五節 師弟のキャッチ・ボール(弐)

 王都の市民がペクトクラシュ南大橋の西側沿道を埋め尽くしている。そのたいていは手にタラリオン王国旗の小旗を持っていた。タラリオン王国の国旗は、戦乙女ユリアのシルエットが、緋色の布に金色で染め上げられたものだ。

 王都十三番区ゴルゴダのお昼前である。

 空は薄曇で、季節柄、太陽が駆け上るにつれて気温は上がる一方だった。風はないところにひとが密集しているのもあって蒸し暑い。

 ツクシが手の小さな旗を見つめていると、

「あっ、来たよ、ツクシ!」

 同じ旗を持つユキから声をかけられた。マコト、アリバ、モグラ、シャルも並んで旗を持っている。隊列の先導をタラリオン王国旗を持つ白馬に乗った騎兵だ。そのすぐ後ろからくる軍楽隊が行進曲を鳴らしている。その後ろに四頭立ての馬車が何台も連なっていた。荷台へ兵員がぎゅうぎゅうと詰め込まれている。

 出征兵士の隊列だ。

 ユキはしっぽと一緒に手の旗を突き上げてパタパタやった。アリバとモグラもシャルも旗を振った。出征兵士の列を見送るひとはたいていそうしていた。出征する兵士が手を振って沿道の激励に応えている。笑顔ばかりではない。銃を抱えてうつむいているものや、涙ぐんでいるものも多くいた。沿道に並んで歓声を送るひとのなかにも目元を抑えているものがいる。

