十四節 音無き制裁(壱)

 唐突ではあるが、お許し頂きたい。

 アマデウス冒険者団の団員にカリム・ド・オーガスティンという名の若者がいる。

 このカリムはタラリオン王国軍東方学会の高等部までレオナの同級生だった。カリム青年は、ずんぐりむっくり固太りで、団子っ鼻の上に小さな丸眼鏡をのせた、極端にサイドを刈り上げた黒いおかっぱ頭の、平均値より背が低い男子生徒だった。この外見はアマデウス冒険者団の団員になった今でも同じだ。

 地味な容姿のカリム青年は、性格も突出したところがなく控えめで大人しかった。このカリム青年は爵位を持つ裕福な貴族一家の次男坊だ。その育ちの良さと裕福さが生来持っていた貪欲さを残らず削り取ってしまったのだろうか。そんな疑問を感じるような若者だった。

 カリム青年には才覚の芽――導式の担い手としての才能はなかったが、しかし、他の学問になかなか強く、それで一応、できる側の生徒として学会の教官に認知されていた。それでも平均的な生徒よりは成績が上ていどのものだ。何しろ、カリム青年は外見も性格も成績も目立つところがひとつもなかったので、書くことに困る。そのカリム青年が教官の勧めで参加した学徒組合で出会った高等部で一等派手な女生徒――レオナ副組合長に一目惚れをした。

 ぞっこん、惚れ込んだ。

 レオナ副組合長のほうはそうでもない。

 それでも、カリム青年はレオナ副組合長の後ろにくっついて回った。レオナ副組合長に対するカリム青年の態度は聖母を敬うごとしだ。あまりにもその従順さが苛烈なので、周囲の生徒はカリム青年を『レオナの忠犬』と渾名して笑った。容姿端麗かつ品性良好の優等生を演じていたレオナ副組合長は笑顔でカリム青年をこき使った。実際、何をいっても「はい、わかりました!」と働くカリム青年は便利だった。そのうち、レオナ副組合長はカリム青年に学徒組合の裏方仕事全般を任せるようになった。

 レオナ副組合長とシルヴァ組合長がお熱い恋人同士であると、カリム青年は知っていたが、それでも彼は憧れの女性ひとのために嬉々として、また、黙々と働いた。不可解な態度ではある。しかし、カリム青年はそういう性格なのだ。そうとしかいえない。

 前述した通り、高等部を卒業したレオナはシルヴァを追って冒険者になった。自身の偶像アイドルを突然失ったカリム青年は抜け殻のようになった。抜け殻のまま、カリム青年は王国軍東方学会の大学部の商業管理学科へ進学した。

 その一年後だ。

 レオナが生まれ故郷の大都市アンフィトリテに用事で立ち寄った。他愛のない用事だったようである。レオナはかつて学会屈指の優等生であったので、その帰還がカリム青年が通う大学部で噂になった。それを聞きつけたカリム青年は居ても立っていられずに、レオナ副団長のもとへ駆けつけて、アマデウス冒険者団への入団を懇願した。そういっても、カリム青年は冒険者のような荒々しい仕事に向いている性格でも立場でもないのだ。大人しい、物静かな、影の薄い、貴族の青年である。レオナ副団長は困惑したが、カリム青年があまりにも一生懸命頼み込むので、「まあ、団の出納係でも任せてみようか」と、そんな気になった。

 それからずっとカリムはアマデウス冒険者団の出納係を仕事にしている。

 数字とモノに神経質で真面目なカリムは有能な出納係だった。実質的にアマデウス冒険者団の運営を仕切っていたレオナ副団長は仕事のパートナーとしてカリムを重宝した。団の仕事が終わるつど、レオナ副団長は主に金銭に関わる事柄をカリムに相談する。団員の給料はもちろん、税金だってしっかりと払わなければ冒険者団登録を国家から取り消されて仕事ができない。荒っぽいが無法ではない。それが冒険者たちの生きる世界だ。

 レオナ副団長から声をかけられたときのカリムは文字と数字でびっしり埋まった団の帳簿をめくりめくり、心底嬉しそうな態度で相談に応じた。カリムは団の仕事に遣り甲斐を感じて、それに打ち込んでいた。カリムは団の生活で大満足だった。カリムは本当に幸せなのである。

