六節 師弟のキャッチ・ボール(参)

 昨晩、ゴロウのおごりで飲み過ぎたツクシと、ゴロウのおごりで食い過ぎたゲッコが、ゴルゴダ酒場宿のカウンター席で肩を並べ、コーン・ブレッドと茄子だのかぼちゃだの夏野菜を使ったにんにく風味のスープ、この二品の朝食をのろのろ食べていると、

「ツクシ、ゲッコ。地下したの司令部から伝達が来た。ネスト完全制圧作戦を再開するそうだ」

 後ろから男の声だ。ツクシとゲッコが振り向くと、そこにいたのは王国陸軍服姿のギュンターだった。このギュンターは普段着だと百姓の親父くらいにしか見えない中年男だが、軍帽でてっぺん禿げを隠していると、それなりに軍人っぽい。

「いよおう、おめェらァ――」

 ギュンターの横に深酒でくたびれた顔のゴロウもいた。

「――おう、ギュンターか。随分と久しいな。元気にやっていたか?」

 ツクシは目を見開いた。

 ギュンターは何もいわずに軽く笑って応えた。

「ああ、ゴロウもいるのな。昨日は飲み過ぎたか?」

 ツクシは酒疲れした髭面へ視線を移した。

「ああよォ、ツクシ。本当に三十路になると、寝て起きたところで身体に酒が残ってるんだなァ。参ったぜ――」

 ゴロウの弱々しい返事である。

「おう、そうだろ、そうだろ。ざまあみやがれ」

 ツクシは満足気に口角を歪めて見せた。

「ゲロロ?」

 ゲッコはギュンターを見つめていた。ゲッコは見えなくなった左の目に黒い眼帯をつけている。これは、ゲッコがユキに頼んで作ってもらったものだ。ミュカレには拒否された。ともあれ、ゲッコが使っている眼帯の素材はユキの古着――メイド服である。

「――これがリザードマン族か。初めて見る。凄い迫力だな」

 ギュンターが黒い眼帯をつけたトカゲ面を見つめている。

「ゲロゲロ?」

 ゲッコがその顔を傾けた。

「ああ、失礼、申し遅れた。俺はギュンター・モールス。肩書は王国陸軍大尉だ」

 ギュンターが名乗った。

「ゲロゲロ。ゲッコ・ヤドック・ドゥルジナス。肩書、王国陸軍特務大尉」

 姿勢を正したゲッコがそれらしく返答した。

「へえ、ギュンターは陸軍の大尉殿だったのか。結講お偉い立場だったんだな」

 ツクシがいうと、

「いや、俺たちは仕事の都合で階級がコロコロ変わるんだ。ああ、階級といえば――敬礼をしておいたほうがいいのか、クジョー特務中佐殿?」

 ギュンターが唇の端を歪めた。

「よせよ、アホくせェ。それよりギュンター、朝めしがまだなら食っていけよ。俺が口を利いてやるぜ」

 ツクシが顔を歪めながら着席を促した。

「ゴルゴダ酒場宿で朝めしか。それは贅沢だ。嫁さんに怒られそうだな――」

 ギュンターがカウンターの椅子を引いた。

「おーい、セイジさん、もう一人前、朝めしを頼めるか」

 ツクシが厨房へ声をかけると、

「――申し訳ない。コーン・ブレッドはもう切らしています。夏野菜のブイヨン・スープだけなら、すぐ用意できますが」

 セイジの声だけが返ってきた。

「ギュンター、それだけでもいいか?」

 ツクシが訊いた。

「それで全然、構わん」

 ギュンターは真剣な表情である。

「俺もそのスープ食いたいなァ、二日酔いの身体には沁みそうだ――」

 ゴロウは半分まで減ったツクシの深皿を覗き込んでいる。

「手前は自分の宿で朝めしを食ってきてるだろ。いつもそうじゃねェか?」

 ツクシは深皿を抱え込むような仕草だ。

「見ていたら何だか食いたくなったんだよォ――」

 ツクシの背で隠れたスープの深皿をゴロウはしつこく覗き込んでいる。

「まったく、クソ虫みてえに卑しい髭野郎だよな」

 ツクシは目つき鋭くして唸ったが、

やどりぎ亭うちの叔母さんは何を作ってもちょっと塩辛くてなァ。セイジさん、俺の分もスープを頼めるかァ!」

 ゴロウもカウンター席へ腰を下ろした。

「――わかりました」

 厨房からセイジの返事である。

「それで、ギュンター。嫁さんは元気にしているか?」

 ツクシが南国レモン(シークヮサーのような酸っぱい果実)ジュースが入ったタンブラーを傾けた。

「嫁さんは防衛省の内勤に回った。まあ、今後の引き継ぎか――」

 ギュンターは厨房のほうをじっと見つめている。

「――引き継ぎ? 何の引き継ぎなんだ?」

 ツクシはジュースの酸味に顔を歪めた。南国レモンは最近になって輸入されるようになった食材だとセイジが教えてくれた。オレンジモドキが入手できなくなったので、その代用品らしい。ギュンターは返事をしない。

