十節 太陽の結界(参)

 キルヒは草花が所々顔を見せる路面を慈しむように歩いた。あっちへふらふら、こっちへふあふあである。嫌な顔ひとつもせず、ツクシはキルヒについていった。お互いの会話はほとんどなかったが、時折、キルヒはツクシへ顔を向けて笑った。ツクシはそのたびに、「おう」と短い返事をした。もっとも、王座の街の路面には異形の長槍の犠牲になった住人の死体や凶風人の異形弓に撃ちぬかれてひき肉になった兵士の死体がゴロゴロ転がっているので、のんびりした散歩の光景とはいい難い。

 そんな感じで、ツクシとキルヒが歩き回っているうちに王座の街の中央区へ辿り着いた。そこで一番目立つものといえば酒場宿兼娼館メルロースだ。正面の出入口には娼婦が心配そうな顔を並べていた。黒服の男たちも緊張した面持ちで周囲の様子を窺っている。

 陽光が届いていない場所でナイトメア・ライダーが彷徨い歩いているのが見えた。

「――キルヒ!」

 娼婦の群れのなかにいたサラだ。

「あっ、キルヒ――」

 横にいたルナルナが呟いた。

「キルヒさま!」

 チョコラが駆け寄ってきた。

「ふっ、貴様ら無事だったな――」

 キルヒは三人の高級娼婦に抱擁されて笑った。

 目元を和ませたシルフォンが再会を喜ぶ主人と娼婦を黙って見下ろしている。

「感動の再会ってやつだよな――」

 ツクシが呟いた。

 キルヒの肩越しに顔を見せたサラが笑顔で手招きをするので、眉根を寄せたツクシが歩み寄ると、

「では、ついでにツクシもこうしてやろう」

 サラの手で引き込まれて、ツクシもとびきりの美女四人が作る抱擁の輪へ参加を許された。

「――うりうり、どうだ、嬉しいだろう?」

 ドレス胸元から覗く豊満な胸を意図的にツクシへ押し当てるサラである。

「ついでに、ツクシも無事で良かったにゃあ!」

 ルナルナが抱きついて目尻に溜めた涙でツクシの片頬を濡らした。

「ついでに、ツクシさまあ――」

 チョコラは猫耳のついた頭をツクシの胸の下に押しつけた。

 キルヒはツクシのうなじに熱い吐息をかける位置にいる。

「ついででも悪い気はしねェが――だけど、お前ら、今回の俺の給料はまだ出てないからな。ここで色気を売っても銭にならねェぞ?」

 鼻息を荒くしていたツクシが色気満載の抱擁の輪からすっと離れた。

 サラも、ルナルナも、チョコラも、ツクシを見つめて笑っている。

 三人とも微妙に悪い笑顔だ。

 最近のツクシはこの三人の高級娼婦(うち一名はまだ見習い)の財布代わりになっている。

「さて、ツクシ、ゆくぞ」

 キルヒがいった。

「キルヒはメルロースに来たんじゃなかったのか?」

 ここが目的地だと思い込んでいたツクシは怪訝な顔だ。

「サラ――」

「ルナルナ――」

「チョコラ――」

 キルヒは一人一人に呼びかけた。

「うん?」

 首を傾げたサラがキルヒへ視線を返した。

「どうしたの、キルヒ?」

 ルナルナがチャトラの猫耳を立てた。

「キルヒさま、どうかされましたか?」

 チョコラがキルヒを見上げた。

「――どうもせん。貴様らに会えて良かった」

 キルヒは一呼吸分だけ間を置いて笑った。

「――うん」

 頷いたものの勘のいいサラの眉間は陰っている。

 胸を騒がすその予感をはっきり説明はできないのだが――。

「また遊ぼうにゃ、キルヒ!」

 ルナルナが笑顔でいった。

「はい、すぐにお宿へ戻ってきてくださいね」

 チョコラも小さく笑った。

「ついて来い、ツクシ」

 キルヒが顎をしゃくって歩きだした。

「あっ、ああ――」

 ツクシが、キルヒの背を追った。

 シルフォンが一瞥だけで娼婦たちへ別れを告げると、彼女たちも視線を上げてそれに応えた。


