九節 太陽の結界(弐)
王座の街の西壁側面に四つある上がり導式エレベーターの前は避難民で埋まっていた。導式エレベーター一基で二百名前後を上層へ運べるのだが数千人集まったひとが箱のなかへ一気に駆け込むとその機能は停止する。導式エレベーターを管理する衛兵が押し寄せる群衆へ向けて声を荒げているが耳を貸すひとはいない。
エレベーター前広場は恐慌していた――。
「――あっ」
最初に気づいて声を上げたのは、恐慌するひと混みに揉みくちゃされていたテトだった。
エレベーター前広場の周囲の空間を揺らいでいる。
「ああ、異形種だべ!」
声を上げたのは嫁と我が子を周囲の圧力からをかばっていたジョナタンだ。ひと混みの後方で悲鳴が上がった。混乱に拍車を掛けた避難民は前にいるひとを押しのけて、エレベーターへ殺到する。
「あんなに、たくさん!」
パメラが悲鳴を上げた。
「嘘だろ、一瞬で囲まれたぞ――」
トニーが顔を青くした。導式エレベーター前に集まった数千の避難民はナイトメア・ライダーの軍勢に包囲された。
「こっ、こんなに早く異形種が下層から上がってくるなんて!」
「話が全然違うよねえ!」
アマンダとルリカが自分たちの子供を抱き寄せて叫んだ。
「お願いお願い、子供たちを先に地上へ送って!」
チコを抱いたアナーシャが叫びながら無理に前へ進もうとした。
「アナーシャ、無茶をいうな!」
トニーがアナーシャを抱き止める。
「俺が先だーッ!」
「早く前へ詰めろ、詰めろよ、馬鹿野郎!」
「右のエレベーターはまだ降りて来ないのかい!」
「邪魔だ、そこのガキ、どけ!」
「うわーん、マンマーッ!」
「異形種がくる、くるぞーッ!」
避難民は口々に叫びながら他人の背を押していた。伸縮扉を開いた導式エレベーターは重量オーバーで動作が止まっている。避難民の集団は押しても引いても脱出口がない。
「――ええい、避難民は動じるな。我らが避難する時間を稼ぐ。部隊は迎撃準備だ、エレベーター衛兵隊も私の部隊へ協力しろ!」
導式エレベーター前で避難民の誘導をしていたエーリカ少佐が防毒兜の面当てを引き下ろした。
散開していた隊員が駆け寄ってくる。
「避難するひとは聞いてくれ。落ち着いて行動するんだ。このままだと、異形種に殺される前に将棋倒しでみんなが死んでしまう!」
デル=レイ大尉が叫んだ瞬間である。
「――あっ!」
エーリカ少佐が声を上げた。千に近い
血吹雪のなかで死神がその翼を大きく広げている。
ツクシの魔刀が外部から敵の包囲網を斬り裂いた。
「――行け、ゴロウ!」
ツクシが吠えた。
「あ、ァ、よォ!」
ゴロウが難民の群れへ全速力で駆けてくる。
「――クジョー特務中佐とゴロウ特務大尉を援護しろ、絶対に殺させるな!」
エーリカ少佐の号令と先導で三十機の機動歩兵が突撃した。ライダーが巨大な蚤のような様で上空へ高々と跳ぶ。機動歩兵が構えた突撃盾へ、異形の槍が突き下ろされて火花を散らした。異形の騎士が使うのが異形の馬力ならば、機動歩兵が使うのは導力の馬力だ。気迫の咆哮と一緒に異形の打突を押し返したエーリカ少佐以下三十名余の機動歩兵は、赤色導式機関剣を振り回した。異形の包囲網をツクシの助力で突破して走るゴロウの周辺で、
状況が信じられないほど危機的だと笑顔になってしまうひとは割と多い。
「――ゴロウ特務大尉、よくぞご無事で!」
デル=レイ大尉が出迎えた。
「無事なのはいいが最悪の状況だなァ、デル=レイ――あァ、ツクシ、ちゃんと生きてるぞォ、ジョナタンたちだァ!」
呼気荒げたまま根性で仁王立ちのゴロウが馬鹿のような大声で叫んだ。
「生きてたかよ、心配をかけさせやがって――」
そう呟いたのは、エーリカ少佐配下の機動歩兵に交じって、ナイトメア・ライダーの大群相手に獅子奮迅中のツクシである。
「あの大声!」
テトがゴロウのダミ声に気づいた。
「ゴロウさん、ツクシさん!」
ジョナタンが大声で呼びかけたが、ゴロウはともかく、ナイトメア・ライダーの軍勢の真っ只中へ斬り込んで魔刀を躍らせるツクシへ声は届かない。