 学業を途中で放り出し、将来の成功を約束された高級貴族階級を捨て、それでも死ぬほど好いた女ひとつモノにできない。そのていどで、そんな立場で、このカリムという若者は本当に幸せなのだろうか。たいていのひとは疑念に思うだろう。しかし、カリムはそんな性格なのだ。

 これ以上は説明のしようがない。

 ともあれ、アマデウス冒険者団の団員となったカリムは、『レオナの忠犬』から『レオナの番犬』ていどの出世を果たしたことだけは確かである――。


 場所は酒場宿メルロースの脇に連なる宿泊者用天幕。

 北の角にある一回り大きな天幕はアマデウス冒険者団の備品置き場として利用されていた。アマデウス冒険者団が連合レイドを主導するようになってから、連合全体の備品も管理するようになったので広い面積のあるその天幕は様々な備品が所狭しと置かれている。備蓄用の食料、武器弾薬の類、寝袋や天幕を畳んだもの、アマデウス冒険者団の団員の各種私物、その他、諸々諸々と――備品が山と積まれたその空間は狭苦しい。ここは生活をする場ではないので全体の照明は確保されておらず暗くもある。

 その倉庫用天幕の一室の隅に置かれた小さな机だ。

 椅子に座ったカリムが机に頬をつけて死んでいた。喉を横一文字に切り裂かれている。机の上には書類と一緒に彼が大事にしていたアマデウス冒険者団の帳簿が開いてあった。カリムの血に浸されて頁へ書かれた細かい文字が滲んでいる。死んだカリムは冷たくなった右手の先に万年筆をひとつ転がしていた。倉庫の片隅で大好きだった仕事をしている最中、カリムは殺された。今、ここには誰もいない。カリムの死体がひとつ静かにあるだけだ。

 出納係カリム・ド・オーガスティンの死体を、机の上に置かれた導式ランプの青白い光が照らしている。


 §


 場所はネスト管理省の敷地の南にある正面大正門。

 門を潜ったダンカンは足を止めて目を何回かしばたいた。すると、ゴブリン族にしては小さく見えたダンカンの目がギョロリと大きくなる。周辺に塗ってあったのりが剥がれ落ちたのだ。その目を手の甲でゴシゴシこすったダンカンは、顔面の変装を落とすのをすっかり忘れていたことに気づいて声を出さずに笑った。

 ダンカンはファー付き獣甲鎧姿ではない。頭に黒いバンダナを巻いて、深緑色のチェニックを着込み、その上へベストを羽織って大きな背嚢を背負っている。腰のベルトからはカリムの喉を切り裂いた山刀マチェーテが吊られていた。今のダンカンの格好は王都でよく見るゴブリン族の行商人姿である。

 ダンカンは視線だけを上へ送った。

 真昼の青空が王都の上空に広がっている。時刻は初夏の訪れを朗らかに歌うお昼どきだ。大正門の周辺では屋台の行商人が声を張り上げて食い物や飲み物を売っていた。その周囲では、ネスト管理省の行政員だとか兵員が今日の昼食を吟味している。和やかな喧騒と一緒に肉の焼ける匂いや酒の香りが漂ってきた。

 俺の懐は重い。

 これまでになく重たい。

 ここはひとつ贅沢な腹ごしらえでもしていくかよゥ――。

 ダンカンは小さな牙が突き出た口元へニタリと下卑た笑みを浮かべた。しかし、すぐにはっと表情を変えたダンカンは、後ろへ視線を送って警戒した。

 追っ手はない――。

「――アマデウス冒険者団の奴らは、俺の読み通り下層したで全滅したかよゥ?」

 ダンカンは満足気に頷いて南へ歩きだした。ネスト管理省の南の区画はあまり裕福でない市民が住む一戸建ての住宅で埋まる街並みが広がっている。このダンカンはアマデウス冒険者団の内部留保金――実質的にはレオナ副団長の私有財産を丸々盗んできた。内部留保金は団に関係する重要な書類や債権と一緒に小さな金庫に保管されていた。レオナ副団長はこの小さな金庫の管理を、(仕事上で)全幅の信頼を置いていたカリムに任せていた。その彼を殺して、ダンカンは大金を手に入れたのだ。

