十二節 穏やかでない休日(弐)

 昼夜問わずに騒がしかったゴルゴダ酒場宿前の交差点も今は暗く沈黙している。交差点に面した家々は影絵となって夜空を見つめていた。ワイバーンに乗る導式術兵ウォーロックが放った光球炸裂弾を、まとも食らったヒッポグリフ騎兵が悲鳴と羽を半月へ散らした。夜間の空戦はどうやらタラリオン空軍の優位に進んでいるようだ。ツクシが上げていた視線を下ろすと交差点の片隅で、夜はいつもそこにいる老いた曲芸師ジャグラーが何個かの光る輪っかを使った芸を披露していた。

 見物客は誰もいない。

 その老芸人は誰もいない観客へ芸を見せている。ツクシはいつも横目に見てきた彼の芸をここで初めて見物することにした。夜闇に踊らせていた輪っかの曲芸をひと通り終えると老芸人は道化のシルク・ハットを手にとって、たったひとりの観客――ツクシへ深くお辞儀をした。頷いたツクシは金貨を一枚、指で弾いた。夜闇を裂いて飛んだそれは、老芸人が差し出したハットのなかへ見事に収まった。

 ツクシは踵を返した。

 老芸人はその背へもう一度、無言で頭を下げた。

 そのままツクシはゴルゴダ酒場宿のウェスタン調扉へ手をかけた。

 そこから漏れてくる喧騒はない。

 宿から外へ漏れてくる灯りもごくごく細い。

「――おう、戻ったぜ」

 ツクシのいつもの挨拶だ。

「おや、ツクシ、無事に戻ってきたね」

 カウンター席のエイダが振り返った。

 その手元に特大タンブラーがある。

 今夜のエイダは酒を飲んでいるらしい。

「ツクシ!」

 一声上げて、ツクシの腹部へタックルを決めたのはユキだ。

 猫耳つきの頭突きである。

 いつも通りツクシの返事は「げふっ!」だった。

「あらあらあ、ツクシ、お帰りなさい」

 カウンター・テーブルの向こう側にいたミュカレが、いつもよりだいぶ艶めかしく微笑んだ。

「まったく、閑古鳥の鳴き声が聞こえるぜ――」

 ユキにまとわりつかれたツクシがカウンター席へ歩み寄った。夜半前にも関わらず客は一人もいない。あの賑やかなゴルゴダ酒場宿の夜だとはとても思えない光景だ。

「――そうさねえ」

 エイダが弱く笑った。

 苦く口角を歪めたツクシが剣帯右についたポーチから財布を取り出して、

「エイダ、酒のツケはいくら残ってる?」

「ツクシ、お金があるの!」

 ユキはツクシをぎょっと見上げた。

 ツクシは横目でユキへ視線を返している。

「おやまあ珍しい。明日は空から槍が降るかもねえ――」

 エイダが深刻な溜息を吐いた。

「まさしく、世も末よねえ――」

 視線を落としたミュカレの顔が陰っている。

「あのな、お前ら。俺が金を持っているのがそんなに嫌か。じゃあ、ツケを払わなくていいのかよ?」

 ツクシは唸ったがエイダは手を突き出していた。そのエイダがいうに残っている酒のツケは金貨五枚と銀貨が三枚らしい。

 素直にいわれた金額を支払ったツクシは、エイダの横の椅子を引きながら、

「ついでに、エールはあるか? あるなら一杯もらう。ないなら、まあ、水でも何でもいいや」

 戦争で物流が滞った王都は酒も食品も入荷が不安定なので、あるものを飲む、あるものを食べるといった感じになった。水だけはミュカレの精霊が無料で出してくれる。

「ぶっふっふ――」

 エイダが笑ってミュカレへ視線を送った。

「ふふふっ――」

 笑って返したミュカレが厨房へ消えると、すぐにタンブラーを持って帰ってきた。

「おっと、今日はエールがあるんだな。どこから手に入れてきたんだ?」

 ツクシは口角を歪めた。タンブラーに注がれていたのはツクシが飲み慣れた、泡立ちが悪く、色の茶色い、ぬるいエールだ。

「これ本当は他の客が予約した分なんだけどねえ」

 エイダもエールを飲んでいる。

「いいのよお、朝から飲んでいたら、そのあとの仕事ができないもの。口を湿らせるていどに残しておけば――」

 ミュカレも今夜はエールを飲んでいた。

「へえ、このご時世に酒席の予約かよ。剛気な奴らもいるもんだな。あれ、マコトは――」

 ツクシが椅子の背もたれへ肘をかけて薄暗い店内を見回した。

 ユキが丸テーブル席に残った食器を片付けている。

 客がいた形跡のあるのはその丸テーブル席ひとつだけ――。

「あの子たちは市民義勇軍の仕事にいってるよ。最近はね、陣地構築の工事が夜間まで続くんだよ――」