 涙を流しているのは出征する兵士の家族――。

「――若い連中ばかりだな」

 ツクシは小旗を振っていない。

「従軍の志願は十六歳からできますから。僕も先月十六になりましたよ」

 マコトも小旗を振っていなかった。

「おいおい、マコトも出征するつもりなのか。やめとけやめとけ。弾に当たったら大損だぜ?」

 ツクシは顔を歪めた。

「若い兵士は志願をして従軍する連中ばかりでもないんです」

 マコトは無表情でいった。

「それはどういう意味だ?」

 ツクシが眉根を寄せた。

「浮浪民に人権はありませんから」

 マコトは平坦な声だ。

「おい、マコト。まさか、無理に徴兵された孤児の子供ガキも、あの出征兵士の列にいるのか?」

 ツクシはマコトの横顔を睨んだ。

「そういう話も最近ではよく聞きます」

 マコトの顔も声もやはり平坦なものだった。

「――王国軍の奴ら、俺がこの手で皆殺しにしてやるか?」

 ツクシの瞳と声が凍えた。

 王国軍に協力している自分自身にツクシは憤っている――。

「――ツクシさん」

 マコトがツクシへ視線を送った。

「あ?」

 路面をガリガリ睨みつけるツクシの不機嫌な返事だ。

「それでも、王国に住むひとは全員、魔帝国と戦うしかない。だから、僕は王国軍を責める気になれない」

 マコトは歓声と小旗に見送られる出征兵士の列へ視線を戻した。

「――そんなに王都から戦場は近いのか?」

 ツクシはマコトの冷静な横顔を見つめた。

「ツクシさん、隊列最後尾の兵糧運搬車を見てください」

 マコトが出征兵士の列の最後尾を指差した。

「――あれが、どうした?」

 ツクシが首を捻った。

 マコトが指差しているのは、兵糧らしきものが積まれた荷を引く数台の荷馬車だ。

「あの出兵兵士の列が五日も移動すれば尽きる食料ですよ」

 マコトが淡々といった。

「馬車を使った行軍で五日ていど――王国軍はそこらの距離で防衛戦を敷いて、侵攻してくる魔帝軍を迎え撃つつもりなのか?」

 ツクシが訊いた。

「はい、たぶん。これまでは王都に一番近い軍の補給基地でも陸路で七日はかかる場所にあった筈ですが――」

 マコトがいった。

「――わあ、西からグリーン・ワイバーンの編隊が来るよう!」

 モグラが西の空へ小旗を向けた。

 ツクシが顔を上げると十二の機影が超高速で接近してくるのが見える。

「すごいぞ、超低空飛行だ!」

 アリバが叫んだときには巨大な風切音と一緒に、グリーン・ワイバーン十二機が頭上を通過していった。

 ゴッと風が巻いて沿道から歓声が上がる。

「わっ!」

 ユキが瞳を開いてグリーン・ワイバーンを見上げた。

「ひゃあん!」

 シャルは吹き飛ばされそうになったハンチング・ハットを手で抑えている。

「あれに乗っていたの、この前会ったフレッチ中尉だったかも知れんな――」

 頭上をグリーン・ワイバーンが通り過ぎる際、騎乗した兵員から手を振られたツクシはそう考えた。

「僕たちゴルゴダ・ギャングスタは、今後、十三番区の市民義勇軍に参加する予定です」

 マコトは大空をゆくワイバーン航空騎兵隊を見送っている。

「おいおい、マコト、やめておけっていっただろ。戦争で死ぬなんて大損だぜ」

 ツクシが顔をうんと歪めて見せた。

「いえ、それは大丈夫だと思います。市民義勇軍の仕事は王都内部の陣地構築が主ですから。ただのお手伝いですよ。それに軍へ自発的に協力する態度を見せておけば、無理に徴兵されて前線へ送られることはない」

 冷静なマコトである。

「ああ、そういう考え方もあるのか。マコトは憎たらしいほど賢いな――」

 ツクシは呆れ顔だ。

「さっきもいいましたが、僕は志願できるもの全員が最前線へ行って戦うべきだと思っています。でも、みんなの――餓鬼集団レギオンのことがあるから、それで、僕自身は従軍志願をできないですが――」

 マコトは視線を落とした。

「おい、マコト。ちょっと俺のいうことを黙って聞け」

 ツクシが唸った。

「はい、何ですか?」

 マコトが顔を上げた。

「俺はお前の考えに断固反対だ。戦争で死ぬのは大人だけでいい。この戦争は大人がおっ始めたんだろ。なら、全部、大人に責任を取ってもらえ。大人は十分生きてきたんだ。だから、どんどん死ねばいい。だが、子供ガキは自分が生き残ることだけを考えろ。生きてさえいれば例え王都が落ちても浮かぶ機会は未来にある。それが子供の戦い方だぜ」

 ツクシは東の空を見やって一息にいった。

 グリーン・ワイバーンの編隊はもう黒い点になっている。

「――ツクシさん」

 呼びかけたマコトが、ツクシの不機嫌な横顔を見つめた。

「あぁん?」

 ツクシは視線を返さない。

「僕はもう大人です。十六歳です。従軍に志願できる年齢です」

 マコトの声が硬い。

「――馬鹿を抜かせ。十六歳はまだ子供ガキだ」

 ツクシは顔を歪めた。

 出征兵士の列はペクトクラシュ南大橋を渡っていった。

 沿道で旗を振るのを止めたひとは総じて不安そうな表情を並べている。

 空騒ぎで誤魔化していた。

 王都へ戦場が迫っている。

 ユキやモグラやアリバやシャルも無言だった。

「――じゃあ、みんな、宿の仕事へ戻ろうか」

 踵を返したマコトを、

「マコト」

 ツクシが呼び止めた。

「はい?」

 振り返ったマコトがツクシを見つめた。

「お前、女を知っているのか? ぶっちゃけていえば女相手のセックスだ。ま、おまんこのことだよ。マコトはおまんこをしたことあるのか?」

 ツクシの発言は最悪に下品だった。

「――急に何なんですか?」

 マコトははっきりと眉を寄せた。

「ククッ! それみろ、マコトはやっぱり子供ガキじゃねェか――」

 ツクシは邪悪な笑顔を見せつけた。


 §


 ゴルゴダ酒場宿で二日間待ってもネスト探索再開の知らせはこなかった。

 先月の家賃は無事支払いを終えたものの、酒のツケの払いを来月に回してもらったツクシは、カウンター席でエールの杯を傾けていたのだが、すぐエイダの熱い視線に耐え切れなくなった。そもそも、金回りの良くなったツクシは借金をしなくても生活できるのだ。それなのに超贅沢な女遊びをしてから地上へ帰ってくるので、毎回毎回、ツクシはゴルゴダ酒場宿の支払いが足りなくなる。エイダが怒るのも当然だった。

