二節 姫ごと秘め事(壱)

「――備品の調達に五日は時間を見て欲しい。この調子だと地上へ何人か派遣する必要がありそうなんだ。主食も肉類も酒類も黄緑虫の絞り汁も全部不足してる。まだ安全が確認されていない地下十二階層を襲撃アタックするなら、最近は出番がない武器の点検・整備をする必要があるし、医療品類だって、もう一度確認しておきたいよね」

 備品調達班の班長ゾラの発言だ。

「そうだな、ゾラ。地下十二階層はまったくの未知だからね。用心に越したことはないよ」

 ゾラを補佐するイーゴリが頷いて同意した。

「備品の調達に五日だと? そんな悠長なことをやっていると、また他の奴らに先を越されるぞ。おい、ゾラ、イーゴリ、そこを何とかならねェのかよ?」

 仮入団中の役職なしであるツクシが偉そうに反論した。

「ツクシ、黙っていろ」

 リュウである。

「ツクシ、邪魔じゃよ」

 シャオシンである。

「ツクシさん、迷惑ですよ」

 フィージャもいった。

「あ? 俺には発言権すらねェのか?」

 苛立ったツクシは低く唸ったが全員から無視された。ネストから異形種が消え去って、団内におけるツクシの立場は、とても弱いものになっている。

 狡兎こうと死して走狗そうく烹らる、である。

 場所は王座の街の酒場宿ヤマサンだ。

 丸テーブル席で行われたスロウハンド冒険者団の定例会議は三時間ほどで終了した。さまざまな意見が出たが、結局、スロウハンド冒険者団はネストの活動を継続する形に落ち着いた。地上で冒険者が仕事を得るのが難しい状況になっている。団の運営資金に限界がくるまではネストで活動するのが良いだろうとの結論だ。先ほど地下十二階層へ続く下り階段が発見されたので、ネストの状況が変化することへの期待もあった。今月、ツクシが団から支給された賃金は金貨九枚と銀貨五枚だった。

 最近の三人娘は、酒場宿ヤマサンの裏手にある宿泊用天幕――垂れ幕で区切って作られた小さな寝室が並ぶだけの簡易宿泊施設を定宿にしている。地上の宿よりこちらのほうが宿泊費がずっと安い。高い金額を請求するほどの宿泊施設ではないといえばそれまでの話にもなる。公衆浴場でひと汗流したツクシとゲッコが帰還しても、まだ三人娘の姿は見えなかった。女の子のお風呂は長いのだ。

 カウンター席に座ったツクシは「三人娘の目を盗んで、地上うえへ帰る前に、ジョナタンから勧められたモグリの娼館でも冷やかしに行くかな」そんなことを考えつつ、トニーへエールを注文した。ツクシの隣に座ったゲッコは水を注文した。ツクシが懐中時計に目を向けると時刻は夕方の七時ちょうどだ。