 ツクシは歩きながら、

「しかし、凄いな、あの暗かった王座の街がこんな明るい。風まで吹いてる。この風はシルフォンとやらの力なのか?」

 シルフォンは視線だけをツクシに返した。

「――ツクシ」

 キルヒが呼びかけた。

「ん?」

 ツクシが顔を向けると、

「ネストの最下層にあるものを転生石リーンカーネーション・ストーンという」

 キルヒが唐突にいった。

「――ああ、例の爆弾ことか。そういう呼び方もあるんだな。どうも、その転生石とやらは、かなり危なっかしいブツなんだろ。それを封じるのがキルヒの目的に見えるが、そこらはどうなんだ?」

 ツクシの声が極端に低くなった。

「ツクシはものわかりがよい」

 キルヒが足を止めた。

「そんな褒められ方をされたの生まれて初めてだぜ――」

 ツクシが驚いた表情のキルヒを見つめた。

「そうだ、転生石を封印する力を得るため、我ら月黄泉つくよみの一族は精霊の王とちぎりを結び、永劫のときを生き永らえる」

 キルヒがまたゆっくりした足取りで歩きだした。

「王様と契ねえ――じゃあこの大きなオッサンがお前の旦那様になるのか?」

 ツクシはシルフォンを見上げた。

 シルフォンの見た目だけならオッサンというより青年である。

「そうなる。私はシルフォンの他に男を知らん。その気晴らしに、女の肉体からだを良く知っているが――」

 キルヒの笑みから色気がこぼれた。

「それはもったいのねェ話だよな――」

 ツクシは真剣な顔つきだ。

「男を相手に浮気をするとな。この旦那様は嫉妬で燃えて消えさるのだ」

 キルヒがシルフォンを横目で見やった。

「男女が永遠に契るのは自然のことわりゆえ。だが、その理を俺が決めたわけでもない」

 風の声で応じたシルフォンに表情に変化はない。

「要するに旦那様は可愛い奥様の浮気を絶対許さないってわけか?」

 ツクシが訊くと、

「そうだ。浮気をして契約者を失うと我らは普通のエルフになり果てる」

 キルヒが頷いた。

「普通のエルフ?」

 ツクシが話を促した。

「無限から有限の存在へ還るだけ。長く生きると我らのたいていはそれを望むようになる。永劫の生は想像以上に退屈だ。退屈は心を殺してゆく。シーマもやはり耐えられなんだ。もっとも、だからといって私は妹を――シーマを責めるつもりはない」

 キルヒの語った内容をツクシはほとんど理解できなかったのだが、

「へえ、要するに浮気をすると退屈じゃあなくなるってか――」

 ツクシは大雑把に要約した。

「ふっ」

 鼻で笑ったキルヒである。

「俺は浮気の相手ならいつでも大歓迎だぜ」

 まあ駄目元でも、いってみるだけ、いってみよう――。

 そんな感じで、ツクシが誘いをかけると、

「では、そうする――」

 足を止めたキルヒがツクシの頭を両手で抱えた。ツクシはキルヒに唇を奪われている。ものすごく濃厚だ。最近では女性に不自由しなくなった(金をたくさん使うが――)ツクシでも目眩がするような濃い接吻を惜しげもなく与えたあと、キルヒは身を引いた。

「――ぅぷあっ!」

 自分の呻き声で我に返ったツクシはキルヒの両肩を強く掴んで、

「おっ、お誘いはすごくありがたいけどな。いいか、キルヒ、よく聞いてくれ。お前は目が見えないし露出狂の傾向があるから、他人の目がある場所でイタしても全然平気かも知れん。だが俺にはそういう趣味がないんだぞ。お前の旦那とやらも、そこで見ているしな。いや、俺はお前を拒絶しているわけじゃないからな。そこは勘違いをするな。だがここはだ。メルロースあたりで部屋を借りてひと払いをしたあとで、ゆっくりじっくり一晩中だな――」

