクシである。

「はァ、わけがわからねえなァ――」

 ゴロウが堅パンを手にとってザワークラウトを乗せた。その上に荒削りした生ハムを乗せる。好みで塩コショウを振って、それでも味にパンチが物足りないなと感じるなら、瓶入りのマヨネーズやマスタードをこれでもかとぶっかける。

 これが二人の夕食だ。

「逆に俺から訊くがな、ゴロウ?」

 ツクシも同じ要領で硬パンサンドを作ってそれを噛み千切りながら訊いた。

 かなり硬い。

「――あんだァ?」

 返事をしたゴロウは、二口、三口と齧りつくだけで堅パンサンドを胃に納めていた。

 丸呑みするような食べ方である。

「お前はこの奥にある転生石とやらが命を張るまで入用なのか?」

 顎が疲れたツクシは食いかけの硬パンサンドを刺すようにして睨んでいた。

「――あァ、何だよォ、バレてたかァ?」

 ゴロウは酒の杯に口を寄せて苦笑いだ。

「馬鹿がよ、見え見えだぜ。お前は転生石を何のために使うつもりなんだ?」

 ツクシが横目でゴロウの髭面を見やった。

「全ての望みが叶うだとか、絶対の王になれるだとか、虚無から黄金を創るだとかなァ。賢者の石の――転生石の力は漠然としているんだよなァ――」

 ゴロウが呟きながら杯に口をつけた。

「金持ちだとか王様だとか、それがお前の望みなのか?」

 ツクシは食いかけの硬パンサンドに噛みついた。不味くはないが、とにかく外のパンが硬い。火があれば炙って柔らかくするのだが、今回の探索には重くてかさばる導式ライト・キャンプ・ストーブを持ち込んでいない。

 堅パンサンドを食べ終えるとツクシは顎が痛くなった。

「――すべての望みが叶うなら、まずは手近なことからだぜ。俺ァ医療用の薬品類が今すぐにでも欲しい。商売ができなくてマジで困ってるんだ」

 ゴロウが空の杯をツクシへ突きつけた。

「それだけかよ、呆れた野郎だな――」

 ツクシはゴロウの杯へ慎重にウィスキーを注いだ。

「いや、まだあるぜ――」

 ゴロウが手の杯を半分程度満たした濃い琥珀色の液体を見やって目を細めた。

「――何だ?」

 ツクシは手の杯を舐めながら促した。

「転生石が手に入ったら、そいつの力を使って魔帝軍には本国へ帰ってもらう」

 ゴロウの声は平坦なものだった。

「――本国へお帰りだと? 魔帝国は王国の領土へ一方的に侵攻したんだろ。そのていどで済ませていいのか。転生石はこの広い王都を滅ぼすほどの力がある。ギルベルトたちは、そんな口ぶりだったぜ」

