七章 人喰い鬼の王座

一節 邪神はスイーツがお好き

 新年まであと二ヶ月という時期だ。

 季節は冬に入り、朝晩は吐く息が白く見えるといっても、まだ日中は暖房の必要性を感じるほどの寒さではないのだが、ゴルゴダ酒場宿のホール中央に置かれた大きな薪ストーブへは早くも火が入っている。

「女将さん、暖房はまだ早いんじゃないか?」

 いつものカウンター席に座ったツクシがエイダにいった。

 エイダは苦笑いで、

「わたしゃ、寒いのだけは苦手でね」

 ドラゴニア大陸のウビ・チテム大森林――亜熱帯地方出身のエイダは寒さが苦手らしい。猫耳をぴこぴこさせるメイド服姿のユキと徹底的に無表情なギャルソン姿のマコトを相手に、今日の団体予約客へ出すコース料理の説明するエイダを眺めながら、ツクシは紅茶のカップを片手にぼんやりしていた。

「ツクシさん」

 声をかけたのは、ツクシと一つ席を飛ばしてカウンター席に座った悠里である。

「――あ?」

 ツクシが不機嫌な返事をした。

「だめですよ」

 悠里は珍しく笑顔を返さない。

「何がだ、悠里」

 ツクシが視線を落とした。

 陶器製の小皿にレアチーズケーキが二切れ乗っている。

「ツクシさん、アヤカを甘やかさないでください」

 悠里の視線はツクシの手前で落ちていた。

「甘やかしているわけじゃねェぜ。この前、俺はアヤカ嬢ちゃんからレィディを借りたからな。このケーキはその礼だ」

 ツクシは左隣でレアチーズケーキを黙々と食べるアヤカを見やった。アヤカは藤色のネグリジェの上に、ベージュ色のカーディガンを羽織っている。この格好を見ると、アヤカは今まで寝ていたようだ。現在の時刻は夕方で今日の陽は西へ落ちかかっている。レアチーズケーキをせっせと口へ運ぶアヤカを見ると風邪を引いているだとか病弱であるだとか、そういうこともなさそうだ。

「今日だってレィディを貸してあげたわ。ツクシ、それいらない?」

 アヤカが険のある眼差しをツクシの手元にあるレアチーズケーキへ突き刺した。

「まだいるか?」

 ツクシが訊いた。

 無言で、アヤカは手を伸ばして、ツクシの前にあったレアチーズケーキを手にとった。

 無言で、アヤカはレアチーズケーキにフォークを突き刺した。

 無言で、アヤカはそれを口のなかへ入れた。

 ツクシが王都二番区ヨハネ、その並木道通りにあるヘルモンド高級菓子店で購入してきたその高級スイーツ――レモン風味のレアチーズケーキは、どうやらアヤカのなかへすべて消えることになりそうだ。丸型のそれは直径二十センチ以上の大きさだったから、量としては相当なものになる。ツクシは自分で買ってきた高級レアチーズケーキの味を見ていないが惜しいと思っていない。酒のつまみにならない食い物にこの男は興味を示さないのだ。

「――アヤカ、黙って取って黙って食うなよ。ツクシさんは、お前にくれるとは一言もいっていないだろ?」

 悠里がアヤカを睨んだ。

「悠里」

 アヤカが紅茶のカップを手にとった。

「何だよ?」

 悠里はアヤカを睨み続けた。

 紅茶をひと口飲んだアヤカが、

「――うるさい」

「はぁ――」

 悠里が視線を外して肩を落とした。

「なあ、嬢ちゃんの食ったものはどこへ消えてるんだ?」

 ツクシがあまりおいしくもなさそうに、レアチーズケーキを食い漁っているアヤカの横顔をじっと見つめている。

 人形のような少女の横顔だ。

「それ僕も気になってた。アヤカ、お前が食べたものはどこへ消えているんだ。本来、食べ物はいらないんだろ、お前、邪神だし」

 悠里もアヤカの横顔を見つめた。

「知らない。それに、私は邪神じゃない。神様だから」

 このアヤカは自分のことをありがたい神様だといい張っている冥界から来た邪神である。

「悠里、嬢ちゃんのガワは人形なんだよな。ああ、よく見ると、耳の後ろの辺りに、うっすら継ぎ目があるのか――」

 ツクシが眉根を寄せた。亜空間から出現した『星幽的存在アストラル・イオン』であるアヤカは、少女型の人形を憑代する方法で、この世界での存在を確立している。「アヤカの出現は、僕が『死んでる間』に起こったことなんです。だから、それ以上のことは、僕にもわからないんですよ」と、以前に悠里はツクシへ教えた。日本で勤めていた家庭用ウォーターサーバー販売営業所の出入口を通って、カントレイア世界にある漆黒のジグラッドへ迷い込んだ際、あっけなく誰かの手で殺されてしまった悠里は、同時期同軸に出現したこのアヤカに再生されて不死者ノスフェラトゥとなった。