 見苦しい説得をしている最中である。

「私だってそうしたいのは、やまやまなのだが――」

 キルヒはツクシの胸を両手でトンと突くと身を離して笑った。一体何千年の間、生きてきたのか。この神秘の女性は童女のような表情を稀に見せる。

 今の笑顔がそれだった。

 ひととき魂を奪われていたツクシが頭を強く二度振って、

「ああ、そうかよ。また、やらずぶったくりってわけか。お前って女はすげェサディストだよな――」

「――サディスト?」

 キルヒが小首を傾げた。

 その仕草が妙に幼く見える。

「簡単にいうとな、お前はすごく意地悪な女だなって意味だぜ。よく覚えておけよ――」

 恨みがましいツクシである。

「ふっ――」

 キルヒは鼻で笑って応答した。

「ふっ、じゃあねェよ――」

 ツクシはうなだれた。

「――歩こう、ツクシ」

 またふらふらとキルヒが歩きだした。

 無言で膨らみ続けるシルフォンもあとに続く。

「ああ、それはいいけどよ――」

 ツクシはうなだれたままキルヒについていった。

 王座の街を蛇行しながらしばらく歩いたあと、

「ツクシ」

 キルヒが足を止めた。

「おい、今度は何だ?」

 不機嫌ではなかったのだが、ツクシはできるだけ不機嫌な声で唸った。

「あれを、斬り捨てろ」

 キルヒが指差した方向へツクシが視線を送ると、おそろしく鈍い銀色のヒト型がいた。長い手の先も長い足の先にも指がなく、コンパスの針のように尖っている。それが二本足で歩くものだから動作がくらくらしていて見るからに不安定だ。

 顔は眼と口の部分に丸い穴が空いているだけ――。

「――何だ、あの不気味な奴は。攻撃してくる気配はないがな」

 ツクシが顔を歪めた。

「『崩壊世界ハザード』から来た異形のなかには陽の光の外で姿を隠すものがいる。さして力は強くないのだが、しかし、異形の領域の外でも活動を――」

 キルヒが説明している途中、

「ああ、なるほどな。闇のなかでは見えないあいつが先行をして、異形の領域を広げていたのか?」

 ツクシが頷いた。

「そうだ、忌々しい――」

 キルヒが眉を強く寄せた。

「そんなにあいつが嫌なのか――」

 ツクシの右手が魔刀の柄へ滑った。零秒で距離を詰めたツクシが、ふらふらしていたヒト型の異形種を魔刀の刃で真っ二つに割る。

「――ほれ、お前のためだけに斬ってやったぜ」

 振り向いたツクシである。

「美事」

 キルヒが歩み寄って一言褒めた。

「どうやら、死んだみたいだが。血も出ないし声も上げねェ――鉱物なのか、これ――」

 ツクシは足元で土くれのようになった異形人を見つめた。

「生き物ではない。だから、痛くも苦しくもないだろう」

 キルヒがいっているうちに、異形人の死体はサラサラと大気に溶けてゆく。

「生き物ではない――じゃあ、これは何なんだ?」

 ツクシが「これ」といった異形人はもう跡形すら残っていない。

運命マナが尽きて崩壊した並行世界――崩壊世界ハザードから転生石の力を借りて別の世界へ紛れ込んでくる存在。生きずに活動だけをする。活動の原動力は、生きとし生けるものへの――輝くものへの嫉妬だ。崩壊世界の異形は闇から出ることが決してまかり通らぬ存在ゆえに――」