 エイダの重い声である。

「そうか、子供ガキども、忙しいんだな――」

 ツクシの声は暗かった。

「ツクシ、市民義勇軍にも軍から銃が支給されたの」

 ユキが汚れた皿をまとめて運びながら声をかけた。

「ユキ、まさかお前も銃を――!」

 ツクシはぎょっと椅子から腰を浮かせた。

「――わたしも銃、欲しかったんだけど」

 厨房からユキの返事だ。

「それは賛成できんぞ、いや断固反対だ、俺は絶対に許さんからな!」

 ツクシが怒鳴った。

「――ツクシ、すぐ怒るし! 『お前はまだ小さいから駄目だ』っていわれて、わたし、銃もらえなかった。わたしだって戦えるもん!」

 厨房からユキが怒鳴り返した。

「そのほうがいいぜ。子供が戦争で戦う必要はねえ。とにかく、お前らは逃げ回っておけばいいんだ!」

 ツクシは椅子へ尻を落ち着けた。

「――ツクシ」

 エイダが特大タンブラー片手に呼びかけた。

「うん?」

 タンブラーに口をつけたツクシのくぐもった声である。

「ネストのほうはどんな塩梅なんだい?」

 エイダが顔を向けた。

「どうかな。だが、最後は近い気がしてる。ざっと見た感じ、天道樹の根っこは地下二十五階層から下へ伸びている気配がない。キルヒはネストの最下層にまで根を届かせるといっていた。そのキルヒの言葉を信じると地下二十五階層が最下層ということになる。俺が探していた『扉』は目と鼻の先だ。俺が日本へ帰るための扉だな。たぶん、じきに俺は日本へ帰れるぜ――」

 ツクシはいった。

「ツクシは凄いねえ――」

 エイダは息を呑んだ。

「本当に凄いわ、信じられない――」

 ミュカレがツクシを凝視している。

「――何がだよ?」

 ツクシは怪訝な顔になった。

「あたしたちが醜い竜の大迷宮を――南ネストを襲撃アタックしたときはさあ――」

 エイダが鬼面を歪めた。

「もう、散々だったわよねえ――」

 ミュカレは苦笑いである。

「ああ、前に聞いたな。女将さんたちは冒険者団にいた頃、南大陸にあるネストを制圧しようとして全滅寸前になったんだろ。だがまあ、それは無理もねェよ。接待用に作られたテレビ・ゲームのダンジョンと違って、ネストは本物の戦場だ。以前、俺と一緒にネストへ通っていた奴らだって全滅したようなものだからな――」

 ツクシがエールの杯を呷った。ツクシの脳裏には、先立った仲間の顔が浮かんでいる。ことあるごとに彼らは浮かび上がってツクシへ微笑みかける。ツクシはその笑顔を見るのが辛い。恨んでくれたほうがまだ気楽だった。

 死者の微笑み――。

「あのときはたくさんの仲間と一緒に、あたしの旦那まで死んじまってね――」

 エイダが呟いた。

「――エイダの旦那だと?」

 ツクシが眉根を寄せた。

 初耳である。

「グリーン・オークのホークス・ジオ・ウパカよ。私たちの冒険者団の団長でエイダの夫だった。もうね、エイダはホークスにべた惚れだったのよお!」

 ミュカレのふわふわした声が無駄に大きい。ミュカレはエールの杯を片手に据わった瞳を細くしている。ミュカレは酒癖がとてつもなく悪いのである。

 ツクシはしばらくエイダの鬼面を眺めて、

「すまん、女将さん。それはちょっと俺に想像がつかねェな――」

「ぶあっはははっ!」

 エイダは高笑いである。

 ひとしきり豪快に笑ったあと、

「ホークスはあたしと同じ村の幼馴染でね。まあ、旦那、兼、あたしの兄さんみたいなもんさ。あたしは一人っ子だったから、小さい頃からホークスに甘えっぱなしでねえ――」

 エイダは少しの笑みと一緒にいった。

「うーん、女将さんにも乙女な時代があったって話か――」

 ツクシは空にしたタンブラーを覗き込んで難しい顔だ。

「訊かれても、もうこの話はしないよ。何しろ、あたしが恥ずかしいからねえ!」

 照れくさそうな笑顔のエイダがツクシの背をばんばん叩いた。

「げっふ、げふん!」

 ツクシは派手に呻いた。

 鬼の豪腕で叩かれると背骨が折れそうだ。

 そうしていると、

「ツクシ」

 背のほうからツクシは呼びかけられた。ツクシが振り向くと湯上がりのユキがいる。濡れた銀髪を血色が良くなった頬に掛けたユキは白いキャミソール・ドレス姿だ。これは随分前にツクシがプレゼントしたもので、何度も洗濯を繰り返した所為か生地が少々くたびれていた。