 ともあれ、根性なしで甲斐性なしでだらしのない中年男のツクシは、王都新聞と野球ボールを片手に裏手の広場へ退避した。野球ボールといっても、ミュカレに頼んで作ってもらったものだから本格的な製品ではない。似たような感じのサッカーボールもある。ツクシは子供たちを相手にボール遊びをして暇を潰すことが多くなった。地上で汚れた女遊びをやると周囲がうるさい。簡単にいうと、ツクシはこの野球ボールやサッカーボールを使って善良なおじさんを演出している。ヨゴレ具合があまりにひどいツクシは、そういう演出をして周囲の目を欺くことも必要だ、という話である。

 昨日は大いに雨が降って大気の湿度が全部流された。空は磨いたように晴れ渡り、太陽どころか白い雲すら輝いて目に痛い。いい天気なのだが、今日は宿の裏手に子供の姿がなかった。

子供ガキどもは、揃って買い出しにでもいっているのか――?」

 ボール遊びをやめにしたツクシが宿の裏口の上り口へ腰かけて、王都新聞の人気連載小説『被虐ひぎゃく幼令嬢おさなれいじょうⅡ ~淫絶交歓授業編いんぜつこうかんじゅぎょうへん~』を熱心に再読していると、

「――ゲロゲ、師匠。ゲッコ、薪割リ終ワタ」

 ひと仕事を終えたゲッコがヒョコヒョコやってきた。

「おう、ゲッコか。暇ならやるか?」

 ツクシが脇に置いてあった野球ボールを手にとった。

「ゲロロ、キャッチ・ボール。ゲッコ、キャッチ・ボール、大好キ!」

 ゲッコが嬉しそうに跳ねながら、広場の対面へペッタラペッタラ走っていった。どんな悪球を投げてもゲッコは捕球するし、しっぽでボールを打ち返すこともよくある。家の側面をダダッと駆け上がって地上何メートルにあるボールへ飛びつくこともよくやった。ツクシはその場に突っ立って、構えたところに必ず納まるゲッコからの返球を待っているだけだ。

