十七節 さらば、貴族よ(壱)

 辛くも生き残っていたテトは、ニーナの亡骸と対面して顔色と言葉を失った。また気絶しそうになったテトをジョナタンが支える。ギルベルト隊の周辺はニーナの他にもひとの死体が多かった。兵士の死体は軍ができる限り回収するが、ネスト・ポーターの死体は相手をしない。身内か仲間が外へ運びださなければファングの餌になって死体は消える。悔し涙を流して別れを惜しんだり、何とか身内の亡骸を地上まで運ぼうと画策したり、諦めてうなだれたりと、運よくこの地獄を生き抜いたネスト・ポーターの行動は様々だった。その数は二百から五十名前後にまで減っている。

 導式通信機を操作するイシドロ伍長の横で、片膝をついていたギルベルト少尉の背へ、

「おい、ギルベルト、さっさと帰るぞ」

 ツクシが不機嫌な声をかけた。

「ツクシ、まだ移動するのは危険だ。連絡が終わるまで待機しろ」

 ギルベルト少尉はツクシへ視線を返さない。

「いや、ギルベルト隊長、我々にも――正確にはウルズ組へですね。地上へ帰還命令が出ていますよ――これは参ったな――」

 伝令書に目を通していたイシドロ伍長が顔をしかめた。

「地下七階層の安全がまだ確認できていないのにか? 管理省うえは何を考えている!」

 ギルベルト少尉が怒鳴りつけた。怒鳴られたイシドロ伍長は不満気な顔だ。あくまで上からきた命令を読み上げているだけの通信兵に何ら非はない。

「うん、それなら心配ないぞ、若者よ」

 フロゥラがギルベルト少尉の真横で腰を曲げて伝令書を覗き込んでいた。

「ど、どなたかは存じませんが――俺は、ギルベルト・フォン・シュトライプです。階級は少尉」

 この女、いつの間に。

 まったく気配を感じなかったが――。

 ギルベルト少尉の顔が完全に強張っている。

「うん、ギルベルトか。私はフロゥラだ」

 フロゥラが微笑んだ。ギルベルト少尉はフロゥラの妖しい美貌から急いで視線を外した。ギルベルト少尉は匂い立つような美貌の女性から必死で目を逸らしているが性癖はいたってノーマルであって女性が嫌いというわけではない。この女はどう見ても普通でないし、たいへんに危険だと戦士の本能が警告を発していた。実際、ギルベルト少佐はフロゥラが慣行した絨毯爆撃をその目で見てもいる。

 どう考えてもこれは危険な女だ。

「チュウ、ギルベルト少尉。我が軍と女王陛下の手勢が地下七階層全域を警戒チュウだ。この階層はそこまでの危険がないと思う。そうだ、よければ我ら生活圏防衛軍から貴様の隊へ護衛の兵を貸してもよいが、チュウ?」

 周辺で自軍に指示を飛ばしていたメルモがねずみの顔を向けた。

「――本当にいいのですか、メルモ大将」

 ギルベルト少尉がメルモのねずみの顔を見つめた。スパルタンを薙ぎ倒す新式銃を持ったワーラット兵が自分たちを警護してくれるとなれば、これほど心強いことはない。

「チュ、チュ、いいのだ、いいのだ。どちらにしろ、我ら生活圏防衛軍は地下七階層全域へ残党狩りの兵力を派遣するつもりだからな。そのついでだ、上がりエレベーター・キャンプまで、新式銃を持った中隊を貸してやる。感謝しろ、チュウ!」

 メルモは勲章のいっぱい並んだ胸を反らして偉そうに告げた。

「それでは、メルモ大将のお言葉に甘えます――ネスト・ポーターと兵士は集合しろ、準備ができ次第、地上へ向けて移動を開始する。喜べ、貴様らは生きて帰れるぞ!」

 ギルベルト少尉が大声で号令した。

「うん。怪我人のツクシは、あれに乗って帰ればよい」

 フロゥラが顎をしゃくって、ツクシを輪廻蛇環ウロボロス号へ促した。

 女王様のお誘いである。

「俺ひとりだけか? そういうわけにもいかんだろ。申し出はありがたいが、まあ、地上うえまで歩くさ」

 正直なところ、ツクシは立っているのもようやくといった感じだが、この弱った状態で冥界の機関車に乗車した場合、フロゥラの餌食になるのは目に見えている。ツクシは女王様の申し出をていねいに断った。

