五節 新たな望み(参)

「新しい料理っすか――」

 ヤマダがうなだれた。ゴルゴダ酒場宿へ来るたび、高級食材を使っていないのにも関わらず、舌と腹を満足させるものが必ず出てくる。この上で、研究熱心なセイジは、まだ新しい料理のレパートリーを開発しているようだ。ヤマダは打ちのめされた気分になった。

 悪い業者が数多く紛れ込んでいる王座の街ならともかく、舌の肥えた客が多いタラリオンの王都で飲食チェーン店を営むのは難しい。まず、全店に共通した食材を供給するのが無理そうだし、それに、電子レンジだの冷凍食品だの、素人でも扱える便利な調理機具や食材がない異世界こっちでは、各店で腕のいい料理人を雇う必要がある。

 しかし、それは経費や王都の人材を考えるとほぼ不可能――。

「――ヤマ。今後のボルドン酒店は飲食チェーン店の展開を考えている。まず競合店が少ないネストへ試験的に出店して、そこでチェーン店のマニュアルを作ってくれ」

 ボルドンから指示されたヤマダが半分ヤケになって、メンドゥーサ一家に声をかけたところ、精肉が得意で真面目なジョナタン、料理上手で明るいパメラ、看板娘で年齢のわりにしっかりもののテト。これが奇跡的に揃って酒場宿ヤマサンの経営は軌道に乗った。しかし、稀有な人材を確保する大前提の経営など飲食チェーン店を作る参考資料にならない。

 あの三人がやっている仕事は、マニュアル化すれば誰にでもできることじゃあなさそうだ――。

 ヤマダは頭の隅っこで、ずっとこう考えている。本音をいえば、ボルドン酒店が子会社を作ってまで飲食店の経営をすることに、ヤマダは反対だった。本業が軌道に乗った途端、本業から外れたところへ手を出して大火傷するのは新興企業によくある話だ。実際、ネストの酒場宿ヤマサンを立ち上げる前、ヤマダは社長のボルドンとひと悶着した。

 それぞれ物思いに耽って卓の会話は止まった。

 今宵は表を走る馬車も行き交うひとも極端に少ない。

 時計の針がときを刻む音と、ストーヴの薪が爆ぜる音だけが聞こえてくる。

 沈黙と静寂に堪え性のない悠里が最初に口を開いた。

「年明けは忙しくなるんで、宿では大量に食材を仕入れていましたよ。何が出てくるか楽しみですね」

「今日はアルさんたちも宿にいないのか?」

 ツクシが訊いた。

「ええ、ウチの面子も全員、聖教会です。冒険者はゲンを担ぎますからね」

 頷いた悠里を、何でこいつだけ宿に残っているのかなと、怪訝な顔のツクシが盗み見ている。

 悠里はへらへら笑っている。

「うちの会社――ボルドン酒店の従業員も全員で聖教会に行っているっす。なかの席が予約ができたみたいで、みんな大喜びっすよ。聖教会内部って入ったことないひとが多いんすよね。あれは金の力っす。ドワーフ公国に国籍があるボルドンさんは、タラリオン王国民でもエリファウス聖教の信者でもないのに――」

 ヤマダは眉間の谷を深くして深刻な表情だ。最近のボルドンは無駄な出費が増えた。元々ドワーフ族と名乗らなければ、ただのちびデブ親父に見えるボルドンの体重が取引先からの接待を夜な夜な受けて、ここのところ二割以上も増えた。ボルドンは今や戦時成金である。

 ボルドン酒店はヤマダを仲立ちにして、フロゥラとラット・ヒューマナ王国と交渉し、南方から輸入ルートを開拓した。戦争の影響で王都へ流れ込む物品が少なくなっている。当然、酒も需要に供給が追いつかない。しかし、ボルドン酒店だけは売る商品に困らなかった。値段を釣り上げても釣り上げても、南方から仕入れたワインやラム酒は飛ぶように売れる。他の酒店が商品の入荷に苦心するなか、ボルドン酒店だけは濡れ手で粟の好景気だ。

