十八節 さらば、貴族よ(弐)

 ミュカレとユキが階下へ消えたあとだ。

「リカルドさんを診療所へ入所させるのに、ちょうどいい機会だと俺ァ思うんだよなァ――」

 ゴロウがいった。

「――いい機会?」

 顔を背けたツクシが開け放たれた窓へ目を向けた。王都の季節は真冬だが今日は陽射しが穏やかで風もなく、窓を開け放しておいても寒くはない。

「あァ、言い方が悪かった。この際、だよなァ――」

 ゴロウが髭面を曲げた。

「ゴロウ、聖教会の診療所へ入所すれば、リカルドさんの病気は治るのか?」

 ツクシが窓の外を見つめたまま訊いた。

「何ヶ月か集中して複合的な投薬を続ければ、肺腐熱は完治することもある。専用の部屋で毎日の病状に向き合う、付きっ切りの治療になるからな。えらい金と手間がかかる話だぜ。それで、リカルドさんは俺を頼ってた。だが、リカルドさんは診療所に入れなかったわけじゃねえ。まあ、色々と本人の考えもあったんだろうがなァ――」

 その口振りを聞くと、ゴロウはこれまでも何度か診療所への入所をリカルドに勧めていたようだった。

「――じゃあ、すぐに入所したほうがいいな」

 リカルドさんの意地や考えがあるのはよくわかる。

 だが、リカルドさんがこれ以上苦しむのを、俺はもう見ていられねェ――。

 ツクシはゴロウに同意した。

「あァ、ツクシ、やっぱり、そうだよなァ――」

 ゴロウが頷いた。

「リカルドさんは肺の病気を綺麗に治してから、ネスト・ポーターに戻ればいいさ。また俺と、ゴロウと、ヤマさんと、リカルドさんとだ」

 ツクシがいった。

「そうだ。それでいいよなァ――」

 ゴロウが視線を落とした。ツクシたちがネストに潜るときは、あと一人、いつものメンバーがいた。

 だが、その彼女は死んでしまった――。

「なあ、ゴロウ。俺はずっと気になっていることがあるんだが――」

 ツクシが辛気臭くなったゴロウの髭面をじっと見つめた。

「あァ?」

 腑抜けた返事と一緒にゴロウが顔を上げた。

「又聞きをしている限りだぜ。リカルドさんは昔、地方の領主をやるような偉い貴族様だったんだろ。どうしてお前みたいな底辺のゴロツキが、お偉い貴族のリカルドさんと知り合いになったんだ?」

 眠そうな顔でツクシが訊いた。

 頓服が効いて痛みが和らいだようだ。

「――底辺のゴロツキだとォ、このゴボウ野郎! 俺ァ、こう見えてもエリートだ、腐っても布教師様だァ!」

 物凄い勢いでゴロウが怒鳴った。

「その強盗みてェなつらでエリートとかな。冗談にしか聞こえないんだよ。くだらんことをいってないで、さっさと俺の質問に応えろ、このゴロツキ髭野郎が――」

 ツクシはあくびを噛み殺しながらいった。しばらくの間、ゴロウはツクシの眠そうで不機嫌な顔を睨んでいたが、本当に眠いツクシはゴロウを睨み返さない。ボケッとした顔でツクシはゴロウを眺めている。

 気をそがれたゴロウが諦めて、

「くっそ、この野郎。少し長い話になるぞ。戦争が始まったとき――メイベル村が魔帝軍に襲われたとき、俺は必死で逃げた」

「ああ、お前、逃げ足だけは本気で速いからな」

 ツクシはベッドに寝転んで背中を向けている。

「うるせえよ、話を混ぜっ返すんじゃあねえ――あァーッ! 話はこれまでだ! 俺ァ、もう帰るぞ!」

 我慢にも限度というものがある。

 怒ったゴロウが椅子から腰を浮かせた。

「チッ! 話を終えてから帰れよ。中途半端な野郎だよな、お前って奴は――!」

 ツクシはベッドに寝転がったまま舌打ちでゴロウを止めた。

 歯ぎしりをしながらうつむいて、ツクシの無礼千万に耐えきったゴロウが、

「――まァ、とにかくだぜ。魔帝国との戦争がおっぱじまったとき、俺は何人かの村人と、イディアっていう名前の修道女スールをつれて、山道を使って逃げた。俺ァ、メイベル村で薬草を採りによく山へ登っていたからな。それが役に立ったんだ。で、俺たちが山を三つ抜けて大草原街道グラン・グラス・ロードへ出たところで、アウフシュナイダー領から南下してきた難民どもの行列に出くわした」