 ツクシの横顔は厳しい。

「滅ぼすとか、そんなことはしねえ。タラリオンの王都が元に戻れば――戦争の前の姿に戻れば、俺ァ、それだけでいい」

 ゴロウが手の杯を呷った。

「ゴロウは魔帝軍に恨みがあるだろ。メイベルの村でそこそこ幸せに暮らしていたお前を、北から侵略してきた魔帝軍は追い出した。俺はお前自身からこの話を聞いたんだぜ?」

 ツクシが唸ると、

「まァ、確かにメイベル村の生活は悪くはなかった。酒もメシも旨かったし、村人はみんな気のいい連中だった。それに、あの村にはセシリアも――」

 ゴロウは弱い声でいった。

「ゴロウは魔帝軍に追い回されたんだろ。復讐のとき来たれりだぜ。遠慮することはねェ。やっちまえよ」

 ツクシがゴロウへ刃の眼光を向けた。

「いや、ツクシ。追い回されたどころか――メイベル村の連中は大半が魔帝軍に殺された。村から逃げきれた奴のほうが少なかった――」

 ゴロウが背を丸めて呻いた。うなだれたゴロウの顔は間違いなく歪んでいたが、それは怒りよりも痛みのほうが強くある表情だった。

「――メイベル村の連中は全員、お前と一緒に脱出したんじゃなかったのか?」

 ツクシは硬い声で訊いた。

 ゴロウは杯を乱暴に呷って、

「メイベル村を襲ったのは荒野サンドオークの傭兵部隊だった。薬草採りに山へ登っていた俺が戻ってきたときには、その荒野オークどもが村の方々で暴れ回ってた。村そのものも炎で包まれて――」

「――なるほど。ビビったゴロウは、そのまま回れ右をして自分だけ逃げたってわけかよ」

 ツクシが吐き捨てると、

「あのなァ、他人の話を途中で勝手に終わらせるなよなァ、それは違うぞ」

 ゴロウがバルドルの瓶を手にとって自分の杯へダバダバ注ぎ込んだ。慌てたツクシは自分の杯を空にして、それをゴロウへ突き出した。

 ゴロウがツクシの杯へも乱暴にウィスキーを注ぐ。

「――ツクシ、メイベル村で、俺が職場兼自宅にしていた聖教会館の裏手に小さな祠がひとつあってな」

 なみなみと酒で満たされた杯を片手にしたゴロウである。

「何だよ、いきなり話が飛んだな――」

 ツクシは自分の手にある杯を厳しく睨んでいた。

 ゴロウの杯よりも内容が少ない気がする。

「まァ、ここは大人しく俺の話を聞けよ。とにかく、メイベル村の聖教会館の裏手には小さな祠があった。古くからあるものだ。そこに珍しい像がひとつ納めてあった。ちょうど俺の背丈くらいの鬼の木像だったぜ」

 ゴロウが手の杯をぐいっと呷った。

「へえ、鬼――?」

 ツクシは杯にそっと口を寄せた。

「そうだ、鬼だ。世の中にある何もかもがすべて気に食わねえ。そんな感じの怒り狂った形相の木彫の鬼だった。すげえ迫力だったぞ。翼がなかったから、冥界人デビルではねえんだよな――あれは鬼としかいえない形の木像だった――」

 ゴロウは眼前の虚空を見つめていた。

 そこにメイベル村の思い出がある――。

「その鬼ってのは、メイベル村の守り神か何かだったのか?」

 ツクシは首を捻った。

「――さあなァ? 何しろこの世界は大昔にあった奇妙なものが色々と残ってるからなァ。メイベル村にあった鬼の像も先代文明時代の遺産だったかも知れねえよなァ」

 ゴロウはツクシと同じく首を捻って、生ハムの荒削りをわっしと一掴み、まとめて口へ放り込んだ。これが、二人のおつまみだ。ツクシも生ハムの荒削りをひときれ口に入れた。切り方が厚くて塩気が強すぎる。

