三節 姫ごと秘め事(弐)

 早朝である。

 ひと通りが少ない王座の街の道の静寂の遠くに、生活の息吹が聞こえ始めていた。地上の夜明け前とよく似た光景と音だ。しかし、異形の巣に夜明けはこない。地下深くに沈殿した闇を強引に人工光で追い散らしている王座の街の早朝は爽やかとはいえないものだ。その爽やかでない明け方の小路を、うつむいたツクシがのろのろ歩いていると、脇道から出現した酔っ払いの男とぶつかった。衝突した相手は薄らハゲの頭を酒精で真っ赤に染め上げた中年男だった。

「おいおい、お兄ちゃんも、だいぶ、酔っ払ってんなぁ。お互い、きぃつけよぉなぁ!」

 酔っ払いが大声でいった。

「ああ、こっちこそすまなかった――」

 ツクシは視線を落としたまま弱い声で謝罪した。そのあとは何事もなく二人の酔っ払いはすれ違った。ツクシは寝起きだから酒には酔っていないのだが、しかし、その足取りは怪しいものだ。チョコラに芯からガッツリと削られて足腰に力が入らない。ツクシは幼い娼婦の色気でまだ悪酔いをしている。

 一夜で羽根のように懐が軽くなって茫然自失しているのもある――。


「おう。お前ら、朝が早いな――」

 どうにか酒場宿ヤマサンに帰還したツクシの挨拶だ。

 丸テーブル席には、リュウ、フィージャ、ゲッコ、それにシャオシンとテトが座っていた。今は営業時間外だが、酒場の裏にある簡易宿泊施設を利用している客はこの酒場で朝食をとる。他にも若い男女混合の団体客だとか、そこそこ綺麗な身なりのネスト探索者集団(恐らくは観光気分の)が好きな席についている。

 客の数はさほど多くない。

「――随分と長い風呂だったようだな、ツクシ」

 リュウが朝食をフォークでつつきながら顔を上げずにいった。朝食は皿の上に盛り合わせたスクランブル・エッグとソーセージ(たぶん、馬肉でないもの)と少しの生野菜、それに黒い丸パンだ。飲み物はグラスに入った水である。昨晩、贅沢な料理の数々をチョコラの未熟な肉体と一緒くたにして、ぬらぬら味わってきたツクシは、リュウの食べている朝食がとても貧相なものに見えた。

 何だそれ、宿の裏で拾ってきた残飯かよ、あぁん?

 ツクシは胸中で毒を吐いてリュウの皮肉に応えた。

「うむ、テト、王手じゃ」

 シャオシンが王手である。

「シャオシン、その手は、ちょっと待った!」

 テトが盤面からがばっと顔を上げた。

 シャオシンとテトは例の将棋モドキに興じている。

「待ったは三回までの約束だった筈じゃよ」

 盤面に視線を落としたままのシャオシンが冷たい表情で冷たく告げた。

「――くっ!」

 テトがまた盤面を睨み始めた。褐色の頬を赤く染め上げてすごい形相だ。シャオシンの兵隊駒で包囲されたテトの王様駒は万事休すの形に見える。

「ご主人さま、このまま一気に止めを――」

 フィージャがシャオシンへ顔を向けた。

「フィージャ、焦るでない。追い詰められた敵の乾坤一擲けんこんいってきを侮ってはならんのじゃ――」

 シャオシンは君主の横顔を見せていた。

「――はい」

 真面目腐った顔のフィージャが深く頷いた。

「ゲロ、ロ、ロ、ロ――」

 ゲッコがシャオシンの前に積み上げられた金貨を見つめて鳴いた。シャオシンがテトを賭け将棋モドキでカモっている。もっとも、テトが持っていた金貨の大半は、同じ席にいるゲッコから賭け将棋モドキで巻き上げたものだ。そのゲッコは右から左へ飛んでゆく元は自分の稼ぎだった金貨数十枚を椅子の上で眺めている。朝っぱらから、シャオシンとテトは大枚を賭けて博打をしていた。