「うん。ひどい怪我をしているように見えるが。ツクシ、私の治療はいらんか? ふっふっふっ、そんな怪我、すぐに治してやる――」

 女王様が自分の唇を舐め舐めしつこい。フロゥラがいう治療とは吸血行為だ。吸血を受けて吸血鬼の下僕になると、ヒト族よりも強い肉体の回復能力を得る。だが、その代償として陽の下に出るとジュウジュウと焼けて死ぬ。はっきりいうと普通の生活をしているひとにとって、吸血鬼の下僕になるのはデメリットのほうが大きい。

「いや、女王様、大した怪我じゃないぜ、こんなもん――」

 ツクシが視線を落とすと、眩暈と一緒に意識がそのまま抜け落ちて、路面を転がっていきそうになった。

 痩せ我慢をしているがかなり重傷のようだ。

「ツクシ、本当に治療はいいのか?」

 ゴロウが訊いた。ゴロウの背にニーナの亡骸はない。ニーナの亡骸は壁際に寝かせてある。その近くでテトがめそめそ泣いている。そのテトの肩をうつむいたジョナタンが抱いていた。その横で両膝をついたヤマダが涙腺の堰を切って溜まった水をダバダバ放流している。

「ゴロウの治療は有料なんだろ?」

 ツクシはニーナの死を悼む三人を見やりながらいった。

「あァよ、ビタ一文負けねえぜ」

 ゴロウの即答だ。

「お断りだ、この銭ゲバ野郎」

 ツクシは顔を歪めた。

 喋るだけでも身体のそこかしこが痛む。

「戻る途中でおめェにぶっ倒れられると余計な手間になるからよォ――」

 ゴロウが太い眉尻を下げていったが、ツクシからの返答はなかった。

 歩いて帰る最中、ツクシたちは地上から派遣されたネスト制圧軍団の部隊と何度もすれ違った。中継地点のエレベーター・キャンプは下から上がってくる兵士の死体袋で埋まっていた。兵士の死体と一緒にツクシは地上へ向かう。途中、エレベーター・キャンプにあった二輪リヤカーを拝借してニーナの亡骸とニーナの遺品をそれに乗せた。誰も彼もが無言だった。生きて帰れる喜びもなくはない。だが、言葉にできないほどの疲労と目にしてきた惨状がその喜びを殺してしまう。全員、まだ生きている心地がしなかった。

 地下七階層から地上へ出るまで、半日近い時間が必要な道程である。ツクシたちが地上に帰還したときには深夜の零時を大幅に過ぎていた。消毒した頭の裂傷を手ぬぐいで縛って血を止めただけのツクシは、ヤマダの肩に体重を預けながら地上の空気を吸った。

 ツクシの顔色が悪い。

 今にも死にそうだ。

 それでも歯を食いしばって自分の足でここまで歩いてきた。痩せ我慢自慢もいいところだ。途中で体力を切らしたテトはジョナタンの背に乗っていた。ゴロウはニーナの亡骸を運びつつ黙って歩き切った。ヤマダもツクシに肩を貸しつつ黙って歩き切った。

 ネスト管理省敷地内は部外者で溢れていた。

 帰ってこないネスト・ポーターや、連絡のつかないネスト管理省の行政員や、戦死の可能性がある兵士の親類縁者が押し寄せている。どうやら、今回の「戦争」で犠牲になった兵士や行政員の家族へ連絡がいって、そこから、ネストで大事があったと噂が広まったらしい。もっともそれは噂でなく事実だった。ネストの出入口から姿を現したツクシたちやギルベルト隊を見て部外者が押し寄せてくる。もちろん、ネストから無事に生還した家族や友人、もしくは恋人に駆け寄って喜びを表すものもいる。だが、犠牲者のほうが遥かに多い。死体になって帰還したものはまだ良かった。身内を心配して駆けつけた親類縁者も亡骸を見れば納得をするし諦めもつく。だが、死んだものは死体でも帰れないものがほとんどだ。

