二節 小心者の大冒険(壱)

 左右に天幕が並ぶ曲がりくねった路地を歩きながら、

「ね、シャオシン、本当に行くの?」

 テトはシャオシンの背へ訊いた。

「当然じゃ!」

 振り返ったシャオシンがキャンと吼えた。その前方から酔っ払った商人風の若い男二人が仲良く肩を抱き合って歩いてくる。前へ視線を戻したシャオシンが驚いて男好きの男性同士を避けると、脇に積んであった木箱へその肘がぶつかってガラガラ崩れた。

「――酔っ払いかね? それとも物取りか!」

 脇にあった天幕から中年女の大声が聞こえた。

「ごめんなさぁい、躓いちゃった!」

 身を竦めたシャオシンの横に駆け寄ったテトが甘ったれた声で叫ぶと、

「何だ、テトかね。怪我はなかった? 気をつけな」

 苛立ちをゆるめた声が返ってきた。

 テトはこの界隈の住民と顔馴染みだ。

 王座の街には自然の光がない。見上げて霞むほどに高いドーム型の石天井からは濃い闇が常に降ってくる。その闇を石床から突き立つ街路灯や天幕の家屋の群れの出入口に下がる灯が支えていた。地下の街に住むひとの数だけ点る灯が無量の闇を支える柱になっていた。

 常闇の幕下に光の支柱が無数に立つ王座の街、その北西区である。

 この区画は商売をする民間人が多く雑然と活気に満ちている。路地にいるひとも多い。ここではむしろ、路地を生活の場にしている住人のほうが多くなる。異形に怯える必要はあっても、自然の猛威に晒される心配はないネスト内部の家屋は天幕で事足りる。天幕の家々は段差がないし、外と内を遮る壁も薄く、ひとの日常と路面が地続きになってしまう。王座の街はすべての区切りが曖昧だった。

 シャオシンは曖昧で雑然とした街並みを大股で歩いていった。

 それに追いついたテトが、

「そうやってエラソーにしてるけど。シャオシン、さっき震えてたじゃん」

「テト、嫌なら良いのじゃぞ。わらわ独りで偵察してくるからの」

 シャオシンは前を向いたまま応えた。

「んもー、シャオシンだけじゃ、わたしが心配だし。つーか、さっき泣きそうな顔で『テトも一緒に来て欲しいのじゃ!』って頼んできたの誰だっけ?」

 テトが瞳をぐっと細くした。

「ふん、知らんわ――テト、ヤマサンの仕事はいいのかえ?」

 シャオシンがテトへ横目で視線を送った。

「ま、最近は人手が増えたから平気じゃない?」

 視線を上にやってテトが応えた。

「いい加減じゃのう」

 小憎たらしい口調のシャオシンがタコの足のような交差点を北に折れた。

「シャオシンにいわれたくないし――そっちじゃない、こっちこっち!」

 テトがシャオシンを手を引いて止めた。王座の街は方向感覚を失ってしまうことが多い。特にその北西区は無計画に乱立する天幕と天幕の間が経路なので、狭い路地ばかりで大路は存在しない。その上、建てるのも畳むのも気軽な天幕の位置は日々細かく移動する。当然、道もそれに合わせて変化する。テトとシャオシンが歩くのは生きた迷宮の体内だ。

「わ、わらわは毎日、忙しく働いているぞえ。しょ、照明を作ったりとか照明をたくさん作ったりして――」

 シャオシンがテトの横に戻ってきた。

「ね、シャオシン」

 テトが女の子の速度で歩きだした。

「何じゃ、テト!」

 シャオシンはキャンと吼えた。

「――あのね、シャオシン」

 テトは視線を落としている。

「――何じゃ、テト?」

 シャオシンがテトへ透明な表情を向けた。

「ツクシたちとネストの探索に参加していて、シャオシンは本当に大丈夫なの?」

 うつむいたままテトが訊いた。

「ツクシのことか? 相変わらず、わらわをイヤらしい目でじろじろと見てくるがの。イヤらしいこともよく訊いてくるし、尋ねてもいないのにイヤらしいことを教えてもくれるぞ。最近はわらわの肉体からだをイヤらしい手つきでしつこく触ってもくる。触られていないところがないくらいじゃ。でも、全然、平気じゃよ。リュウとフィージャが近くにいるしの。というか、もうあれには慣れた」