 呆れ顔のツクシが二人の美少女賭博師ギャンブラーを眺めていると、

「――では、ツクシ。そこに座れ」

 朝食を終えたリュウが空席へ顎をしゃくった。

「リュウ、俺は今すごく疲れているから、酒場の裏のベッドへ行って何も考えずに一眠りしたいなあと考えている。じゃあな」

 説明口調でいったツクシはリュウの後ろを通り抜けた。

「俺たちとしてはそれでも一向に構わんぞ!」

 視線を卓の上に置いたままリュウが怒鳴った。裏手の簡易宿泊施設へ向かっていたツクシの足がピタリと止まる。

「不正確な情報でも、だ。ゴルゴダ酒場宿へ伝えれば、俺たちに課せられた責務は果たされたことになるのだろうし、な――」

 リュウがツクシの背へ視線を送った。

 死神の翼が揺れる背中だ。

「リュウ、確かにそういうのは良くないよな。いい加減な情報を相手に伝えると、その話に尾ひれがついて、取り返しがつかない事態になることが多い。風説の流布ってやつだ。そ、それは、良くないと思うぜ、うん――」

 死神の翼――外套を脱ぎながら、くるっと振り返ったツクシはぶつくさいいながら、リュウに指定された席へそろっと尻を落ち着けた。

 そのついでに、

「ああ、テト。悪いが、俺に水を一杯もらえ――」

 ツクシは注文をしたのだが、

「ツクシ、黙っていて!」

 盤面を鬼の形相で睨みつつ反撃の一手を指したテトの返事はこうだった。

「シャオシンはそのヘンテコな将棋に滅法強いんだな」

 ツクシは声をかけた。

「テト、無駄じゃよ、王手」

 シャオシンはツクシへは返事をせずにテトの陣地を攻め立てた。

「あっ、そ、そんな手が!」

 悲鳴と一緒にテトは長考に入った。

 卓の上の音が途切れた。

 緊張した面持ちのツクシは身体を固めたまま視線だけをウロウロさせたが、誰もそれに反応するものはいない。

「――では、フィージャ、始めろ」

 顎の先に拳を当てたリュウが静寂を破った。

「――はい」

 静かに頷いたフィージャが視線を落としたまま席を立ってツクシに身を寄せた。

「おい、よせよ、フィージャ。俺をくんかくんかすんな。匂うのはたぶん加齢臭だけだぞ。俺はオッサンだからな。おい、よせってば――お前の種族はそういうおかしな趣味があるのか?」

 ツクシは自分の身体のあちこちを移動しながら、ふんふんするフィージャの黒い鼻先に抵抗して椅子の上で身を捩った。

「――これは強い薬の匂い? いや、どうやらこれは薬酒のようですね」

 フィージャは鼻先の動きを止めて真顔で呟いた。

「あっ! ああ、そうなんだよ、フィージャ。そうだ。俺は何らやましい真似をしてきてねェ。ネスト探索で疲れた俺は、その疲労を回復させる為に、外で薬を呑んできただけだ。フィージャ、『ファイト一発』ってのが売り文句の強壮剤を知っているか。まあ、俺が無理矢理飲まされたのは、『ファイト連発』って感じだったんだがな。理性も完全になくなるしよ。何なんだよ、あのおっかねェ薬。飲食店であんなものを提供するのは非合法じゃあないのかな――」

 ツクシは硬い表情でぶつくさいって、その身に負っている背徳を煙に巻こうとした。

「――それと花のような香りの高級石鹸」

 フィージャが深々と頷いた。

「ああ、フィージャ、俺は風呂にも行ってきた。お前らもゲッコから聞いていた筈だろ? おっ、俺は嘘を吐いてねェよな?」

 ツクシが激しく目を泳がせた。

 確かにツクシの発言は嘘ではない。

 ものはいいようだ。

「――それに女性の匂い!」

 フィージャは「ガルッ!」と唸った。

「な、何をいう!」

 ツクシの声が裏返った。

「ほう、それは良かった。『ツクシ以外の男性の匂い』だったら、俺は反応に困っていたところだ。なるほど、ツクシの相手は確かに女性と――それで、フィージャ、それはどんな女性なのだ?」

 リュウはとても驚いた表情だ。

 台詞も仕草も表情も演技っぽい。

「おい、フィージャ。『武士の情け』って言葉、お前は知っているか?」

 椅子の上で身体を斜めに傾けたツクシが、鼻先を寄せてふんふんするフィージャを睨んだ。

「――こ、これは!」

 はっとフィージャが表情を変えた。

「どうした、何があったというのだ、フィージャ!」

 リュウの小芝居だ。

「おう、知らねェよな。ああそうだよな。フィージャは武士でなくて犬だしな。この犬畜生めが!」

 ツクシは視線を落として小声で毒づいた。

「わかりました。これは、まだ成人前の小さな女の子の匂いです。種族は猫人ですね!」

 得意気に人差し指を立て、ノリノリでツクシのお相手を特定したフィージャだったが、

「――なっ、何て汚らわしいひとなのでしょう!」

 次の瞬間にはうなだれてガクンガクン身体を震わせた。フィージャのなかで、ツクシの人物評価が『我慢のないひと』から『クソのように汚らわしいヨゴレ』へ一気に格下げされた様子である。