 しかし、酒場宿ヤマサンは空席が目立つ。

「最近、下層したにできた屋台通りに客を取られてるんだよなあ――」

 裏手の厨房へ足を向けたトニーは渋い顔だった。

 ツクシが二杯目のエールを注文しようとしたところで、

「ツクシさま。ツクシさま?」

 背後から透明な呼び声である。

「――うん?」

「――ゲロ?」

 ツクシとゲッコが振り返ると、

「くおっ! チョ、チョコラ!」

 短いスカート丈の白いゴチック風ロリータ・ドレスで、ひらひらと自身を飾り立てたチョコラがそこに佇んでいた。

 ツクシが表情と身体をガチガチ固めていると、

「ツクシさまは、あれから全然、お店にいらしてくれないです」

 チョコラが瞳を斜めに伏せた。

「お、おう。そ、そうだな。お前とお前の店もな、その、何だ、すげェおっかねェからな――」

 ツクシは目が泳いでいる。

「ツクシさま、わたしとの約束は?」

 うつむいたチョコラは小さな肩を小さく震わせた。

「ああ、聞こえねェ聞こえねェなあ! ガ、子供ガキは帰れよもう。ここは酒場なんだぞ。酒場は大人の隠れ家なんだからな――」

 ツクシはひどい喉の渇きを覚えて手に持っていたタンブラーへ視線を送ったが、それは空だ。

「――うっ、うぅう!」

 チョコラが泣き声で脅した。

「おう、チョコラ、泣くのかよ。いいぞ、好きなだけ泣け。お前がギャンギャン泣いてもな、俺の知ったことかよ」

 ツクシは口角を歪めて強がったが、

「――うっ、びえっ!」

 うつむいた瞳に両手の甲をあてがったチョコラが本格的な泣き声を漏らすと、

「おうっ! いや、やっぱり泣くな! チョコラ、泣くなよ!」

 ツクシは顔を引きつらせて降参した。

「――はい」

 顔を上げたチョコラの瞳は全然濡れていない。

「――それで何だよ、チョコラ。何か用事があるのか?」

 ツクシは表情を消して訊いた。

「キルヒさまが、ツクシさまをお呼びです」

 チョコラが透明な表情でいった。

「へえ、キルヒは元気になったのか? ゴロウの治療でか? あのヤブ髭があんな難しそうな病気を治せたのか?」

 ツクシは首を捻った。

「ベッドから起き上がれるようになりました。だから、キルヒさまは、ツクシさまともう一度、お会いしたいそうです」

 チョコラの口振りを聞くと「キルヒが全快した」とはいい難い様子だ。

「そうか。それなら、すぐに行かなきゃな――」

 キルヒの青い裸体を鮮明に思い浮かべたツクシは腰を浮かせたが、その動作は途中で止まった。

「――おい、チョコラよ。キルヒはお前の店の従業員じゃないんだよな?」

 ツクシは椅子へ尻を戻してから訊いた。

「――はい。キルヒさまは宿泊客ですよ」

 チョコラは一呼吸分の間を置いてからいった。

「それなら良しだ。俺の財布に危険はねェ――」

 口角を歪めたツクシはまた腰を浮かせたが、

「ああいや、ちょっと、ちょっと待て! おいおい、チョコラ、もうその手には乗らないぜ。これはサラとルナルナの待ち伏せアンブッシュだろ。給料日の直後だからな。どう考えてもタイミングが良すぎるぜ。ふう、危ねェ危ねェ!」

 ヒューウ、と大きな息をつきながら再び尻を椅子へ落ち着けた。ツクシだって学習をしないわけではないのである。ただ、その学習能力は非常に低いといわざるを得ない。

「お姉さまたちがアンブ――?」

 チョコラが小首を傾げて見せた。

「あのアバズレどもは、また俺から財布にある金を全部巻き上げる腹積もりなんだろって話だ。チョコラ、お前はそうしてシレっとしているがな。奴らのやり口をよく知っている筈だぜ?」

 ツクシは眼前にいる猫耳美少女も警戒しているのである。触れると壊れてしまいそうな幼い硝子の美貌だ。しかし、チョコラという猫耳美少女は見た目から想像ができないほどの悪女ワルで、また、タフでもあった。チョコラに一度、ガッツリ削られたツクシは身を持ってそれを知っている。そのチョコラが両手を口元へ持っていってメガフォンの形を作った。そのままの姿勢でチョコラはツクシをじっと見つめている。