「――その鬼の像がどうしたんだ?」

 ツクシが口に残った肉の旨味と塩気を強い酒で流し込んだ。

「俺ァ村から上った火の手を見て、裏手の山から学童院へ――聖教会館へ突っ走った。そこで荒野オークどもが村人を殺しているのを見た」

 ゴロウはメイベル村の思い出から目を逸らしてうなだれた。

「――真っ先にゴロウは学童院に戻ったんだよな。まさか、魔帝軍の傭兵は村の子供も殺していたのか?」

 ツクシの問う声が硬い。

「――細かくは、いいたくねえ」

 ゴロウはうなだれたままいった。

「――そうか」

 ツクシも視線を落とした。

「頭へ血が上った俺は近場の祠に駆け込んで、その鬼の像から、これを武器代わりにひったくったんだ」

 ゴロウが座ったまま身を捻って鉄の錫杖を手にとった。ゴロウが愛用している長い鉄の錫杖だ。これに導式を巡らせて武器にすることもできる。

「ああ、例の鬼の像がそれをもっていたのか?」

 ツクシが鉄の錫杖を見やった。

「そうだ、どうもこいつには導式を増幅する力があるらしい――」

 ゴロウが鉄の錫杖の先についた日輪の造形を見上げた。二メートル以上ある長い杖なので座ったままだと頭上高くにそれはある。

「いや、それはちょっとおかしいだろ。チチンプイプイ用品はたいてい宝石が核の筈だ。その鉄の錫杖はどこにもそれが見当たらねェぞ?」

 ツクシが眉根を寄せた。

「そこが不思議だろォ? まァ、とにかく俺はこの錫杖で荒野オークどもを片っ端から叩き殺した。そのときの俺ァ、たぶん、破砕の導式を使っていたと思う。必死だったからよく覚えてねえ。気づいたときには半分肉片になった荒野オークが俺の周りで散らばっていた――そのあと、俺は生き残った村人と一緒にメイベル村を脱出した。不幸中の幸いで修道女スールイディアも生き残っていた。イディアは貴族の出だが、あれでなかなか肝の据わった女だったからよォ。村人をつれてあちこちと逃げ回っていてなァ――」

 ゴロウは壁際に鉄の錫杖を戻した。

 ツクシはゴロウの杯へウィスキーを注ぎながら、

「ゴロウは魔帝軍に復讐する動機がある。それなら遠慮をすることはねェ。転生石の力を使って王都に迫っている魔帝軍を皆殺しにしろ。転生石は、あの近代兵器みたいな力を持つ超級異形種を呼び出せるみたいだぜ。地上はキルヒの結界の外だから、無制限に暴れ放題でもある。魔帝軍を全滅させることくらい朝飯前の筈だ」

「ああよォ、ツクシは知らないだろうが――」

 困り顔になったゴロウである。

「何だよ、俺が知らないことだと?」

 ツクシは顔を歪めた。

「俺が子供ガキの時分は、この王都にも魔帝国の大使館があったんだよなァ――」

 ゴロウは呟くようにいった。

「――ああ」

 ツクシは視線をガクンと落とした。

「ちょっと昔はタラリオンの王都で暮らしている魔人族ディアボロスだってたくさんいた。俺の実家の近く――今は燃えてなくなったが――俺の実家の近くにも魔人族の一家が暮らしてた」

 ゴロウはウィスキーの杯を一息で空にした。

「――信じられねェな」

 ツクシが呟いた。

「本当だぜ。王国と魔帝国の戦争が始まる前の話だけどな。女衒街に女を買いにくる魔人族の男も大勢いたし、井戸端会議に交じっている魔人族のおっかさんだっていたし、魔人族の子供だって近所の子供どもと――他の種族の子供と一緒に戯れていた。俺の幼馴染みにも魔人族が一人いた。赤い瞳の、栗毛色の髪の、ぞっとするほど綺麗な女の子だった。今も生きていれば相当な美人に育っているだろうなァ。頭が良くて、気立てが良くて、誰にだって優しくて、人気者だった。俺の当時の友人ダチは男女お構いなしでみんな彼女に惚れてた。あのジャダですら魔人の彼女には頭が上がらなくてな――」