「ツクシ、お、お、お前という奴は善悪の判断が本当につかんのか。そ、そこまでのクズだったとは!」

 リュウも小芝居をやめて完全にドン引きだ。

「もう詰んどるよ」

 シャオシンが冷たく告げた。

「――うふふっ」

 うなだれたテトが腑抜けた笑みを見せた。

 ツクシへの取り調べの脇で白熱していた盤上の戦いも決着したようだ。

「俺たちはこの事実を女将さんに――エイダに報告しなければならんのか。これは、さすがに気が重くなってきた。間違いなく血を見るのだろうし――」

 リュウは演技抜きで視線を落とした。

「確かに残酷な結果に結びつくかも知れません。でもここは心を鬼にするべきでしょう。正義の執行はときに痛みを伴うものなのです。悲しいことですがね」

 表情も厳しく語ったフィージャは、ここ一番ではかなり残酷な態度を見せる傾向がある。

「おい、お前ら!」

 ツクシは尻で椅子を弾き飛ばして立ち上がって吠えた。

 そうしたところで、卓にいるものは誰もツクシへ目を向けない。

「――この通りだ。頼むから女将さんには黙っていてくれ。こんなのがバレたら、今度こそ俺は殺されてしまうだろ――」

 ツクシは床にて土下座である。

 ツクシの土下座を見慣れたゲッコは何の反応もしなかった。


 §


「ツクシさん、それは無理だべ」

「ツクシさあ、それは駄目だろ」

「そんなことできるわけないでしょ、このクズ男!」

 ジョナタンもトニーもテトも対応は三者三様であったが結論は同じだ。

 そんなの絶対ダメである。

「おい、俺にツケで酒を飲ませろ」

 金がないツクシは酒場宿ヤマサンの一席で、シャオシンから例の将棋モドキの手ほどきを受けるなどをして暇を潰しながら偉そうな態度で店員へ要求した。だが、これは失敗した。借金を返さない男であると周囲に見抜かれている。ツクシは信用がない。信用のないものには誰も貸し出さない。

 ツクシがチョコラにゴリっと削られてから三日後だ。

 先日の予告通り、スロウハンド冒険者団のネスト探索はまだ開始されていなかった。無一文でゴルゴダ酒場宿へ帰ると、今度こそエイダにブッ殺される可能性が高いツクシは、酒場宿ヤマサンの裏手の簡易宿泊施設のベッドで不貞寝をしていたのだが、朝が来る前にやっぱり目が覚めた。枕元にあった白銀の懐中時計を見ると夜半前の時間帯――午後十時四十五分である。ツクシが就寝したのは午後七時五十分だ。

 おじさんはそんなに長い時間を眠れない。

「――どう考えても酒が足りねェぞ。くそったれ」

 ツクシはベッドから身を起こした。ツクシが浅い眠りのなかで見たのは日本で行きつけだった量販店で安酒を大量に買い込む夢だった。日本で暮らしていた頃なら安酒を浴びるほど飲めた。王都には酒が安価で手に入る店がないし、王都を流通する物品は戦争の影響で値段が上がる一方だ。酒だって不味くて高くなった。異世界は日々暮らし辛くなっている。

 ツクシはふいに日本が恋しくなった。

 天幕で仕切られた隣の部屋では、ゴロウが高いびきをかいていることが多い。しかし、薄い天幕の壁越しに夜な夜ないびきを響かせて、ツクシの安眠を妨害する赤髭男は地上からまだ戻ってきていない。ツクシと同じく無一文になったゲッコはゴルゴダ酒場宿の手伝いで小遣いを稼ぐため地上へ一旦帰った。