 ネスト管理省へ詰めかけたひとびとが不満を爆発させた。帰らないものを呼ぶ声やら、泣き叫ぶ声やら、怒鳴り声やら、管理省の行政員に詰め寄ったものが起こした喧嘩騒ぎやらが発生して大騒ぎになる。

 その騒ぎのなかを、ツクシはヤマダの肩を借りて、ゴロウはニーナの亡骸を背負って歩いていった。テトを背負ったジョナタンも黙って三人のあとをついてくる。ネスト管理省の庁舎玄関口も部外者で埋まっていた。ツクシたちはこの人垣を押し退けて賃金を受け取る気力が残っていない。ニーナの亡骸と一緒にのろのろと歩く三人の足が大正門で止まった。

 帰りが遅いニーナを心配したらしいリカルドが大正門前まで迎えにきていた。

 その周辺は導式灯がいくつも連なる街路灯が四つも突っ立っていて昼のように明るい。

「リカルドさん」

「リカルドの親父さん」

「リカルドさん――」

 ツクシとゴロウとヤマダが同時に口を開いた。王都の冬の夜は氷点下まで気温が下がる。白い息が三つ並んだ。

「ニーナは――」

 リカルドはゴロウの背にある自分の娘の亡骸を見つめている。大正門からは兵士の死体が入った袋が荷馬車で続々と運び出されている。リカルドはネストで何らかの悪い出来事が発生しただろうていどの予想はしていた。予想はしていたのだが、やはり、リカルドの顔も声も凍えた。

「――すまん、リカルドさん」

「――すまねえ、リカルドさん」

「――申し訳ないっす、リカルドさん」

 ツクシ、ゴロウ、ヤマダが三者同様にうなだれた。

「――我輩の娘は戦って死んだか?」

 リカルドが声を絞り出した。

「――ああ」

 小さな声でツクシが応えた。

「我輩の娘は、ニーナはどのような死に様だった?」

 リカルドのカイゼル髭が震えている。訊くほうも訊かれるほうも辛い。だが、それをしないわけにもいかない。佇む四人の男と一個の亡骸の両脇を、兵員だとかネスト管理省を訪れたひとが表情を固めたまま通り抜けていった。

