十九節 さらば、貴族よ(参)

 場所はネスト管理省庁舎の最上階にあるネスト管理省長官執務室である。

 陽光の代わりに冷たい水滴が、よく磨かれた窓ガラスをぽつぽつ叩いていた。明け方の王都はまだ暗い雨天のなかにある。ネスト管理省長官、ヴェンデリン・フォン・ハルトマン大佐の執務机の上に書類が山と積まれていた。その書類に埋もれるような形で、ハルトマン大佐の憔悴した表情がある。ハルトマン大佐の肝いりで進めたネスト地下八階層の完全制圧作戦――壊れた宮殿ブロークン・パレスを決行したネスト制圧軍団は、先日、古代種・オーク族の軍勢の猛反撃にあった。

 以下の師団はネスト制圧軍団系列。

 地下八階層のエレベーター・キャンプ建設予定地を防衛していた第三師団は壊滅的で、この師団から出た死者と負傷者は合わせて九千名を超えた。地下八階層の本営にいた第二師団も機能不全に陥るほどの損害を受け確認できるだけで兵員の死者が二千名を超えている。地下七階層の大階段基地前に待機させてあった第四師団の半数にも死傷者が出た。総じて二万人近い死傷者が発生している。これはネスト管理省創設以来、最大の損害だ。さらに悪いことが重なった。三ツ首鷲の騎士団の度重なる干渉で不承不承ながら共闘体制をとっていたラット・ヒューマナ王国の生活圏防衛軍が古代種・オーク軍を相手に大戦果を上げた。ネスト管理省は地上に待機させていた虎の子の第一師団を、地下七階層へ緊急派遣したが、これらは活躍する間もなく、おおむねは戦死者の回収に終始した。

 どこを見ても作戦立案者の失策が目につく。

 配下の反対を押し切ってこの作戦を押し進めたのはハルトマン大佐である――。

「――失態ですね」

 狐目の女がいった。

「レベッカ、元老院議長は――ギヨーム侯爵は何といっていた?」

 ハルトマン大佐が執務室の出入口に佇む狐目の女――レベッカを睨んだ。このレベッカは詰襟の服にパンツ・ルックの女性だ。肩口まである金髪は毛先にシャギーを入れて軽く見せている。その細い眉や金髪の根元は黒い。染色しているようだ。レベッカの年齢は三十歳前後に見える。

「今後、元老院の意見を統制するのは不可能になるだろう、とだけです」

 レベッカが応えた。

「――それだけか?」

 ハルトマン大佐が目つきを鋭くした。その声は若く張りがあり、詰問するような調子だった。この初老の軍人は威圧感の塊だ。

「ええ」

 レベッカは見知らぬひとから道を尋ねられたような態度で応じた。

「ふん、『高貴な血ノーブル・ブラッド』は、私を見限るつもりなのか?」

 ハルトマン大佐の鋭い目が血走っている。高貴な血とはタラリオン王国で近年発言力を増している資産階級市民を警戒して貴族が行った勉強会的な集まりが発端になって結成された秘密結社である。その政治思想は構成員が示す通り超保守派だ。名門貴族の出身で、自身は侯爵の爵位を持つ(※カントレイア世界において、侯爵は最高位の貴族階級である。公爵の爵位を持つ者は、一国家の盟主であることが多い)ハルトマン大佐は高貴な血の設立メンバーの一人だった。

「さあ? 私はただの連絡役ですから」

 レベッカは顔を少し傾けた。

「あの古狸に、これまで通り議会の『市民派』を抑えておけと伝えろ」

 ハルトマン大佐は机にあった黒い革のシガレット・ケースを開けて紙巻タバコを手にとった。

「時間の無駄だと思いますが」

 レベッカはマッチの炎で光が当たったハルトマン大佐の険しい顔を見つめた。

 タバコの煙を大きく吐いたあと、

「――私の目が節穴だと思っているのか、魔帝国の雌狐めぎつね

 ハルトマン大佐が唸った。

 そのままレベッカの喉笛に食らいつきそうな形相だ。

「あら、大佐、ご存知でしたか」

 レベッカの細い目が益々細くなった。

 魔帝国の工作員は微笑んでいる。

 ハルトマン大佐がタバコの先で灰皿の縁で叩きながら唸った。

「何が幻想結社ファントムの構成員だ。そんな子供だましが私に通じると思っていたのか。貴様の素性はもう知っているぞ、この売国奴め。私も貴様もギヨームも手を引けば立場を失う。あの目障りな下賎――三ツ首鷲の騎士がネスト管理省に干渉を続けている。三ツ首鷲どもはネストの真価に気づいたのだ。そのうち、三ツ首鷲はネスト管理省を解体しようとするだろうな。軍に手勢がある私は逃げようもある。だが、魔帝国の間諜である貴様や、荒仕事の手段がないギヨームは厄病神カラミティの手で消されるだけだ。ギヨーム侯爵にそう伝えろ」