 無表情のシャオシンがツクシという中年男のクズエロさ加減を訥々とつとつと語った。

「うん――」

 成年に達するのにまだ何年もかかる女子へ行われるツクシの非道の数々を、これまでもシャオシンの口から散々聞かされているテトは頷くだけの反応だ。

「ん、テト、どうしたのじゃ?」

 いつもなら、ツクシに何をされたのか、細かく訊いてくるのにと、シャオシンは不思議に思った。

「――シャオシンはリュウとフィージャに頼りっきりってことでいいの?」

 テトが遠慮がちにシャオシンへ視線を送った。

「わ、わらわだって班の役に立っておるのじゃ。照明を作ったりとか、しょ、照明を作ったりして――テト、本当じゃぞ!」

 シャオシンはキャンキャン吠えた。

「シャオシン、わたしね――」

 テトが蒼穹の瞳を見つめた。

 シャオシンの美貌に二つある高い大空のような色合いの瞳である。

「何じゃ!」

 シャオシンはプイツンした。

「わたしね、シャオシンにはネスト探索へ行ってほしくないな、とか。すごく危ないよね。下層したにはまだエイシェント・オークがいっぱいいるでしょ――」

 テトは小さな声で告げた。その声は路地を飛び交う喧騒に掻き消されて、シャオシンへは届かず、届かないうちに二人の視界は開けた。小路の迷宮を抜けたテトとシャオシンは数少ない大通りに立っている。北の先に防衛大門がある大通りだ。ネスト探索者は防衛大門を抜けて未探索区に向かう。テトはその門を潜ったことがない。シャオシンは何度も潜った門だ。

 出て行ったきり帰ってこない探索者も数多い――。

「――む、テト。いよいよ敵陣が見えたぞえ」

 南を惑っていたシャオシンの視線の先に、サーカスが使うような円錐形の巨大な天幕がある。この大天幕がアマデウス冒険者団が滞在しているらしい酒場宿メルロースだ。メルロースの外周にぐるりと下がった色とりどりの導式灯が、その周辺をケバケバしい色に染め上げていた。正面出入口には肌の露出が多いドレスを着た若い女が何人もいて、客を導いたり、用事を済ませた客を柔らかい態度と固い決意で店外へ押し出したりしている。身なりは良くてもどことなく崩れた印象がある黒服の若者が何人か佇んで、女たちの様子を眺めていた。どうも、この彼らは店の用心棒のようだ。

 この界隈は女の嬌声と男の歓声が耐えることがない――。

「――うん」

 気の抜けた返事と一緒にテトが振り向くと、

「突撃開始じゃ!」

 シャオシンがメルロース正面出入口に向かってズンズン歩いてゆく。

「――ちょ、ちょっと、シャオシン、真正面からメルロースに入る気なの!」

 全力で駆け寄ったテトが、シャオシンの腕をガッシと掴んだ。シャオシンの後ろ頭に接近したテトの顔が引きつっている。

「何か問題があるかえ?」

 シャオシンが振り返ると、テトの鼻先と自分の鼻先がくっつきそうだった。

「あるに決まってるでしょ、これは偵察なんだから。メルロースは酒場宿の体裁だけど、中身は完全に娼館だよ。女の子がそんなお店に正面から入ったらおかしくない? ね、これ、おかしいでショ!」

 テトは声をひそめた。

「――ああ、そうじゃな。わらわとテトは密偵じゃったな」

 シャオシンは素直に頷いた。

「もー、シャオシンは――裏口へ回ろ。わたし、メルロースのお姐さんたちと西の浴場で仲良くなったの。すっごい肉体からだなんだよね。胸とかね――男のひとって、あのくらいないと満足できないのカナ――?」

 テトは言葉の端とその顔に憎悪のようなものを漂わせている。

「わ、わらわもそれを考えてたところじゃ――」

 落ち着かない様子のシャオシンが歩きだした。

「あっ、シャオシン、そっちの道じゃない。こっちこっち」

 テトがシャオシンの手を引いた。

 酒場宿メルロースの裏手は小さな天幕が集まっていた。その界隈では人気店に入りそびれた客を狙って年季が入っていたり、半分素人であったり、ちょっと見た目が崩れた感じの娼婦たちがたむろしている。その彼女たち(彼もいる)に捕まった客が屋根があるだけの安居酒屋でやけくそ気味の気炎を上げていた。メルロース正面の面妖に高級感のある賑わいとは違って裏手は庶民的な雰囲気だ。テトは見慣れた光景なので周辺に目もくれない。テトに手を引かれて歩くシャオシンは大人たちの荒んだ営みを物珍しそうに眺めていた。