 アヤカは太古に失われた冥の英知――死霊術ネクロマンシーの担い手なのだ。

「――ええ、ツクシさん、前にもいった通り、このアヤカを覆っている外見は人形です。最初は表情もありませんでした。段々と『中身』と『外側』が馴染んでるんですよ。僕もずっと気になってたけれど、それ、どうやってるんだ、アヤカ?」

 悠里も眉を寄せた。

「知らない。うるさい」

 眉間に険を発生させたアヤカの刺々とした返答である。亜空間に長いこと封じられていたアヤカは記憶が曖昧で、彼女が持つ凶悪な能力を制御しきることは難しいらしい。実際、忘れてしまったことも多いそうだ。この邪神はカントレイア世界に出現した当初、自分の名前すら思い出せなかった。名前がないのは不便なので悠里が日本にいた頃につき合っていた元彼女の名前をこの邪神につけた。

 悠里の元カノの名前がアヤカである。

「――で、嬢ちゃん、それ旨いのか?」

 怪訝な顔のままツクシが訊いた。

「うん」

 アヤカが頷いた。喜んだ顔をしていない。しかし、熱心にレアチーズケーキを口に運び続ける様子を見ると、それが気に入っているのは嘘でないようだ。

「――はぁ、ツクシさん、かなり値段が高かったでしょ、このレアチーズケーキ。こっちの世界で、この手のお菓子は金持ちの食い物です。おい、聞いてるのか、アヤカ?」

 悠里が睨みを利かせながらアヤカへ顔を寄せた。

 アヤカは悠里を無視している。

「今日、二番区の菓子屋へわざわざ行って買ってきた。値段は銀貨四枚と少銀貨が六枚だったぜ」

 ツクシはぬるくなった紅茶を飲んだ。

 この紅茶だって王都では高級嗜好品の部類になる。

「高っか――おーい、アヤカ――」

 悠里が顔をしかめてアヤカを見やった。

「おいしい」

 アヤカの発言である。値段を耳にしたアヤカは、自分が食べているレアチーズケーキの評価点をかさ上げしたようだ。

「不味かったら詐欺だぜ。銀貨四枚と少銀貨が六枚だ。銀貨四枚と少銀貨が六枚だ、銀貨四枚と――」

 ツクシは恨みがましくレアチーズケーキの値段を連呼した。

「ツクシ、しつこい」

 耳元の念仏をアヤカは煩わしそうにしている。

「しつこい? そのチーズケーキの味が? 俺にもひと口くらい味を見せろよ、嬢ちゃん」

 ツクシが口を開けた。眼光鋭く凶悪な面相の中年男が、人形のような少女を相手にして「あーん」とケーキをねだるその様は、いいようがない、惨たらしい絵ヅラだった。

「違う」

 アヤカが横目でツクシを睨んだ。アヤカは刺々しい視線を送って寄越しても、手元にあるレアチーズケーキをツクシへ寄越すつもりは全然ないようだ。

「ツクシさん、すいませんね、余計なお金を使わせちゃって――」

 悠里は申し訳なさそうな顔になった。

「悠里が悪い。何度も頼んでも買ってきてくれなかったし」

 アヤカは短めの眉を吊り上げて刺々しい表情だ。

「働かざるもの食うべからずだ。このクソニートめ――」

 悠里はアヤカを相手にすると言葉使いが乱暴になるようである。もしかすると、悠里は女の子という存在が全般的に気に食わないのかも知れない。

 ツクシは椅子から腰を浮かせて睨み合うアヤカと悠里を眺めながら、

「ニートねえ。一応、嬢ちゃんはアルさんの冒険者団のメンバーなんだろ?」

「うん」

 アヤカの短い返事である。

「嬢ちゃんはアルさんの冒険者団でどういう立場なんだ」

 ツクシはいつも感じている疑問をぶつけた。普段のアヤカはゴルゴダ宿酒場の二階にある貸し部屋からほとんど出てこないので、何をやっているのか検討がつかないのだ。

「悠里がはたらく」

 アヤカが悠里を睨みながら短く応じた。

「――それだけなのか?」

 ツクシは冷ややかに見つめたが、

「うん」

 長い黒髪を揺らして振り向いたアヤカはあっさり頷いた。

「――はあ。ツクシさん、とにかく今後はアヤカのわがままを放っておいてください。聞いているとキリがないですからね」

 悠里が苦く笑った。

「貸し馬の代金としては高すぎるな、確かに――」

 ツクシが視線を落とした。ツクシはエイダにすべて預ける約束になっているネスト・ポーターの給料をチョロまかして貯め込んだ酒代を使って、このレアチーズケーキを購入してきたのである。

