四節 優しき風の治癒
場所は、天幕の酒場宿メルロースに隣接して連なる宿泊用天幕、その中央に位置するロビー用天幕である。
「――キルヒ、身体は本当に大丈夫なのか?」
サラが赤いソファに横たわるキルヒを見やった。
「ふっ――」
天井を見上げたキルヒが鼻で笑って応じた。天幕の天井には色鮮やかなモザイク文様が施してあるのだが、キルヒにはそれが見えない。光を捨てたキルヒの目は黒い両眼眼帯に隠れている。常日頃、このロビー天幕はアマデウス冒険者団の団員が行き交っている。しかし今はひと気配も物音もごく少ない。アマデウス連合は階下で探索中だ。酒場宿メルロースの天幕で催されているらしい演劇の音楽が遠く聞こえた。広々としたロビー天幕にいるのは、キルヒ、サラ、ルナルナ。それにチョコラの四人だけだ。チョコラは戦闘能力がないので宿泊施設でお留守番をしている。
「――ふっ、じゃないよ。本当に大丈夫なの?」
サラが長煙管の先を灰皿の盆へカァンと叩きつけた。
「キルヒ、キルヒ、無理はよくないよ」
ルナルナがソファから身を乗りだした。サラとルナルナの二人は一等二等を争うメルロースの人気娼婦なのだが、それゆえに、わがままで自由奔放な勤務態度を貫いている。実際、今もこの二人はロビー天幕で遊んでいた。
「地の底では我らの世界の風が届かぬ
キルヒが呟いた。今日のキルヒの姿は黒いタンクトップに黒い細身のズボン、それに黒革ブーツと軽装だ。まる裸ではない。
「何をいってるんだか。ここはネストだぞ。風がないのは当たり前だろ」
「にゃあ――」
サラとルナルナはキルヒを見つめた。この二人はそれぞれ仕事着――太ももや胸元を大胆に露出させたロング・ドレスを着ている。その色は、サラが赤でルナルナが黄色だ。
「――私のことはいい。それより、その
キルヒが指差した先だ。ソファに座ったチョコラがうつむいている。チョコラは例によって白いゴチック風ロリータ・ドレス姿だ。これが彼女の制服のようなものらしい。
「チョコラか――」
「にゃにゃ――」
サラとルナルナがチョコラを見やって顔を暗くした。
「腹のなかが痛んでいる。腎の臓――」
キルヒは上げた腕をだらんと落とした。ソファに寝そべったままの姿勢だ。血の気が引いた唇を強く結んだチョコラは返事をしない。
「キルヒは目が見えないのに、よくわかるね――」
サラが胸元から紙袋を取り出してそれを開いた。タバコの葉が詰まった紙袋だ。サラはタバコの葉を指先で丸めて長煙管の火皿へ詰めた。
「――ね?」
ルナルナがサラのうつむいた横顔に視線を送った。
「違うぞ、サラ、ルナルナ。見えぬが故」
ここまで重かったキルヒの声が少し浮く。
「また、よくわからんことを――チョコラ、おしっこに血が混じっていただろ?」
眉を寄せたサラが長煙管の先にマッチの火を寄せた。
サラの唇の端から紫煙が一筋立ち上る。
「おトイレが真っ赤だったにゃあ――」
眉を寄せたルナルナがチョコラを見つめた。
「大丈夫なの?」
「チョコラ、チョコラ?」
サラとルナルナがもう一度訊くと、
「はい。大丈夫――」
うつむいたままチョコラが蚊の鳴くような返事をした。
その顔は青白い。
声にはっきり苦痛がある。
うつむいた顔を上げる気力もない――。
「――シルヴァの使う悪い薬」
キルヒがいった。
「たぶん、そうだね。あいつがセックスのときに使う強い誘淫薬だ。あれで内臓を痛めるひとは多いんだよ」
サラがぶかぶか紫煙を吐き出した。
「最低。こんな小さい子に――」