 ここだけの話、ボルドン酒店で取り扱っているワインやラム酒は、『ねずみの地下運送』を利用した関税逃れの密輸品だから利鞘が極端に大きい。ボルドン酒店は闇ルートで入荷した商品を市場へ出す前に、樽や瓶をこちらで用意しておいたものに移し変えて、当局の目を誤魔化している。グリフォニア大陸の中央を所在地にした幽霊会社まで作って出元を誤魔化す念の入れようだ。この偽装工作はフロゥラを経由して、名もなき盗賊ギルドに依頼した仕事である。ボルドン酒店の脱税行為が明るみに出た場合は、トカゲの尻尾切り方式で、この幽霊会社――北大陸中央酒造組合が検挙されるからくりになっている。むろん、幽霊会社だから実体はない。幽霊会社の従業員もすべて実在しない人物だ。名もなき盗賊ギルドは公文書の偽造もお手のものだった。

 最近のボルドンさんは、いくらなんでもやりすぎだ。

 そのうち痛い目を見るぞ――。

 ヤマダは杯の赤ワインを睨みながら眉間の谷をさらに深くした。

 この赤ワインもボルドン酒店がゴルゴダ酒場宿に最近納入を始めたものである。

「ひとの口より金の力が強くモノをいうのは、どこの世界も同じだな」

 吐き捨てるようにいって、ツクシはクリーム・チーズのサラミ巻きを口に入れた。スパイスが効いたドライ・ソーセージにチーズの酸味が混じるその味は、ボルドン酒店から納入された渋みが強い赤ワインと相性が良かった。

「異世界くんだりまで来て世知辛い話ですね、あははっ」

 異世界くんだりまで来て営業職をやっている悠里が笑った。彼はカントレイア世界でも特殊な存在だが、不死者は何があっても絶対に死なない、ただそれだけだった。特別なことが何もできない悠里は日本からカントレイア世界に迷い込んだあとも、口先三寸と銭勘定、そして、顧客へ頭を下げることで自分の居場所を作っている。日本で暮らしていた時分、悠里は営業マン生活に馴染めなかった。しかし、似たような仕事をしていても、今の悠里はいつも楽しそうで、いつも笑顔だ。

 こちらの世界の生活が生まれ持った性分に合っているのだろう。

「――聖教会はそういうところなんだよ。あいつら、二言めには銭、銭なんだぜ」

 元布教師のゴロウが自分の杯へワインをどぼどぼ注ぎながら唸った。そうはいっても、ゴロウだって二言めには「銭、銭」といって生きている男である。

 貧乏ゆすりをしながらイライラしていたヤマダが顔を上げて、

「あっ、そうそう。お祈りが終わったら、ウチの会社の連中がゴルゴダ酒場宿に来るっす。ほら、この前に生まれたトニーさんのお子さんも嫁さんと――アナーシャさんと一緒にここに来る予定っすよ」

 ツクシは悠里の手で自分の杯に注がれる赤ワインを眺めなら、

「へえ、ヤマさんの会社の連中は、ゴルゴダ酒場宿ここで新年会をやるのか。そういえば、トニーに子供ができたって話だったな。しかし、こんな真夜中にいいのかよ。トニーの息子とやらはまだ三ヶ月だって聞いたぜ」