「いつでもレィディを貸してあげるわ。だからケーキ、また買ってきて」

 アヤカがいい放った。

「あぁ、そうかよ、ありがとな――」

 ツクシは顔をうつむけたままだ。

「ツクシさん、一人で城下街までこのケーキを買いに行ったのですか?」

 悠里がヘラヘラと笑った。貧民や貧民に近い住人が多い王都十三番区ゴルゴダにお金持ち向けの高級スイーツを売る店などひとつもない。不機嫌で酒臭い中年男のツクシが、小奇麗な城下街に立派な店を構えた高級菓子店で、王都の婦女子に大人気のレモン風味レアチーズケーキを並んで買い求める様子を想像した悠里は滑稽だった。

 ツクシは顔を歪めて、

「いや、一人じゃないぜ。ニーナに道案内を頼んだ。あいつは城下街周辺に詳しいからな――」


 §


 王都の中央に位置する四番区ゼベダイには大きな公園がある。

 公園の丘にゴザを敷いて、ツクシとニーナは並んで座ると、紅葉が一枚、冷たい風がほんのり混じる陽射しと一緒に手元へ落ちてきた。ニーナが膝の上に乗せて「ジャ、ジャーン」と口頭で効果音をつけながら開けたバスケット・ケースのなかには、色とりどりのバゲット・サンド(※フランスパンを使ったサンドイッチ)がぎゅうぎゅう並んでいる。

 ツクシが選出したのはツナとマヨネーズとレタスを具材として挟んだものだった。

「ツナ缶って異世界こっちにもあるんだな」

 ツクシが固いバゲットに挟まれたツナマヨをまじまじと見つめた。

「缶? 瓶詰めのツナだよ、それ」

 ニーナはネイビー・ブルーのナップザックから革水筒と木製の杯を取り出した。このナップザックも、今日ニーナが着ている軍用外套と同様、王国陸軍の支給品だったらしい。ニーナがいうに「色々と頭にきてたから除隊するとき盗んでやった」とのこと。

「へえ、このツナは瓶詰めか――」

 ツクシの鼻先が動いた。バケットに挟まれたツナの成分は、赤身の魚、オリーブオイル、にんにく少々、ローリエ(※月桂樹の香辛料)――間違いなくそれはツナであり、正確にいうと赤身魚の油煮だ。

「ねえ、ツクシ」

 ニーナが木製の杯を差し出した。

「ん?」

 ツクシは杯を受け取った。

「私と結婚しましょ?」

 ニーナが赤い唇に笑みを浮かべた。バゲット・サンドに噛みつこうとしていたツクシが、ニーナを見つめたまま完全に固まった。

 ツクシはニーナを凝視している。

 それを気にする様子もなく立ち上がったニーナは、

「まだコートはちょっと早かったかなー」

 そんな独り言をいいながら、王国陸軍外套を脱いで首元に黒いリボンがついた白のブラウスに、サスペンダー付きのキュロット・スカートの姿になった。

 ツクシはずっと顔を引きつらせていた。

 その横に腰を下ろしたニーナは平然としている。

「――な、何をいってるんだ、お前は」

 ようやく声を絞りだしたツクシはツナ・バゲット・サンドを噛み砕いて心を落ち着かせた。城下街周辺に店舗を構える高級飲食店で飲み食いすると、高い値段の大して旨くもないものが提供されるので大損だ。前回の失敗を生かし、今回はニーナがお手製の昼食を持参した。その昼食をとる場所として選んだのが、大きな溜め池を囲って樹木が生い茂る、この王都四番区のゼベダイ公園である。季節は真冬に近いといっても、風が弱く空は晴れ渡って、ピクニックにはもってこいの日和でもあった。ツクシたちが座って弁当を広げた丘には他にも何人かのひとが広い間隔を置いて昼食をとっている。この界隈は比較的に裕福な住民が多いので、この公園へ訪れるひとは上等な服を着た、生活に余裕がある若い男女が多かった。