ルナルナが視線を落とした。サラもルナルナも娼婦だ。女衒の男たちからひどい扱いを受ける女性を多く見てきた。しかし、商品を壊すような扱いをする女衒は稀だった。性奴隷の猫人少女チョコラの飼い主はアマデウス冒険者団のシルヴァ団長である。シルヴァ団長は冒険者であって女衒ではない。
「このままだと長く持たぬ」
キルヒが身体を起こした。
「悔しい。キルヒ、私たちにできることは何もないんだ。『隷属の首輪』さえなければ、チョコラは
苛立って長煙管をふかすサラの顔の周辺にタバコの煙で雲ができている。
「にゃあ、首輪? チョコラが首につけている黒いチョーカーのこと?」
ルナルナが煙害から上半身を傾けて逃れながら訊いた。
「ルナルナ、チョコラのチョーカーは魔導式具だよ。アマデウス冒険者団のエレミアって娘もつけられてるね。ヒト族の手では絶対に外せない」
サラが長煙管を灰皿の盆へ「コカァン!」と叩きつけた。
「ま、魔導式具、ご禁制の品だにゃあ!」
ルナルナが猫の目を丸くした。
「私は一度、女衒街で見たことがある。ガラの悪い女衒の男が――ダーク・ハーフの男が使ってた。隷属の首輪をつけられた奴隷は飼い主の意志に反抗すると呼吸ができなくなるんだ――でも、おかしいな?」
サラがルナルナへ視線を送ると、
「んにゃ?」
ルナルナが首を傾げた。
「常時起動型の魔導式具をヒト族は扱えない筈だよ。ダーク・ハーフでも扱えるひとは少ない。隷属の首輪を使うにはよほど強い魔導の力が必要らしいんだ。それをシルヴァはどうやって? 魔人族でもダーク・ハーフでもないのに――?」
サラは長煙管を握って眉を寄せ真剣な顔である。
「にゃにゃにゃ?」
ルナルナはにゃあにゃあいった。
「ルナルナ?」
サラが怪訝な顔でルナルナを見つめると、
「んにゃぁあ?」
間延びした鳴き声が返ってきた。
「まあ、いいや。ルナルナみたいなあんぽんにゃんに、これ以上説明したところで、どうせ、わかんないだろ――」
サラはうつむいて長煙管の火皿へ煙草葉を詰め込んでいる。
「しっ、失礼だにゃ。サラ、その発言を撤回しろにゃ、にゃんこ差別だにゃ!」
ルナルナがサラの肩を両手で掴んだ。
サラは適当な態度でルナルナへ対応をしている。
「――チョコラ、私に身を寄せろ」
キルヒがいった。
「――はい」
戸惑ったような素振りのあと、消え入るような返事をしたチョコラが、ソファから慎重に腰を上げて、キルヒへゆっくり歩み寄った。短い距離でも前かがみで歩くチョコラは、その動作だけでも苦痛を感じている様子だ。
「あっ!」
「にゃ、大精霊様!」
風を察知したサラとルナルナが声を上げた。
「――愛しきひと。無理をするな」
風の声で告げたのは、キルヒの横に出現した風の相貌――
「うるさい、シルフォン」
キルヒが眉を寄せた。
「俺はやはり、これ以上、我らの運命を浪費することは、気乗りせん――この穴倉に、そこまでする価値が本当にあるのか――今までも、これからも――」
シルフォンが風の声で呟いた。
「くどい、早くやれ」
キルヒは益々眉を寄せて命令した。シルフォンは
チョコラの肉体を風が駆け巡る――。
「ふ、ふっ、くっ!」
チョコラが身を縮めて呻いた。苦しそうな声ではない。何かにくすぐられているのを我慢しているような声だ。ひらひらフリルがついたチョコラのスカートの裾と、縦にロールをかけたチョコラの焦げ茶色の髪が、風を受けてふわふわ浮いている。
「――終わったぞ、愛しきひと」
シルフォンの声と一緒に風は止まった。
「チョコラ。楽になったか」
キルヒはシルフォンを無視して訊いた。