「ああ、良かった良かった。二人とも生きてたね――」
パメラが涙声でいった。
「あひえっ、ツクシってあんなに強かったのかい?」
「剣一本で異形の騎士をなで斬りだ。あれじゃ、どっちが怪物なんだかわからないよねえ――」
アマンダとルリカが腰を落として抱え込んでいる八人の子供たちが、「ツクシのおいちゃん、がんばれがんばれ!」と、やかましく声援を送っていた。
「おい、アナーシャ、ツクシたちが来てくれたぞ。もう大丈夫だ、しっかりしろ、俺たちは助かる、絶対に助かるからな!」
トニーが自分の嫁を強く抱き寄せた。
「うん、うん――」
頬を涙で濡らして頷いたアナーシャはチコを抱きしめた。
トニーとアナーシャの胸に挟まれて顔をしかめたチコは「あばあば」と呻いて苦しそうだ。
「おお、エレベーターが降りてきたぞ!」
「押すな、押すなよ!」
「早く前へ詰めろ」
「うるせえ、お前、どけ!」
「邪魔だ!」
ヤマサンの従業員を囲む怒号と混乱が突然大きくなった。
「父ちゃん、わたしたちはどうしよう!」
大人に四方八方から押されるテトである。
「今、下手に前へ行くとひとに押し潰されそうだべ。子供たちもいるしなあ!」
ジョナタンはテトを抱きかかえたまま怒鳴って応えた。
「ツクシたちが頑張ってくれているのに自分勝手な連中ばかりで、本当にもどかしいね!」
パメラが眉間に怒りを滲ませる。
「えっ、何だろ」
「何、何?」
アマンダとルリカが声を上げた。
エレベーターに向かって殺到していた避難民が明らかに押し戻されている。
「何だ、おまえら、何で戻ってくるんだ!」
トニーが怒鳴ったが周辺から返ってきたのは怒号や呻き声だけだった。
「あっ、エレベーターのなかから――」
アナーシャの前髪が揺れた。
その腕にいたチコが「あばぁ!」と笑う。
ナイトメア・ライダーの軍勢は申し合わせたように攻撃する手を止めた。
「――何だ、手前ら、俺にビビったのか、あッ!」
ツクシが魔刀を片手に大見得を切った。
そのツクシに背を寄せて、
「クジョー特務中佐、これは何なのかしら。敵が動きを止めたみたいですけれど?」
エーリカ少佐が囁いた。
「エーリカ少佐、エレベーター方面の
「降りてきたエレベーターに、『何かとんでもない存在』が乗っているぞォ!」
デル=レイ大尉とゴロウが続けて叫んだ。
「――まさか!」
テトが表情を固めた。
「降りてきたエレベーターのなかから異形種が出てきたら、どうするべ――」
ジョナタンがテトを強く抱きしめる。
「うっ、
パメラが呻いた。
「それじゃもうどこにも逃げ場がないよお!」
アマンダが叫び、
「ああ、あんたたち、何があっても、私らの近くにいるんだよ!」
ルリカが子供たちへいい聞かせた。
子供たちは素直に頷いた。
「いや、あれは、ひとだ、ひとだけど――」
トニーは壁面に四つ並んだエレベーターの一番右側を凝視している。
「それに風がくる、地上の風が吹いてる――」
アナーシャの顔をその腕のなかからチコが見上げている。
「何だ、何だ」
「何が起こってるんだ」
「おい、何で戻って来るんだよ、エレベーターへ進んでおくれよ!」
「お、押し戻されるんだ、か、風がすごく強くて――」
動機エレベータ前にあった人垣を風が二つに割った。
威厳ある風はエレベーターの箱から吹いている。
避難民は威厳に押し戻されている――。
「――騒がしい」
威厳を引きつれてきたその青い女は眉を寄せた。
「――あれは」
ツクシは人垣を割って歩み寄る威厳と半神を見つめた。
死神の翼も威厳の風を受けてたなびいている。
避難民を取り囲んだまま動きを完全に止めたナイトメア・ライダーの大群を油断なく見回しながら、
「異形種どもは、あの女性がつれてきた精霊に怯えているのかしら?」
エーリカ少佐が呟いた。
戦う手を止めた機動歩兵たちも、その場に佇んで、異形の巣を駆け巡る風の出元を見つめている。