「――何って、結婚だけれど、ツクシと私の」

 ニーナが革水筒から低アルコールワインをツクシの杯へ注いだ。

「ニーナ、お前は馬鹿なのか?」

 ツクシはニーナの手で杯へ注がれる赤いワインを睨んだ。

 低アルコールといっても、その赤ワインは通常半分ていどの酒精がある。

「ツクシ、何よそれ、失礼ね――」

 プンッと鼻息を荒げながら、ニーナは膝の上のバスケット・ケースを覗き込んだ。

「ニーナ、何度もいっただろ。俺は日本から――異界から来た異邦人なんだ。信じられなくても無理はないが――」

 ぶつぶついいながら、ツクシはツナ・バゲット・サンドに噛みついた。

「何度も聞いた」

 ニーナはツクシと同じツナ・バゲット・サンドを手にとった。

 ツクシは口のなかのツナ・バゲット・サンドを杯のワインで流し込んで、

「だから、お前と俺が結婚なんて、できるわけないだろ?」

 バゲットは小麦粉、塩、水、イーストのみを使って焼く。副材料を使わずに焼かれたそのバゲットは、いつまでも口中に残る歯応えがある。硬いが不味くはない。その味は香り高く純粋で食い応えがある旨い物といえる。

「ツクシは私をお嫁さんにできないの?」

 動揺するツクシを真正面から見つめる、この切れ長の瞳を持った若い美人ニーナと同じく、である。

「ねっ、年齢だってな、ず、随分と離れているだろ――」

 ニーナの視線に負けてうつむいたツクシの低い声が震えている。

「散々、私の肉体からだをもてあそんでおいて非道い!」

 ニーナは顔を伏せて肩を震わせた。

「おい、ニーナ、そういう意味じゃなくってな!」

 ツクシが強張った顔を上げた。

 実際、ツクシは散々もてあそんでいるのである。

「――びっくりした?」

 ニーナはうつむけていた顔をひょいと上げた。

 笑ってはいないが、泣いてもいない。

 実際、ニーナはそんなヤワな女性ではないのである。

「――あのな、ニーナ。俺はいずれ日本へ帰るんだぞ。近いうちか遠くなるかまだわからんが、俺はある日、ふっとこの世界から消えちまう予定なんだよ。いつも、そういってるだろ?」

 ツクシは日本への帰還をまだ諦めていない。天涯孤独の身の上に、働けど働けど貧乏人ワーキング・プアの立場だったツクシは、日本へ戻ったところで得をすることはひとつもない。ツクシが日本へ残してきたのは、借家と小さなテレビと軽自動車の借金程度のものだ。日本という国家や生まれ育った環境に、ツクシが愛着をもっているわけでもない。むしろ、そんなものはクソ食らえだとツクシは考えている。しかしそれでも、ツクシは必ず日本へ帰ってやるぞと心に誓っていた。自分にとって利益にならない行動を率先して選択する。これは意固地というものだが、ツクシの人格は意固地を主成分に形成されているので、これを矯正しようとしても時間の無駄である。ツクシはやるといったら必ずやる。頑固で執念深く、さらには理不尽な方向性を持った行動力に限って旺盛な、本当に面倒くさい中年男、それがツクシである。

 ツクシの言葉を聞き流していたニーナが、

「じゃ、私もツクシと一緒にそのニホンへ行く」

「ああ、それは駄目だ――」

 ツクシはニーナの膝の上にあるバスケット・ケースへ手を伸ばしながら暗い声で呟いた。

「何で? やっぱりツクシは浮気をしているの? ニホンに奥さんがいるとか、そういうオチなの? 話のオチの付け方次第で、私はツクシを殺すかもだけど、それでいい?」

 ニーナが目尻を吊り上げた。

「お、お、奥さんとかは、いねえぞ。俺の部屋はすごく狭いから、二人も入らんってだけのオチだぜ。日本で俺が住んでいるのは本当にボロアパートなんだ。猫も飼えやしねェ。飼いたいんだけどな猫。ペットを飼うと大家にマジで怒られるんだよ――いや、それはどうでもいいんだ。そもそも、俺は異世界こっちでも向こうでも、家族を養えるほどの稼ぎがない。こっちへ来てもう三ヶ月以上だから、無断欠勤で元にいた運送屋はクビになってるだろうしな。日本へ俺が帰ったらまた職安ハロワ通いだぜ。あーあー、辛気臭ェよな。俺はあの空間が大嫌いなんだ。あそこにいると何だかすげえ惨めな気分になるからな――」