 ネスト管理省が設立される少し以前の話だ。

「エンネアデス魔帝国は北ネストから、太古の人形兵器――異形種機関兵ヴァリアント・モーターを発掘した」

 幻想結社――伝説的な秘密結社の構成員を名乗って高貴な血に近づいたレベッカは、この情報を金と交換する形でハルトマン大佐へ伝えた。魔帝軍が北部戦線で運用している謎の人形兵器――それ一体で一個師団相当の戦力を保持する異形種機関兵を知るのは軍の上層部と一部の政府関係者のみだった。レベッカが持ってきた情報は信憑性が高いと考えたハルトマン大佐と高貴な血に所属する貴族たちは、元老院議会に手を回してネスト管理省を急遽設立した。王国軍司令部――三ツ首鷲の騎士団から、ネストに存在するかも知れない兵器を遠ざけておくべきだ。ハルトマン大佐はそう判断したのである。高貴な血もハルトマン大佐と同じ考えだった。近年、貴族階級以外にも門戸を開きだした三ツ首鷲の騎士団は現体制への反逆を考える集団――階級制度撤廃派、いわゆる市民派の急先鋒として、一部の貴族や貴族軍人から危険視されていた。これ以上の戦力を譲渡するわけにはいかない。

 我ら伝統ある貴族の手で、ネストにある戦力を発掘し、それをもってして魔帝軍に反抗を開始。

 戦果を上げるついでに、三ツ首鷲の騎士団の発言力を弱め、市民派を元老院議会と王国軍から排除をする。

 すべては我ら高貴な血である貴族のために――。

 これがハルトマン大佐の計画だった。

「――それは困りましたね。私はまだ死ぬわけにはいかないので」

 薄笑いを浮かべたレベッカは困っている様子でもない。

「レベッカ、さっさとギヨームの屋敷に戻って元老院議会への根回しを再開しろ。私の目の黒いうちは、ネスト管理省を潰させん――!」

 ハルトマン大佐が灰皿の底へタバコの吸殻を押しつけると、執務室の扉をノックする音がした。

「失礼します、長官」

 執務室の外から女性の声だ。

「こちらから呼ぶまで、執務室には近づくなと指示しただろう!」

 ハルトマン大佐は早出を命じておいた秘書が来たと考えている。

「いえ、失礼します」

 長官執務室の重厚な扉が開いた。

 入室してきたのは緋色の王国陸軍外套を羽織った女だった。

 緋色である。

 この色の兵装を着るのは、タラリオン王国軍司令部に所属するもののみだ。

「――オリガ大尉だな。その格好は何のつもりだ。気が狂ったのか?」

 ハルトマン大佐が緋色の女を睨んだ。

 明け方のネスト管理省長官執務室に乱入してきたのは、オリガ・デ・ダークブルームである。

「大佐、これが私の正装だ」

 オリガが胸を反らした。オリガは緋色の王国陸軍外套の下に要所要所が赤い秘石で飾られた豪華な革の鎧を着用していた。その足元は拍車のついた乗馬靴。これには押し型加工で炎の文様が施されている。剣帯から吊るのは鍔に翼の装飾がついた導式サーベルだ。剣帯についた金色のバックルに、三つの首を持つ鷲の紋章がある。例の赤い鍔広帽子はかぶっていない。その代わりに、逆立った赤い短髪が頭部を燃やしていた。ネストでも愛用していた導式ゴーグルは額に上げてある。オリガの瞳は灰色に近い水色だ。

 オリガはその瞳にハルトマン大佐の凶相を映して真っ赤な唇の両端を反らして見せた。

「――なるほど、貴様は三ツ首鷲の『追放者アウト・キャスト』だったか」

 ハルトマン大佐が唸った。追放者アウト・キャスト――これは表沙汰にできない非合法活動をするため、三ツ首鷲の騎士団から一時的に籍を除外されている騎士を表す隠語である。