 そのツクシが身体を大きく捻って足を高く上げて、

「ホレ、ゲッコ、いくぜ。時速百六十二キロのストレートだ、オラ!」

 ゲッコが相手だと、ツクシは適当なところへボールを思いっ切り放るのが常である。

 だが、今日のツクシが投げたボールは一直線に飛んで、

「――グゲッ!」

 ゲッコの眉間へボスンと直撃した。両手を前へ出したゲッコはそのまま身を固めている。ゲッコの足元でボールがテンテン跳ねていた。

「――片目になると奥行きを正確に捉えられなくなって遠近感が狂う。これで、お前にもわかっただろ」

 ツクシは裏口の上り口へまた腰を下ろした。

「ゲロロ、ゲッコ、修行不足、修行不足――」

 うなだれたゲッコの返事である。

「そういう問題じゃねェ。ゲッコはそんなザマで戦えるのか?」

 ツクシは石畳を見つめていた。

「ゲロロ――」

 ゲッコはうなだれたままだ。

「ゲッコ、ちょっとこっちへ来て、俺の横に座れ」

 ツクシが手招きした。

「ゲロ、師匠、横ヲ失礼」

 ゲッコは一言断ってからツクシの横に腰を下ろした。

「ゲッコ、魔帝軍が攻めてくるぞ。王都はじき戦場になるぜ――」

 ツクシの低い声である。

「ゲロゲロ、ゲッコ、戦争、望ムトコロ――」

 頷いたゲッコも低い声でいった。表情を消したツクシはトカゲ面を見やったが、ゲッコは喉の奥でゲロゲロ鳴きながら殺気立っている。

 小さな溜息を吐いたツクシが、

「いや、ゲッコ。お前は故郷クニへ帰れ。親や兄弟が故郷にいるんだろ。その、何ていったか、お前の国?」

「リザードマン戦士国。ゲロゲロ。師匠、ゲッコ、故郷帰ルデキナイ。マダマダ修行中」

 ゲッコがツクシの渋面を見つめた。

「――あのなあ。俺はネストから日本へ帰る予定なんだぞ。残ったお前はどうするんだ。タラリオンの戦争に付き合うつもりか?」

 ツクシがいった。

「――師匠、ゲッコ、ソレ全然、考エテナカタ」

 動きを止めたゲッコは口半開きである。

「な? そんな義理はねェだろ。だから、お前は故郷へ帰れって俺はいっているんだ」

 ツクシは強い口調でいったが、

「ゲロロ。ゲッコ、故郷、帰ラナイ。修行必要」

 ゲッコは顔を左右に強く振った。

「――いいか、ゲッコ、よく聞けよ」

 ツクシがいった。

「ひとをブッ殺すのが上手くなってもな。まるっきりロクでもねェんだ。実際、俺は何一つとして守ることができていない。ゲッコ、お前だってそれを見てきた筈だぜ。ヤマさんや、リュウや、フィージャや、シャオシンのことだ。俺がお前に会う前だって死んだ奴らがいる。グェンやニーナやリカルドさんや――あの二人の気のいい山男だって、俺が見ている前で死んでいった――」

「ゲロ――」

 ツクシもゲッコも石畳を見つめている。

「――いいか、暴力ってのはな、いくらそれを積み重ねても、とどのつまり、そのていどなんだよ。『暴力で創ったものは、その暴力自身が持つ自壊作用で滅びる』ってな。昔、テレビで偉い学者がそんなことをいっていたぜ。今の俺なら、あのクソ偉そうなクソ学者のクソジジイのいってたことが理解できる。暴力ほど非力で不毛なものはこの世にねェんだ」

 ツクシが横目でゲッコへ視線を送った。

「ゲロロロロ?」

 ゲッコは顔を傾けた。

 まあ、この際、多少、ゲッコがわからなくても構わねェ――。

 ツクシは続けた。

「俺は異世界こっちに迷い込んで、ひょんなことから絶対的な殺しのワザを手に入れた。だが、その暴力を行使した結果はどうだ。俺は結局、自分の身を守るていどのことしかできてねえ。それだって怪しいものだぜ。『お前はただ運が良かっただけだろう』、そういわれても反論ができねェよ――だからな、ゲッコ。お前の武者修行とやらも無意味だ。そんなものはやめちまえ。クソみたいにくだらねェぜ。お前は故郷に帰って、お前のできる範囲で幸せに暮らせばいい。結講長い時間、俺はお前と一緒にいたからわかるんだ。お前が――リザードマン族が、ひと並みの幸せを理解できねェような、クソ馬鹿どもじゃねェってのを、俺はわかってる。まあ、お前の見た目は何を考えているのかわからないような怪物モンスターだけどな――」

 そこで、ツクシは口を閉じた。

 初夏の昼下がりだ。

 本格的な夏を告げる足並みは、すべての音を踏み殺すことにしたらしい。

 静かだった。

 殺された音をゆさぶり起こすように、猫の長い鳴き声がひとつ聞こえる。

 猫の呼び声で、あっと動きを思い出した風が吹いて、上がり口に置いてあった新聞がガサガサと音を鳴らした。

「――ゲロ。デモ、ゲッコ、師匠、尊敬シテル」

 ゲッコがいった。

「師匠、ドンナ戦イモ、最後マデ絶対諦メナイ。偽物ハ自分デ始メタ戦イ自分デ諦メル。腰ガ据ラナイ、コレ、腰抜ケ。腰抜ケハ一生、本物ナレナイ。ドンナ立場デモ腰抜ケハ偽物。ゲッコ良ク知テル――」

 ゲッコは空を見上げた。

 この若いリザードマン戦士は野生で純粋で、ただひたすらどこまでも誇り高く――。

「ゲッコ、その変な尊敬をするなって話をしてるんだ。俺は学のない馬鹿で、ただそれだけだ。この生き方の他を俺は知らねェのさ。だがな、こんなのは他人から羨ましいと思われるようなことじゃない。そんなものじゃないんだ――」