 ツクシは手にとったハムとチーズのバゲットサンドを見つめながらブツブツいった。この男の話が長くなるときは、たいていの場合その内容が愚痴である。

「貴族をやめてから貧乏には慣れたもの、気にしない」

 ニーナは暗くて不機嫌な顔で将来に対する不安を垂れ流しているツクシを面白そうに眺めていた。

「お、お前はそういうけどな。俺の部屋にある風呂だって、こんなに湯船が小さいんだぞ――」

 顔を上げたツクシが両手で浴槽の大きさを示した。貧乏だった日本での生活(もっとも、この男はカントレイア世界でも貧乏な生活をしているのだが)を赤裸々に告白するツクシは自尊心が瓦解しそうな気分になっている。

「えぇえ!」

 ニーナが素っ頓狂な声を上げた。

「な、何だ何だ?」

 ツクシは驚愕の表情を浮かべるニーナの美貌を凝視した。

「ツクシの家にはお風呂があるの?」

 ニーナの顔が真剣だ。普段からちょっとハスキーな声を、さらに一段低くしたニーナは迫力があった。

「あっ、あるけどな。ち、小さい。小さい風呂だぞ、凄く――」

 俺はニーナの気に触るようなことをいったかな――。

 ツクシは困惑している。

「貸し部屋にお風呂があるなんて、ツクシは、やっぱり、ニホンの貴族――サムライ・ナイトなのね?」

 ニーナの発言である。

 サムライ・ナイトの自宅にはお風呂があるらしい。

「それは色々と違う! 俺の故郷クニ――日本ではだ、貸し部屋に風呂があるのは普通なんだよ、普通!」

 ツクシが語気を荒げて反論した。

「ニホンでは小さな貸し部屋にお風呂がついてるの?」

 ニーナは腰を浮かせて小首を傾げた。

「ま、まあ、たいていはあるだろうな。風呂がない借家だってあるぞ。まあ最悪、俺も日本へ帰ったら、風呂も便所も共同の安いアパートへ引っ越す羽目になるかも知れんぜ――」

 ツクシは接近してきたニーナの美貌へいった。

「――ニホンは、すごく豊かな国なのね」

 ニーナは瞳を遠くして、まだ見ぬ異国の地へ視線を送っている。

「こっ、異世界こっちでは珍しいんだろうがな。とにかく、俺の部屋だって小さいんだ、き、汚いし、古いし――」

 自分を見つめるニーナの瞳には一片の怯みもない。

 ツクシが動揺して視線を上へ逃がすと、淡い青色で染まった空のカンバスに薄い雲がかかっている。

 ツクシは若い女の子が苦手だ。

 その怯みなき瞳を、そのまっすぐな態度を苦手にしている。

 ツクシが昔に捨てたものを若いニーナは持っている――。

「――狭い部屋で、ツクシと私は、ずっと二人きり?」

 ニーナはツクシが苦手な武器を前面に押し出した。

 その美貌は弾けるような笑顔を見せている。

「おう、一緒に暮らすならそうなるぜ。ニーナ、お互いのプライベートな空間がないって嫌だろ、若い奴には、とても耐えられんだろ、ん、ん?」

 小娘に負けてなるものかと、ツクシは口角を歪めて見せた。

「お風呂があって?」

 甘く鼻にかかった声のニーナが切れ長の瞳をうんと細くした。

「うん、まあ、小さな風呂はあるが――」

 怪訝な顔になったツクシが熱を持って揺らぐニーナの瞳を見つめた。

「――この、すけべ」

 なじるような口調でいったニーナが、ツクシの胸へ自分の肉体からだを預けた。

「おい、ニーナ、な、何を――」

 正気か、この女。

 ここは公園で、しかも時刻はまっ昼間もいいところだが――。

 顔を引きつらせたツクシが視線を惑わせると、その行為に及んでいる男女が丘の上に何組もいる。ニーナの迷いのない態度や周辺の風景から推察すると、この公園はそういう目的を持って利用する男女が多いらしい。

「マジかよ、この国の公序良俗の概念は一体どうなっているんだ――」

 焦ったツクシは、ここまで背を借りてきた骨馬レィディへ視線を送った。骨馬レィディは少し離れた箇所に佇んで、馬のしっぽをふりふりとしている。気を使って視線を外しているようだ。

「骨の馬が余計な気を回しているんじゃねェよ、クソッ――!」

 呆れたところで力が抜けたツクシを、ニーナの柔らかい肉体からだが押し倒した。

 青空を背景にして笑う赤い唇がツクシの目に映る――。

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