「上官に向かって貴様か? いいね、その好戦的な態度は合格だ――」

 オリガは唇の端を益々反らせた。

「レベッカ、これは、どういうことだ?」

 ハルトマン大佐がオリガの横に立つレベッカへ険しい視線を送った。

「今後、我々は三ツ首鷲の騎士団と組むことにしました」

 他人事のように頷いて見せたレベッカが、

「騎士オリガ。タラリオンの貴族連中は本当に使えない。組む相手を間違えましたよ。ネスト発現から一年以上経ちましたが、この通り、ネスト管理省の貴族連中はまだ何も手にしていない――」

「ハハッ! 最初から我々を頼るべきだったな」

 胸を反らしたオリガは得意気である。

「そいつは――レベッカはエンネアデス魔帝国の間諜だぞ。レベッカの目的は詰まるところタラリオン王国軍の撹乱かくらんだ。それが王国軍司令部と組むだと――馬鹿なことを。話にならんな」

 ハルトマン大佐がシガレット・ケースからタバコを取り出した。

「ほう、大佐。すると貴様は魔帝国の工作員に使われていたという話になるのか?」

 オリガが薄暗い執務室に点ったマッチの火へ訊いた。

「――使われていた? 私はそこの雌狐を利用していたに過ぎん。あくまで我々――高貴な血はタラリオン王国を憂いて行動している。だが、三ツ首鷲、貴様らはどうなんだ?」

 紫煙を吐き出しながら喋るハルトマン大佐の態度は、机の向こうに立つオリガへの侮蔑に満ちていた。ハルトマン大佐は――何代も続く王都の名門貴族、それも主家に生まれたヴェンデリン・フォン・ハルトマン侯爵は由緒正しき血統を持った支配者が座るべき権力の座を狙う富裕層の平民や小賢しい末端貴族を心の底から軽んじている。オリガ・デ・ダークブルームは一応貴族だが爵位はないし、その家柄も(ハルトマンから見ると)卑しいものだ。

 ハルトマン大佐は下賎を認めない。

「戦時中だからな。何でもありさ。そうだろう、レベッカ?」

 オリガがレベッカへ視線を送った。

「ええ、そうですね」

 頷いたレベッカが口元だけで笑みを作った。

「本気で三ツ首鷲はタラリオン王国をエンネアデスへ売るつもりか。そうだろうな、下賎どもが――」

 ハルトマン大佐がオリガを見やった。

 やはり、その目は相手を侮辱している。

「まだ貴様は勘違いをしているな――レベッカ、そろそろ大佐にお前の本当の立場を教えてやったらどうだ」

 呆れ顔のオリガが促すとレベッカの狐目が開いた。

 その瞳の色はヒト族にはほとんど見られないものだ。

 藤色である。

 レベッカの瞳はダーク・ハーフの色だった。

 レベッカは肉体に半分流れる魔人の血を沸かせ、

「愚かな老人。私は確かに破壊工作員スパイだが、エンネアデス魔帝国の所属ではない。私がこの血と魂を捧げるのはローランド正統魔帝軍だ。『異形の魂』を持つエンネアデスなどではなく、ローランド様こそが正統な魔賢帝の後継者、我々の希望――!」

 この狐目の女レベッカ――レベッカ・ニカンドロヴァは、かつて、魔人の貴族フェオドル・イド・サンタバレウス伯爵の屋敷で働いていた家政婦――を装ったお庭番衆のひとりである。今から十年前、粛清の嵐が吹き荒れた魔帝国から魔賢帝の第八子ローランド・ヨイッチ=ウィン(※黒い丸眼鏡のロランド)と双子の黒不死鳥――フェデルマ・フレイア姉妹が脱出した。これを手引きしたのはフェオドル侯爵の指示を受けたレベッカと他数名の同志だ。国外脱出成功後、レベッカとその同志は、エンネアデス魔帝国への破壊工作とローランドの身辺警護を続けている。

 レベッカはローランド正統魔帝軍を名乗っているが、まだその組織は脆弱なものであり、これといった権力を持っているわけではない。だが、それでもレベッカは魔帝国とタラリオン王国との間を行き来して、工作活動を執念深く続けていた。年月にして十年間以上だ。レベッカにはこの仕事に生涯を捧げる理由がある。

 魔帝エンネアデスに反目していたフェオドル伯爵は、タラリオン王国とエンネアデス魔帝国の開戦後、魔帝エンネアデスの指示で北部戦線の死地を転戦させられて戦死した。魔帝エンネアデスはフェオドル伯爵を意図的に殺したのだ。開戦前に妻子を人質に取られたフェオドル伯爵は、魔帝エンネアデスのどんな無理な命令も拒否できなかった。