「せ、精霊の王。
ゴロウが目の前を青い女と連れ立って横切る巨大なひとの形を見上げた。
風の神話を引きつれて青い女は進む。
彼と彼女の行く手を遮るものは誰もいない。
避難民は沈黙して威厳の歩みを見つめていた――。
「――ぷはっ! これじゃあ、視野獲得装置が壊れちゃうよ」
デル=レイ大尉が防毒兜の面当てを引き上げた。この場に出現した強大な奇跡の風に巻き込まれた防毒兜の機能が停止している。
「――ツクシ」
歌うように呼びかけた青い女はツクシを見上げ、
「――流離いの剣士よ」
風の声で呼びかけた神話の巨人はツクシを見下ろした。
「キルヒ――それにこっちのでかいのは、あのとき、俺へ声だけ聞かせた男だな?」
ツクシが風の巨人――シルフォンを見上げた。
シルフォンは軽く頷いて見せた。
「約束通り私が貴様を導こう」
キルヒがいった。
シルフォンは沈黙している。
「――それにしても来るのが遅いじゃねェか。俺は何度も何度もメルロースを――お前の部屋を訪ねたんだぜ。そのたびにお前がいないから俺は散財する羽目になる」
ツクシが口角を歪めて見せると、
「ふっ」
キルヒも鼻で笑った。
「ふっ、じゃねェよ。変な女だよな――」
ツクシは渋い顔だ。
「では、ツクシ、ゆこう」
キルヒが顎をしゃくって促した。
「どこへだ。まさか、すぐにベッドへとかか? それはありがたいがな、今はさすがにそういう状況じゃあないだろ――」
ツクシの視線がキルヒの肉体を右往左往している。
薄暗がりの外套を風で浮かせるキルヒは青い肌の露出が非常に多い黒革鎧姿だった。
やたらエロい。
「いや、貴様は私と共にネストの最下層へゆくのだ」
キルヒは含み笑いだ。
「今からか? 馬鹿を抜かせ、この状況が見えないのかよ。王座の街は敵だらけで――ああ、お前は目が見えなかったな。それでも、お前にはわかるんだろ?」
ツクシが眉根を寄せると、
「威厳ある風精の王よ」
キルヒが身を捩って背後にそびえ立つシルフォンを見上げた。
「愛しきひと、俺はやはり気乗りがせんぞ――」
腕組みしたシルフォンは眉を寄せている。
「黙ってやれ」
キルヒも強く眉を寄せた。
視線を落としたシルフォンが腕を広げて風を呼んだ。
元よりの巨躯がさらに膨れ上がる。
ここにいるすべてのひとが声を上げた。
王座の街の天幕がすべて揺れている。
王座の街に風が吹く――。
「――何事だ?」
ツクシがナイトメア・ライダーの軍勢へ視線を巡らせた。動きを止めたナイトメア・ライダーの軍勢はキルヒとシルフォンをただ眺めているだけだ。敵はいる。だが動かない。
静まり返った導式エレベーター前広場へ音が降ってきた。
「おい、天井が割れたぞォ!」
ゴロウは王座の街の天井を指差した。最大の高さが百メートルに達するドーム型石天井である。その一部に亀裂が入っていた。
「あ、あれって――」
ゴロウの横でテトが呻いた。
「光?」
「陽の光?」
「太陽なのか?」
「どういうことなんだ?」
避難民が口々に呻いた。ゴソッと割れた石天井の裂け目から光が漏れている。続いて石天井の欠片が周辺へズドンズドン落ちてきた。避難民は悲鳴と一緒に頭を抱えた。幸い、落石でひとの死者は出なかった。しかし、落下してきた巨石のいくつかは逃げ回るひとを囲んでいたナイトメア・ライダーを、ドカンドカンと押し潰している。
それでも異形の騎士は悲鳴も上げないのだが――。
「――キルヒ、何だ、あの光る根っこは?」
ツクシは光に包まれていた。
人工のものではない生きた光である。
地上にはあるが地中には絶対に届かない筈の――。
「――天道樹だ。その根は太陽の光を届け、地中へも
キルヒは陽の光を浴びて歌う。
「おうおう、路面を割って草が生えてきたぜ」
今度のツクシは足元を見つめていた。
石の床がひび割れて草花が芽吹いている。
「尋常な成長速度じゃねえぞ、何だ、こりゃあァ!」
ゴロウが目を丸くして辺りを見回した。
天井を割った陽光が落ちた箇所へ草花が凄まじい速度で成長している。