「そいつらは戦争難民だな」

 ツクシがいった。

 頷いたゴロウが、

「今じゃあ流民って呼ばれてるがな。まァ、その流民の行列に、リカルドさんも交じっていたってわけだ。そのあと、前線へ派遣されてきたニーナも軍を辞めてリカルドさんに付き添った。リカルドさんは、その時点でもう肺腐熱を発症してた。それでニーナが治療できる奴を――布教師を探していてな。そこで目をつけられたのが、この俺だよ。イディアっていう修道女の――まァ、これも蓋を開ければバルバーリ辺境伯のご令嬢だったんだが――ま、そのイディアの紹介もあって、俺はリカルドさんの病気を診ることになった。リカルドさんやニーナと俺はあのときからの付き合いだ――」

 話の最後になると、ゴロウはうなだれていた。リカルドやニーナと共に、北の国境からタラリオンの王都を目指し、馬で陸路を辿った道のりを、ゴロウは思い出していた。戦争難民が溢れた街道で、多くの悲喜劇を、様々なひとの生き様を、人間の善い部分も悪い部分も、リカルドとニーナとゴロウの三人で目にしてきた旅路――。

「――そんなことがあったのか」

 ツクシは天井を見上げている。

「おめェ、この話をニーナから聞いてなかったのか?」

 ゴロウが大きく息を吐き出した。

「――お互い、昔の話はしなかったな」

 ツクシが遠い声でいった。

「――そうか」

 視線を落としたゴロウは、これは不器用な男だなと思ったし、あれは不器用な女だったなとも思った。

「ゴロウ、早くリカルドさんのところへ、その薬を持っていってやれよ」

 ツクシが天井を見上げたままいった。

「あァ、そうだな。ツクシ、マジで大人しく寝ていろよ。導式の治癒は急激すぎて、肉体のほうの自覚が追いつかねえ。神経が錯覚して痛みがしばらく残るんだ」

 ゴロウが椅子から立ち上がって忠告した。

「――ああ、残るだろうな」

 ツクシが投げやりにいった。

「あと、これが治療費の請求書だ」

 ゴロウが紙切れを放った。

「――あのな。きっと、お前はロクな死に方をしないぞ?」

 ゴロウの紙切れ――請求書を手にしたツクシはそこに並ぶ数字を見て顔を歪めた。治療費は金貨二十一枚に銀貨が八枚、少銀貨が五枚と銅貨が六枚だ。小さな紙切れにへたくそな字でびっしりと明細が書き込まれている。もっとも、ツクシが読める異界の文字は数字くらいだ。

「ああよォ、何とでもいえや」

 白い歯を見せて笑いながら、ゴロウが貸し部屋から出ていった。

「ま、俺は実質、無一文だから高額な請求をされたところで痛くも痒くもないがな。マヌケな髭野郎だぜ――」

 口角を歪めたツクシが請求書を丸めて脇へ捨てた。

 ツクシは貸し部屋で独りになった。

 麦のミルク粥を昼前に少し食べたので空腹を覚えることはない。夜は騒がしいゴルゴダ酒場宿も昼は静かだ。悠里が宿にいないようなのでアルバトロス曲馬団は仕事に出かけているのだろう。表の大路をいく馬のいななきだとか、馬車の輪が石畳の道を刻む音が遠くに聞こえる。昼下がりのときは歩をゆるめて進んでいた。

 痛み止めの薬が全身に巡って、ツクシのまぶたが重くなる――。


「――もう良く知っているでしょ?」

 ちょっとハスキーな若い女の声だ。

「それがな。俺はお前の過去を何も知らなかったんだ」

 ツクシは苦く口角を歪めた。ゴロウから聞いた話で、ツクシはニーナの過去を知った。

 それも少しの断片ていどの――。

「ふぅん。私も、ツクシの昔のこと、何も知らないかも」

 ニーナがツクシを見つめた。

 知ってもきっと、つまらんぜ――。

 そう返そうとしてツクシが思い止まった。あまり可愛気のない幼年期をツクシが経たあとである。青年時代の入り口に立ったツクシは、そこで建設作業現場の監督を仕事にしていた父親の亡骸を見た。建設現場で発生した事故に巻き込まれてツクシの父親は死んだ。ツクシの両親は、どちらも口数が少なく、余計なことを喋らない人間だった。生活を支えるために黙って働き、一人息子を養う母親の背を眺めながら、ツクシは青年から大人になった。