「トニーさん、息子の顔を他人ひとに見せたくて仕方がないみたいっす」

 ヤマダが苦く笑った。

「はァ、あの野郎は親バカを自慢しにくるのかァ?」

 ゴロウも歯を見せて苦笑いだ。

「ところで悠里、アヤカお嬢ちゃんはどうしているんだ?」

 杯に口をつけたツクシが天井の吹き抜けから見える二階の渡り廊下へ視線を送った。

「上で寝てますよ。年末は静かでいいって」

 悠里の返答である。

「それは、いつも通りだな――」

 ツクシが口角を歪めた。

 悠里のご主人様は、年末に忙殺されない屈強な精神力を持っているようだ。

「そうですね。みんな忙しくしていたのに、アヤカあいつだけ部屋で一日中ゴロゴロと――」

 悠里が表情にキイッと苛立ちを見せた。

「――お待たせしました」

 重低音の挨拶と一緒に戻ってきたセイジは、右手に陶器の大皿、左手に小皿と小壺を持っている。

「おっ、随分と大きな皿が出てきたなァ――何だあァ、こりゃあ!」

 ゴロウが椅子から尻を浮かせて悲鳴を上げた。

「セイジさん、これは――!」

 ツクシは卓上に現れた大皿へ唸った。

 それ以上の言葉が続かない。

 ヤマダと悠里も酒を飲む手を止めて、大皿の上のそれを凝視した。

「倭国では海魚をサシミで食べると聞きました」

 セイジが表情を変えずに告げた。

 陶器の大皿の上でお刺身が円を描いている。

「――あ、あ、赤味は、マグロっすかね? 何てこった。あ、セイジさん、この白身はなんすか?」

 空回りする口をパクパクさせながらヤマダが訊いた。

 その顔が真っ赤だが、これは酒に悪酔いしているわけではなさそうだ。

「白身はアラです」

 セイジが各自の前に小皿を老いた

「マグロとアラの刺身ですか、これは贅沢だ――」

 悠里の目が丸くなったままだ。

「何だァ? サシミィ?」

 ゴロウだけは怪訝な表情でお刺身の大皿を見つめている。

「ゴロウさん、これは魚の生身なんですよ」

 悠里が教えると、

「な、生の魚だと? おめェらは魚を生で食うつもりか。正気の沙汰じゃねェだろ、それはよォ――!」

 ゴロウがダミ声を震わせた。生牡蠣は躊躇なく食べるのだから、生の魚と聞いてそこまで驚かなくてもよさそうなものだが、ゴロウは未知のモノに対して過剰に反応する傾向がある。気が小さいともいう。

「サシミ専用ソースも人づてに入手しました」

 セイジが持ってきた小壺には何と醤油が入っていた。

「醤油まであるのか。じゃあ、セイジさん、『さび』もあるか?」

 溜息を吐くような調子でツクシが訊いた。

「――サビ」

 小壺から小皿へ醤油を取り分けていたセイジの動きがピタリと止まった。

山葵わさびだよ、セイジさん、山葵。刺身につけて食べる」

 ツクシがセイジへ目を向けた。

「ワサビ、ですか。不覚です――」

 視線を落としたセイジは、その語気に自分への憤りを滲ませた。

「ああ、セイジさんは知らないんですね。日本には山葵という調味料があるんですよ。調味料というか香辛料かな?」

 おやどうしたの、そんな表情で悠里が教えた。

「――くっ。みなさん、手前てまえの勉強不足で不愉快な思いをさせてしまって申し訳ない。この通りです」

 セイジは白い頭巾を手にとって深々と頭を下げた。白いコックスーツで覆われた子供の頭ほどの大きさのあるその肩が小刻みに震えている。肩口がはち切れて破けそうだ。驚いたツクシたちは、ちょっとの間、セイジの芸術的な謝罪姿を凝視した。