 ダンカンは元よりその目的であったわけでもない。これは保険だった。キルヒを見張るため王座の街で待機していたダンカンへ、レオナ副団長から導式鳥を使った緊急連絡があった。キルヒへの出動要請と今回のネスト探索を急遽中止して王座の街へ帰還する、そんな業務連絡だ。しかし、キルヒはその連絡が来る前に下層へ向かって移動をしていた。

 何が目的なのかは知らんがよゥ。

 キルヒは地上へ逃げ帰るわけでもなさそうだしなァ――。

 そう考えたダンカンは何もいわずに異形の闇へ消えてゆくキルヒを見送った。

 それになァ、下手を打つと、あの不気味なメスエルフに、この俺様がブッ殺されてしまうぜェ――。

 ダンカンは首を竦めた。月黄泉つくよみエルフ族のキルヒが使役する精霊の王を、あの魔人シルヴァですら恐怖している。ともあれ、レオナ副団長の連絡を受けたダンカンはアマデウス冒険者団が下層で大失敗したのだろうと考えた。連合の即時撤退を導式鳥で伝えたレオナ副団長の声は、これ以上ないほど苛立ったもので、怒号と銃声と悲鳴も一緒に聞こえてくる。都合良く、ダンカンが恐れていたキルヒの姿も消えた。これは潮時で好機でもあった。

 ダンカンは前々からかけてあった保険を引き落とすことにした。

 アマデウス冒険者団が備品置き場として使っていた天幕には、他も金目のものが多々あったのだが、ダンカンは断腸の思いで見過ごした。一匹狼のダンカンが一度に持ち運べる盗品は限られているし、レオナ副団長が団の運営を通して作ったへそくりは、これから一生遊んで暮らしても使い切れないほどの大金でもある。

 タラリオン白金貨にして四十枚以上。

 日本円に換算すると二桁に近い億円になる。

 最も効率の良い手際で、手早く目的のものを入手したダンカンは、その数時間後、異形の巣からの脱出にも成功した。あくまで冷静だ。ダンカンは仕事の最中に正体を失うような素人ではない。

 このゴブリン族の変装名人は、ずっと「裏切り」をメシの種にしてきた。略奪者団レイダースへ変装して潜り込んで、その情報を冒険者団へ売って回る。臨機応変、関わったその先で窃盗を働くこともよくあった。ダンカンの味方は常に自分だけ。自分の利益が最優先。ダンカンはここまで義理も筋も人情も踏みにじって生きてきた。

 元々、このダンカンはグリフォニア大陸北部を中心に活動していた略奪者団のなかで育った盗賊である。腕っ節が弱く手先が不器用だった(総じて器用な他のゴブリン族に比べて、である)若い頃のダンカンは盗賊仲間から軽んじられていた。そのためダンカンは略奪者団が襲撃予定の隊商や屋敷へ単独潜入する、事前の偵察を任されることが多くなった。潜入先で本来の立場が露顕すればそこで殺されてしまう危険な任務だ。

 ダンカンは生きるために仕方なく始めた諜報活動で口八丁と演技と変装に長じ、それを裏社会で生き抜く自信へ変えていった。しかしそれでも盗賊仲間のダンカンに対する評価は低い。口先三寸だけが得意な三下野郎。ダンカンはそう思われている。命を張って仕事をしているダンカンは当然、面白くない。

 元よりゴブリン族は同族への帰属意識が薄い種族である。

 不満を溜め込んだダンカンは、ある日を境に賞金首になった盗賊仲間の情報を冒険者団へ売るようになった。そのほうが略奪者団の下っ端をやるより稼げたし、本人の復讐心も満たされた。そのあとのダンカンは数々の略奪者団を転々とし裏切りを金に代え続けた。ダンカンが売った情報は何個もの略奪者団を壊滅させていった。