 これ以上、俺がお袋に迷惑をかけるわけにはいかんよな――。

 高校を卒業したツクシは奮起して、陸上自衛隊へ入隊したり、官憲の走狗になって頑張ったりした。だが、まあ、その勤め人生活は上手くいかなかった。刑事時代、以後の人生で心的外傷トラウマになるような大事故を起こした直後、ツクシの母親は死んだ。肺の癌だった。ツクシはできる限りの治療を医者に頼んだつもりであるが、あっという間に病気は進行して、ツクシの母親は苦しみながら死んだ。ツクシはその直後に刑事を辞めた。事故を起こした責任を取って刑事を辞めたわけではない。気持ちが冷めたから、ツクシは刑事の仕事を辞めたのである。

 まったく、どっちがヤクザなんだか――。

 内実は悪党どもとナアナアでやっている警察のお役所仕事(ツクシの暮らす街の中心にあった接待用の高級ナイトクラブが多く営業をしている繁華街の通りには、ツクシに見覚えがある警察関係者が使っている公用車と、ヤクザものが好む黒塗りや真っ白な高級車がズラリと並んで駐車してあった。毎晩、毎晩である――)を続ける理由が、母親が死んだ時点で、ツクシから消えた。堅気の立派な仕事をやってお袋を安心させてやりたい、俺ができるだけ金を家にいれて楽な生活をしてもらいたい、そんな考えで、TVドラマと違って、今ひとつやり甲斐の見出せない刑事の仕事を、ツクシはじっと我慢をして続けていたのだ。

 そのツクシは母親の死で我慢の言い訳を失った。

 ここまでの俺の人生は総括するとだな。

 女手ひとつで俺を育ててくれたお袋への言い訳みたいなものだった。

 俺自身は何の目的もない、からっぽの、つまらない男――。

 刑事を辞めたあと、ツクシはいよいよ自暴自棄になって酒量が増えた。

 それをいさめる家族もいなくなった。

 こんな負け犬の半生を他人が知ってもつまらんだろう。

 だが、ニーナだけには語っておくべきだった――。

 ツクシは後悔している。

 ニーナという女性は、もうツクシにとっては他人ではなくなって――。

 ツクシはニーナを見やった。とび色の長髪の、とび色の瞳の、切れ長の目の若い女だ。いつ見ても、背はスラリと高く、スタイル抜群で、挨拶をするのも気後れするような美人だった。それが惜しげもなく、ツクシをひと懐こい笑顔でまっすぐ見つめている。ツクシは気恥ずかしくなって目を逸らした。いつも、ツクシの反応はこうだった。

 ニーナから逃げたその視線は上へ向かう。

 ツクシの目に映った空は不思議なほどに青く高い。

 二人がいる場所は、とても静かで、穏やかな気配に満ちている。

「――ニーナ、俺の昔話なんて聞いてもつまらんぜ」

 しかし、結局、ツクシはそういった。

「そうなの?」

 ニーナが小首を傾げた。

「ああ、そうだ。昔話は陰気なだけだろ」

 良い昔話をすると、現状の辛さが浮かび上がって陰気になる。

 悪い昔話すると、そのまま陰気な話で終わるだけだ。

 やっぱり、思い出話なんてものは、大の男が語るようなものじゃあねェ――。

 空を見上げたツクシはそう考えていた。だが、肝心なとき言葉数がいつも足りないこの男は自分の考えを口に出さない。自分の過去を短い言葉で乱暴に切り上げただけだ。

 斬り捨てたといってもいい。

「じゃあ、もっと楽しいお喋りをしましょ。今日は休日だし――」

 微笑んだニーナが風に揺れる辺り一面の青草の向こうへ視線を送った。ひと影はひとつもない。黒い服を着たツクシと純白のドレスを着たニーナは青い丘の上に二人きりで座っている。