 ツクシは暇であったし、胸に小さな穴が空いたような気分でもいる。

「酒が足りない所為だ――」

 ツクシは無理に納得した。

「無料の水で腹を膨らませて誤魔化すか――」

 ツクシは寝るだけの天幕の貸し部屋から垂れ幕を割って外へ出た。

 すると、天幕の一本廊下でリュウが突っ立っている。

「おう、リュウかよ。こんなところで何をやってるんだ?」

 ツクシが眉根を寄せた。

「あっ、ああ、ツクシ、そのだな――」

 リュウは目を泳がせている。

「こそこそしやがって。何なんだよ?」

 リュウが両手を背に回していることに気づいたツクシが腰を曲げて彼女の背後を覗き込んだ。

「ああいや、な、何もないぞ。あっ!」

 頬を染めて視線を迷わせていたリュウの手から、そこにあったものを、ツクシが掻っさらった。

 ツクシの手癖はかなり悪い。

「へえ、これはワインか――いや、このラベルはシェリー酒だな。ゴルゴダ酒場宿の棚で見たことがある銘柄だぜ。ああ、じゃがいも酒もあるのな――」

 ツクシが呟いた。リュウは酒の瓶を二本携えていた。シェリー酒の瓶とジョナタン特製じゃがいも酒の瓶だ。

「こ、これもまだ飲んだことがないから試してみたくて――その、良かったらツクシも俺と一緒にどうか、な――」

 リュウは女性としてはちょっと頼りない胸元でくだんのじゃがい酒を抱えて視線を横に向けた。今のリュウは白い長髪を下ろして締まった肉体からだに貼りつくような瑠璃色のロング・ドレスを着ている。こうしていると美貌の女性だ。

 ツクシはシェリーの瓶をずっと見つめている。

「――ああ、ツクシ、そういう態度か。では、それを返せ。俺がひとりで全部飲む!」

 リュウがツクシの手からシェリー酒の瓶をひったくった。

「あー、フィージャ、シャオシン、ここにおるか? 今、リュウがこっそり酒をだなあ――」

 ツクシが声を上げた。

「ひっ、卑怯者!」

 リュウが周囲をキョロキョロ警戒した。シャオシンとフィージャの倹約令はまだ続いているのでリュウは勝手にお酒を飲めない。隠れてなら飲める。

「おう、リュウ。ガタガタいってないで、こっちへ来い!」

 ツクシがリュウの腕を掴んで自分の貸し部屋へ引きずり込んだ。

「あっ、乱暴な。さ、さては、ツクシ、なかで俺に別の乱暴をするつもりだな。あれえ、誰かあ、助けてえ――」

 小芝居をしながら引っ張りこまれたリュウは大して抵抗していなかった。そのリュウをツクシはベッドの上へ突き飛ばした。そこに倒れ込んだリュウは赤らんだ顔を本気で固めている。ツクシはベッドサイド・テーブル(※ジョナタンが作ったもので、簡素なデザインである)へ向き直った。

 リュウは怪訝な顔になった。

「――じゃあ、リュウ。そいつを一杯、もらおうか」

 ツクシがベッドサイド・テーブルの上にあったマイ・タンブラーを、リュウへ突きつけた。

「ツクシ、お前という男は――」

 リュウは視線を落とした。

 そうはいっても、リュウはツクシと酒を酌み交わしにきたのである。

 シェリー酒の瓶を開封した二人はベッドに並んで腰かけて、お互いの手のタンブラーへ酒を注いだ。寝転がりながら酒を飲むことも多いツクシのマイ・タンブラーは枕元に常時数種類がある。リュウの杯もすぐ用意できた。

「随分と甘いぶどうの酒だな。変わった味だ。色も茶色いし――」

 シェリー酒を口に含んだリュウは、自分の杯のなかに落ちた茶色い酒をまじまじと見つめた。

「ワインにアルコールを添加して樽で寝かせて作るシェリー酒は各種銘柄で生産方法がかなり違う。味も銘柄で全然違うんだ。辛口もあればひどく甘いのもある。甘いのはデザート・ワイン扱いだぜ。まあ、食後酒だよな。今飲んでいるのはこれでも辛口だ」

 ツクシが杯を舐めながらいった。

「ほう、これでも辛いのか。ツクシは酒に詳しいな――」

 リュウもゆっくり杯を傾けた。

「俺が自慢できるのは酒の知識くらいだ。まあ、あまり褒められたもんじゃねェ――」

 ツクシが口角を苦く歪めた。

「ツクシの故郷クニではニホンシュを飲むとツクシ自身から聞いたぞ。ツクシはニホンシュ一本槍ではないのか?」

 小首を傾げたリュウがツクシへ視線を送った。

「日本ではどんな種類の酒だって飲めるぜ」

 ツクシはちょっと嘘を吐いた。日本で生活していたときのツクシが常飲していたのは缶入り発泡酒に大容量ペット・ボトルの焼酎だ。どっちの世界にいても、ツクシが貧乏人であることは変わらない。