「おい、いや、セイジさん、頭を下げて謝らなくていいから。ああ、おろし生姜でも大丈夫だぞ?」

 目を見開いたまま、ツクシがいった。

「はい、ジンジャーなら厨房にあります。すぐにでも」

 回れ右したセイジの背へ、

「ああ、セイジさん、いいからいいから。それより箸があると助かる」

 ツクシは声をかけたが、セイジは一目散に厨房へ駆け込んでいった。

「なァ、ツクシ、これって本当に食えるのか?」

 ゴロウは太い眉根をこれでもかと寄せている。

「ゴロウ、文句があるなら食わなくていいぜ。もったいねェしな」

 ツクシは不機嫌にいったのだが、

「ふぅん、案外と魚臭くねえのな。しかし、やたら塩辛いソースだぜ――」

 返ってきたのは指でつまんで刺身を口へ放り込んだゴロウの感想だった。

「指で食いやがって品がねェな――」

 ツクシが神妙な顔つきで刺身を咀嚼するゴロウを睨んだ。

「刺身ですよ、これは旨い刺身です!」

「うん。間違いなく醤油っすよ。旨い!」

 悠里とヤマダも指でつまんで刺身を食っている。

 箸が来るまで待てないのかよ、こいつら――。

 ツクシの不機嫌な顔が益々歪んだ。

「みなさん、箸とジンジャーです。あと、これは少し迷ったのですが――」

 小走りで戻ってきたセイジは瓶を一本ぶら下げていた。厨房から客の前に出るときは、何かその手に目新しいものを携えていないと、この料理人は落ち着かないようだ。

「――セイジさん、それ一升瓶なのか?」

 ツクシの眼光がぐっと鋭くなった。胴体部分にラベルが貼られた緑色のガラス瓶だ。形状も色も日本でよく見る一升瓶である。それに、ツクシにもラベルの文字が読めた。ラベルには『銘酒すめらみくに』とあった。

「ええ、これは倭国の酒だそうです――」

 セイジが両手で一升瓶を持ってそれを見つめた。

 客の前に酒を持ってきたのだが、セイジはまだ何かを迷っている態度だ。

「倭国? それはもしかすると日本酒なのか? おい、悠里。たまに聞くが、倭国って国は、カントレイアのどこにあるんだ?」

 ツクシが唸るように訊くと、一升瓶を凝視していた悠里が、

「あっ、ああ! ええと、ツクシさん、倭国はウェスタリア大陸の東にある島国ですよ。グリフォニア大陸の西端にある、この王都から見ると、大内海の向こう側になりますね。その倭国はどうも日本と文化がよく似ているらしいんですよ。女将のエイダさんは若い頃、一度だけ倭国に行ったことがあるそうですが、ええっと――」

 悠里が珍しく言葉を濁した。どうも倭国という国は物知りな悠里をもってしても、いまひとつ謎が多い国家のようである。

「日本と似ているなら一度見てみたいが、随分と遠い国なんだな――」

 ツクシが下ろし生姜を醤油の皿へドバドバ入れた。

「――ん、今度は何だ、珍しい酒かァ?」

 黙々と刺身を口に運んでいたゴロウが顔を上げた。

「ゴロウさん。米で造るお酒ですよ。ライス・ワインですかね」

 そう悠里が教えたが、

「コメのワインだとォ――?」

 お刺身を克服したゴロウが今度は未知の酒への警戒心をあらわにした。

「しかし、セイジさん、タラリオン王国へ倭国の酒が輸入されているんすか? 酒屋の自分でも日本酒はほとんど見たことがないんすけど――」

 ヤマダが黒ぶち眼鏡のつるをつまんでしげしげと一升瓶を観察した。どこからどう見ても中身の酒が痛まないよう緑色のガラスで作られた一升瓶だ。ただ、栓はコルクを蝋で封じた形状になっている。ヤマダがこの世界で日本酒を見たのはこれが初めてではない。ヤマダはボルドン酒店の仕事絡みでフロゥラの別荘を再度訪れた際、バー・キャビネットに一升瓶があったのを記憶に留めている。

「ヤマさん、これは私の知人の手土産なのです。毒見をさせるようで気が引けますが、皆さんに試してもらおうと思いまして。ツクシさんたちの故郷では米で造られたワインをよく飲むと以前に聞きました。味を見て感想を教えてください。元の味を知らない私では、モノの良し悪しが判断できませんし――」