「楽しいお喋り、か――」

 ツクシが腕組みをしてうつむいた。

 考え込まないと楽しい話題が見つからないような常時不機嫌な男なのだ。

 しばらく経って、

「ああ、ニーナ。そういえば、あれは俺が悪かったな」

 ツクシが顔を上げた。

「――えぇえ!」

 ニーナが素っ頓狂な声を上げた。

「何だよ、ニーナ、急に大きな声を出して――」

 ツクシが怪訝な顔でニーナを見つめた。

「ツ、ツクシが突然、ひとに謝るなんて!」

 ニーナは驚愕の表情で叫んだ。

「――あのなあ、ニーナ。俺だって自分が悪いと思えば頭のひとつくらいは下げるぜ。他人へ頭を下げるのは死ぬほど嫌だがな。俺は結局、お前をお芝居につれて行けなかっただろ? ほら、夏の間に、お前が行きたがっていたお芝居だ。演目は、ええと、何だったか――」

 カクンとうなだれたツクシがぶつぶつといった。

 息を止めて一瞬沈黙したあと、

「――ツクシ、あれ、まだ気にしてたの?」

 ニーナがいった。

 ツクシを見つめるニーナの細い眉尻が下がっている。

「そりゃあ、まあ、一度約束したものを違えるのは男の沽券に関わる話だからな。だから、俺は今、お前に謝っているんだ」

 ツクシはうつむいて苦い顔だ。

「いいわよ、そんなことは、もう、ばかね」

 ニーナは弾けるように笑った。

「気にしてないか?」

 ツクシが顔を上げた。

「うん、全然、気にしてない」

 ニーナは顔を傾けて笑顔を見せる。

「そうか。それならいい」

 そういったが、ニーナが過去の小さな恨みを引きずるような湿っぽい性格ではないことを、ツクシも承知している。そこで会話が途切れた二人はお互いの視線を風景に送った。太陽が高くにある。やわらかい陽射しを浴びた二人の身体は浮遊感に包まれていた。ツクシとニーナは、春なのか、夏なのか、秋なのか、冬なのか、はっきりとわからない季節と場所にいる――。

「――ツクシ」

 ニーナが横で胡坐をかくツクシへ顔を向けた。

「――ん?」

 ツクシが横目でニーナへ視線を返した。

「私と結婚しましょ?」

 ニーナがその赤い唇に笑みを浮かせる。

「そうだな、そうするか――」

 ツクシは口角を歪めて応じた。

「――でなくてもいいわ。ツクシと私は――で――をするの」

 ニーナは笑いながら夢を見るような表情で語る。

 だが、その言葉は何故か聞き取り辛く、明確な意味がツクシに伝わらない。

「ああ、そうだな」

 それでもツクシは頷いた。

「――も――も、みんな呼んで――もちろん――のみんなも――なほうが絶対いいわ!」

 要所要所、途切れがちになったニーナの言葉が熱を帯びる。

「ああ、もちろん、そのほうがいい」

 その熱をツクシはすべて受け止めた。

「ツクシ、――っても、私たち、ずっと――ね。ずっと、ずっとよ?」

 ツクシはニーナのいうことに逐一頷きながら、この女はすべてが正しいと思った。そう確信した。だから、ツクシは顔を上げて、はっきりニーナを正面から見つめて、それを伝えようと決意した。

 次の瞬間。

 目を開けたツクシが見ていたのは貸し部屋の天井だった。

 しばらくの間、天井を見つめていたツクシはベッドの上で半身を起こした。窓を見ると今日の陽は西へ落ちかかっていて、貸し部屋は赤紫色に染まっている。小さな机の上にあるピッチャーに誰がやってくれたのか水が足されていた。ベッドから離れたツクシはピッチャーからコップへ水を注いだ。コップ一杯の水を飲み干して、大きな息を吐いたツクシは視線を床へ落とした。

 そして、ツクシは自分の想いを伝える機会が失われたことに気づいた。


 王都の陽が完全に落ちたあと、ツクシはゴルゴダ銭湯へ足を向けた。

「ツクシの旦那、本当に大丈夫でやんすか。今日は湯船に浸かるのは、よしといたほうが――」

 珍しく男湯のほうを覗いてラウは呆れ顔だったが、

「もう三日以上、まともに垢を流してないからなあぁあ――」

 そんなことを呻きながら、ツクシは痛み止めの薬が残った肉体を熱い湯船に浸していた。

 案の定、ふらふらになって風呂から上がってきたツクシはゴルゴダ酒場宿へ移動して、いつもの指定席に座った。ゴルゴダ酒場宿の席は例のごとく騒がしい酔客で埋まっている。そこでツクシは野菜のポタージュと白い丸パンの軽い夕食をとった。ツクシは酒場にきて夕飯だけを食って帰るような男ではないし、今日は酒を飲まずにいられないような気分でもある。

