三節 小心者の大冒険(弐)

 テトとシャオシンが逃げ込んだ薄暗い方面には小さな天幕が左右に並んでいた。

「これ、どうしよう、シャオシン?」

 走る足を止めてテトがシャオシンへ引きつった顔を向けた。

「ど、ど、どうもこうもないわ。偵察続行じゃ!」

 シャオシンがひそめた声でキャンと鳴いた。二人がいる場所は喧騒が少ない。喧騒は少ないが左右に並んだ小さな天幕のなかから男女の呻き声と、その肉体が重なって蠢く音が漏れ聞こえる。甘ったるい香の匂いも一緒に漏れてきた。

「でも、何か、こっちのほうは、そのね――」

 テトが口篭った。

「ううっ――」

 シャオシンは視線をぐるんぐるん回している。

「何か、そのね――?」

 テトが褐色の頬にぐるんぐるんと血を巡らせてうつむいた。

「うぅーっ!」

 口のなかで叫んだシャオシンがどうにも限界だ。

 顔が真っ赤である。

「ここらはお姐さんたちの『職場』なんだね、今、知ったんだけど――」

 テトがかなり無理のある笑顔を作って見せた。

「と、とりあえずじゃ。正面出入り口のほうへ――」

 シャオシンがふらふら歩きだした。

「シャオシン、シャオシン、もう裏口から帰ろう?」

 テトがシャオシンの手を引っ張って止めた

「でっ、でも、今、裏口へ戻ったら、あの総支配人とやらがいるぞ――え!」

 シャオシンは天幕越しに聞こえた猿の叫喚のような声に驚いて肩を竦めた。

「こ、これだけ大きい天幕なんだから裏口は一つだけじゃなさそうだけど――」

 テトが周囲を見回した。左右にある娼婦の職場は狭苦しいが整然と並び、直線の通路を作っている。だが、この区画は天幕から漏れる灯りが頼りだ。テトが目を凝らすと客に身を寄せながらカンテラを下げて歩く娼婦が遠い奥に見えた。

「それに、まだわらわは何も偵察しておらんのじゃ。せめて、アマデウス冒険者団の装備と人数くらいは!」

 フンッ、と気合を入れ直したシャオシンが、テトの手を放して歩きだした。

「でもこれ、無理だよ。帰ろう、シャオシン!」

 テトは十字路を折れたシャオシンを追った。折れた先で体勢を低くしたシャオシンが、天幕の出入口へ顔を寄せている。出入口の垂れ幕で顔を寄せれば覗ける隙間がある。目を見開いて頬を赤く染めたシャオシンの息遣いが非常に荒い。

 テトはシャオシンの真っ赤になった耳元へ顔を寄せて、

「ばか! シャオシン、何を覗いてるの!」

「ツ、ツクシのいってたことは本当だったのじゃ――」

 シャオシンが呻いた。

「あ、あんなエグい道具モノを使って、そんなところを――!」

 テトも呻いた。王都の書店には本棚の片隅に性の手引き書のようなものが並んでいるし、男性本位の紙面構成になっている王都新聞は男女の睦事むつみごとを主題にする小説も連載中だ。しかし、それでも、この世界で未経験者が性の知識を得るのは難しい状況にある。特に故郷から離れて生きるテトとシャオシンは学校に通っていないし、王都に住む子供たちが作るコミュニティ――餓鬼集団レギオンからも距離を取って生活しているので同世代の友人が少ない。テトとシャオシンは同じ年代の友人を相手にしたお喋りを通してエロ知識を得る機会がない。

 そんな理由かどうかは不明である。

 テトとシャオシンが男女の裸体が激しく絡み合う光景を息をひそめて覗いていると――。

「お? こんな若い娼婦は珍しいなあ」

「どうした、ゴーチェ」

「見たことない娼婦だぜ。新顔か?」

 男の声が三つだ。肩を竦めたテトとシャオシンが振り向いた。三人の男が他人の行為を覗き見していた二人の少女をニヤニヤと見下ろしている。三人とも暗い色のタンク・トップにズボン姿の若い男だ。ベルトから、それぞれ短剣やらブラック・ジャックやらと取り回しのよい武器が吊られている。筋肉がついた腕や胸元に古傷があって、うらぶれた感じだ。テトとシャオシンに詰め寄る三人組はネスト探索者のように見えた。