「――何だよ、内緒話か?」

 怪訝な顔のツクシが猫耳美少女のメガフォンへ耳を寄せると、

「ツクシさま、大丈夫。今日のお姉さまたちはお得意様のお相手中ですよ」

 チョコラが幼い吐息と囁き声でツクシの耳をくすぐった。

「お、おう、そうかよ。お得意様な。それなら、あ、安全なのかな?」

 キルヒの青い裸体やら、サラやルナルナにガシガシ削り取られた思い出やら、チョコラ相手に繰り返した背徳行為やらが、ツクシの頭のなかで渦を巻いた。

 チョコラは視線をウロウロさせ始めた馬鹿な中年男を静かに見上げながら、

「わたしがツクシさまをご案内します」

 チョコラは落ち着き払った態度である。

「どっ、どうするかな――」

 ツクシが呻き声と一緒にチョコラを見やった。

「――ご案内します」

 もう一度いったチョコラは眉を強く寄せて青い猫の瞳を細めた。

 苛々し始めたみたいである。

「なっ、何だよ、チョコラは怒っているのか? ああ、今から行くからよ。そんなに怒るなよ――」

 このままチョコラを怒らせると、キルヒに会えなくなるかも知れん――。

 怯えたツクシは席を立って背もたれにあった外套を手にとった。

 ここまで口半開きにして二人の遣り取りをポケッと眺めていたゲッコが、

「ゲロ? 師匠、チョコラト修行カ?」

「ああ、そうだ。男の修行だぜ――ああ、いや、チョコラとはもう修行しない。それだけは駄目だ駄目駄目。チョコラの年齢を相手に修行をするのは人道に反しているらしいんだよ。最近の世間は細かいことにうるさいよな、色々とな――」

 外套を羽織りながら深々と頷いたツクシはそのままうなだれて暗い顔になった。

「ゲロロ?」

 ゲッコが首を捻っている。

「ゲッコはついて来なくていいぜ。お前はお前で好きに遊んでろよ」

 ツクシがワーク・キャップを頭に乗せた。

「――師匠。オ気ヲツケテ」

 ゲッコはちょっと考えたような様子を見せたあとにいった。

 踵を返したツクシが、また踵を返して、

「ああ、そうだそうだ。リュウたちには公衆浴場へ行っていると伝えといてくれ。ゲッコ、これは絶対に忘れるなよ」

 ツクシは真顔である。

「ゲロゲロ。師匠、了解」

 頷いたゲッコはツクシの外套をぐいぐい引っ張るチョコラを眺めている。


 §


 ひと口に娼婦といっても千差万別だ。

 王都に無数ある娼館のなかでも一等に高級の娼館メルロースは従業員への教育や健康管理が行き届いている。変な話だが、この娼館の労働環境は悪くないのだ。サラやルナルナの勧めもあって、飼い主を失ったチョコラは自由意志でメルロースの娼婦見習いになったといった。見習いだからチョコラは客を積極的に取っているわけでもないらしい。壊滅したアマデウス冒険者団の財産を処分して資産を得たキルヒは、この娼館兼酒場宿の上客である。キルヒの世話を仕事にするチョコラは未だに黒服の男たちから「様」付けで呼ばれているし行動も自由だという。チョコラはキルヒから生活費も貰っているようだ。

 ツクシはチョコラとそんな会話をしながら、両脇に娼婦の職場が並ぶ天幕の回廊を歩いていった。今日のツクシは目的がはっきりしているので迷わない。ツクシの右腕にまとわりついたチョコラが誘導してもいる。

「おい、チョコラ。キルヒはいないようだが?」

 ツクシは目的の半神の寝所に侵入するとすごく不機嫌な声を上げた。ここまですごい速足で歩いてきたのだ。しかし、天蓋つきの大きなベッドの上にある筈の青い裸体はそこにない。

「今からお呼びしてきます」

 チョコラはツクシの不機嫌な横顔を見上げている。

「な、なるほど、今は準備中ってことか。ほう、な、何の準備なのかよ?」

 ツクシの浮わついた声から不機嫌が一瞬で消えていた。

「はい、準備が必要ですから――」

 チョコラが少しだけの笑みを見せた。

「そうかよ、それは楽しみだな!」

 ツクシも口角をひどい感じで歪めている。

「――だから、ツクシさま。ここで少し待っていてくださいね」

 念を押したチョコラがツクシの右腕から離れた。

「あ、ああ、チョコラ。でも、あまり長くは待てないかも知れん。は、早くしてくれよ!」

 すごくそわそわしているツクシは態度も言動も無様だった。その行動も無様だった。チョコラが部屋から出て行ったあと、手持ち無沙汰になったツクシは大きなベッドへ歩み寄った。ベッド・サイド・テーブルの脇には、ネストで見たときキルヒが着ていた黒革鎧が置いてある。近くにある木製のハンガーには何もかかっていない。ベッドの周辺には光源がいくつもあった。立脚がついた導式カンテラだ。青白い光を放つそれは前に訪れたときよりも半神の寝所を明るく照らしている。