「まあ、いいや。ギュンターは職業柄、いえないことも多いんだろ」

 ツクシが一息に南国レモンの杯を呷った。

 やはり、かなり酸っぱい。

 ツクシは顔をしかめている。

「まあ、そういうことだ。すまんな、中佐殿」

 ギュンターが含み笑いで頷いた。

「だから、やめろよ、その中佐殿っての――」

 ツクシの声は酸味で掠れている。

「最近のギュンター大尉殿は何をやっているんだァ?」

 ゴロウが訊くと、

「もっぱら市民義勇軍の指導だ。ペクトクラシュ河南沿岸の砲台陣地構築が俺の担当になる。おおっぴらにいっても差し支えない任務は気が楽だな」

 これはギュンターがあっさりと応えた。

「へえ。厄病神どもは、そんな仕事までするのか――」

 ツクシが呟いた。

「雑用に回されているだけでな。幕僚運用支援班はもう機能不全なんだ」

 ギュンターはカウンター・テーブルへ両肘を乗せた。

「機能不全?」

 ツクシが横目で視線を送ると、

「ああ、魔帝国に潜入していた連中も、ネストで工作していた連中もほとんどが死んだ。戦争が始まってからの殉職者は数えきれん。それにもう敵が近すぎる。ここまでくると工作員が小細工をしても意味がない。今は、たいていの使える奴が南で仕事をしているんだ――そうなると、王都に残っている俺は使えない奴になるのか?」

 ギュンターは鈍い笑顔になった。

「そうか、いよいよ最終決戦だな。どうも、タラリオン王国は分が悪いように見えるが――」

 視線を落としたツクシは何か考え込んでいるような顔である。

「まあ、それでも俺は足掻く。足掻くのも俺たちの仕事だ」

 ギュンターの顔に気負った感じはない。

 元々表情が鈍い男でもある。

 腹をくくった態度とも取れる――。

「――おう、ギュンター。簡単に死ぬなよ。俺は一度、お前が無茶をやったのを見ているからな。あんな真似は感心しねェぞ。無駄死にだぜ」

 ツクシは努めて軽い調子でいった。

「では、上官殿の警告に従って無駄死に気をつけて足掻くとするか」

 ギュンターが唇の端を歪めて応じた。

「ああ、そうしとけ。気軽に死なれると上官の夢見が悪くなるだろうからよ」

 ツクシが頷いたところで、

「――お待たせしました。熱いですから、気をつけて」

 背後からセイジの声である。

 セイジはスープの深皿を二つ手にもっていた。

「ああ、これはありがたい。どれどれ――」

 糸目をさらに細めたギュンターは、皿を満たした夏野菜のブイヨン・スープをしばらく眺めたあと、いんげんの青、トマトやパプリカの赤、かぼちゃの黄色をひたひた包む、底が見えるほどに澄んだ薄い琥珀色のスープのなかへスプーンの先を沈めた。何かの儀式のような所作である。

 ツクシは呆れ顔でスープの深皿を真剣に相手するギュンターを見つめている。

 朝食をかなり前に食べ終わっていたゲッコも真面目腐った顔のギュンターをじっと見つめていた。

「――旨い! こんな旨いスープは何年か振りだ。舌の奥に、いや喉の奥にまでもスープの滋味がしっかり残る。だが――だが、次のさじを入れる頃合いには残っていた筈の旨味が軽やかに全部消えている。これは味加減の絶妙さだ。素材もひとつひとつもいい。すべてが生きている、だがお互いの味で喧嘩はしていない――うん。ひと匙、ひと匙、いちいち旨い。信じられん、これは、素晴らしい、実に素晴らしい味のスープだ!」