「へええ、ここの娼館はこんな若いのも使いだしたのか――」

 髪の生え際が後退した男がシャオシンへ顔を寄せた。

 酒臭い吐息がシャオシンの頬にかかる。

「うっ、やめ――」

 シャオシンの頬から血の気が引いた。

「走って、シャオシン!」

 テトはシャオシンの手をとって逃げようとしたが、

「――おっと。おいおい、逃げるなよ」

 茶色い短髪の男が腕を回してテトを止めた。

 テトは叫ぼうとした。

 その口も男の手が素早く塞ぐ。

「ゴーチェ、そっちの金髪も捕まえとけよ」

 テトを捕まえた男がいった。

「おう、エドゥイン、もう捕まえてあるぜ」

 髪の生え際が後退している男――ゴーチェが返事をした。シャオシンの細い首にゴーチェの腕がまきついている。顔を真っ青にしたシャオシンは恐怖で声も上げられない。

「ふごっ、ふぐっ!」

 茶色い短髪の男――エドウィンに拘束されたテトが身をくねらせた。

「何だ何だ、娼婦の癖に抵抗をするなよなあ――」

 エドゥインが怪訝な顔をした。男を見て逃げる娼婦はいない。もっとも、面倒な客に見つかる前に姿を消してしまうお高い娼婦は何人もいるが――。

「こいつ、香の匂いがついてねえぞ。もしかして『入荷前』なのか?」

 ゴーチェがシャオシンの首筋へ顔を寄せてねばっこく笑った。シャオシンは身をよじって酒臭い笑みから青ざめた美貌を遠ざけている。

 テトは両足を跳ね上げて暴れだした。

「――おおっと。この様子を見ると、この二人は本当に処女かも知れん。今日はツイてるな」

 エドゥインの腕力は強く、テトが暴れても逃げ出せそうにない。

 幼い性へ欲情する仲間を冷めた顔で眺めていた灰色の髪を短く刈り込んだ男が、

「――処女? そいつらは娼婦じゃないってことか。エドウィン、ゴーチェ、手を出したのがバレたら団長が怒るぞ」

「マクシム、ここにいるなら、全部、商売女には違いねえだろ。団長は商売女に興味がない。あのひとは本当に潔癖症だから――」

 エドウィンが灰色の髪の男――マクシムへ視線を送った。

「まあ、それもそうか。ここは娼館だからな――」

 マクシムが無感動な態度で頷いた

「この金髪、すげえ上玉だぜ。すぐに味を見てえ」

 ゴーチェがシャオシンの頬を掴んでいる。

「痛、噛みやがった! おい、マクシム、こいつを抑えるのを手伝ってくれよ!」

 エドゥインの手にテトが噛みついた。

「うっ、くっ、シャオシンから手を放せ! このっ、やめ――ぐぇっ!」

 マキシムの手が首にかかってテトの叫び声を止めた。

「金髪は大人しいが、こっちの褐色はイキがいい。もしかして、こいつ男なのか?」

 顔を寄せたマクシムが苦痛で歪むテトの美貌を見つめた。

「いや、マクシム、この褐色は女だぜ。ちょっとだけ胸がある。たまには膨らみかけを無理矢理するのも悪くねえな――」

 エドウィンがテトのシャツの裾から手をつっこんで乱暴にその部分をまさぐっている。

 仰け反ったテトのまなじりから涙がこぼれ落ちた。

「ちっ、何だ、女かよ――」

 マクシムがテトの首から手を放した。

「かはっ! ゲホゲホッ――」

 テトが咳き込んだ。

「マクシムの趣味にはついていけねえよなあ――」

 エドウィンは呆れた様子だ。

「マクシムは小さい男の子専門だからな、ちょうど俺とエドゥインで一匹づつだ。さて、こっちの金髪はどうかな――」

 ゴーチェの不恰好な手がシャオシンの太ももの内側を這っている。抵抗することも、声を上げることもせずに、シャオシンはがたがたと震えていた。

 青い果実をまさぐっていたエドゥインとゴーチェの手を、

「――何を騒いでる?」

 若い男の声が止めた。

「あっ――」

 マクシムが顔を強張らせた。

「シ、シルヴァ団長!」

 ゴーチェはシャオシンをさっと解放した。

 シャオシンはその場にストンと腰を落とした。

 腰が抜けている。

「い、いや、これは、その――」

 エドゥインの腕から力が抜けると同時に、テトはシャオシンに飛びついた。シャオシンの肩を抱いたテトは、はっきり顔を上げて三人の男を睨んでいる。睨んではいるが、テトも身体を震わせていた。