「どんな屈辱を呑んでも、エンネアデスを亡き者にするまで俺は必ず生きるぞ」

 常々レベッカへ語っていたフェオドル伯爵は呆気なく死んだ。

 その死をレベッカはタラリオンの王都で知った。

 フェオドル伯爵には妻子があって家庭は円満だった。だが、フェオドル伯爵は多分に浮気性の男でもあった。レベッカはフェオドル伯爵の浮気相手の一人だ。フェオドル伯爵の本意は今となってはわからない。だが、レベッカはフェオドル侯爵を愛していた。一緒にいられるだけでいい、妻の立場などいらないと、本人が割り切ってしまうほどまでに――。

 レベッカは自分が愛した男を抹殺した魔帝エンネアデスへ復讐を誓っている。

 それが果たせるのなら、どんな手段でも使う。

 非道な裏切りも躊躇をしない。

「――これでわかったか。レベッカは祖国を切り売りしていたわけではない。最初からタラリオン王国とレベッカの利害関係は一致しているのだ。共通して打倒エンネアデス・ヨイッチ=ハガルという目的がある」

 笑顔のオリガ大尉が話をまとめた。

「そういうことです」

 レベッカが頷いた。

「レベッカ、貴様は私を、『高貴な血』を、たぶらかしたな!」

 ハルトマン大佐が怒鳴ると、老いた指先が震えて、先にあったタバコの灰が床へ落ちた。

 頭を振ったレベッカが、

「いえ、私は大佐を騙してなどいませんよ。これまでの我々が、タラリオン王国軍の有能な上層部――三ツ首鷲の騎士団と『異形の戦力』を持つネストを切り離しておきたいと考えていたのは事実です。タラリオン王国がネストの戦力を使って魔帝国を滅ぼしてしまうと本末転倒ですからね。我々としてはタラリオン王国軍の内部対立を煽って、過剰な戦力が行き渡らないようにバランスを取っておく必要があった。しかし、ここにきて、もう悠長なことをいっていられない状況になりました。では、私はここで失礼します。騎士オリガ、そのほうがよいでしょう?」

 レベッカはハルトマン大佐に背を向けた。

 ハルトマン大佐は悪鬼のような顔でレベッカの背を睨んでいる。

「ああ、レベッカ、後始末は私たちに任せろ――ところで、そのレベッカという名はお前の本名なのか?」

 オリガがレベッカの背に訊いた。

「ええ、レベッカはいくつか使う名前のひとつです。それでは、また後日――」

 曖昧に応えながら、レベッカは執務室から出ていった。

 手に持ったタバコが燃え尽きているのに気づいたハルトマン大佐は、それを灰皿の底へ押しつけながら、

「それで、騎士オリガ。私をこれからどうするつもりだ?」

「貴様は本当に勘の鈍い愚図だ。愚図の兵士は我が軍の恥だ――」

 三ツ首鷲の騎士オリガ・デ・ダークブルームの眉間が冷えた。

 オリガの右手が導式サーベルの柄へかかっている。

「まったく馬鹿な女だな。下賎の出が侯爵の私を害して無事で済むと――」

 ハルトマン大佐は嘲るようにいった。しかし、その侮辱は途中で終わった。オリガは腰のサーベルを引き抜いて横一閃に薙ぎ払った。赤い導式光が執務室の宙に残って積まれていた書類が舞い散る。

 首を失ったハルトマン大佐が執務室の椅子に座っていた。

 嘲り笑いを浮かべたままのなま首が床に落ちている。

 噴き出した血がガラス窓を内側から濡らした。

 オリガは導式サーベルを二度三度ぶんぶん振って血が落ちたのを確認したあと、腰の鞘にそれを納めながら、

「終わったぞ」

 王国陸軍服を着た男が二人、執務室へ入室してきて、

「ああ、オリガ班長、これは――」

「また派手にやってくれましたね――」

 二人揃ってすごく嫌そうな顔だ。

「ネスト管理省長官、ヴェンデリン・フォン・ハルトマン王国陸軍大佐は今回の作戦失敗の責任をとって自害した。では、諸君、いい仕事を期待しているぞ」

 唇の端を反らしたオリガが執務室から出ていった。首と胴体が離れたハルトマン大佐の死体を、「自殺に見せかけろ」と、上司から笑顔で命じられた二人の厄病神はうつむいている。

 この三ツ首鷲の騎士オリガ・デ・ダークブルームは、タラリオン王国軍の幕僚運用支援班――通称で厄病神カラミティおさである。

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