 石床を掘削して作られた排水路のドブ板を三回ほど踏み越えると、手を繋いだままのシャオシンとテトは酒場宿メルロースの裏手へ辿りついた。そこにはメルロース同様のデザインで色は派手だが、大きさは小振りな天幕が一つあって食い物を煮炊きする白い煙を上げている。その天幕は客に出す料理を作る厨房のようだ。厨房天幕はもちろん、メルロースの裏口も娼婦や従業員や業者が出入りを繰り返している。裏口の近くで黒服の男が一人目を光らせていた。

 部外者が出入りできる雰囲気ではない。

 近くにあった樽の影で、テトとシャオシンがメルロースの裏口を睨みながら、どうしたものかと迷っていると、

「おっ、テトじゃん」

「ややっ、テト発見」

 身を固めたテトとシャオシンが後ろへ目を向けると、長い煙管きせるを片手に持った紫色のロング・ドレスを着た女と、チャトラの毛並みの猫耳に黄色にショート・ドレスを着た女が笑っていた。女二人のドレスはどちらも肌の露出が多いものだ。彼女たちは持っている女性を男性へ見せつける目的でその身を飾っている。

 この二人組は娼婦である。

「サラ姐さん、ルナルナ姐さん、い夜だね!」

 笑顔のテトが娼婦二人組の名を呼んで挨拶をした。名前を呼び、笑顔を見せて、はっきりと声に出して挨拶をする。他人へ自分の良い印象を伝えるための基本だ。テトは完璧にそれをやってのけた。

「い、善い夜じゃの――」

 テトの背後へ隠れてうつむいたシャオシンは小さな声でモゴモゴ挨拶した。これは駄目である。長煙管の女がサラ、チャトラの猫耳の女がルナルナという名のようだ。

 長煙管を片手のサラが腰を屈めた。サラの胸の白い谷間がテトの茶色い瞳に映る。ちょっと時間を置いて、胸を揺らしながら身を起こしたサラが長煙管の吸い口をべにの色で濡れて光る唇へ寄せた。