眉間を歪めたシルフォンは大気に溶けるようにして消えていった。
「――はい」
チョコラが小さな声で返事をした。
それでも、その声は少し前よりずっと力強い。
「うん、良い」
キルヒが大きく息を吐いてソファの背もたれへ体重を預けた。
上向いた青い美貌に汗の玉が何個も浮いている。
「キルヒ、今使ったのは治癒の導式なの?」
「だ、大精霊様の奇跡だにゃん」
仰天の表情のサラとルナルナが訊いた。
「
キルヒは荒い呼吸と一緒にいった。
「それがキルヒの使った式の名前?」
サラはしつこく訊いたが、キルヒの返事はない。
胸を大きく上下させているキルヒは疲労困憊している様子だ。
「チョコラ、チョコラ、お腹が痛いの、本当に治ったの?」
歩み寄ったルナルナがチョコラの肩に手をかけた。
「――はい」
顔を上げてチョコラは頷いた。
チョコラの垂れた形の猫耳がパタパタ元気に動いている。
それを見てルナルナが笑った。
「チョコラの腎に凝り固まっていた薬の毒を外へ飛ばした。だが、悪い薬をやめねば、いずれ治すことはできなくなる――」
キルヒがいった。
「そうだろうね――」
サラが顔をしかめて、
「にゃあ――」
ルナルナが視線を落とした。
「――はい」
チョコラはうつむいた。
「ねえ、キルヒ?」
サラがぼふぼふと紫煙を吐きながら呼びかけた。
「何だ、サラ――?」
キルヒは鼻先に流れてきた紫の煙を手で追いやっている。
迷惑そうだ。
「ぽぽぽっ――どうして、キルヒはそんなクタクタになるまで、シルヴァに協力してるんだ?」
サラが吐き出した紫煙で綺麗なわっかを作った。
器用である。
「ふっ」
キルヒが鼻で笑った。
「ふっ、って――」
苦笑いのルナルナがサラの横へ腰を下ろした。チョコラもその対面のソファにちょこんと腰かけた。何もすることがない時間帯は、こうやってただ椅子に腰掛けてぼんやりと時間を過ごしている。それが、チョコラの毎日だった。
隷属の日々――。
「――キルヒ、私は納得がいかないよ。キルヒが、あんなクズ野郎に――シルヴァに義理立てしないといけない理由があるのか?」
眉間に険を見せたサラが透明な表情を前に向けるチョコラを見やった。
その視線に気づいたチョコラがサラに視線だけを返した。
猫の青い瞳に憤ったサラの美貌が映っている。
「――サラ」
キルヒが顔を傾けた。
「何?」
サラが長煙管をスパスパふかした。
「我らもシルヴァと同じく因果の鎖に関わりしものが故――」
キルヒの歌声は明らかな疲労で音程が低いものだ。
「そんな言い方されてもわからないから――」
サラがタバコの煙を深く吸い込んで眉を寄せた。
「わからずとも良い」
キルヒがソファへ身を沈めて大きく息を吐いた。
「キルヒ、話をはぐらかすな」
サラが顔を向けてキルヒを睨んだ。
「キルヒとシルヴァが同じなわけないにゃ!」
ルナルナもムッとしている。
「そうかも知れん。それがわからぬから
キルヒはソファの背もたれに頭を乗せた。
「キルヒは
サラがいった。キルヒは身じろぎひとつしない。導式や精霊に関する深い知識が娼婦のサラにあるわけではなかったが、今いったことは当たっている。連合発足当初、戦力の不安を覚えたシルヴァは、キルヒが使役する
それでも、彼女は彼女の契約者を呼び出して、チョコラの痛んだ肉体を治療したが――。
「――にゃあ」
沈黙に耐え切れなくなったルナルナが意味もなく鳴いた。
「――ふっ。サラ、それはできぬ相談」
キルヒがようやく返答した。サラがゴカンッと長煙管を灰皿へ叩きつけると、まだ燃焼しきっていない煙草葉が落ちた。