 ダンカンの『裏切り屋』が板についてきた頃だ。

 情報の買い取り先を探していたダンカンは、大都市ミトラポリスにあった大きくて派手な酒場宿でシルヴァ団長と出会った。

「景気はどうですかね? 儲かってますかね、冒険屋の若旦那? グゲェヘヘへッ!」

 平身低頭、媚びへつらい、声をかけたのはダンカンのほうだ。

 シルヴァ団長は若い見た目相応の、考えの足りない男だったが、どういう理由からか、ヒト族では扱えない筈の魔導式を扱えた。どんな規模の略奪者団をも皆殺しにできる戦闘能力を持ったシルヴァ団長へ情報を売れば、裏切り屋ダンカンを狙う復讐の手も綺麗に消える。気を良くしたダンカンはアマデウス冒険者団へ積極的に協力するようになった。ダンカンの情報を元に略奪者団を壊滅させるアマデウス冒険者団は名を上げて羽振りが良くなった。仕事の上で濃く付き合っているうち、ダンカンはアマデウス冒険者団の一員になっていた。ダンカン本人はあまり乗り気でなかったのだ。しかし、シルヴァ団長の誘いを断りきれなかった。

 シルヴァ団長の機嫌を損ねると頭に独裁者の蜘蛛ディクタートル・アラーネアを埋め込まれる。そうされたが最後、精神は魔導に支配され、いずれ廃人になってしまう。ダンカンは激昂したシルヴァ団長が気に食わない団員の頭へ、このおぞましい魔導生命体を埋め込む場面を何度も見た。シルヴァ団長を相手に取引を繰り返しているうちに、裏切り屋ダンカンは魔人の恐怖に縛られて彼を裏切ることができなくなっていた――。


「――まーァ、それも今日で終わりだぜェ」

 ダンカンは商店街の路地を歩きながら、周辺へ油断なく視線を巡らせた。商店街は寂れているわけではなかったが昼食の時間である。道を行き交うひとびとは少なかった。追手は注意して見てもやはりいない。安心したダンカンは革ベストの内側に手を突っ込んで、巾着袋に入った白金貨四十枚以上の重みを確かめたところで立ち止まって途方に暮れた。

 盗んできた金があまりにも多額すぎる。

 使い道が思い当たらない。

 ダンカンの懐をとびきり重くしているのは、王都近郊でそこそこのお屋敷を購入し、好きな種族の女を好きなだけ囲って、贅沢な料理を肴に上等な酒を毎日毎日呷っても、それでも、まだまだ有り余る大金だ。白金貨は価値が高すぎて、そこいらの商店で使ってもお釣りが出ない。白金貨は大きな買い物でないと使えない。悩み始めたダンカンが視線を落とした。

 うつむいて腕組みまでする。

「――あっと、まずは都銀(※王都銀行のこと)に寄って、白金貨こいつを何枚か金貨に両替しねェとォなァ」

 ダンカンが贅沢な悩みで歪んだゴブリン面を上げると、円形交差点の片隅で営業していたミルク・スタンドが目に入った。そのミルク・スタンドの横で若い女の道化師ハーレクインが投げナイフを使ったジャグリングを披露している。飲み物を片手に老若男女と揃った観客が何人か芸に湧いていた。

 道化の少女が放った棒形ナイフが陽光を受けて鈍く光りながら空高くを回転する。

 ダンカンは王都の日常を見つめてふっとゆるく笑った。日常の平和な光景は身近にいつもあった。だが、危険な裏街道で裏切りに裏切りを重ねて生きる強度の緊張感――過剰なストレスを常に抱えていたダンカンは日常の平穏が目に入らなかった。

 大金を手にした今のダンカンはもう危険な橋を渡る必要がない。

「これで今日から俺は一端いっぱしの堅気ってわけかよゥ――」

 悟ったのと同時にダンカンは喉がひどく渇いているのを自覚した。

 裏切り屋一世一代の大仕事のあとである。

「ここはひとつ、口を湿らせていくかよゥ――」

 しんみり呟いたダンカンは腰のポーチから自分の財布を取り出した。こちらは、アマデウス冒険者団からダンカンが受け取った賃金を貯めこんだ金が詰まっている革の巾着袋だ。ウェンディゴ革製品で上等なもの。ゴブリン族の性格は全般的に吝嗇な傾向なのだが、持つ財布だけには金をかける。命同等に大事な金を仕舞い込むものだからだ。ダンカンも財布だけにはやはり相当なコダワリを持っている。そのダンカンの愛用の財布も重量があった。財布には金貨がぎっしり詰まっている。ダンカンはこれまで金を溜め込むのに必死で無駄な浪費をしなかった。たいていのゴブリン族はそんな感じの生き方を好んでいる。お金大好きである。