 身を屈めたままのテトはサラを見上げて無言である。

「いつ見てもテトはイケメンだよな。何の間違いで女に生まれちゃったの――」

 サラは紫煙と一緒に溜息を吐いた。

「余計なお世話!」

 テトはギャンと吼えたあと、

「それより、サラ姐さん。わたしたち、メルロースのなかを一度見てみたいんだ。いいかな、いいかな?」

 すぐさま唇の先に右の拳をやっておねだりを開始した。

 いつもより力強く握ったテトの右拳である。

「情報屋は競合店の視察か?」

 笑ったサラが脇にあった樽へ腰を寄せて体重を預けた。

「そ、そんなところかな?」

 テトは視線を上へやってはぐらかした。

「にゃ! サラ、サラ、こっちのお嬢さん、すっごい美人だよ――」

 ルナルナがチャトラの猫耳をピンと立てた。

 ルナルナはテトの背後でこそこそしていたシャオシンを覗き込んでいる。

「う、うむ。その通りじゃ。くるしゅうないぞ、猫人の女よ」

 そこでようやくテトの背後から出てきたシャオシンが遠慮がちに偉そうな態度を見せた。

「美人ちゃんはこの店に近寄るの、あまり感心しないね――」

 サラは長煙管の吸い口を唇の端で噛んだ。

「サラ姐さん、わたしはいいわけ?」

 テトは不満そうである。

「ちょっと見だとテトは美少年だにゃ」

 ルナルナがサラッといった。うつむいて肩を震わせるテトを横目で見やったシャオシンがウケケケッとイヤな感じで笑っている。

「ま、『そういう趣味』の客もいるけどさ。酒場宿メルロースうちは女売りが専門だから、テトに危険はなかろう!」

 サラが大声でいった。

「にゃははっ」

 ルナルナが猫っぽく笑う。

「――とっ、とにかく、裏から入って、メルロースのなかを見学してもいいカナ?」

 乙女心を蹂躙されたテトは憎悪で唇の端を歪めながら頼み込んだ。

 それでもテトは一応の笑顔である。

「――ま、この時間帯ならいいか。じゃ、私についてきな」

 少し考えていた様子のサラは裏口へ向かった。

 目配せをした視線で笑い合ったテトとシャオシンがサラに続く。

「ちょっと待って」

 ルナルナが三人を呼び止めた。

「――うっ」

「――やっぱり駄目かの?」

 テトとシャオシンが表情を固めて振り返ると、二つ並んだ美少女の顔の間へ、自分の顔を割り込ませたルナルナが二人の肩を抱いて、

「駄目じゃないけど。テト、美人ちゃん、シルヴァとその仲間に気をつけて」

 囁き声だ。

「シルヴァ・ファン・アマデウスのこと?」

「アマデウス冒険者団の団長のことかの?」

 ルナルナの右の猫耳と左の猫耳から、それぞれ異なるタイプの美少女の声が少女の吐息と一緒に届く。

「さすが情報屋。耳が早いにゃん」

 ルナルナは左右の猫耳をぴこぴこさせて笑った。

「――うん、そうだ、それをいい忘れてた。テト、美人ちゃん、シルヴァと団員には気をつけるんだよ」

 背を反らして三人の内緒話へ耳を寄せていたサラが頷いた。

「美人ちゃんのわらわは、シャオシンじゃ」

 シャオシンがいった。

「美人ちゃんはシャオシンか。善い名だね」

 サラが唇の端で笑った。

「きれいな響きの名前。鈴の音みたいだにゃん」

 ルナルナが猫っぽい瞳を細めた。

「ほ、褒めても、な、な、何もできんぞ――」

 シャオシンは赤くなった顔を伏せた。

「とにかくね。この店で遊んでいるシルヴァは見た目よりずっとワルなんだ。あのクズの手下も似たり寄ったりだよ。気をつけな」

 サラの口調に冷たいものがある。このサラとルナルナは地上にあるメルロース本店から客寄せの為にネスト支店へ派遣された高級娼婦だ。彼女たちは面倒な客から平気で逃げる。娼婦だからといって誰にでも肉体からだを売るわけではない。肉体からだを男に売るプロの彼女たちには彼女たちなりの自尊心プライドがある。

「ちょっとなかを見学したら、すぐに戻っておいで」

 ルナルナが笑顔を消した。

「わかった。ありがとう、ルナルナ姐さん」

あい、わかった」

 テトとシャオシンが一緒に頷いた。メルロースの裏口にいた黒服の若い男はテトとシャオシンをつれたサラを見て怪訝な顔をしている。

「このらは、私の友達ね」

 サラが短くいうと黒服は無言で頷いて視線を横へ向けた。


 メルロースの高い天井から何種類もの色合いの導式灯が数えきれないほどぶら下っていた。星々がそれぞれ思い思いの色で自己主張を始めた夜空のような趣だ。ポカン偽の夜空を見上げたテトとシャオシンの頬に七色の光がかかっている。二人の少女が視線を下ろすと赤い天幕が左右に並んでいた。それぞれの天幕のなかから男の歓声や女の嬌声や、飲み食いする音が、ひっきりなしに聞こえてきた。

 まとまった人数が宴会をしているようだ。

「うわあ――」

「大きな天幕のなかに、また別の街があるような感じじゃのう――」

 テトとシャオシンがいった。

「ここいらは団体客用の区画なんだ。競合店を見た感想はどうよ?」

 サラがテトへ視線を送った。

「料理もお酒も本格的だよね――」

 テトは自分の脇を、「ちょっとごめんね」と通り抜けていった娼婦が持ったお盆の豪華な料理と高級ワインの瓶を眺めている。

「地上の本店から料理人もここへ派遣されてるんだ。それだけがネスト支店の自慢かな。料理の味も見せてあげたいところだけど」

 顎をしゃくってサラがいった。

 この態度を見るとサラはそれなりに自分が勤める店への愛着があるようだ。

「音楽が聞こえるぞえ?」

 シャオシンがサラを見上げた。

 酔客の喚き声と娼婦の嬌声の間を縫って楽器の音色が聞こえてくる。

「――あっ、う、うん。正面出入口のほうの大広間からだな。踊り子と楽器を鳴らす連中も地上うえから呼んでるんだ。そこのホールには大きな舞台があるよ。シャオシンは見たい?」

 サラが気を取り直していった。

 真顔のシャオシンは同性でも目が釘付けになるほどの美貌である。

「興味があるのう」

「見てみたいな」

 シャオシンとテトが揃って頷いた。

「じゃ、案内してあげる。ついておいで――あっちゃあ、総支配人だ。普段はこの時間から部屋で飲んだくれてるのに、何でまた今日に限って――テト、シャオシン、あのバカは私が気を逸らしておくから、ここから見えないところまで走りな。アンタらみたいな別嬪べっぴんさんが、あいつに見つかったら大変なことになる」

 サラの眉間に苛立った。向こう側から、ビール樽のような体形の黒服が千鳥足で近づいてくる。彼がサラのいった総支配人らしい。

「な、何じゃ?」

 きょとんと返事をしたシャオシンの手を、

「シャオシン、早く!」

 テトが強く引いて天幕の間を走った。

「あっ、テト、シャオシン、それでも、あまり離れないで!」

 サラの声が聞こえたか、聞こえなかったのか。

 少女たちの背は大天幕の娼館の暗いほうへ消えた。

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