「ニ、ニーナさんはエイシェント・オークの群れに突撃して、それで――」

 ヤマダがずびずびと鼻水をすすりながら伝えた。ヤマダはリカルドの顔をまともに見れない。真下を向いている。ヤマダに支えられているツクシも真下を向いていた。

「――ウム、そうか」

 リカルドはずっとニーナの死に顔を見つめている。

「すまねェ、リカルドさん。俺たちだけおめおめと生きて帰って――」

 うなだれたまま、ツクシが唸るようにいった。

「――ツクシ、それをいうな。それはいっても詮の無い話よ」

 リカルドは息を呑んだあとにいった。

「――ニーナのお父さん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 テトが父親の背で泣いた。

「あんたがニーナさんの親父さんだべか?」

 ジョナタンがテトを背負ったままリカルドの前に立った。

「ウム、我輩はリカルド。リカルド・フォン・アウフシュナイダーだ」

 それでも、リカルドは顎をしゃくって名乗る。

「オラは、ジョナタン・メンドゥーサってもんだ。ニーナさんはオラたちの前に出て、オラたちを守るために――」

 うつむいたジョナタンの声はほとんど聞き取れないほどに小さかった。

「――盾となったか」

 リカルドが視線を落とした。

「――んだ。オラたちにはどうすることもできねがった」

 ジョナタンは路面を見つめていった。

「そうか、ニーナ、お前は力なきものの盾となったのか――」

 リカルドがニーナの顔へかかっていた髪を、「立派だったな、ニーナ」といいながら手で退けた。

 真下を向いたまま、ゴロウは微動だにしない。

「――テト、あなた!」

 女がひとり駆け寄ってきた。

 薄汚れた服を着て、茶色い頭巾をかぶった、褐色の肌の女性だ。

「かあちゃん!」

 ジョナタンの背からストンと降りてテトが走った。

「カ、カアちゃん!」

 ジョナタンも叫んで走りだした。

 駆け寄ってきた女性とジョナタンとテトは三人で抱き合った。

 その女はジョナタンの妻であり、テトにとっての母親のようだ。

「ウム、良かった良かった――」

 リカルドはお互いを抱いて泣くメンドゥーサ一家を見て真っ青な笑顔を作った。

 全然良くねェぜ、リカルドさんよ――。

 ツクシは奥歯を噛んで、その怒鳴り声を腹のなかへ落とした。実際、メンドゥーサ一家の喜びは長く続かなかったのだ。その近くには死んだペーターとラモンの家族――妻と子供もいた。すぐにテトとジョナタンは親友の家族に取り囲まれて身内の安否を問われた。メンドゥーサ一家の喜びの涙は、それを囲んだ哀しみと憤りの涙によって押し流された。

 深夜のネスト管理省敷地内はそんな光景で埋まっている。

 様々な涙を遠巻きに見つめていたリカルドが、

「ゴロウ」

「何だ、リカルドさん」

 ゴロウは視線を落としたまま、重いダミ声で応えた。

「我輩がニーナを背負う。面倒をかけたな――」

 リカルドが弱々しく微笑んだ。

「ああよォ――」

 ニーナの亡骸がゴロウの背からリカルドの背に移った。それを見てヤマダがまたグズグズと泣きだした。ツクシは泣くヤマダの肩を借りたまま、娘の亡骸を背負ったリカルドに同行した。ゴロウも沈黙したままついていった。四人の男とひとつの亡骸が向かった先は、ゴルゴダ墓場の死体安置所モルグだ。

 ツクシたちが死体安置所に入ったときには、屋内に入りきれないほど死体が運び込まれていて、結局、ニーナの亡骸は安置所の外の廊下に寝かされた。ツクシとゴロウとヤマダが悲嘆で込み合う受付で埋葬手続きをした。受付から戻ると、ニーナの亡骸の傍らでリカルドが喀血していた。外を出歩けるような健康状態ではなかったのだ。リカルドはニーナの亡骸から離れたがらなかったが、体調を心配したツクシたちは何とか説得して帰路についた。

 夜半を大幅に過ぎた時間帯だ。

 ゴルゴダ酒場宿に辿りつくと、ツクシを心配して起きていたエイダだとか、ミュカレだとか、ユキだとかが出迎えてくれた。ボロボロになって帰還したツクシに、ユキは泣きながら飛びついてきた。これはタックルである。

 ツクシはユキの一撃を食らって、とうとう悲鳴を上げた。


 §


「――治療はそれで終わりか。まだひどく痛ェぞ、このヤブ髭め」

 ゴロウの治療を受けたツクシは、ベッドの上で不機嫌に唸った。深夜、貸し部屋のベッドへ倒れ込んだツクシは夜が明けても、「うー、うー」と屍鬼のように呻いていた。ツクシは呼吸をするたびに全身を走る激痛で一睡もできなかったのだ。

 結局、ゴルゴダ酒場宿に呼ばれたゴロウがツクシを治療した。

 現在の時刻はお昼時である。

 小さな椅子に座ったゴロウが歯を剥いて、

「このゴボウ野郎、ちったあ、俺に感謝しろ」

 ゴロウの額に汗の玉が浮いている。高い集中力を必要とする導式を使った治療は治療者本人の体力も相当に消耗する。

「ツクシ、だいじょうぶ?」

 心配そうに訊いたのは、ベッドの傍らにいるユキである。

「ああ、元より大したことねェからな。ユキは騒ぎすぎだぜ」

 ツクシはベッドの上に寝転んだまま強がって口角を歪めた。しかし、痛みで一睡もできなかったし、先日の疲労は残っているし、発熱はしているしで、ツクシの顔色は悪い。その顔も裸になった上半身も傷と青アザだらけだった。