 まったく、アマデウス冒険者団にはたんまりと稼がせてもらったぜェ――。

 ダンカンは下卑た笑みを浮かべ、下卑た笑い声を上げようとした。しかし、自分の財布の中身を見つめるゴブリン面は動かない。実のところ、ダンカンにとってアマデウス冒険者団は居心地が良かったのだ。シルヴァ団長は差別をしない男だった。働き相応の金を気前良くダンカンへ与えたし、他の団員とまったく変わらぬ扱いもしてくれた。皮肉である。同族からは軽蔑され続けたダンカンが魔導の力を自在に扱う奇妙なヒト族の若者(だとダンカンはまだ思っている――)からは、その実力と働きを認められたのだ。ダンカンはシルヴァ団長を恐れていたが、しかし、彼のことが嫌いではなかった。陽気で無邪気な悪人でヨイショに弱く、どこか間抜けたところがあって、自分の女――レオナ副団長に顎で使われているシルヴァ団長を、ダンカンはどうしても嫌いになれなかった。

 ダンカンから見るとシルヴァ団長は金払いのいい理想的な若旦那――。

「――いっけねェ、いけねェ!」

 声に出して、ダンカンが苦笑した。

 裏切り屋の俺様が他人ひとに同情ときたかよゥ――。

 胸中で呟くと、ダンカンは苦笑いのまま財布を片手にミルク・スタンドへ歩み寄った。そこで大道芸を披露していた道化師の少女がポンと煙を出した。周辺の観客から「おおうっ!」と大きな歓声が上がった。煙に紛れた少女の姿は綺麗に消えている。

 白い煙だけが周辺に残っていた。

「どっ、『土遁どとん』を使ったかよゥ?」

 ダンカンが足を止めた。道化師の少女が披露した大道芸はダンカンにも見覚えがある。盗賊が使う逃走用の目眩まし術だ。ダンカンが鼻先を動かした。土の匂いはしない。その代わり尖った鼻先にひやりとした水分を感じた。

「――いや、これは土じゃねェ。『水遁すいとん』だぜェ。あの道化師ハーレクイン、かなり使うぜェ。こりゃあ観客ひとを集めるわけだァなァ――」

 ダンカンは呟きながら周辺へ視線を巡らせた。

 観客たちも綺麗に消えている。

 物音もなくなってもいる。

 表情を固くしたダンカンが後ろへ視線を送った。ダンカンの背後に黒いチューリップ・ハットを目深にかぶって、裾の擦り切れた丈の長い黒の外套を身にまとった男が影のように佇んでいた。白い鮫肌の無表情な顔に二つある黒目勝ちの目が、ダンカンの凍りついた顔を映している。

 テージョだ。

「――あ、あの水煙には幻覚剤が?」

 ダンカンが無音無人になった世界で呟いた。テージョは何も応えなかったが、ダンカンの推測通りだ。今もまだここに漂っている水煙には幻覚を誘発する毒物――寝起きの性悪女トライトアジンが混入されていた。

「こっ、この手練手管てれんてくだは――」

 ダンカンは身を捻って逃げようとした。その身体がいうことを聞いてくれない。眼前でテージョの黒い体がゆらゆら膨らむ。

 性悪女が誘った悪夢の世界にダンカンはいる。

「お、お前、盗賊ギルドの『闇狩人ダーク・ハンター』かよゥ!」

 ダンカンが顔面を冷や汗塗れにして問いかけた。影の男からの応えはやはりなかったが、ダンカンのいった通りだ。テージョ・『道化師ハーレクイン』・リヒャルデスは名もなき盗賊ギルド専属の殺し屋――闇狩人である。