 ゴロウは歯を見せる笑顔で語ったが、しかし、それは弱々しい笑みだった。

「――そうなのか?」

 ツクシがゴロウの杯へウィスキーを注ぎ入れた。

「ま、元よりタラリオンの王都は色々な種族が多い土地柄だ。魔人族が王都で暮らしていても違和感は全然なかったぜ」

 ゴロウは杯を呷りながら頷いた。

「それが今はお互いを全力で殺し合ってるのか。何故だ?」

 ツクシが眉根を寄せた。

「ああよォ、どうして、こうなっちまったのかなァ――?」

 ゴロウも太い眉尻を寄せた。その後しばらくの間、壁際で胡座をかいた二人の男は周辺を囲む淡い暗闇を眺めていた。

 異形の巣の天井を網羅する天道樹の根から漏れる星々の光りは点々と、そこはまるで本物の夜空のように見える――。

「――ゴロウ、この戦争が始まった本当の理由は何なんだ?」

 ツクシが先に沈黙を破った。

「あァ、それはよォ――タラリオン王国と魔帝国の関係がギクシャクし始めたのは先代の英雄――魔賢帝デスチェイン・ヨイッチ=フィオが崩御してからだ。だから、やっぱり今の魔帝が良くないんだろうなァ。だが、改めてそう訊かれると不思議だよなァ。それまで、タラリオン王国と魔帝国は仲良くやっていたわけだし。何か大きな問題があったのかなァ?」

 ゴロウは腕組みをして益々考え込んでしまった。

「今の魔帝――そいつの名前はエンネアデスだったな?」

 ツクシがいった。

「そうだ。暴虐の魔帝エンネアデス・ヨイッチ=ハガル。ツクシ、珍しく覚えていたな?」

 ニヤニヤ笑ったゴロウがツクシを見やって、そのニヤニヤ笑いを即座に消した。

 そこには死神の横顔がある。

「――それで結局、ゴロウは転生石を使って何をしたい?」

 ツクシが刃の眼光をそのままゴロウへ送った。

「ツクシ、それはさっきもいっただろ。俺としては王都が戦争前の姿に戻れば、それで問題ねえんだ。地上で商売を――モグリの布教師アルケミストをしていた俺がネストへ潜り込んで商売をする羽目になったのも、元はといえば裏市場で流れる薬の値段が戦争の影響でハネ上がったからだ。戦争さえなくなれば元の賑やかな王都に戻る筈だし、モノや薬が不足することだってなくなる。不味い南方のワインを我慢して飲む必要も――」

 ゴロウは語っているうちに視線が落ちて、声が小さくなって、そのまま押し黙った。

「――なあ、ゴロウ」

 ツクシが呼びかけた。

「――あァ?」

 ゴロウが顔を上げた。

「ネストの奥にある転生石ってのはどんなものだと思う? 明日には地図の空白部分に辿り着く筈だ。その前にチチンプイプイ専門家の意見を聞いておきたい」

 ツクシが訊くと、

「ツクシ、おめェはもう見当がついているんだろォ」

 ゴロウはツクシを見つめた。

「――まあな」

 ツクシは顔を正面に向けて手の杯を空にした。

「俺も何となく転生石の正体が見えている感じかなァ。たぶん、それと同じだぜ――」

 ゴロウはバルドルの瓶を手にとりながら、ツクシの腰にあるものへ視線を送った。

 魔刀ひときり包丁である。

「ああ、転生石ってのは、こいつと――ひときり包丁と似た何かだろうな。もっとも、ネストを形成した転生石の力はずっと強力だろうが――」

 ツクシも自分の腰の魔刀を見やった。

「そうだろうなァ。その刃物が持っている力は導式でも魔導式でもねえ。女王様が使う冥の英知とも少し違う感じだ。その刃物が持つ力は、その刃物が持つ力であって、他の何とも違う」

 ゴロウが自分の杯をウィスキーで満たした。

「転生石は別世界や過去の存在をネストの各階層へ呼び出していた。乱暴にいうと、ネストの転生石は別の世界や過去までの距離と時間をぶっ飛ばしていたってことになる。俺の腰にあるひときり包丁の力だって大まかな理屈は転生石と同じだ。もっとも力の規模は全然違うがな。だから、おそらくはだ。転生石に触れるだけで俺の望みは――日本への帰還は実現する筈なんだ。俺がこの世界から消えたら、あとに残った転生石は、ゴロウの勝手にすればいい。カントレイア世界がどうなろうと、日本へ帰還した俺の知ったこっちゃあねェ。実際、あとの事は俺にどうしようもねェ――」