 セイジがそういいながら、一升瓶を卓へ置いた。しかし、視線は瓶に残っていて、何だか名残り惜しそうな態度である。

 それでピンときたツクシが、

「ああ、セイジさんもまだこの酒の味を見てないのか。じゃあ、セイジさんもここに座って一杯やればいい」

「――いえ、そういうわけには」

 一応は断ったものの、セイジはまだ一升瓶を見つめている。ドワーフ族は水の代わりに酒を飲むといわれるほどの酒好きであるから、セイジも嫌いなほうではなさそうだ。

「いいから、コップを持ってきて座りなよ。セイジさんには一度、面と向かって礼をいっておきたかった。いつも旨いものを食わせてもらってるからな。感謝してるぜ。これだって本物の刺身だ。山葵はないがな」

 ツクシがアラの刺身を食いながら口角を歪めて見せた。

「いえ、ツクシさん、それが私の仕事ですから――」

 セイジの表情も声音も変化がなかったが、やはりその視線は卓上の一升瓶にある。

「客の勧める一杯に付き合うのも仕事のうちだろ、セイジさん」

 ツクシがしつこく勧めると、

「では、一杯だけ頂きます」

 セイジが厨房へ自分の分の杯を取りにいった。

 駆け足だった。


 ドワーフ公国軍(陸軍しかない)では、厳選されたドワーフ戦士で構成された歴史ある近衛騎士団――ドワーフ重騎士団が常設されている。かつて、セイジ・ヴィンダールヴルはこの騎士団に籍を置くドワーフ重騎士だった。ドワーフ重騎士は外交団のお供と警備、友好国との合同軍事演習などに顔を出す、ドワーフ公国軍の花形で、ドワーフ族の男の尊敬を集める誉れ高い役職だった。

 時は帝歴九八〇年代。

 セイジがツクシたちへ語ったのは今から三十年近く前の話になる。

 当時、カントレイア世界の平和は保たれていたのだが、それでも年に二回、合同軍事演習のため、ドワーフ公国軍はタラリオン王国の王都へ出向いていた。長く続いた平和な時代のなかで形骸化したその軍事演習は、演習といってもほとんどの時間帯を軍事パレードや会食、両国間にある経済摩擦解消のための会合(!)に終始したらしい。名は合同軍事演習と物々しいが、実際は国境が隣接しているタラリオン王国とドワーフ公国の交流会みたいなものだ。そんなわけで、合同軍事演習のあとドワーフ族の要人や軍人を招いて行われる大タラリオン城の晩餐会は、口に尽くせないほど盛大なもの(派手で伊達好みであったタラリオン先王の意向もあった)で、ドワーフ族の軍人は年に二回あるその会席を楽しみにしていた。楽しみなのは晩餐会で出される旨い酒と旨い料理である。

 ドワーフ族の食生活は伝統的に、火酒、肉、火酒、火酒、肉、極稀に茹でたじゃがいもの繰り返しで粗雑なものだ。毎日毎日飽きもせず似たようなものばかりを食べている。偏った食生活だから、ドワーフ族の死因は食生活由来の病によるものが多いし、酒の中毒症状で若いうちに健康を害するものも多かった。しかし、タラリオン王国に立ち寄れば「あれが旨い、これが旨い、全部旨い」と喜んで舌鼓を打ち鳴らすのだから、ドワーフ族の味覚がおかしいわけではない。ドワーフ族は頑迷な保守主義者が多く、自分たちの生活習慣を変えることをとにかく嫌うのだ。軍隊の生活で他国の食生活を知ったドワーフ重騎士のセイジは、ドワーフ族の食習慣を変革する必要があると感じていた。軍人として青年期を経て壮年となり後続を指導する立場にもいる。

 合同軍事演習が終わった直後のことだ。

 セイジはドワーフ公国本国で行われた会議――合同演習の反省会的な席で、「ドワーフ公国軍における食生活の改善」を強く上官たちへ提案した。それは食生活と生活習慣病の因果関係や、普段の食生活が戦闘訓練の結果に与える細かい影響などなどと、綿密なレポートをつけた本気の提案だった。しかし、その提案は上官連中に鼻で笑われたただけで却下された。