 キルヒは顔をうつむけて低く歌った。

「その崩壊世界ってのはどこにあるんだ?」

 ツクシが訊くと、

「それがどこかは私も知らん。知りたくもない」

 キルヒはかぶりを振った。

「なるほど、超級異形種ウーバー・ヴァリアントは別の世界から来た侵略者インベーダーって感じなんだな。ま、この世界で何があっても、俺はもう驚かないぜ――」

 顔を上げたツクシが、

「――どわっ!」

 すごく驚いて横に跳んだ。ツクシの肩口が水で濡れている。上空から大量の水が落ちてきて脇を掠めたのだ。周辺一帯が大きな水たまりになってしまうほどの水量だった。

「――ツクシはただの水にそこまで驚くか。ふっ、ふふふっ!」

 キルヒはお腹を抱えてコロコロ笑った。

「いや、誰だってこの量の水が上から落ちてくると驚くだろ――ああ、天井に走っていた水脈をあの光る根っこがぶち破ったのか。こんなのまともに食らっていたら水圧で死んでいたかも知れねェぞ?」

 ツクシが歪めた顔を上に向けた。

「ここでツクシに死んでもらっては困る」

 キルヒは声に出して笑うのをやめたがそれでも笑顔だった。

「しかし、あの根っこ、凄い成長スピードだな。もう天井にびっしりだぜ。ああなると、根っこ全部が光るわけじゃないのか。黒い空に本物の太陽があるみたいだ――」

 天井を見上げたままツクシがいった。

「身体を休めながら、地上であの種を撒いていた」

 キルヒも見えない瞳で天井を見上げた。

「へえ、あれは珍しい樹なのか。いや、まあ、珍しいんだろうな。ゴロウたちも仰天していたし――」

 ツクシはキルヒの青い横顔を見やった。

「本来なら天道樹は大森林の聖域グラン・ウッド・サンクチュアリでしか生きれぬ。シーマが天道樹の種を持っていた。私の妹は――シーマは『ことわりの管理者』としての力をほとんど失った。だから、地上で妹を見つけるのに手間取った。私はもっと早くに異形の巣の底へ天道樹の根を届かせるつもりだったのだが――」

 キルヒが歌った。

「――へえ。しかし、こんな速度で育ち続けたら王都が全部森になっちまうんじゃないのか。地上ではあの木が凄い速度で成長しているんだろ?」

 ツクシが口角を歪めて見せた。石天井を破る勢いで成長する太い根を見ると、地上で天道樹がモリモリと育っているのは明白だから、それはもう物凄い騒ぎになっている筈である。

「――その心配はない」

 キルヒは顎を引いて弱く笑った。

「そうなのか?」

 ツクシは首を捻った。

「あれを育てているのは私だ。天道樹の成長は限りがある――」

 キルヒは路面に向かって呟いた。

 陽射しが落ちる場所へ青い草花が芽吹いた路面である。

「キルヒ、それはどういう意味なんだ?」

 何かの予感を感じたツクシの顔に影がよぎった。

「――愛しきひとよ」

 上空からシルフォンの声だ。

「何だ、シルフォン」

 キルヒが顔を上げた。

「俺は愛しきひととの別れが望みだったのだ――」

 真上へ視線を上げないと、顔が見えないほど巨大になったシルフォンが、キルヒをじっと見下ろしていた。

「これも別れに相違ない」

 キルヒはにべもない態度である。

「しかし、しかしだ、愛しいひとよ――」

 神話の巨人は悲痛な表情を見せた。

「シルフォン、私は生きるのにもうんだ」

 キルヒはまっすぐシルフォンを見上げている。

「俺はまだ愛しきひとを倦んではいない」

 シルフォンは身を屈めてキルヒに顔を寄せた。

「ふっ、女々しいことを」

 鼻で笑ったキルヒが、

「ツクシはどうなのだ?」

 と、ツクシへ顔を向けた。

「――ん?」

 ツクシの返答は少し遅れた。

 目を隠した半神の青い美貌に痛みが浮いている。

「貴様は生きるのにむことはないのか?」

 キルヒがもう一度、弱い笑顔で訊いた。

「――俺はどうなのかな――それはそうと、根っこが王座の街の壁面まで這っているが、どこまで伸びるんだよこれ――」

 視線を外したツクシが王座の街を丸く囲む壁を見やった。

「約束通り、ネストの最下層まで天道樹の根を届かせよう――」

 キルヒがふらふらとまた歩いていった。風に揺れる天幕の街の大路を南へだ。石天井を割る太陽の根は伸び続けている。王座の街全体が陽光で照らされていた。自然の光は人工の光では払えなかった篤い闇を完全に追い払っていた。