「ツクシよォ。助骨やら鎖骨やら腓骨やらが何本も折れてたぜ。これでよく動けたもんだ。内臓がやられてなかったから生き延びただけでな。悪運の強い野郎だぜ、まったくよォ――」

 髭面を曲げたゴロウが施術用の道具を往診鞄のなかへ仕舞った。そのなかには聴診器だの血圧計だの体温計だのと、ツクシが見知った医者の使う道具も交じっていた。

「ああ、へえ、そうかよ――」

 ツクシは横を向いた。

「頓服(※痛み止めの薬)を出しておくぜ。導式を使った治療は患者の肉体にかかる負荷が大きいからな。二、三日は絶対安静にしてろ。まァ、しばらく酒は厳禁だ」

 酒は厳禁だ、といったゴロウがそのときだけ白い歯を見せて笑った。

 どうもこれは嘘臭い。

「葬式には出るぜ」

 ツクシが不機嫌にいった。ニーナの葬儀は明後日だ。死体を埋めるのに日が悪いだとか日が良いだとか、そういった迷信はタラリオン王国にない。単純に先日ゴルゴダ墓場に運びこまれた死体の数が多すぎて葬儀の日程は先になった。人手も墓石も棺桶も足りないそうだ。

「――それは止めねえよ。おい、ユキ、ちょっと頼めるか?」

 ゴロウはユキへ髭面を向けた。

「ん?」

 ツクシを心配そうに見やっていたユキが返事をした。

「ツクシの熱がひどくなったら、また俺を呼んでくれ。怪我は綺麗に治っている筈だが、念のためだ」

 ツクシはへそ曲がりなので信用ならないとゴロウは見た。ツクシの病状が悪化したら、ユキが自分へ報告するようにと頼む。

「――うん、わかった、ゴロウ」

 頷いたユキが表情を引き締めた。

「ユキがゴロウをここへつれてきたのか?」

 ツクシがベッドに腰かけて訊いた。腕一本を動かすのも難しかったツクシがゴロウの導式を受けて動けるようになっている。だがまだ、ツクシの身体の方々にひどい痛みを抱えていた。高熱の所為で目も霞む。

「ゴロウ、朝はどこへ行ってたの? 『やどりぎ亭』にいなかったから、みんなで探したんだけど!」

 ユキはツクシの質問には応えずにゴロウへ吠えかかった。どうも、ゴルゴダ・ギャングスタの子供たちが、ツクシのためにゴロウを探して走り回ったらしい。カントレイア世界に携帯電話はないので他人に用がある場合は尋ね歩くしかない。

「あのなァ、ユキ、俺だって色々と忙しいんだよォ。午前中は薬の調達に出かけていてなァ――あァ、ツクシ。とうとう手に入ったぜ」

 髭面を曲げたゴロウが往診鞄のなかから茶色い小瓶を取り出した。

 薬品の液が入った小瓶である。

「あ?」

 すごく不機嫌にツクシが唸った。ツクシは痛みで昨晩から一睡もできなかったし高熱もある。ゴロウが取り出して枕元に置いた油紙の袋――頓服の粉薬を呑んでツクシはすぐ眠りたい。だが、ゴロウから出された薬を急いで呑むと、ツクシは負けたような気分になる。急いで薬を呑むツクシを見たら、必ずゴロウは歯を見せてニヤニヤ笑うだろう。それが断じて我慢ならないツクシは頓服の薬を睨んで歯を食いしばっている。