 ツクシはうなだれたが、

「ゲコゲコ」

 師匠を見やったゲッコは満足そうに見えるほうの目を細めている。

「――あのな、ゲッコ。もう一度だけ、俺のいうことをよく聞けよ」

 ツクシは歪んだ顔を上げた。

「ゲッコ、聞イテル聞イテル」

 ゲッコが二度頷いた。

「ああ、まあ、もういい――」

 ツクシはうつむいて口角を歪めた。

「ゲロゲロ!」

 ゲッコが笑った。

 その高い鳴き声は間違いなく笑い声だった。

「――おい、俺からちょっと訊いていいか?」

 ツクシがいうと、

「師匠、何デモ訊ケ」

 ゲッコが頷いた。

「お前の故郷ってどんな感じなんだ。リザードマン戦士国か? ひとが住めないとか聞いた覚えがあるが――」

 ツクシは聞いた。大湿地帯の上に杭を打って土台を作り、その上に建てた石作り三角形の家がリザードマン族の住居であるとか、乾季は湿地から突き出た飛び石を使って移動するのだが、雨季になると水かさが増すので、泳いで移動するのだとか、狩りに出たゲッコが自分の身長ほどもある大ナマズを抱えて帰ったときは、村が総出でお祭りのようになったことだとか、二人いるらしい弟の話や、一人いる妹の話や、父親や母親の話や、祖母や親戚の話――故郷の思い出をゲッコが語った。

 ヤドック一家の長男だったゲッコは本来、家に残る必要があったらしい。修行の旅に出るのはゲッコの弟の予定だった。国境が隣接するエルフ族やグリーン・オーク族と長年の交戦状態にあったリザードマン族は、国家の外に出ると命の危険が多くなる。弟の身を案じたゲッコは周囲に黙ったまま、自分が国を出たという。

「どうしてリザードマン族は、そこまでエルフ族やグリーン・オーク族と仲が悪いんだ?」

 ツクシは訊いたが、ゲッコもその理由をよく知らなかった。

 片言でわかり辛いゲッコの話を辛抱強く聞いていると、どうもドラゴニア大陸の本国に住むエルフ族やグリーン・オーク族は保守的な性格の民族主義者が多く、他の種族を総じて軽んじる傾向があるとのことだ。好戦的なリザードマン族の種族特性もあって国境が接しているエルフォネシア首長国連邦やグリーン・オーク共和国とリザードマン戦士国は必然衝突が起こる。それが、あまりにも長い間、戦っているので、お互い戦う理由が不明瞭になっているらしい。何しろカントレイア世界は過去に遡ると、何世代分もの文明が興亡している世界だ。多種多様な種族の文明が積み重なり過ぎて、過去に何があったか、はっきりわからないこともままあった。

 話を聞いているうちに、ツクシはゲッコの瞳にある感情を発見した。それは、ツクシがネストで出会ったひとの瞳のなかに何度も何度も見てきた感情だった。

 故郷を語るゲッコの瞳にあったのは望郷の念――。

 ツクシが視線を落としたところで、ゴロウが訪ねてきた。

「今から俺ァ、夜明けまで酒を飲む。おめェらどうせ暇だろ。付き合えや」

 ゴロウがムスッと告げた。

 むっつり不機嫌なツクシは、

「俺のほうは朝まで酒を飲むほどの金を持ち合わせてねェぜ」

「ああよォ、今日は俺が勘定を持ってやる」

 自他ともに認めるゴロウのようなドケチが酒のおごりを断言だ。激しく動揺したツクシは「雪でも降るのではないか?」と訝って空を見上げたが、陽が傾いた青空は黄色が差しているくらいで降雪する気配はない。

 ゴルゴダ酒場宿で、ツクシ、ゴロウ、ゲッコ、この三人が飲んだくれている(ゲッコは食う専門だ)最中である。

 ゴロウが空にした酒の杯を卓へ叩きつけて、

「いくら銭があってもなァ! 戦争の所為で王都の裏市場に出回る薬はほとんどなくなった。俺ァ、患者きゃくの治療がいよいよできなくなっちまった――」

 ツクシは無言のまま、ゴロウの杯へ赤ワインを注ぎ込んだ。

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