「おう、ユキ、何だ?」

 ツクシが訊くと、

「はい、これ」

 ユキが胸元で抱えていた小さめの紙袋を手渡した。

「何だ、これ――」

 ツクシが首を捻っているうちに、

「女将さん、ミュカレ、今日はもう寝るね」

 背を向けたユキは階段を上がっていった。

「ああ、おやすみ、ユキ」

 エイダは返事をしたが、ミュカレは黙ったまま階段を上がるユキの垂れたしっぽを眺めている。

「おう、ユキ。また明日な。中身はスカーフか。ああ、この色褪せた赤い布は見覚えがあるぞ。元はユキの赤頭巾ちゃんマントだな――」

 ツクシがユキから渡された紙の包みを開けた。

「ツクシ、私はちょっと、ユキの様子を見てくるわ」

 ミュカレは前掛けを外しながら階段へ足を向けた。

「おう? ユキは体調でも悪いのか?」

 ツクシがミュカレの背に訊いた。

「――ツクシのばか」

 背中越しに半分見せたエルフの美貌からそんな返事があった。

 そのまま、ミュカレはユキを追って階段を上がっていった。

 赤いスカーフを手に怪訝な顔のツクシである。

「ツクシは変なところで勘が鈍いねえ。きっと今頃、ユキは二階でギャンギャン泣いているよ。ミュカレも一緒に泣くかもねえ。アンタ、もうじきにニホンへ帰るんだろ。孤児のユキにとって、この酒場宿にいる連中は全員が家族みたいなもんだ。ツクシは、差し詰め、ユキの父親ってところになるのかねえ――まあ、誰だって別れは辛いさね――」

 エイダが視線を落とした。

「――ああ、そうだったな。俺はもうすぐこの世界から完全に消えるんだったな」

 ツクシは赤いスカーフを見つめた。

 使う前から色褪せてあまり飾り気のないものである。

 余計な飾りがついたものをツクシという男は好まない。

 ユキはそれを知っている――。

「本当にツクシはニホンへ帰るつもりなのかい?」

 エイダがツクシへ視線を送った。

「俺はもうこの世界にいたら駄目だ。みんなが不幸になるだけだからな――」

 ツクシはユキからもらった赤いスカーフを椅子の背もたれにかけた。

「あたしはそう思わないけどねえ――ツクシ、エールのお代わりは?」

 エイダが渋い顔で腰を上げた。

「ああ、もう一杯もらう。ただな、女将さん。ひとつだけ、日本へ帰還するにあたって、問題というかな、思い残したことがあるんだよな」

 ツクシも渋い顔でいった。

 カウンター・テーブルの向こう側を歩きながら、

「何だい、ツクシ。いってごらんな。いうだけなら無料ただだよ」

 エイダが笑った。

「女将さん、ヤマさんのことなんだよ」

 ツクシがいった。

「ヤマかい――よくそこの丸テーブル席で、あんたらと一緒にスタウトをちびちびやってたねえ――」

 新しい杯を手に戻ってきたエイダが近くの丸テーブル席へ視線を送った。ツクシがいつも座る右から二番目のカウンター席の、すぐ後ろの丸テーブル席が、ツクシとその周辺にいた仲間が好んで使っていた席だった。

 そのほとんどはもうこの世界から姿を消した――。

 ツクシはエイダから新しいエールの杯を受けとって、

「――うん、そうだ。そのヤマさんのことなんだ。日本にいるヤマさんの両親はどうもまだ健在らしいんだよな。だから、俺が日本へ帰ったら、ヤマさんのご両親にだな、その、報告を――嫌な報告だが、してやりたいと思ってるんだ。辛くてもそうしてやらないと、息子が突然失踪したご両親は気持ちの整理がつかねェだろ。だからまあ、『不慮の事故で死んだが、ヤマさんは異世界こっちで立派にやっていた』と、俺はヤマさんの家族に伝えてやりたいんだよ。行方不明者届けが出ている筈だし、名前と年齢、日本で住んでいた大まかな場所もわかっているからな。ヤマさんの実家はS県のどこだったか――まあ、とにかく、警察へ――異世界こっちでいうところの治安維持警備隊へ連絡すれば、ヤマさんの実家を探すのは簡単な筈なんだ」