「すると、ニホンにいた頃のツクシは、タラリオン王都のような賑やかな場所に住んでいたのだな。世界各国からヒトとモノが集まってくるような?」

 リュウが視線を上に向けた。

「俺が住んでいたのは片田舎だったがな。リュウ、日本には酒の量販店ってのがあるんだ。まあ、大きなスーパー・マーケットでもいい」

 ツクシはそう説明したが、

「量販? スーパー?」

 リュウは杯を呷る手を止めて怪訝な顔だ。

「インターネットで買ってもいい。恥ずかしい話、俺はあの手の電子機器に疎くてな。ネットの通販とやらはほとんど使ったことがないが――」

 ツクシは渋い顔でいった。

「インターネ――?」

 リュウは怪訝な顔を傾けた。

「――ああ、例え辛いな。まあ、日本では田舎街にも大きな酒屋があってだな。そこに世界中から輸入された酒が並んでるんだよ」

 難しい顔になったツクシが説明すると、

「ふむ。大きな酒屋か。それはどのていどの大きさだ?」

 頷いてリュウが話を促した。

「俺が贔屓にしていた店の面積は、この宿泊用天幕の三倍はあったか――」

 ツクシが呟いた。日本にいたのは一年半近く前の話だ。記憶が曖昧になっているのを実感したツクシは動揺した。

 俺は一体「どっち」の住人なのか――。

 ツクシは床を見つめている。

「――倉庫くらいの大きさだな?」

 リュウが頷いて杯を呷った。

「ああ、そのくらいの大きさだ。そんな大きさの店の棚に世界各地の酒の瓶がズラリと並んでるわけだ。積まれた酒瓶が天井に届きそうなほどな」

 ツクシが口角を歪めて見せた。

「それは樽やかめでなくてか?」

 やはり驚いた表情でリュウが顔を向けた。

「小売だよ、たいていは瓶売りだ」

 ツクシがシェリーの杯を呷った。

「――ニホンという国の物流は凄いな。片田舎の酒屋に、世界中の酒の瓶が倉庫の天井へつきそうなほどか」

 リュウは本当に感心している様子だ。世界各国の珍しい酒をリュウが口にするようになったのは、ウェスタリア大陸からタラリオン王国の王都へ流れ着いてからである。

「まあ、俺の故郷クニでは、それが珍しくもなかったんだよ。数少ない自慢のひとつかも知れん。他のものはたいていロクでもなかったぜ。どれもこれもが見せかけだけの、嘘っぱちばっかりだ。その嘘っぱちを本気で有難がって生きているようなのが多数派でな。俺が前にいた世界の人間は、どいつもこいつも例外なしで、末期的な病気だったんだ。あれを例えると、伝染性の精神病みたいなものだ。何につけても嘘っぱちっていう紛い物の付加価値をつけないと、世の中が回らなくなっていた。そこにいる誰もがなんとなしに、自分の病気がどれだけ深刻なものか自覚をしている癖に、全員が全員、それを見て見ぬフリで押し通して――あれは痛々しいとしかいいようがなかった――ああ、リュウ、ちょっと待ってろ」

 ツクシが立ち上がってベッド・サイド・テーブルへ杯を置いた。

「ツクシ、どうした?」

 リュウが顔を上げた。

「ああ、シェリーはまだ残しておけ。もったいねェからよ」

 そういい残して、ツクシは天幕の貸し部屋を出ていった。

「うん?」

 首を捻ったリュウがそれを見送った。


 ツクシが遅いな――。

 天幕の貸部屋にある簡素なベットの上で、自分が空にした杯を見つめていたリュウが、眉を寄せた頃合いだ。

 皿を片手に垂れ幕を割って入ってきたツクシを見て、

「――おお、それは!」

 リュウが凛々しい美貌へほっと喜色を浮かせた。

「辛口のシェリーは食中酒だぜ。適当なつまみがいるだろ」

 ツクシはベッド・サイド・テーブルへおつまみの大皿を置いた。皿に盛られていたのはオリーブとドライ・トマトのマリネ、チーズ各種、生ハムにドライ・ソーセージ、レバー・ペースト、小さいパン、切り分け済みの様々なフルーツ、それぞれ量は多くないが豪勢だ。