「あえへっへっ、シルヴァ団長、ここの新人さんみたいなんで挨拶をしようと。こいつらは娼婦ですよ、娼婦!」

 ゴーチェは若い男へ――シルヴァ団長へ、ご機嫌を伺うような態度を見せた。シルヴァ団長は、黒いシャツに黒い長ズボン姿で細身の若者だ。背には黒いマントをなびかせている。年齢は二十歳前に見える。

 もっと若くも見える――。

「――この子たちが娼婦? 本当にそうか?」

 首を捻ったシルヴァ団長が、絨毯の上にへたり込んで震えるテトとシャオシンへ目を向けた。シルヴァの口元に笑みが浮かんでいる。好青年風の容姿と態度だ。しかし、それはどこか人間の厚みがない笑顔だった。

 何も乗せていない安物の食器のような味気のない印象の――。

「――いや、君たちはここの娼婦じゃないよね?」

 シルヴァ団長が訊いた。

「うっ、くふっ、ぐうっ――」

 シャオシンの喉からは嗚咽がこぼれ出ただけだった。

「わっ、わたしたち娼婦じゃない!」

 震えながらだが、テトははっきりいった。

「うん、テトだよな。酒場宿ヤマサンでウェイトレスをやっている、テト・メンドゥーサだ。違う?」

 シルヴァ団長が微笑んだ。

「何でわたしの名前を知って――?」

 テトは困惑している。

「何でって――俺の団には褐色の肌の女の子がいないから。前々から気になってた。やっぱり欲しいな褐色肌枠のハーレム要員――あっ、ああ、いいんだ。今いったことは気にするな。そっちの金髪編み編みお団子は?」

 シルヴァ団長は自分の発言を誤魔化しながらシャオシンへ顔を向けた。

 シャオシンは顔を上げない。

「えと、このはシャオシン、だけど――」

 怪訝な顔のままテトがいった。

 シャオシンはまだうなだれて肩を震わせている。

「と、とにかく、わたしたちは、ここで仕事をしているわけじゃないの!」

 シャオシンの代わりにテトが伝えると、

「――だ、そうだ」

 頷いたシルヴァ団長はマントをひるがえして、そこに突っ立っていたエドゥインへ向き直った。

「――ぶふっ!」

 エドウィンの荒れた唇の端から赤い血が流れ落ちる。

「なっ――!」

 テトは絶句した。エドウィンの胸にその腰にあった短剣が突き立っていた。

 短剣を突き刺したのはシルヴァ団長だ。

 シャオシンの唇がぽかんと開いたが驚きすぎて悲鳴は出ない。

「おぼっ、あぼっ――」

 シルヴァ団長はエドウィンの鼻を口から血があふれ出したのを確認して頷くと、エドウィンのうなじを押さえていた手を放した。エドゥインは膝から崩れ落ちた。床に転がったエドゥインはまだ生きている。だが、口から血と一緒に出る悲鳴は掠れたものだ。