「それなら何も問題はないように思えるけどねえ?」

 首を捻ったエイダは特大タンブラーのエールを一息で干した。

「いや、それが大いにあるんだよ。ヤマさんの身元を証明するようなものを何かぶら下げていかないと、俺の話はヤマさんの家族に信じてもらえない気がするんだよな。この場合、状況がかなり特殊だろ――ヤマさんの墓を掘り起こすわけにもいかんのだろうし――」

 ツクシはエールの杯の縁を噛んで顔を歪めている。

「ああ、ツクシはヤマがこの世界で生きた形見――証明が欲しいのかい?」

 思案顔のエイダが、「ぶすん」と鼻を鳴らした。

「そうだ、女将さん。ズバリそれだ」

 ツクシはエールの杯を空にして頷いた。

「――それならあるよ。ツクシ、ちょっと待ってな」

 天井を睨んで考え込んでいたエイダが厨房へ消えた。

「おう?」

 首を捻ったツクシがそのままの姿勢で待っていると、

「――あった、あった。丁度二本だ。ほい、ツクシ、これを持っていきな」

 エイダはウィスキーを二本持ってきた。

「ああ、ボルドン酒店のウィスキー『バルドル』か。確かにこれはヤマさんが深く関わっていた商品ではある。けどなあ、でも、これだけじゃあ、ヤマさんが関係している品だって、第三者はわからねェと思うぜ?」

 ツクシは腕組みをした。

 卓上にバルドルの瓶が二本ある。

「ツクシ、これはバルドル・シリーズで一番値段の張るやつでね。よく見てみなよ、ほら、裏のラベルさね」

 エイダがバルドルの瓶を半回転させると――。

「――おお、創業者としてヤマさんの肖像画がついてるのか!」

 ツクシが目を見開いた。バルドルの瓶の裏についたラベルに苦笑いを浮かべたヤマダの顔が印刷されている。これはどこからどう見てもヤマダの顔であるし、こちらの世界の文字で『ボルドン酒店の伝説的な創設者の一人、ヤマダ・コータロ』と名前も入っていた。

