十四節 白い巨人(陸)

 シャオシンとロレッタは二人きりの逃走を続けた。

 遠くで鳴る銃声が反響して聞こえてくる。シャオシンの足音が、その音の上に重なってパタパタと鳴った。ブーツの裏に細工でもしてあるのだろうか。ロレッタの足音はまったく無い。

「あっ、北を探索していた班の連中じゃ!」

 シャオシンが立ち止まって声を上げた。

「――シャオシン、こっち」

 ロレッタはシャオシンの手を引いて脇道に身を隠した。

 先にあった十字路の北から、連合第一探索班の男たちが四十名余が固まって逃げてきた。槍が何本も飛んできて若い男の背を貫いた。胸から槍の穂先を突き出した若い男は、「待って、助けてくれ――」と呻きながら一歩二歩と歩いたがすぐ倒れた。逃げる男たちは振り返るどころか倒れた若い男へ視線を送るものさえいない。しかし、そこまで必死でも、彼らは逃げる足を止めた。十字路の四方向から異形犬の群れが出現している。ここまでシャオシンとロレッタが逃げてきた道の後方からもだ。

「ミヅゲダ、ニンゲン、ミヅゲダ!」

「ゴロゼ、ゴロゼ!」

「ミナゴロジ!」

「ママンノデギ!」

「ママン、ニンゲン、ダイギライダ!」

 異形犬が連合第一探索班を取り囲んだ。逃げ道がなくなったのを悟った男たちは震える手で武器を持ち直した。斧槍だの、錆びの浮いたサーベルだのと頼りない武器の数々だ。少数だが銃を持つものもいる。

「あいつらって、ほんと使えない――」

 ロレッタが呟いた。異形犬のねじくれた槍が抵抗するひとを次々と刺し貫いている。傷を受けて倒れたひとは群がった異形犬の手で容赦なく串刺しにされた。悲鳴が上がる。異形犬が笑う。ひとの血が流れる。その殺戮の光景から察すると異形犬は力が強く、素早く、ヒト族より身体能力が高いようだ。しかし、片言で殺意を唸りながら、ねばつく涎を口から振り撒く様子を見ると、その知性はさほど高くなさそうだった。

「ど、どの道も異形犬だらけじゃ。ロレッタ、どうするのじゃ?」

 シャオシンはロレッタに身を寄せて震えている。

「シャオシン」

 ロレッタが腰のポーチを開いた。

「な、何じゃ?」

 シャオシンがロレッタへ顔を向けた。向けた先にロレッタの美貌がある。ロレッタはまぶたを落としてガラス玉の冷たい瞳を隠していた。口の中にロレッタの唾液と一緒に苦い味が流れ込んでくると、シャオシンが「むっ、むぐうっ!」とくぐもった悲鳴を上げた。かまわずにロレッタはシャオシンの口腔へ舌を突き入れる。ぬるぬる柔いその舌もまた苦い。

 ロレッタがシャオシンを抱きすくめて唇を奪っている。

 顔色を赤くしたり、青くしたりしながらシャオシンが身をよじった。しかし、ロレッタの力は強くて、その苦い接吻の拘束から抜け出せない。

「――ぷあ。それ、絶対に吐き出さないで」

 シャオシンの無垢な口腔を時間をかけて十分もてあそんだあとだ。

 ロレッタがシャオシンの唇を解放した。

「うっぷあっ、に、苦――うぶっ!」

 シャオシンの口をロレッタの手がすばやく塞ぐ。

「大きな声を出しちゃだめ。ほら、ちゃんと呑み込んで――」

 ロレッタは真剣な表情だ。ロレッタも口にしたものだから、少なくとも、シャオシンの口のなかにある苦いものは毒ではないのだろう。「うっ、ううっ――」と呻き声を上げながら、シャオシンは口の苦いものを必死で呑み込む。

 ロレッタが頷いて、シャオシンの唇から手を離した。

「――けほっけほ! に、苦い、苦いぞえ!」

 シャオシンは小声で叫んだ。

「ちゃんと呑み込んだ?」

 ロレッタが薄く笑った。

「ロレッタ、これすごく苦いのじゃ!」

 シャオシンは泣き顔で抗議した。

「我慢して」

 ロレッタは腰のポーチからガラスの小瓶を取り出した。

「何じゃ?」

 シャオシンが訊いたときには、ロレッタが脇道から飛び出ている。十字路で乱闘していた異形犬の一匹がロレッタに気づいて振り向いた。穂先にひとの臓物がぶら下がったねじくれた槍を持っている。その足元で穴だらけにされた中年の男の死体がぽかんと石の天井を見上げていた。ロレッタは小瓶を投げた。硝子の小瓶は十字路の中央でカシャンと割れる。