 ツクシは虚空を睨んで語った。

 ゴロウはウィスキーの杯を豪快に呷って、

「いわれなくてもそうするつもりだった。魔帝軍の侵攻をこの世界に残った誰かが食い止める必要があるだろ。魔帝国がやっていることは無茶苦茶だ。あれは畜生な餓鬼が駄々をこねて無制限に暴れているようなもんだ。もう戦争ですらねえ。王都から逃げきれねえ奴らだってたくさんいるだろう。そいつらを助けることができるのは、たぶん、この世界で俺だけだ」

「――ゴロウの考えはよくわかった。ただ、ひとつだけ厄介事があるぜ。転生石を使っている『先客』がいた場合、俺はその先客と転生石の奪い合いになる」

 ツクシは眼前の虚空に浮かぶ敵の幻影から視線を外さない。

「ああよォ、想像もできないような、ブッ殺し合いになるだろうなァ――」

 ゴロウの髭面が曲がった。

「――何やかんやあったが、ここまで一緒にやってきたんだ。ゴロウだってもう知っているだろう。俺はせいぜい自分の身くらいしか守れねェ。俺はお前の命の保証ができん。引き返すなら今のうちだぞ」

 ツクシが空になった杯のなかへ視線を落とした。

「ツクシよォ。俺が何の考えもなしだと思っているのか。随分と見くびられたもんだよなァ?」

 ゴロウは歯を見せて笑った。

「――ああ、そのために、ゴロウはその道具を作ったのか?」

 ツクシはゴロウの胸元を見やった。

 防護のペンダントである。

「そういうことだ。一発だけ、一瞬だけ、この導式具を使って俺は耐えればいい。あとはツクシが敵を一撃で仕留める。囮になっている俺はこの導式具の力で何を食らっても無傷ってわけだ。シャオシンが持っていた秘石で作ったこの導式具は特別な性能でな。製作前の図面を見た限り、こいつが展開する防壁は、くじらのうんこサイズの爆弾が直撃してもビクともしねえ設計になっていた。どんな敵が相手だって、この作戦にハメれば楽勝だろォ?」

 ゴロウは自分の杯へウィスキーをダバダバ注ぎ入れた。

「おい、この赤髭野郎。高級な酒をそうやってダバダバと注ぐんじゃねェよ!」

 ツクシの顔色が変わった。バルドルの瓶の残量は三分の一を切っている。ツクシは「半分くらい残して日本へ持って帰ろうかなあ」などと考えていたのである。

「おめェは本当にケチな野郎だなァ――」

 ゴロウは呆れ顔でツクシを見やった。ドケチにケチ呼ばわりされたツクシは酒精で赤らんだゴロウの髭面を思い切って睨みつけながら手酌で自分の杯へウィスキーを注ぎ入れた。ツクシとゴロウが瓶を奪い合いながら飲んでいるうちに結局、バルドル十二年は空になった。酒がなくなるとツクシとゴロウは何もいわず寝袋にくるまって並んで寝た。それなりに酒を飲んだ所為か、ツクシはゴロウのいびきで夜中に目を覚まさなかった。

 夢も見なかった。

 翌日である。

 天童樹の根が届ける朝陽を浴びながら、水場で顔を洗い、そこらへんで用を足し、朝食を終え、荷造りをするツクシの表情は痛恨の極みにある。手にあるバルドル十二年の空き瓶をしばらく見つめていたツクシは、それでも背嚢へ空き瓶を仕舞い込んだ。

「オラ、ツクシ。さっさと行こうぜ」

 先に荷造りを終えて立ち上がったゴロウである。ツクシはゴロウを睨みながら何かをいいたそうな顔をしていたが、結局、何もいわずに背嚢を背負って立ち上がった。

 ツクシとゴロウは無言で大坑道を歩きだした。

 目的地は地図の北西区にある空白部分だ。

 そこが、二人の旅の終着駅――。

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