「ユキ、エールを一杯だけ頼む、な? な? 一杯だけでいいんだ」

 ツクシは忙しく給仕をしていたユキを捉まえて粘りに粘り拝み倒し、お望みのものを持ってこさせた。中年男のツクシが猫耳美幼女のユキにヘコヘコと媚びへつらって謝意を伝える。酒が絡むとこの男の矜持とやらは消えてなくなるのだ。次にツクシはミュカレを捉まえて同じ行動をした。ユキもミュカレもツクシに甘い。

 ツクシは二杯目のエールをカウンター席で飲んでいる。

 病み上がりは酒の回りが良くて助かるぜ。

 次はマコトを捉まえるか。

 だが、あいつはちょっと手強いかもな。

 上手くいったらまたユキだ――。

 そんなことを考えていたツクシの背に、

「ツクシよォ!」

「ツクシさん!」

 この声はゴロウとヤマダである。

「お、おう、ど、どうした、ゴロウ、ヤマさん――」

 ツクシはカウンター席から振り向いて顔を引きつらせた。

「ツクシ、あのなァ!」

「ツクシさん、あの!」

 ゴロウもヤマダも、笑っているような、泣いているような変な顔で、ツクシを凝視している。

「何だ、何なんだよ、お前ら――」

 ツクシは、一応、ゴロウから禁酒を命じられた手前もあるので気まずい。今ここで酒を飲んだくれているツクシは、今日の昼頃まで自力でベッドから起き上がることもできないほどの重傷だったのである。

「あのな、ツクシ、リカルドさんが死んだ」

「ツ、ツクシさん、し、死んじゃったんすよ、リカルドさん――」

 ゴロウとヤマダがいった。

「――それは、どういうことだ」

 ツクシがひどく上ずった声でいった。

 リカルド・フォン・アウフシュナイダーは死んだ。

「どうも自殺だったらしい――」

 ゴロウがツクシに告げた。らしいというのも、女衒街の安宿屋にある一室で縊死いししたリカルドを発見したのは、ゴロウではなかったからだ。

 本日、昼過ぎのこと。

 ニーナの死をどうやって聞きつけたのかはわからないが、リカルドが貴族だった頃からの友人――王都六番区の区役所長で元老院議員でもある大貴族、ヨセフ・フォン・ベルシュタイン侯爵が女衒街にあったリカルドとニーナの定宿を訪問した。そこで、旧友は旧友の変わり果てた姿を発見した。旧友を心配して急行したベルシュタイン侯爵がそこで見たのは最悪の結末だった。

「リカルドさんは発見されてすぐに、エリファウスの診療所へ運び込まれたみたいだけどよォ。俺が十三番区の診療所へ駆けつけたときにはもう――」

 ゴロウが力なく語った。


 §


 せめて、父と娘を一緒に葬ってやろうとの心遣いか。

 どうせだから一緒に埋めてしまえと効率を考えたのか。

 それはよくわからないが、ニーナの葬儀は二日日伸ばされて、リカルドの葬儀と一緒に行われた。

 葬儀の日は朝から雨だった。

 リカルドとニーナの亡骸が納められた二つの棺を囲む参列者の黒い雨傘を冷たい雨が叩いている。

 ベルシュタイン侯爵が喪主を勤めた、元辺境伯リカルド・フォン・アウフシュナイダーと、その令嬢ニーナ・フォン・アウフシュナイダーの葬儀は、ゴルゴダ墓場で盛大に執り行われた。参列者も多かった。葬儀に参列したのは、ほとんどがリカルドが貴族時代に付き合いのあったひとだ。黒一色だが豪華な服を着た富裕層、従者を伴って顎をしゃくった貴族、軍礼服の胸に勲章を並べたてた老軍人などなど――。