「水と盟約を結びしロレッタ・リヒャルデスの名に加勢せよ、水の精霊たちウンディーニ!」

 彼女は彼女の守護者を呼び出した。

 路面で割れたガラスの小瓶が作った水溜まりが揮発する。

 揮発した水は霧になって、十字路全体が薄くけぶった。

「――霧?」

 脇道から顔を覗かせたシャオシンが目を丸くした。

「おいで、シャオシン」

 ロレッタが手招きをした。

 ひとの悲鳴も異形犬の唸り声も消えている。

「こ、これがエルフの使役する運命管理者マナ・アドミニストレーターなのかえ。小さいのう――」

 恐々と脇道から出てきたシャオシンはロレッタの足元を見やった。水で形成された小さな乙女たちが輪になって座りりるりるりるとお喋りしている。ひとに理解できる言葉ではないので彼女たちが喋っている内容はわからない。

「ハーフ・エルフが扱えるのはせいぜい下位の精霊だけ。もういいよ、ウンディーニ、ありがと」

 腰を曲げてロレッタが伝えると、盟友へ笑顔を見せたあと、水の精霊たちはパシャンと小さな音を立てて水へ返った。

「犬の様子がおかしいぞえ?」

 顔を上げたシャオシンが目を丸くした。先の十字路にいた異形犬は、すべてその場にぼうっと突っ立っていた。一方的に殺戮されていたひとたちも似たような姿勢で正体を失っている。

「もう大丈夫。シャオシン、行こ」

 ロレッタがシャオシンの手を引いた。

「さっき割れたあの瓶は何だったのじゃ?」

 シャオシンが小声で訊いた。

寝起きの性悪女トライトアジンの液体。毒だよ。目をあけたままのひとにも悪い夢を見せるの。結構、高いんだ、あれ――」

 ロレッタが割れたガラス瓶を見やった。

 ロレッタは薬瓶の毒の効果を水の精霊たちウンディーニの力を借りて霧に乗せ周囲一体に広げたのだ。

「さっきの苦いのは解毒剤だったのかえ?」

 シャオシンが訊くと、

「そ、そ」

 頷いたロレッタが薄く笑った。

「ここに残った連中はどうするのじゃ。こやつらもロレッタの毒でふらふらじゃが――」

 シャオシンは肩を竦ませながら突っ立ったまま宙を睨み呻き声を上げる異形犬の群れの間を歩いた。そのなかに探索者の姿ある。心をなくしている様相だが、少なくとも、倒れていないひとはまだ生きている。

「こいつら?」

 ロレッタが十字路で突っ立っていた男を見やった。無精髭がまばらに生えた肌に色艶と張りのない中年男だ。唇の端から涎を垂らしながら、その中年男は何かしきりに呟いている。何か対して謝罪を繰り返しているようだ。

「あ、そうじゃ。こやつらもロレッタの解毒剤で――」

 シャオシンが足を止めようとしたが、

「知らない」

 吐き捨てたロレッタはその手を強く引いた。

「ほえ?」

 シャオシンは自分の手を引っ張るロレッタの背を見つめた。

「男なんてみんな死ねばいいの」

 振り返らずにロレッタはいった。

「そ、そんな――」

 シャオシンは十字路に佇んでぶつぶつと呟き続ける異形犬と探索者の男たちへ視線を残している。

「解毒剤は一人分しかなかったの。それにね――」

 ロレッタがシャオシンの細い腰へ手を回した。

「うっ!」

 表情を固めたシャオシンが寄ってきたロレッタの顔を見つめた。

「私が助けたいのは、シャオシンだけだし――」

 そう囁きながら、ロレッタはシャオシンの頬に右手で触れた。

「な、何で、わらわだけ?」

 シャオシンが震え声で訊くと、小首を傾げたロレッタが視線を上へやって、

「――何でって、シャオシンは可愛い女の子だから?」

 疑問系である。

「うぅうっ!」

 シャオシンは身体を縮めて呻いた。

「シャオシン、照明をお願い」

 薄く笑ったロレッタは通路の東を眺めている。

 奥はシャオシンが乱射していた導式の光が届いていない。

「そ、そうじゃな――」

 シャオシンが光球を作って飛ばすと、その範囲に見える異形犬はいない。

 ロレッタが頷いてシャオシンを促した。

 少し歩いたあと、

「ロレッタ、この方向で本当にいいのかえ?」

 光球を作りながらシャオシンが訊いた。

「地下だから、これはあまり頼りにならないけど――シャオシン、照明はこのまままっすぐ、奥にお願い」

 応えたロレッタの手に小さな方位磁石コンパスがある。東西に伸びている(らしい)この通路は長い一本道で定期的に脇道があった。

 シャオシンは東の奥へ光球を投射して灯りを確保した。

「――あっ、向こうからも光を飛ばしてる」

 ロレッタは南へ続く脇道へ顔を向けている。

「道を折れるのかえ?」

 シャオシンも南の脇道を見やった。

「誰か来てる」

 首を傾けたロレッタは耳を澄ましている仕草だ。

「ま、また異形犬の群れが来るのかえ!」

 シャオシンの顔が強張った。

「――違う。導式機関の機動音だね」

 ロレッタはまぶたを半分落として呟いた。

「あっ、光球が向こうから――」

 シャオシンが行動する前に、脇道の奥から照明用の光球が飛んできて周辺を明るくした。

 その直後、脇道からひと影が二つ飛び出てくる。

「シャオシン!」

「ご主人さま!」

 リュウとフィージャだ。

「シャ、シャオシンちゃん、良かった、無事だった!」

 遅れてヤマダも脇道から飛び出てきた。

「おっ、無事に見つけたかあ」

「さっすが、フェンリル族の嗅覚だよね!」

 遅れて脇道から登場したのはアドルフ副団長とゾラだ。そのあとから、連合第三探索班の面々もぞろぞろ続いた。異形犬の包囲網を強引に突破してきた彼らは返り血で濡れている。