「キルヒめ、さては目の見える俺に気を使ったか――?」

 都合良く考えたツクシは、その口角をおぞましい角度で歪めた。次に、ツクシは口角をひん曲げたまま部屋の隅にある衣装箪笥へ歩み寄った。その横には立派な本棚もあったが、分厚くて難しそうな本ばかり並んでいたのでこれを無視する。ツクシは読めないし興味もない。衣装箪笥の把手へ手をかけると鍵はかかっていなかった。なかには、キルヒのものらしき衣類が並んでいる。たいていは黒系統のシンプルなシャツやパンツだった。

「へえ、パンツ派かよ。地味すぎやあしねェか? お肉体たからの持ち腐れだぜ――」

 ツクシは声に出していった。そこには一緒にチョコラのドレスも並んでいた。たいていはひらひらフリフリがついたお姫様風のデザインである。

「――まあ、これはチョコラらしいよな」

 ツクシは独り頷いた。しゃがみこんだツクシは衣装箪笥の引き出しを開けた。お目当てのブツを発見したツクシの目がぬらぬらと輝く。成人女性用下着がぎっしりである。キルヒの衣類とはまるで違って派手なものが多かった。ツクシは次々とそれらを手にとって品定めを開始した。時間をかけて選別した。迷いに迷った挙句、結局は無難な、表面積のほとんどがレースで透けた白いパンティを選んだツクシが、ベッドへ歩み寄ってそこに腰かけた。うつむいたツクシは手にもったシンプルだが扇情的な形状の女性用下着を、表にしたり裏返したりしながら飽きることなく見つめた。

「――お待たせしました」

 透明な声だ。

「おう、キルヒ。是非とも、このおパンティを履いてだな――!」

 ツクシが顔を上げると、

「――むご、ぶっ!」

 柔らかいものでその口をゴチンと塞がれた。

 挨拶抜きかよ、激しいなあ、おい――。

 奇襲を受けてベッドへ背をつけたツクシは、それはもう大歓喜したのだが、すぐ怪訝な顔になった。ツクシの頭をぎゅうと抱えて唇を強奪している人物は、キルヒにしては身体が小さくて体重が軽いし、手でまさぐって確認すると出るべきところもほんの少ししか出ていない。髪の毛の色も肌の色も匂いもキルヒとは違う。何よりもツクシの口のなかへ流れ込んでくる接吻の味が妙だ。

 それは苦くて薬臭い――。

「――ぶはっ! おい、お前はチョコラ!」

 ツクシは奇襲してきたチョコラを強引に引き剥がした。ツクシに両肩を強く掴まれたまま真横を向いてプイツンしているチョコラは、白い肩もあらわにしたキャミソール・ドレス姿だ。脚はレース生地で透けたニーハイ・ソックスで覆って、それをガーターベルトで吊っている。宣言通りである。チョコラは準備を整えてきたらしい。

 それにしてもエロい格好である。

「――ああ、いやいや、それは違う違う! ま、まさか、チョコラ。この苦いのは例の!」

 強くかぶりを振ったツクシが赤らんだ顔で睨みを利かせた。

「ツクシさまが悪いです」

 チョコラが顔を横向けたままツクシへ視線を送った。

「お、お前、俺に一服盛りやがったな!」

 ツクシは熱に浮いた声で唸った。

 心拍数が急激に上がって視界がパカパカ点滅し始めている。

「ツクシさまが約束を守ってくれないから――」

 チョコラが濡れた唇の端を吊り上げた。獲物を狙うめすの表情かおを見せつけるチョコラに怯えたツクシが視線をウロウロ惑わすと、やはりそれがあった。前にツクシが痛い目を見た強烈無比な薬酒の瓶がベッドの上に転がっている。これはついさっきまでチョコラの手にあったものだ。

「くお、やっぱりか! お、お、大人を舐めるなよ、チョコラ!」

 うつむいて吠えたツクシがチョコラを突き飛ばした。

「――あっ」

 弱い悲鳴と一緒にチョコラはベッドへ身を沈めた。

「だ、駄目だ駄目だ! お、俺は意地でも此処から帰らせてもらうぜ!」

 ツクシは腰の中心に烈火を抱きつつも、何とかベッドから脱出して出入口へ向かった。

 進める足腰がカクカク震えている。

 その震えるツクシの腰へ両腕をぎゅうと巻きつけて、

「帰しません」

 チョコラが強い声でいった。

「くそっ、放せ放せ、このめす猫めが!」

 ツクシは金色夜叉よろしくチョコラを足蹴にして逃亡しようと試みたが、そのままバランスを崩してひっくり返った。すかさずチョコラが仰向けになったツクシを上から押さえつける。キャミソール・ドレスの臀部に空いた小さな穴から飛び出したチョコラの猫のしっぽがにゅるんにゅるん動いていた。猫人族は身のこなしがしなやかで、とても素早いのである。