「――ああ、畜生、横にボルドンの顔もあるのか。デブの髭面は余計だぜ。この部分だけコインで擦って剥がしておくか?」

 ツクシの顔が大いに歪んだ。

「まあ、これなら誰が見ても、この酒にヤマが関係していたって、わかるんじゃないのかい?」

 エイダは笑顔である。

「これはいい知恵だぜ。女将さん、このウィスキーは一本いくらなんだ?」

 ツクシが訊くと、

「――金はいらないよ。二本もっていきな。一本はアンタへの餞別だ」

 ツクシから顔を背けたエイダである。

 鬼の声が震えていた。

 灯火管制下で屋内の灯りも頼りない。

 エイダの顔は影になっている。

「――いや、女将さん、珍しく金はあるんだ。好きなだけ俺からムシり取れよ」

 口角を歪めたツクシが自分の財布を卓上へ放ると、ジャジャッと音が内容を外へ知らせた。

 顔を横向けままのエイダは返事をしない。

「この宿の連中には散々世話になった。感謝しきれないぜ。俺は生まれてこの方、ここまで他人から親切にしてもらった覚えがねェ――」

 うなだれたツクシの肩と声が少し震えている。

「――あたしに何度、同じことをいわせるんだい。このウィシュキ二本はアンタへの餞別だ。金は取らない。黙ってもっていきな」

 エイダが横を向いたままいった。

「いや、金を余計に取ってくれよ、女将さん。俺は今、金が余って――」

 食い下がったツクシが顔を上げると、

「いいから黙ってもっていきな!」

 真正面から咆哮が飛んできた。

 宿全体がビリビリ振動する鬼の咆哮である。

 エイダの鬼面も完全に激怒していた。

「お、おう。じゃあ、このウィスキー二本はもらっておくか。ありがてえ、ありがてえ――」

 別の意味で声を震わせたツクシは出した財布を震える手で引っ込めた。

「さてと。あたしもそろそろ寝るかねえ。最近は寝るのに早いよ。宿がうんとこさ暇になっちゃったからねえ――」

 エイダが溜息と一緒に厨房へ足を向けたところを、

「ああ、ちょっと待ってくれ。まだ女将さんに話があるんだ」

 ツクシが呼び止めた。

「どうしたね、珍しい。今日もらった金でアンタの借金は完済だよ?」

 エイダは怪訝な顔だ。

「ああいや、借金じゃねェんだ。ユキやマコトやアリバや――ここで働いている子供ガキどものことだ」

 ツクシは卓上に視線を置いた。

「ああ――」

 腑抜けた声と一緒にエイダはうなだれた。

「俺はゴルゴダ酒場宿ここで働いている子供ガキどもを戦争で死なせたくねェ」

 ツクシが唸った。

「――断じてだ」

 その目が殺気でギラつく。

「そりゃあ、あたしだって常々そう思っているけどねえ――」

 エイダは溜息を吐くような調子である。

「女将さんたちはこれからどうするつもりだ?」

 ツクシが顔を上げると、

「ツクシ、舐めるんじゃないよ。あたしたちは元冒険者だからね」

 エイダが顔を上げた。

 鬼面に二つある黄金の瞳のなかで戦意が燃え盛ってそれが強い光を放っている。

「――まさか、女将さんたちも戦うつもりか?」

 まさか、とはいったものの、ツクシだってエイダの強烈な戦闘能力は知っている。あの屈強な大トカゲのゲッコを、トカゲのひき肉寸前まで追い詰めた鬼の豪腕だ。

「あたしたちは冒険者義勇軍に参加する。もう、そうするしかないだろうさね?」

 エイダが口角と上向いた二本の牙を吊り上げて見せた。

 戦鬼の面構えである。

「――あっ、ああ、いや、女将さんたちも、ケツを捲って王都から逃げちまえよ。負ける戦争に付き合うなんてな。クソくだらねえ。そんなものは死に損もいいところだぜ」

 完全に気合負けしたツクシは目を逸らした。

 弱く笑って闘気を消したエイダが、

「ツクシ、その気持ちは嬉しいよ――でも、あたしらにはもう逃げる経路がないんだ。グリフォニア大陸西の沿岸には魔帝軍の大艦隊が浮いているし、王都東の前線を突破した魔帝軍の陸戦部隊は王都をぐるっと包囲しているんだよ。だから西へも南へも逃げられないね。強いて逃げ道を挙げると王国の北西に隣接するドワーフ公国だけどねえ。そこは殺気だったドワーフ公国軍が、北西の国境線上で全軍待機して難民と魔帝軍の侵攻を警戒しているらしいんだよ。だから、その警戒網を抜けるのも難しそうだね。それにドワーフ公国は海に面していない。デ・フロゥア山脈を越えて北はひとの住めない土地――灰色の凍土だ。だから、よしんばドワーフ公国へ逃げ込めても魔帝軍がドワーフ公国への侵攻を決断したら、結局はまたドン詰まりになる――」

「――同盟国なのにドワーフ公国は王国からの難民を受け入れる気が一切ないのか。女将さんは随分と戦況に詳しいみたいだな?」

 ツクシは呟くように訊いた。

「ドワーフ公国は小さな国だからねえ。たぶん、難民を受け入れる気がまったくないわけじゃないんだよ。きっと、その余地がないんだろうさ。これは全部、冒険者義勇軍に参加している連中から聞いた話だ。まあ、元冒険者のツテってやつかねえ――」

 エイダは苦く笑った。

「いや、女将さんたちは逃げろ」

 ツクシがまたいった。

「本当にしつこい男だね。さっきからいっているだろ。もうわたしたちの逃げ道はないって。もう少し詳しく戦況を説明してやるかい――?」

 顔を歪めたエイダの話を、

「いや、あるんだ、逃げ道はあるんだ」

 ツクシが強い調子で遮った。

「――ツクシ、あるのかい?」

 エイダから表情が消えた。

「実際、タラリオンの王都を脱出している連中はもういる。南の国へだ。コテラ――ええと、コテラ・ティモティモ?」

 ツクシがいい淀んでエイダをじっと見つめた。

「――コテラ・ティモトゥレ首長国連邦だね」

 エイダがツクシの足りない記憶能力を補足した。

「ああ、それだそれ。その国だ。タラリオン王国の南方にある国らしいな」

 ツクシは空にしたタンブラーの底を見つめた。

「ツクシ、それは本当なのかい? あたしの聞いたところ、タラリオン王国の南部一帯は魔帝軍の陸戦部隊がもう展開していて、猫の子一匹だって通れないって話だったけどねえ」

 エイダが眉根を寄せた。

「女将さん、簡単な話なんだよ。聞いてくれるか?」

 ツクシがいうと、

「是非とも聞かせてもらおうじゃないか。話が長くなりそうだね。エールのお代わりはまだいるかい?」

 空になった杯を回収したエイダが厨房へ足を向けた。

 頷いたツクシが、

「ああ、もう一杯頼む。女将さん、実はネスト管理省へもう話を通してあるんだ――」

 戦時下にある王都の夜はせきとして死神と緑鬼の密談を遮る音はない。

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