「――シャオシン!」

「――ご主人さま!」

 双方怒りの形相でリュウとフィージャが歩み寄った。

「ふっぐっ!」

 シャオシンが身を固めた。耳まで真っ赤にしたリュウは、シャオシンの前に立って右手を高々と上げている。これは思い切ったビンタをくれようとする体勢だ。フィージャも牙を剥いてシャオシンを睨んでいた。

 今回ばかりはフィージャも止めるつもりがない。

 ヤマダも「これは殴られても仕方ないな」そんな感じで視線を落としていたが――。

「――ごべんなざいーッ!」

 シャオシンは殴られるより先にリュウの懐へ飛び込んだ。振り下ろし損ねた右手を上げたままのリュウの目元に涙が浮いている。

 フィージャが獣耳を折ってガクンとうなだれた。

「リュウさん、フージャさん、お説教はあとにしましょう。すぐツクシさんたちと合流を――あれ、このは誰っすか?」

 ヤマダが近くで佇んでいたロレッタに気づいた。

 ロレッタはヤマダから顔を背けた。

「そっちのお嬢ちゃんは確か、テージョのツレだったよな。班の連中はどうしたあ?」

 アドルフ副団長が訊いた。

「死んだ」

 一歩下がってロレッタが応えた。

 ロレッタはアドルフ副団長とも目も合わそうとしない。

「――死んだだと?」

 アドルフ副団長が声を低くした。

「全滅した」

 ロレッタは顔を背けたまま素っ気ない返事だ。

「お前らだけで――二人きりで逃げてきたのかあ?」

 アドルフ副団長がそういって、額に上げてあった導式ゴーグルを目に下ろした。導式の目が闇が濃い通路の西奥の熱源探査を開始。

 螺旋の槍を持つ犬のような影が多数映った。

 異形犬の群れ――。

「――そ」

 ロレッタは天井に視線を送っていった。

「テージョはどこだ?」

 敵影を見やりながらアドルフ副団長が訊くと、

「はぐれた」

 天上を見つめたままロレッタが短く応えた。

「――そうか。第一探索班はどうしたあ?」

 一応は頷いたが、アドルフ副団長は胡乱な目でロレッタを見つめている。シャオシンはまだリュウの胸で泣いていた。これは普通の反応だ。しかし、この異常な状況でもロレッタは落ち着いている。

 落ち着きすぎている。

「犬に襲われてたから、もう助けるのは無理だと思う。みんな、さっさと逃げたほうがいいよ」

 ロレッタは無機質な声で告げた。

「アドルフ、どうしよっか?」

 ゾラがいった。

「どうってなあ。まだ状況が全然つかめねえからなあ。北を探索してた第一探索班と第二探索班は本当に全滅したのかあ?」

 アドルフ副団長は導式ゴーグルを額へ上げた。

「――アドルフ副団長、本部から連絡がきたぜ!」

 導式機動鎧の団員が怒鳴った。

 脇道から導式鳥が飛来して、リュウの肩に着地する。

 ボゥイ副団長の声だ。

連合レイド全体に通達。繰り返す、連合の全体へ通達だ。立体地図の座標、縦三二一、横四五七へ至急集合せよ。繰り返す。連合参加者全員は、すべての任務を放棄して指定座標へ集合せよ。立体地図の座標で、縦三二一、横四五七。最悪にヤバイのが下層したから出てきたぜ――走れ走れ、止まるな!」

 最後の声はボゥイ副団長が自身の周辺にいる団員へ飛ばした指示のようだ。

 雑談でざわめいていた通路が静まり返る。

「――そうかあ。退くしかねえかあ」

 アドルフ副団長が顔をしかめた。

「ヤバイのとは何のことだ?」

 リュウが表情を消した。

「何でしょうね?」

 そういったフィージャはシャオシンの肩を抱いていた。

 シャオシンは、くすんと不安気に鼻を鳴らした。

「連合本部も攻撃を受けてるみたいっすけど――」

 ヤマダが矢筒へ視線を送った。

 残りの矢はまだ十分ある。

「とにかく、指定座標まで移動しよっか」

 顔を上げて、ゾラがいった。

 シャオシンとロレッタが合流した連合第三探索班は、導式鳥で通達された集合場所へ移動を開始した。

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