 エドウィンは肺を深々と抉られている。

「だ、だ、団長、説明を!」

 マクシムが叫んだ。

「も、も、もうしません、団長、もうしま――」

 シルヴァ団長は後ずさりするゴーチェの髪を左手で掴んだ。

「あぼっ――!」

 ゴーチェが呻いた口から血がゴポゴポと溢れ出した。顎の下に短剣が突き立っている。シルヴァ団長の右手にあった短剣である。

「あのさ――」

 呟いたシルヴァ団長がゴーチェの喉へ突き立てた短剣を深く沈めた。ゴーチェはシルヴァ団長の腕を掴み抵抗した。

 まさしく必死である。

「いつも俺はいっている。団員のお前らが俺の前で手をつけていいのは商売女だけだ」

 シルヴァ団長が短剣を持つ右手をグリグリ動かした。

「あが、げぼっ、ぶふっ!」

 ゴーチェの身体が跳ねるように揺れた。

「俺の許可なく、処女シロウトさんへは手を出すなっていつもいってるよな。団の規則だよな。この件は最優先事項だよな!」

 シルヴァ団長はゴーチェの頚動脈をズタズタに切り裂いた。短剣の侵入した喉の傷口が大きくなって、そこからも血が飛んでいる。

「ぷっしゅぅうぅぅっ――!」

 これはゴーチェの断末魔の声のようだ。切り裂かれたゴーチェの喉からは、まともな悲鳴が上がらなかった。

「何のために、俺の団はこのでっかい娼館で宿をとってると思ってるんだ?」

 シルヴァ団長は上下右左と素早く動くゴーチェの瞳孔を見つめた。

 血の泡を吐くゴーチェの返答はもちろんない。

「お前らが好きなだけ商売女とヤルためだろ。お前らの息抜きのためだろ。俺は無駄な金を使ってまで仲間に気を回してるんだ。なのに、何だ何だ、お前らは阿呆なのか、アホなのかよ、このアホンだら!」

 シルヴァ団長は鼻声でいった。ゴーチェの喉元を刃で抉りながら瞳をうるませている。シルヴァ団長が鼻をぐすんぐすんやりながら短剣を引き抜くと、白目を剥いたゴーチェが床へ転がった。

「――フーッ、この馬鹿は死んだか!」

 大袈裟な溜息を吐いて、自分の前髪を揺らしたシルヴァ団長がマクシムへ顔を向けて微笑んだ。マクシムはひどく硬い笑顔で応えた。殺人の現場を見つめるテトとシャオシンに笑顔はない。ただひたすら青ざめている。

「マクシム、手」

 シルヴァ団長が微笑んだままいった。

「は、はい?」

「マクシム、右手を出してくれ」

「あ、はあ?」

「これ、お前が持っていて」

「だっ、団長、何を?」

 シルヴァ団長がマクシムへ血に濡れた短剣を手渡して、

「エッポ、おーい、エッポ、すぐに来てくれ!」

「――あっ、はい、団長!」

 遠い位置にあった天幕から小さなひと影が飛び出てきた。

 筋肉でできた樽のような体形だ。

 駆け寄ってくるのは長い白髭を生やしたドワーフ族の男だった。

「エッポ、こいつら喧嘩した」

 シルヴァ団長は血に濡れた自分の手を眺めていた。

 その足元にはゴーチェとエドウィンの死体が転がっている。

「――あ、はあ、そうなんですか」

 ドワーフの男――エッポがエドウィンとゴーチェの死体を片目だけで見やった。

 左目は黒い眼帯で隠されている。

「マクシムがその短剣でエドゥインとゴーチェを殺したんだ。俺はその喧嘩を止めたんだが――手遅れだったよ。フーッ!」

 シルヴァ団長が大袈裟な溜息を吐いた。

「ほうほう、団長、それはたいへんでしたなあ――」

 大袈裟にエッポが頷いて見せた。

「あ、そんな、団長、まさか――」

 マクシムが呻いた。

「エッポ、面倒が起こる前に殺人犯のマクシムを警備隊に突き出してきてくれ。辛いがこれもアマデウス冒険者団のためだ」

 シルヴァ団長が命令すると、

「はい、団長」

 エッポがマクシムの腕を掴んだ。

「そ、そんな、い、嫌だ! シルヴァ団長、俺は関係ないんだ。団長だって知っているだろ、俺は女に興味がないんだから! だから、許して――」

 エッポに取り押されたマクシムは一歩も動けない。

「ああ、取り調べで俺の名前を出されると面倒か――精神変換サイコ・コンヴァージョン口述鍵キイ強制解除クラック――」

 シルヴァ団長は何やら高速で呟きながら自分の視線をマクシムの瞳へ送り込んだ。

 それは、揺らぎ、歪み、捻れて――。

「――あ、あぁあっ!」

 マキシムは頭のなかに侵入してきた黒い蜘蛛を見て悲鳴を上げた。これは魔導生命体、独裁者の蜘蛛ディクタートル・アラーネアだ。シルヴァ団長は魔帝国でも太古に作成法が途絶えた禁忌の魔導生命体を魔導式具も使わずに作り上げた――。