「この頑固者、私はもう知らん!」
サラは紐編み上げ靴の細くて高いカカトを絨毯へドスンドスンと突き刺しながら、ロビー天幕から出ていった。
「ああもう、サラは短気なんだから――またね、キルヒ、チョコラ」
ルナルナがサラを追った。
「――キルヒさま。お茶を」
チョコラがティー・カップをテーブルに置いた。キルヒの前だ。銀のお盆を抱えて顔を上げたチョコラは笑おうとした。しかし、度重なる虐待と魔導の鎖で心を括られたその少女の表情はやはり変化をしなかった。
チョコラは小さな溜息を吐いて瞳を伏せる。
「やはり、チョコラはまだ自分の言葉で喋れるな――?」
キルヒは鼻先を動かしながらいった。ティー・カップから立ち上る香りは、キルヒの嗅覚に覚えのあるものだ。タラリオン王国に輸入されているそのハーブ茶葉は肉体疲労を回復する効果があるとかないとかで冒険者や娼婦も好んで飲んでいる。原産はドラゴニア大陸に広がるウビ・チテム大森林。
その奥深くに月黄泉エルフ族の聖域がある――。
「はい。いつも黙っています。辛いから――」
銀の盆を抱くチョコラの手に力が入った。
「その心は失われていない――今は無理に応えずとも良い、チョコラ、座れ」
キルヒはティー・カップを手にとった。
チョコラは頷いてキルヒの横にちょこんと腰かける。
キルヒは唇へティー・カップを寄せて、
「我らには光も言葉も要らぬ――いや、捨てたが正しい。遥か昔、我らの一族は管理者の命を受け『
極近い場所にいる。キルヒは奇跡の触覚で察知した肉親へ語りかけている。王座の街には風が吹かない。だから、キルヒの声が風に乗って語りかけているものへ届くことはないのだが――。
「シーマよ。私の妹よ。貴様もそうだったのだろう。今なら私にもわかる。本来あるべき営みのなかで生きるひとの近くにいるとわかるのだ。知ると厄介な様々なことが――」
キルヒがチョコラへ顔を向けて笑った。
チョコラは笑顔を返そうとがんばった。
しかし、その透明な表情はやはり動かない――。
「――おおっと、キルヒの姉御!」
ひどく甲高い声だ。
ロビー天幕の出入口からダンカンがゴブリン面を見せている。
「ここにいらしたんですね。お身体の具合はどうですかね? じきに団の連中も戻ってきますからね。今、導式鳥で連絡があって――今回もネスト探索は無事成功だそうですぜ。死人は結構出たみたいですがね。俺はやっぱり心配でさあ。キルヒの姉御が連合の面倒を見ていないとねえ、ちょっとばかり心細くてねえ。グゲッヘヘ――」
ダンカンは身体を丸めて手を揉みながら歩み寄った。
キルヒの長い黒髪が風を受けて浮く。
風が吹いている。
「アッヘヘェ! あっ、あーと、俺はまだ用事があったんだ。じゃあ、ここいらでちょいと失礼を――」
向かい風を受けたダンカンは踵を返して逃げるように出ていった。
チョコラはソファに座ったまま黙ってその様子を眺めていた。
ティー・カップにつけたキルヒの濃藍色の唇の端が吊り上がっている。
「――くそっ、やり辛えなァ、あの妙な肌色のメスエルフの相手はよゥ。何を考えているんだか、ちっとも、わかりゃあしねェ」
ダンカンがロビー天幕から出たところでぺっと唾を吐いた。ゴブリン族にしては小さいダンカンの目がこのときだけ大きく見えた。
レオナ副団長から指示を受けたダンカンはキルヒの監視役をしている。
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