 憤慨したセイジは重騎士の位をドワーフ公国の盟主――ゲンラウグ大公へ返却すると、鉄砲玉のようにタラリオン王都へ移住した。セイジは多種多様な食文化があるタラリオンの王都へ住居を移し、そこで料理人を志すことにしたのだ。ドワーフ族の食生活を変えるには、まずドワーフ族である自分自身から変わらなければなるまい、そうセイジは考えた。

 このとき、セイジは百二十歳。三百年近い寿命を持つドワーフ族でも、この年齢で未知の世界に飛び込むのは、たいへんな勇気と覚悟がいることだった。しかし、(当時セイジの周辺にいた者としては)困ったことに、セイジは勇気も覚悟も行動力も、そしてドワーフ族らしい頑迷さをも持ち合わせている男だった。実際、セイジは有能で筋の通った重騎士としても、一本気で面倒なドワーフの男としても、「行く末は重騎士団長か」と、ドワーフ公国軍で一目置かれていた存在である。

 しかし、そんなドワーフ族の男が一大決心で料理を学びたいと懇願しても、タラリオン王国に住むヒト族は受け入れなかった。ヒト族から見たドワーフ族といえば、岩を砕くか、機械を作るか、酒を浴びているかといった具合の、荒々しい肉体労働者として見られていて、料理人のドワーフ族などタラリオン王国に一人もいない。

「給料はいくらでもかまいません。何なら、なくてもかまわない。私に勉強させてください」

 セイジが王都に数ある有名料理店を回って何度頭を下げても、その志はひたすら胡乱な目で見られるのみだった。セイジはすごすごとドワーフ公国に帰るわけにもいかない。「頭がどうかしてしまったのか!」と押し留めようとする親類縁者や友人を振り切って、故郷クニを飛び出てきたのだ。セイジは料理人見習いになるために王都で粘った。粘ったのだが、中年の、しかもドワーフ族の料理人志望者の面倒を見る物好きはいなかった。少なくとも、有名料理店に勤めている料理長のなかにはいなかった。王都に移住して三ヶ月も経つと、セイジは下街にある安居酒屋で憂さ晴らしに大酒を呷る時間が多くなった。そんな暮らしをしているうちに生活費が底をついたセイジは困窮する。

 いよいよ、これは、ダメか――。

 セイジが諦めかけた頃合だった。

 捨てる神がいれば拾う神もいる。

 下街の酒場宿のカウンター席で、火酒を飲んだくれ腐っていたセイジに、

「セイジさんとやら、そこまでの覚悟なら、ウチで働いてみるかね?」

 穏やかに微笑みながら声をかけたのは、ゴルゴダ酒場宿の主人だった。

 こうして、セイジはゴルゴダ酒場宿で勉強がてらの下働きをすることになった。王都は西に大きな港町が近く、人口も多く、二十四時間活気があって、ひととモノが世界中から集まってくるカントレイア屈指の大都市だ。セイジが学ぶことは数え切れないほどあった。

 ゴルゴダ酒場宿の主だった初老の夫婦は真面目なセイジを気に入って、料理や帳簿のつけかた、取引先との付き合いなど、仕事のツボを懇切丁寧に教えた。我が子に早く死なれた夫婦は、この変わりもので、少し頑固だが、篤実を硬く練り固めたようなドワーフ族の中年男セイジ・ヴィンダールヴルに、ゴルゴダ酒場宿を引き継いでもらえばいいのではないか、という気にまでなった。

 だが、ときにして運命は、小さな、ささやかな、微笑ましい希望ですら嘲笑う。

 セイジがゴルゴダ酒場宿で料理修行の日々を送るようになって、三年経ったある夏の日の午後だ。ドワーフの重騎士からドワーフの料理人になりつつあったセイジは宿泊のために訪れた冒険者、グリーン・オーク族のホークス・ジオ・ウパカに出会った。

 それは運命の出会いだった。

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