「――オラ、さっさと来い、マクシム!」

 エッポがマクシムを引きずって歩いていった。

「いやだ――団長! いやだっ、許してくれ――団長!」

 マクシムは泣き喚いたがもう団長の名前も顔も思い出せなかった。

「うっるさいな!」

「何の騒ぎなの!」

 その途中で娼婦の苛立った声が天幕の向こう側から聞こえた。

「団長、団長! ぎゃっ――」

 マクシムがエッポから顎にいいのをもらって気絶した。

「――いえ、何でもありませんよ、お嬢さん方」

 エッポが無表情でいった。

 その右拳に茶色い光を放つ導式が巡っている。

「フーッ! 怖い思いをさせて悪かったね。テト、シャオシン」

 シルヴァ団長は、白いハンカチで手をぬぐいながら、テトとシャオシンへ微笑みかけた。なんの内容も深みも慎みもない青臭い笑顔だ。それはただ笑って見せればそれで相手が自分に好意を持ってくれると確信している空白の笑みだった。

「あっ、うっ――」

 テトとシャオシンは揃って呻き声で返事をした。

 むろん、彼女たちに笑顔はない。

「フーッ! 怖い思いをさせたお詫びに、フーッ! テト、シャオシン、ウチに寄っていかないか?」

 シルヴァ団長は大袈裟な溜息を連発しながら血をぬぐったハンカチを捨てた。

 テトとシャオシンの返事はない。

「お互いの誤解を解いておいたほうがいい。だから、俺の部屋で少し話をしよう?」

 腰を屈めたシルヴァ団長が身体を寄せ合うテトとシャオシンへ手を差し伸べた。

 テトとシャオシンは涙の溜まった瞳で殺人者の手を見つめている。

「――お断りだ」

 シャオシンの代わりに、リュウが応えた。

「――グルルッ!」

 テトの代わりに、フィージャが唸る。

 テトとシャオシンがばっと振り返ると、天幕の回廊に佇んだリュウは腕組みをして、重心を落としたフィージャは白い牙を見せて、それぞれシルヴァ団長を睨んでいた。

「リュウ、フィージャ!」

 テトが涙声で叫んだ。

「うっ、くうっ!」

 シャオシンの叫びは言葉にならなかった。

「誰だ?」

 シルヴァ団長がリュウとフィージャを見やった。

「お前は知らなくていい。さあ、帰るぞ、シャオシン、テト」

 リュウのいつもより鋭く切れ上がった目元に殺気が漂っていた。

 龍頭大殺刀も背負っている。

「おい、何だよ」

 シルヴァ団長が前に出ようとすると、牙を見せたままのフィージャが立ちはだかった。

「――フェンリル族か。タラリオンでは珍しいよな。これってメス?」

 シルヴァ団長は狼の顔を見つめた。

「グルァ!」

 フィージャは獣の唸り声で返答した。

「フィージャ、先に手を出してはならん!」

 リュウはフィージャを制した。

「せめて、お前らの名前くらい教えろよな、フーッ」

 シルヴァ団長が前髪を揺らす大袈裟な溜息をつきながら目を伏せた。

「――リュウ」

 リュウが短く名乗った。

 シルヴァ団長は空白の笑みを見せて、

「リュウか。男みたいな名前だけど声を聞くと女だよな。俺はシルヴァ・ファン・アマデウス。アマデウス冒険者団の団長をやっている。この犬がフィージャだな。みんな、俺からのお詫びといってはなんだけど――」