「――あぁあぁあ!」

 断末魔のような呻き声を上げたツクシは、胸の上で自分を見下ろすチョコラの透明で邪悪な微笑みを凝視した。普段のツクシならチョコラにまとわりつかれても軽々引きずって移動ができる。しかし、今のツクシは男の剛力がすべて男の本懐へ集中して脱力していた。局所的には痛いくらい剛直だ。

 薬物投与から十秒以上が経過。

 ただでさえ脆弱なツクシの理性が薬効に負けてプッツンする。

「ツクシさま、乱暴なのは、いやあっ!」

 力づくで押し倒されて、頬を赤くしたチョコラは視線だけを横へ逃がし、嫌がってもいないのに嫌がって見せた。


 §


 王座の街は地下深くにあるので空を飛ぶ鳥はいない。

 どこから侵入してくるのかわからないが、吸血蝙蝠だとか凶暴な野良犬ならたくさんいる。であるから、朝が来たところで小鳥がチュンチュンとさえずるることはない。それでもだ。明け方、小鳥が鳴いたような幻聴を聞いたツクシはハッと意識を回復して、自分の肉体からだに透き通るような白く細い四肢を絡ませ、幼い寝顔を無防備に晒すチョコラを見た。

 二度目である。

 ゲンナリとしたツクシが状況を確認すると、ベッドの上は昨晩に行われた背徳の痕跡で占領されていた。

 脱ぎ散らかされた二人分の衣類、

 ベッド・サイド・テーブルの棚から引っ張り出して使用した恐ろしく卑猥な道具の数々、

 何らかの液体が広がってそれが乾いた跡、

 きゃあきゃあとお互い戯れながら玩具おもちゃにした食べ物やら飲み物、

 とにかく色々だ。

 二人仲良く超イチャイチャしながら風呂へ入った記憶もツクシにある。

「――チョコラにそんな非道い真似、俺は全然していないがな?」

 ツクシは声に出してすっとぼけた。チョコラへの非道乱行をひとつひとつ脳内で完全再現できるまで鮮明に思い出せたが、ツクシはそれらをもう全部忘れたことにした。

 あのひどい薬酒の所為で俺は何も覚えていない。

 覚えてない。

 知らない。

 俺は何もやってねェ。

 ツクシはチョコラの白く輝く幼い裸から目を逸らして自分自身を騙した。俗にいう欺瞞である。身を起こしたツクシはベッドの脇に転がっていた例の危ない薬酒の瓶に気づいて手にとった。緑の瓶の背面ラベルにあった注意書きはツクシにも読めた。布教師アルケミストの指示を守って適量をお使いください、だの、心臓の弱い方はご使用をお控えください、だの、使用後の行動に当社は一切の責任を負いません、だの、小さな髑髏マークの横に、そんな脅し文句が書き連ねてある。顔を歪めたツクシは乱れたベッドの上へその薬酒の瓶を放り投げた。

 その音で目を覚ましたチョコラが眠い目をこすりこすりしながら、ツクシにとろとろ甘えてくる。

「チョコラ、俺は宿へ帰る。頼むからもう帰らせてくれ――」

 ツクシは暗い顔でいった。ベッドに腰かけてうつむいたツクシへ幼い裸をすり寄せて散々誘惑していたチョコラは最終的に渋々の態度で頷いた。背徳の寝所から退出するとツクシを黒服の若者が待ち構えていた。チョコラはあくまで娼婦だ。