 どうしようもない男である。

「これはリカルドさんの薬だ。3型肺腐熱菌の活動抑制剤」

 ゴロウは手に持った茶色い小瓶を見つめていた。

「――それで治るんだな、リカルドさんの病気」

 目を見開いたツクシは身体の痛みと疲労を一瞬忘れた。

「まァ、一時的にはな――ツクシ、俺ァ、リカルドさんの病状が落ち着いたら診療所への入所を勧めるつもりだ。いや、今回ばかりはもう叩き込んでやる」

 ゴロウは往診鞄へ薬の小瓶を戻した。

「診療所?」

 ツクシが訊いた。

「ツクシ、エリファウス聖教会のしんりょうじょだよ。お金いっぱい取って病気をなおすの」

 ツクシの横にちょこんと腰かけてユキが教えた。

「――へえ、お金をいっぱいか」

 ツクシが視線を落として唸った。

「まァ、庶民はエリファウスの診療所へとても入れねえ」

 ゴロウが不満そうに鼻を鳴らした。

「入所費用が高額なんだな。リカルドさん、そんな大金を払えるのか?」

 ツクシが眉根を寄せた。過去はともかくとしてである。現在のリカルドは、庶民的な慎ましい暮らしをしている。

「ツクシ、リカルドさん親子はな。貴族をやっている時分に付き合いのあった金持ち連中の支援を断って地味に生活してたんだよ」

 ゴロウが頬髯をいじりながらいった。

「ああ――」

 ツクシが頷いた。

「リカルドの親父さんは元々方々にコネがある。それをこれまで使わなかっただけの話だ。まァ、そういう性格だろォ、あの親父さんは――」

 そういって、ゴロウが頬髯をいじる手を止めた。どうやってリカルドさんを説得したものかなと、うつむいたゴロウは気に病んでいる様子だ。

「そうだな。おい、ユキ」

 ツクシが呼びかけた。

 ユキも表情を暗くしていた。

 正確に伝えたわけではないが、ユキはニーナの死をもう察しているようだった。

「んっ?」

 ユキが猫耳と顔を上げた。

「すまんが、水をとってくれるか?」

 額に脂汗を浮かせたツクシが視線を送っているのは、机の上に置かれたピッチャーとコップだ。ツクシは手に頓服の粉薬が入った紙袋を持っている。薬を持つ手が小刻みに震えていた。痩せ我慢の限界である。

「うん!」

 ユキがピッチャーからコップへ水を注いでツクシに手渡した。ツクシはやたら苦い粉薬を水で飲み下した。不機嫌な顔を苦味で歪めるツクシを見上げて、その横に座ったユキも顔をしかめていると、「入るわよ」と貸し部屋の外から声がかかった。

 扉の間からミュカレが顔を覗かせている。

「ツクシ、怪我は大丈夫?」

 ミュカレが眉を寄せて訊いた。

「ああ、元より大したことがないからな」

 ツクシは無理に口角を歪めて見せる。

「――嘘ね。ツクシ、ひどい顔よ? あっ、ユキ、お昼休みは終わり!」

 減らず口を聞いてミュカレが笑った。

「――うん。ツクシ、何かあったらわたしをすぐに呼んでね?」

 ユキがベッドから渋々の態度で立ち上がった。

「私がツクシの面倒を見るから、ユキは心配しないで」

 そういったミュカレのブラウスの裾を、

「ミュカレはツクシの面倒を見なくていいから」

 ユキが引っ張った。

「何よお、ユキ、ツクシを独り占めにするつもりなの?」

 引きずられるように歩くミュカレがぷうとムクれた。

「うん」

 無表情でそのミュカレを見上げたユキの返事だ。

「へえ、否定しないんだ。ゴロウ、あとはよろしくね」

 呆れ顔になったミュカレがゴロウに声をかけた。

「治療はもう終わったぜ。あとにやることは安静にしているだけだ。ミュカレもツクシが無茶しねえように監視してくれ。特に酒は厳禁だ厳禁」

 ゴロウが歯を見せて笑った。

 ツクシは訝し気な顔でゴロウを見つめている。

「ん、了解。ツクシ、何か用があったら私にいって――」

 艶かしい視線をツクシへ流したミュカレが、

「――ちょっと、服を引っ張らないでよ、ユキ!」

 ユキがまたぐいぐい引っ張っている。

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