「それは断る。テト、シャオシン、立てるか?」

 遮ったリュウがへたり込んだテトとシャオシンに歩み寄った。

「う、うん」

 気力を取り戻したテトは自力で立ち上がった。

「うっ、くうっ――!」

 テトに強く手を引かれたシャオシンもなんとか立ち上がる。

「ご主人さま、もう大丈夫ですよ。さあ、帰りましょう」

 フィージャが牙を引っ込めていった。

 リュウとフィージャは、テトとシャオシンを促して後ろへ追いやったあと警戒しながら背を向ける。

「ああ、いや、ちょっと待てよ。何かを勘違いしていないか。俺はテトとシャオシンを助けたんだけど――」

 シルヴァ団長が追いすがろうとすると、

「シルヴァ!」

「シルヴァ、今日は私たちと遊ぼうにゃん」

 黄色い声と一緒に、サラとルナルナがシルヴァ団長に飛びついた。リュウとフィージャの背後に隠れるような形で、この高級娼婦二名も駆けつけていたのだ。

「――とっとっ。サ、サラとルナルナか。ど、どうしたんだ、突然?」

 シルヴァ団長の声が裏返った。

「まあ、いいじゃないか?」

「たまには『中古品』も相手をして、にゃん?」

 二人の高級娼婦が色気をふんだんに振り撒きながら笑顔をシルヴァ団長へ寄せた。しかし、彼女たちの視線は立ち去るリュウとフィージャへ送られている。視線をまだ背後へ残していたリュウが軽く頷いて、それをサラとルナルナへの挨拶にした。

「い、いつもいってるだろ。お、お、俺は娼婦とはちょっと――」

 しどろもどろのシルヴァ団長は明らかに動揺している様子だ。


 裏口を警備していた黒服の若者は、リュウ、フィージャ、テト、シャオシンが黙って出て行くのを見て口を開きかけた。しかし、リュウが鋭く一瞥をくれたあと、追い討ちでフィージャが唸り声を聞かせると、黒服の若者は何も見なかったような態度で視線を横へ向けた。

 後ろに追手がいないことを確認してから、

「――小粋な姐さんたちのお陰で助かったな」

 リュウがいった。

「サラさんにルナルナさんでしたね。本当に助かりました」

 フィージャが頷いた。フィージャの嗅覚を頼って酒場宿メルロースの裏手に辿りついたリュウは、その付近にいたルナルナの手引きでメルロースへ侵入した。そこでテトとシャオシンを見失って血相を変えていたサラと合流したのである。

「あとで礼のひとつもいっておきたい――」

 リュウが呟くようにいった。

 リュウの横をしょぼんと歩いていたテトが、

「ありがとう、リュウ、フィージャ。本当に怖かった」

「テト、ご主人さま、もう無茶をしてはいけませんよ」

 フィージャが穏やかな口調でいった。

「うん、フィージャ。リュウ、やっぱり怒ってる?」

 弱く笑って頷いたテトがリュウの横顔を盗み見た。

「――少しな。だがどうせ、アマデウス冒険者団を見に行くといいだしたのは、シャオシンなのだろう?」

 その顔と同様、リュウの声もまだ強張っていた。

「わらわは、わらわだって――」

 視線を落としたシャオシンがそういったが、いつものような元気はない。

 蚊の鳴くような声だ。

「シャオシン、アマデウスの奴らはエイシェント・オークをけしかけてくるような連中なんだぞ。アレス団長やボゥイ副団長の話を聞いただろう?」

 リュウが硬い声音のままいった。

 うつむいて歩くシャオシンは返事をしない。

「シャオシン、あの宿には――アマデウス冒険者団には二度と近寄るな」

 返事を待たずにリュウは続けた。

「じゃが、リュウ、わらわだって――」

 シャオシンが顔を上げた。

「いい加減にしろ!」

 リュウが怒鳴った。わがままをいうシャオシンへガミガミ説教をしているときでも、どこかその態度に甘さのあるいつものリュウとは顔つきが違う。

 瞳を揺るがせたシャオシンは、それでもまだ何かいいたそうだ。

 リュウは怒気を維持したままの顔を背けた。

 テトがこっそり視線を送ると、うなだれて歩くシャオシンの細い肩が震えている。

 テトはリュウを盗み見た。

 リュウは顔を横向けてまだ憤っている。

 獣耳を折ったフィージャは背を丸めて歩いていた。

 四人は黙ったままメルロースの裏手――通称で呑んだくれ裏通りの庶民的な喧騒を抜けた。

 沈黙したまま酒場宿ヤマサンの近くまできたところで、

「みんなでお風呂へ行きましょうか?」

 フィージャがいった。

「――出かけついでだな」

 リュウの声がまだ硬い。王座の街の西壁面から続く脇道の先には大きな噴水があって、そこは公衆浴場に改造されている。

「そ、そうだね。ね、そうしようか、シャオシン?」

 テトはずっとうつむいて歩いていたシャオシンへ顔を近づけた。

「――うん」

 シャオシンが小さな声で返事をした。

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