 セイジの夏野菜のスープはギュンターを感動させたらしい。

 その糸目の端に涙まで浮いていた。

「あ、ああ、セイジさんの作る料理は何だって旨いんだぜ――」

 ツクシは腰が引けているようだ。

「ハフッ、ハフッ、ハフッ!」

 この馬のような食い方はゴロウだ。

 ゴロウは真っ赤になった髭面へ汗の玉を作っていた。

「しかし、いつ見てもゴロウは汚ねェ食い方だよな。食欲が失せるぜ」

 ツクシはゴロウへはっきり聞こえるようにいった。

 ゴロウからの返事はない。

「――ツクシ」

 ギュンターはスープの深皿へ視線を貼りつけたまま呼びかけた。

「ん?」

 ツクシが視線を送ると、

「俺の嫁さんには内緒にしておいてくれ」

 だそうである。

「何だよ、お前の嫁さんはそんなに料理が下手クソなのか?」

 ツクシが声を低くした。

「まあ、いわんでくれよ。あれでも、よそで食ってくると嫁さんは怒るんだ――」

 ギュンターが苦く笑った。


 §


 朝食を終えたツクシたちはネストへ向かった。

 特別急かされているわけでもないし、探索前の打ち合わせが先なので、その歩みはのんびりしたものだ。ペクトクラシュ河沿いの大通りを歩いていると、その河川敷で工事作業をするひとが多くいた。女や子供の姿もちらほら交っている。砲台陣地を作る市民義勇軍の活動だ。

 ツクシたちが何度も何度も往復したペクトクラシュ河沿い大通りの交通量は、いつも通り多かったが、行き交うひとびとは口数が少なく表情も暗い。馬車を引く馬までも視線を落として歩いている。あれだけうるさかった物売りの声も今はほとんど聞こてこない。道端でお店を広げた物売りは路面へ向かって客の呼び込みをしていた。露店に並ぶ商品も、店舗の軒先の下にある商品も、空いた場所や空いた棚が目立つ。

 ただ、空は青く晴れ渡り、その青空を映すペクトクラシュ河は底抜けに蒼かった。

 ツクシたちは異形の巣へ向かって黙々と歩いた。ネスト探索者制度が廃止されてから、ネスト管理省前大通りはひとの行き来が以前よりずっと少ない。

 閑散としたネスト管理省前大通りを西へしばらく進んだところで、

「なあ、ゲッコ?」

 ツクシが呼びかけた。

「――ゲロ?」

 ツクシの横をペッタラペッタラ歩くゲッコである。探索に使う荷物は酒場宿ヤマサンに預けてあるので、ツクシもゴロウもゲッコも身軽だ。ただ、それぞれ武器だけは持っている。

「――ゲッコ。お前は強い戦士になるのが希望なんだよな。リザードマン・パラデンだったか?」

 ツクシは路面を目でなぞりながら訊いた。

「リザードマン聖戦士パラディン。デモ、今、ゲッコノ目標違ウ」

 ゲッコがツクシの不機嫌な横顔を見つめた。

「今の目標は何なんだ?」

 ツクシが促すと、

「ゲッコ、師匠ガ目標」

 ゲッコは臆面もなくいった。

「――そうか」

 ツクシが呟いた。

「師匠、世界最強ノ剣士。ゲッコ、ソノ弟子。ゲッコ世界最強ノ弟子。ゲッコトテモ幸セ。ゲロゲロ」

 顎を上げて自慢気なゲッコである。

「ゲッコはいずれ俺を越えるつもりなのか?」

 ツクシが訊いた。

 ツクシへ顔を向けたゲッコが、

「ゲロゲロ、恐レ多イ。デモ目標高イ方ガイイ」

「――なるほど。その気があるか。それなら良しだ――止まれ、ゲッコ」

 ツクシが立ち止まった。

「ゲロ?」

 顔を傾けてゲッコも立ち止まった。

 何歩分か先に進んだゴロウが遅れた二人に気づいて、

「あんだァ、何をやってんだ、ツクシ、ゲッコ?」

「ゲッコ、少し見ていろ――」

 ゴロウには応えず、ツクシは黒い鞘の鯉口を左手で引いた。

「ゲロロ?」

 ゲッコが見やった先で、魔刀の柄へ右手を置いたツクシの姿が虹の光を散らして消失した。

「――これで、十二歩半だ」

 その声でようやくゲッコの目がツクシの姿を捉える。魔刀を右手から下げたツクシは十メートルほど東にいた。真っ昼間の往来で刃を引き抜いたツクシの姿を見て、大通りを行き来していた少ないひとが足を止めた。これはどう誤魔化しても超危険人物である。

 ゴロウは呆れ顔でツクシを眺めている。

 ツクシは周囲の視線を気にする様子もなく、

「まあ、今はもっと遠くへ跳べるぜ。じゃあ、次にこれが――」

 ツクシは足元から虹色の殺陣を広げ、そのきらめきと共に消えた。同時に七つ、全方向へツクシの斬撃が発生する。白い刃の軌跡が七つ見えた。しかし零秒後、ツクシは唯一人でそこに佇んでいる。斬る対象はなかったので刃が奔った先で血は飛ばない。七つ発生した斬撃はそれぞれ大気を割っただけだ。