 影の男は膨張し続け、やがて、ダンカンの視界一杯に広がった。

「バナ、盗賊の恥晒しめが!」

「バナ、お前は何てことをしでかしたんだ!」

 鋭く叱責する甲高い声がダンカンの耳に聞こえた。このバナはダンカンが両親から与えられた名前だ。ダンカンはこれまで何度も名前を変えている。どれが本来の名前であったが当の本人も忘れていたのだが、父母に名を呼ばれたダンカンは、今、自分の幼名を思い出した。ダンカンは眼前で膨らみ続けるテージョを凝視している。顔を背けたくてもやはりダンカンの身体は自由にならない。膨張し続ける影のなかから、ダンカンがこれまで裏切ってきたすべての仲間の顔がうねうね連なって出現した。彼らの生命をダンカンは換金して生きてきた。だが、それはすべて借財だった。死人の群れが今、裏切り者へそれを取り立てに来訪した。

 催促が始まる――。

「バナ、俺たちをよくも裏切ってくれたな!」

 黒い髭を顎から生やしたゴブリン族の顔が怒鳴った。

 これはダンカンの裏切り最初の犠牲者で略奪者団の首領だった男だ。

「オゥル、お前は俺の団を売ったのか!」

 吠えたのはヒト族の若い男の顔だ。ヤサグレを拗らせてヒト族が主体となった略奪者団を率いていた残虐な若者だった。このときにダンカンが使っていた偽名がオゥルである。

「アグリ、草の根分けても探しだして、アンタをブッ殺してやるよォ!」

 ゴブリン族の太った女性の顔が叫んだ。この女は街中で活動する武装掏摸スリ集団を率いていた。アグリという偽名を使ってダンカンはこの悪党女に近づき、最終的にはやはり裏切った。

「ぺぺ、俺はお前のことを尊敬してたのに!」

 泣き声でいったのは、ゴブリン族の若い男の顔だ。この彼はダンカンがペペの偽名を使って潜入した略奪者団で下っ端をやっていた盗賊である。その頃にはダンカンも貫禄がついてきて若い連中に懐かれることもあった。だが、最終的にダンカンはこの若者も冒険者団へ売った。

「モラシラ、地獄の底でこのときが来るのを、ずっと待ってたぜェーッ!」

 ぶっとい声で絶叫したのは荒野サンドオーク族の顔だ。この荒野オーク族の男はタラリオン王国の北西部で大きな略奪者団を率いていた、悪党のなかの悪党といった感じの無法者だった。当時、モラシラの偽名を使って潜入していたダンカンは、この荒野オーク族が首領をやっていた大きな略奪者団をアマデウス冒険者団へ売り飛ばした。

「ダンカン、やっぱり最後には俺たちを裏切ったな!」

 エッポの顔が唸った。エッポは一度裏切られた恨みを忘れたわけではない。

「ダンカン、油断していたわ。覚悟はいい?」

 凍えた声でいったのはレオナの顔だ。連合を主導するようになって仕事に忙殺されていたレオナはダンカンに対する警戒を怠っていた。

「ダンカン、姉御って呼び方やめてっていったでしょ。もう我慢できないから殺してやるよ」

 険悪な表情でそう告げたのは、ユーディットの顔だ。人生経験が豊富なユーディットはずっとダンカンに対して猜疑心を抱いていた。

「ダンカン、俺は残念だよ。お前をこの手で殺さないといけないなんて!」

 キンキン甲高い声で叫んだのは真っ赤になったシルヴァの顔だった。

 楽天的なシルヴァはダンカンに全幅の信頼を置いていた――。

「んごお! ごお! ごおお! ごめんなさい! 申し訳ありません! もう、しません、もう金輪際、このようなことは――!」

 ダンカンが目から滝のように涙を流して謝罪した。むろん、これは演技だ。裏切り屋の渾身の演技だった。

 無造作に歩み寄ったテージョが謝罪演技中のダンカンの腰から山刀を引き抜いた。

 そして、泣き喚くダンカンの首筋へ山刀をザックリ叩き込む。

「ン、がっ、ゴッブ!」

 首の半分以上を切断されて、ダンカンは横倒しになった。

 裏切り者の血が石畳の路面に広がってゆく。

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