 ベルシュタイン侯爵はゴロウのことを見知っていたから、ツクシやゴロウやヤマダも、図らずして盛大になったリカルドとニーナの葬儀に参列することができた。裕福な生活の匂いを振り撒く参列者に囲まれたツクシは、自分の哀しみを横からさらわれたような気分になって終始不機嫌だった。リカルドとニーナの棺桶は投げ込まれた花で囲まれた。エリファウス聖教会から派遣された布教師の長い祈りが終わると二つの棺桶へ土が被さった。棺桶の上に設置された墓石の前にも、やはり大量の花束が手向けられた。

 ツクシがゴルゴダ墓場を出ると、表の大通りには豪勢なの馬車が何台も停まっていた。金持ちだの貴族だのが談笑しながら馬車に乗り込こんでゆく。

 それを後目に、ツクシとゴロウとヤマダの三人は、水煙で灰色にけぶるネスト管理省前大通りを黒い傘を手に歩いて帰った。

「――じ、自分の手が空いていたんだから――自分がリカルドさんについていれば、こ、こんなことに、くっ、ぐふぇっ!」

 ヤマダの涙腺がまたも決壊した。

「ヤマには何の落ち度もねえよ――」

 ゴロウは視線を落としたまま背を丸めて歩いている。

「うぐぇ! ゴロウさん、でも、でも――」

 ヤマダの涙が止まる気配はない。

「――いや、ヤマ、俺が悪いんだ。あの日の朝一番だった。リカルドさんの薬が手に入りそうだって、ジャダから連絡があってな。俺ァ、そのとき何も考えずに宿を飛びだした。あとになってから考えるとよォ、本当に俺は馬鹿だった。俺がリカルドさんの宿へちょっと寄って薬が手に入ることを伝えてやればなァ。ほんの五分、十分の話だぜ。そうすれば、リカルドさんは思い留まった筈だろ。そうだろォ?」

 ゴロウが顔が真っ赤になっている。

「――ゴロウ」

 ツクシがいった。

「あァ?」

 ゴロウが真っ赤な髭面を向けた。

「それはたぶん違うぜ」

 ツクシは雨に濡れた路面を視線で辿っている。

「――そうかもなァ」

 腑抜けた顔になったゴロウがまた視線を落とした。自責の念とやらで、ゴロウはやり場のない憤りを誤魔化していた。だが、それは事実を曖昧にしているだけだ。

 ゴロウにも、それはわかっている。

「――リカルドさんは、信じられなくなったんだ」

 ツクシがいった。

「ツクシよォ。おめェはそんなに信心深かったのか?」

「ぐふっ、ツクシさん、か、神様の話っすか?」

 ゴロウとヤマダがツクシの不機嫌な横顔を見つめた。

「神様のことじゃねェ。いつだったか――リカルドさんがチムールにいってただろ。お前ら覚えてないか?」

 ツクシは表情を変えずにいった。

「チムール? 何だったかなァ。ヤマは覚えているか?」

 ゴロウがヤマダに目を向けた。

「――ぐすん。何だったっすかね?」

 鼻をすすりながら、ヤマダがうつむいて考え込んだ。

「『希望は決して裏切らぬ人生の友だ』、だったか。俺がいうと、サマにならない台詞だよな」

 ツクシは呟くようにいった。

「――あれかァ」

「――リカルドさん、確かにそういってたっすね」

 ゴロウとヤマダが小さく頷いた。

「希望は決して裏切らぬ人生の友だ。もっとも、それを信じている限りだが」

 ゴロウもヤマダもリカルドの言葉をすべて思い出したが口には出さなかった。

 ゴロウとヤマダがリカルドの死をツクシに伝えた夜。

 ツクシはゴロウからリカルドの過去を聞いた。それを積極的に尋ねたわけではない。動揺したゴロウの問わず語りで知ったのだ。

 名君と謡われたリカルドの辺境伯時代。

 魔帝国の侵攻で死んだリカルドの息子。

 王都の政争で失われたリカルドの貴族身分と領地。

 栄華を失ったリカルドの手元に、唯一残っていたのは娘のニーナだった。すべてを失い、病にも犯されたリカルドがそれでもおもてを上げて、胸を張って生きてこれたのは、愛する娘のニーナが、いつもその傍にいたからだった――。

 会話が途切れた。

 そのまま三人は沈黙して歩いていった。

 王都へ降り続く冬の雨は止む気配がない。

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