 あれだけいた超級異形種の姿はもう見えない――。

「――根を最下層まで。そんなことできるのか?」

 ツクシが横を歩くキルヒを見やった。

「できる、それがため、私はここにいる」

 頷いたキルヒが立ち止まった。

 王座の街のちょうど中心だった。

「――キルヒ」

 ツクシが向き直って呼びかけた。

「ツクシ」

 キルヒもツクシに向き直った。その存在感で半神の女は自身の身を大きく見せていたが、近くに立つとその背丈は成人女性の平均よりずっと小さい。まだ十代の少女といっても通用しそうな容姿だ。

「――お前、まさか?」

 ツクシが呻くように訊いた。

 キルヒは大巨人になったシルフォンを見上げて、

「ここらでよかろう」

「愛しきひとよ――」

 シルフォンが呻き声で応えた。

「シルフォン、永い間、世話になった。最後にもうひと仕事を頼む」

 半神の女は別れを歌う。

「気が進まぬ」

 シルフォンはまた呻いた。

「頼む、威厳あるものよインペリアル

 キルヒが彼女の契約者へ笑顔を見せた。

 風切り音で大きな溜息がひとつ。

 ツクシとキルヒの外套がバタバタはためいた。

 胸を開いたシルフォンが、

「――よかろう。それが、俺の愛したものの最後の望みならば!」

 風の声で絶叫した。

 王座の街全体に風が吹いた。

 ツクシの足元が振動していた。

 天道樹の根がさらに地下深くへ伸びてゆく――。

「ツクシとは超自然ではなく、自然な身の上で会いたかった。それなら愛を交わすのに、躊躇もなかったろうに――あっ、ツクシ、どこだ、どこだ?」

 キルヒが声を震わせて手を伸ばした。

 怯えている――。

「――お前の目の前にいる」

 ツクシがとっさにキルヒの手を掴んだ。

「もう見えなくなった。ああ、これはツクシの手だ。私の近くにいてくれたな。今は私から離れないでくれ――」

 キルヒがツクシの手へ額を押しつけた。

 その額はツクシの手へ確かな体温を伝えた。

 ひとの熱――。

「――元々キルヒは目が見えないんじゃないのか?」

 ツクシが訊いた。

「目が見えずとも不便ではないのだ。私には匂いも形もひとの感情も手に取るようにわかった」

 ツクシの手を強く握りながら、その身を寄せたキルヒが黒い眼帯を外した。

 キルヒは光を受け取ることは永遠にないが、それ自体の輝きは決して消えない双眸でツクシを見つめて、

「されど、ものの色だけは私にわからん。月灯りに星々、太陽の光線、大地とそれを覆う草花や石くれ、森に小川に海の色。そこに湧き続ける虫たちや、そこを駆ける獣の毛並みや、水の流れを跳びはねる魚や、その上を飛ぶ鳥の群れ、そこから舞い散る羽毛。ひとの肌や髪。夜の街にある灯火の色、色、色――例えば、ツクシはどんな瞳の色なのだ? それを考えると私の能力などひどく虚しい――」

 キルヒは様々な音で歌った。

 世界にあるすべての調べ――。

「太陽の根っこを育てているのは、まさか――」

 ツクシが呻いた。

「――ツクシはものわかりがいい。そうだ、シルフォンは私の存在を憑り代にしている『永劫熱思念体アストラル・イオン』。異形の領域を押し返すのに自然の力だけでは足りん。だから私の存在を――シルフォンを滋養にして地上の天道樹を育てている」