「おい、ツクシ」

 リュウが硬い声で呼びかけた。

「リュウ、怖い顔をして何だよ?」

 ツクシはおつまみの皿を厳しく睨むリュウを見て怪訝な顔だ。

「盗んだものは、もらえんぞ?」

 リュウが顔を上げた。

「リュウ、盗んでねェから安心しろ。厨房でパメラを拝み倒してもらってきたんだ。他の客に出す料理から、ちょいちょいとくすねて盛り合わせたんだろうな。あれはいい女だぜ。芋野郎のジョナタンにはもったいねェよ」

 ツクシはリュウの隣に腰を下ろして口角を歪めて見せた。

「盗品のようなものではないか。悪い男だな――」

 リュウは盗品を盛り合わせた皿へ手を伸ばして笑った。

「女なんてみんなチョロいもんだ――」

 悪い笑顔のツクシはシェリー酒の杯を片手にドライ・ソーセージを齧っている。

「そういってるわりに、ツクシは商売女へ随分と貢いでいる様子だが?」

 リュウは唇へ杯を寄せながら横目でツクシを見やった。

「う、うるせェよ、リュウ。そこらは男の甲斐性ってやつだろ?」

 ツクシは杯の縁を噛んで渋面だった。

「ツクシは商売女が相手でないと、どうしてもいかんのか?」

 リュウが白チーズを齧りながら訊いた。

「そ、そういうわけじゃないんだけどな。こう、そのときの流れっていうのかな。な、流れなんだよ流れ。男にしかわからない不可抗力的な何かだ――」

 ツクシが空の杯をリュウへ突きつけた。

「――ふぅん」

 適当な返事をしたリュウが、ツクシの杯へシェリー酒を注ぐ。

「それに、あれはマジで不本意だったんだ。チョコラとのアレはな。あのおっかねェ薬酒の所為でな――」

 ツクシがまたもや酒で口を滑らせた。

「い、今、チョコラと口走ったな! ツクシは本当にあんな年端もいかない小さいむすめを金で買って、その幼い肉体からだへあれやこれやとよこしまな欲望を一晩中に渡ってぶつけ続け――」

 ガバッと顔を向けたリュウが事細かく怒鳴ってる最中、

「ぶふっ!」

 ツクシが背徳を非難していたリュウの唇を手でベチンと塞いだ。

「リュウ、声がでけェ。黙れマジで黙れ。たぶん、お前が想像しているようなのとは違うぜ。あれは一種の『女難』ってやつでな。昏睡強盗だ昏睡強盗!」

 ツクシはリュウの後頭部も固定して声を漏らさないよう工夫を凝らした。ここは垂れ幕で仕切って作った小さな貸し部屋だ。大きな音は周囲に全部届いてしまう。

 視線と視線で同意を得たツクシがリュウを開放すると、

「――ぷっは、ツクシが女難だと?」

 開口一番にこう訊かれた。

「ああ、あれは女難だったぜ。間違いねェぞ――」

 ツクシは顔を歪めた。

「ツクシはそういう人相をしていない。イーゴリもいっていたが、これは女難でなくて、災難を呼ぶ相だ」

 リュウも人相占いに凝っているらしい。

「――うるせェからよ。おい、シェリーの瓶はもう空なのか?」

 ツクシはリュウの杯を半分満たした自分の手にあるシェリー酒のボトルを睨んだ。

「うん、これでもう空だ。さて次は――」

 半分満たされた杯を一息で空にしたリュウは、床に置かれたラベルの無い酒の瓶へ視線を送った。

 ジョナタン特製じゃがいも酒である。

「リュウ?」

 ツクシが呼びかけた。

「ん?」

 じゃがいも酒を瓶を手にとって、それを見つめていたリュウが顔を上げた。

「お前がじゃがいも酒をやっても大丈夫なのかよ。今日のリュウは珍しく酒に酔っているように見えるけどな?」

 ツクシがリュウを見つめた。

 ほんのり血の色が巡る凛々しい美貌だ。

「そ、そうか? まあ、酒を飲むのも久しぶりだから――」

 曖昧な返事をしてリュウは目を逸らした。

 その美貌についた色はついさっきより艶やかなものになっている。

「顔が少し赤いんじゃねェか?」

 ツクシは首を捻った。

「きっ、気のせいだろう?」

 リュウがじゃがいも酒の栓を捻った。

「まあ、じゃがいも酒をいってみるか。そっちを先に飲んだほうが良かったんだろうけどな――」

 ツクシは諦め顔で頷いた。

 二人の手にあった空の杯をラベルの無い酒瓶が満たした。

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