 黒服の若者は会計として金貨九枚と銀貨八枚をツクシへ請求した。

「――どれもこれもアホみてえに高い値段だな。俺がこれを払えないといったら、お前はどうするんだ。あぁん?」

 ツクシは黒いお盆の上に乗って出てきた伝票を手にとって、へなへな殺気立って見せた。

「ツクシ様ならお身元も確かです。何なら、スロウハンド冒険者団に請求書を送っておきましょうか? ああ、ゴルゴダ酒場宿のほうがよろしいのでしょうか?」

 薄笑いを浮かべた黒服の若者は慇懃無礼に応じた。

 身元が完全にバレている。


 キルヒは地上うえで疲れた身体を休めている。

 ついでだから、肉親を探してくるともいっていた。

 ツクシは明け方の静かなメルロース店内を歩きつつ、そんな話をチョコラから聞いた。最初からキルヒはいなかった。チョコラはツクシの年齢の半分も生きていない小娘だ。それがまたツクシを手玉に取った。またしてもガッツリ削り取られたツクシは苛々している。そのツクシの鋭い視線を浴びたチョコラはしきりにモジモジと頬を赤らめていた。

 何をしても何をいっても無駄である。

 メルロースの正面出入口を潜って外へ出たとき、ツクシは力なくうつむいていた。

「――おっ、ツクシじゃん!」

「――にゃ、ツクシ!」

 朝から元気な高級娼婦二人組の声である。

「おう、お前らかよ――」

 顔を上げたツクシが全然元気のない挨拶を返した。

 サラとルナルナが彼女たちの職場の正面にいた。

「へえ、ツクシはもう他の娘と浮気してきたの?」

「私たちを差し置いて失礼な話だにゃん!」

 甘い声で責めなじりながらサラとルナルナがツクシの両脇へ擦り寄った。

「よくいうぜ。今、お前らはお前らのお得意さんを見送っていたんだろ?」

 ツクシは大通りをふらふらと歩いてゆく、王国陸軍服をだらしなく着た二人の男の背へ目を向けた。彼らはいつぞやサラとルナルナに一生懸命いい寄っていた少佐と大尉だ。とうとう本懐を遂げたらしい。そのひどく頼りない足取りを見ると、少し後悔をしているのかも知れない。

「――ん? ああ、ツクシの相手はチョコラだったんだ」

 サラはツクシの背後へ隠れるようにしてついてきたチョコラを眺めている。

 目が冷たい。

「ああ、へえ、ツクシはそうにゃんだ――」

 ルナルナも冷めた態度だった。

「――はい。そうなんです。お姉さま」

 チョコラは瞳を伏せたまま、頬をちょっと赤くして、小さな声でいった。

「――『はい。そうなんです』じゃねェだろ。おい、サラ、ルナルナ。こいつは性質タチが悪すぎるぜ。お前らはチョコラにどういう教育をしているんだ。こいつがやっていることは、昏睡強盗と内容が変わらないんだぞ?」

 ツクシはサラとルナルナに八つ当たりをしたが、

「そっか。ツクシは小さい女の子が専門だった、か――」

「あまり感心はできない、にゃん――」

 視線を落としたサラとルナルナの返答はこうだった。

「あのな、お前らな、聞けよ、俺の話を――」

 ツクシも視線をがっくり落とした。

「ツクシさま、ツクシさま――」

 チョコラが後ろからツクシの外套を引っ張っている。

「――チョコラ、何だよ?」

 ツクシは歯ぎしりの音と一緒に振り返った。

「また、私に会いにお店へいらしてくださいね」

 チョコラは瞳を斜めに伏せて頬を赤らめた。

「この、めす猫めが――」

 ツクシは顔をびくびく引きつらせた。

「――ん」

 それを無視したチョコラは、身体の後ろで両手を揃えて、踵を上げて、顎先を上げて、瞳を閉じた。これは「わたしにチュウをしてください」の姿勢である。完全に表情を消したツクシはしばらくチョコラのあざとい態度を眺めたあと、その鼻先を指先で弾いた。

「きゃんっ!」

 チョコラが仰け反った。

「チョコラ、これはあの薬酒のお返しだ。ざまあみやがれ。じゃあ、俺は帰るぜ」

 ツクシが踵を巡らせた。

「――もう! ツクシさま。約束です。またいらしてくださいね!」

 鼻の先と顔を真っ赤にして、チョコラがツクシの背に吠えた。

 振り返らない。

 しかし、右手を軽く上げて、ツクシは一応の返礼をした。

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