「見て、異形の騎士が陽の光で崩れてく――」
テトがナイトメア・ライダーの列を指差した。
「ほ、本当だべ!」
ジョナタンが息を呑んだ。あれほどの猛威を振るっていたナイトメア・ライダーの軍勢は陽の光を浴びると、土人形のように呆気なく崩れて消えてゆく。危険を感じたのか、ナイトメア・ライダーは二本足の黒駒の手綱を引き陽の光のないほうへ撤退していった。
「私たちは――」
パメラが呟くと、
「た、助かったあ――」
アマンダとルリカが尻もちをついて脱力した。周囲の子供たちが、「大丈夫か、かあちゃん!」だとか騒ぎながら、それを助け起こそうとしている。
「良かった、助かるぞ。アナーシャ、チコ」
トニーが嫁と子供をまとめて抱いて肩を震わせた。
「トニー、男がめそめそ泣かないで」
旦那に抱きすくめられて笑ったアナーシャの頬も涙に濡れている。
父親と母親の胸に挟まれたチコは顔を歪めてかなり苦しそうだ。
「異形は異形の領域を押し広げてから動く。異形の領域は異形の世界。そのなかで異形を屠ることは難しい。だが、均衡の法則性で維持される無限複層平行世界には対となる存在が必ずある。天道樹が展開するのは、我らの領域、我らの世界、我らの
キルヒが闇を裂いて落ちる陽光を受け止めるように両手を広げた。
「キルヒ、要するにこれはあの樹のねっこが作る対異形種用の結界なのか?」
ツクシは天井を突き破って伸びる光の根を見上げていた。
「そうだ、『
頷いたキルヒが濃藍色の唇で笑みを作った。
「愛しきひとよ――」
呼びかけたシルフォンは何かをいいたそうにしていた。眉を寄せたキルヒが睨むと、やはり諦めたような態度で、シルフォンは胸を開いて風を呼び、その巨躯を膨らませる。
闇が崩れ陽が降り注ぐ。
雷鳴の代わりに落石が鳴り響く。
王座の街を覆う天上の所々を、天道樹の根が食い破り太陽の光を落としている。
その光は天へ昇る梯子のように見える――。
「――これはすごいな」
ツクシが呟いた。
「――ここら一帯は良し。メルロースへも結界は届いた。だが、隈なくやるには歩く必要がある。ツクシ、私に付き合え」
キルヒが青い美貌を傾けた。
「なっ、何だ、一緒にお散歩が希望か――そういう風俗も最近あるらしいが――まあ、それは当然、付き合うけどよ――」
ツクシは慌てて魔刀の血を振り落として鞘へ帰した。
「――ふふっ」
鼻で笑って歩くキルヒの横についたツクシへ、
「あっ、ちょっと待ちなさい、クジョー特務中佐!」
「中佐、中佐殿! 僕たちはどうすればいいんですか?」
エーリカ少佐とデル=レイ大尉が駆け寄ってきた。一応、ツクシはこの場にいる軍人のなかで一番階級が高いので全体の指揮権があるということになる。一応である。
「ああよォ、ツクシ。避難はどうする?」
ゴロウも歩み寄ってきた。
「この様子だと陽が届いている場所に異形種は入ってこれないみたいだがな。キルヒ、下手に動くと危険じゃないのか?」
眉根を寄せたツクシがキルヒへ視線を送ると、
「案ずるな、天道樹の下で異形は決して存在を保てぬ」
何だか難しい言い回しで返答があった。
「――そういうことらしいぜ。キルヒの仕事が終わるまでお前らはここでのんびりしてればいいと思う。俺はちょっとキルヒに付き合ってくる」
ツクシとキルヒは歩いていった。
身長何十メートルと巨大な姿になったシルフォンもそのあとをついてゆく。
エーリカ少佐とデル=レイ大尉は顔を見合わせて首を捻った。
「まァ、よくわからねえが、気をつけてな。じゃあ、俺ァ、ひと休みだ――」
ゴロウはでかい尻をその場にどかんと下ろした。
エレベーター前広場に集まったひも、それぞれ腰を下ろして陽光が落ちる王座の街を眺めている。点々とゴミが散らばるだけで殺風景だった導式エレベーター前広場へ、石床を割って強引に芽吹いた草花が色彩をつけていた。
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