 キルヒの背後にいたシルフォンは異形の巣全体へ生命を届かせる息吹と化していた。

 その巨躯が大気に溶けて、もうほとんど見えなくなっている。

「その他に方法はないのか?」

 ツクシの声が震えている。

「ないからこそ、我ら月黄泉つくよみの一族――ことわりの監視者は、この世界に存在することを無限複層平行世界の管理者から許された」

 キルヒの青い美貌がツクシの顔に近い。

 青く甘い吐息がツクシの顔へかかる。

 まだ、その呼気にはひとの熱がある――。

「キルヒ、俺はこれからどうすればいいんだ。俺はお前に訊きたいことがたくさんある。わからないことだらけで――」

 ツクシは弱い声で訊いた。

「迷うな、ネストの最下層へ歩め」

 また一歩、キルヒがツクシに身を寄せた。

「そこで俺は何をすればいい?」

 ツクシの声は硬かった。

 キルヒは強張ったツクシの胸元へその頬を寄せて、

「あとはその腰にある聖剣へゆだねろ。私は数えきれない世代を生きた。その聖剣をいたものを幾人も知っている。そのすべてが流離いの剣士だった。因果の円環を断ち斬る宿命さだめを背負った孤高の男たちだ。なかには女もいたが――」

「――ああ、最後は刃物ヤッパ決着ケリをつけろってか。俺向きの話だよな」

 ツクシはいった。気負っているつもりだったが力が抜ける。しっかり握っていた筈だったキルヒの手もするりと抜けた。

 その青い手も――改めて見るとひどく華奢な手も、ツクシの胸元へきた。

「流離いの剣士よ――」

 キルヒはツクシの胸元で顔を上げた。

 童女のような青い笑顔だ。

「キルヒ、俺はそんなのじゃねェぜ。俺を俺の名前で呼んでくれ」

 ツクシが口角を歪めて見せた。

 これが本物の男の意気地だ。

「――ふっ、ふふふっ! ツクシ、ツクシ、ツクシ――呼んだぞ。確かに私は貴様の名を今、呼んだ。なるほど、ワン文字で『ツクシ』。旧文明時代の漢字で『つくし』。何という皮肉で的確な名を持つ男。まさしく運命マナの剣士にふさわしい名。ああ、私が運命マナに縛られぬものならば、貴様へこの身も心も捧げたものを!」

 キルヒが高く歌った。

「何だよ、キルヒ。遠慮をせずにいえ」

 ツクシの口がキルヒの唇に近い。

「ツクシに出会えてよかった。私はまがい物でない男に看取られて――」

 キルヒは囁くように歌った。

「ああ、俺もだ、キルヒ。これまで見てきたなかでお前が一番いい女だぜ――」

 ツクシは口角を歪めたまま応えたが――。


「――返事はなし、か」

 ツクシは表情を消した。

「あの、とびきりいい肉体からだが樹になってら。最後までやらずぶったくりかよ、こんなに笑いながら逝きやがって――」

 ツクシはキルヒの頬へ右手を置いた。木肌のぬくもりはあっても、そこにひとの体温はない。

 キルヒ・アイギス=シルフォンは太陽に歓喜する乙女のような立ち姿で樹木になった。

 黒い長ブーツを破った根が石の路面を食い破って地下深くへ伸びている。キルヒの存在そのものが異形種を――外世界からの侵略者を食い止めるために撒かれた天道樹の種子――。

「――しかし、どいつもこいつも俺の前で好き勝手に死にやがるな」

 ツクシが脱力した。

「俺はただのオッサンで、学歴も我慢も甲斐性もオツムも妻子も財産もない、無い無い尽くしの中年男で、たぶん、この世で一番生きる価値がない底辺のゴミ虫だ。誰がどう見たってそうだろ。しかし、そんな俺に、死ぬより遥かに辛い思いを背負ってまで生きろってのは、一体どういうことだ?」

 ツクシは半神の木像の前で両膝をついた。

「なあ、キルヒ――」

 キルヒの像の下腹部へ額を押しつけたツクシが、

「――馬鹿な俺に教えてくれ」

 完全な荒涼のように見えた男の心へ哀しみの刃は深く、何度も何度も突き立ち、その奥底にかろうじて残っていた水源を掘り当てた。

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