 ツクシの業を見学をしていた野次馬から、「おおお!」という歓声と一緒に拍手が起こった。仕事中であるらしいこれらの見物客はリヤカーを引いたおっちゃんや、大きな荷物を背負ったおばちゃんの姿が目立つ。見ていると二頭立ての馬車が路肩に寄せて停車した。その御者と座席にいる老年の髭男爵も魔刀の技術を披露するツクシを興味深そうに見物中だ。

「――同時に七つの斬撃だ。これはいつも全部使っているわけじゃねェ。一回使用すると、各斬撃に三呼吸分のタメが要る。連続しては使えないんだ。だが、この七つの斬撃を、上手く分けて使い回せば、タメが発生している時間の隙をカバーできるってわけだ。実戦ではこの七回分使える斬撃を、状況に応じて五回にしたり四回にしたりする。まあ、緊急時の保険で常に一回か二回、移動分の斬撃を残しているわけだ」

 魔刀を右手にぶら下げたツクシが、口半開きで佇むゲッコの前まで歩いて戻ってきた。

「――師匠、イツ見テモ、オ美事ナ業前ワザマエ!」

 ゲッコは感嘆で出迎えた。

「なァ、何を遊んでいるんだ、ツクシはよォ?」

 ゴロウは冷めた顔であり冷めた声だった。

 もう見飽きた光景でもある。

「俺はこれまでお前に師匠らしいことを何もしてこなかったな――」

 ツクシは口角を少し歪めて見せた。

「ゲロロ、ソンナ事ナイ。師匠、色々、ゲッコニ教エテクレタ。感謝シ切レナイ」

 ゲッコはひとつだけになった目でまっすぐツクシを見つめた。

 一瞬、視線を落としかけたツクシは、その視線をすぐ引き上げて、

「ここで、師匠の俺が弟子のお前へワザを授けてやる」

「ゲッ、ゲロロ!」

 ゲッコは身体としっぽをピンと伸ばした。

「単純な話だぜ、ゲッコ。俺自身は何てことはねェ、ただのオッサンなんだ」

 ツクシの声は自分自身を嘲笑っていた。

「ゲロゲロ、謙遜シテル。師匠、心技体、全部凄イ」

 ゲッコは(たぶん)真剣な顔である。

「いいから、師匠の話を黙って聞けよ。俺がこの業を使える理由はこれだ。これだよこれ。こいつが俺へ殺しのワザを教えてくれた」

 ツクシはゲッコの鼻面へ右拳と一緒に魔刀を突きつけた。

 死んだ旅人からツクシへ託された不思議な刃――魔刀ひときり包丁である。

「師匠ノ刀ガ、師匠ノ師匠?」

 ゲッコは首を捻って怪訝そうにいった。

「へえ、ゲッコはなかなか上手いことをいうじゃねェか。その通りだ。俺の師匠はこの刀――ひときり包丁だ。だから、俺はこいつがないとまるで無力になる」

 ツクシがいった。

「ゲロ、ゲロ?」

 ゲッコが怪訝そうな鳴き声を上げた。

「簡単にいうとな。このひときり包丁をお前が手に入れれば、俺と同様の強さが手に入るってわけだ」

 ツクシがいうと、

「ゲ、ゲロロロロロロ――」

 ゲッコが硬い声で鳴いた。

 ゲッコは戦慄している――。

「ツクシ、おめェは一体、何をやろうとしてんだァ?」

 ゴロウが訊いたが、ツクシはゴロウを無視して、

「ゲッコ、奥義伝授だ」

「オ、奥義、伝授!」

 叫んだゲッコの口が開きっぱなしになった。

「ありきたりだがやってもらうぞ。ここで、真剣を使って俺と立ち合え」

 ツクシは魔刀を鞘へ帰した。

「――真剣デ立チ合イ? ゲッコ、師匠ト真剣勝負?」

 震え声のゲッコは自分の腰から吊られた巨大な偃月刀を見やった。

「ああ、そうだ。ゲッコは俺を殺してこの刀を――世界最強を奪うんだ」

 ツクシは腰に納まった魔刀を指差して口角をぐにゃりと歪めた。

 白い開襟シャツに黒ズボン、その上へ薄暗がりの外套を身にまとう。

 ネスト管理省前大通りを駆け抜けた風を受け、その外套が大きく膨んだ。

 魔刀を携えた死神が薄暗がりの翼を広げて舞い降りる。

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