転生石(後編)

 場所は白鯨宮殿の機関室。

 高い足場に乗ったエンネアデスが周囲の空気を震わせながら鼓動する巨大な心臓を眺めていた。魔帝の瞳に映っているのが魔臓機関――白鯨宮殿にある生体発動機だ。何世紀も稼動し続けているこの魔臓機関は形成方法が太古に失われた複合魔導式陣を埋め込むことで機能を永続させている。この魔臓機関から生み出される熱導力が、黒狼ワーグ鉱軽合板が剥きだしになった高い天井から、あるいは壁面から突き出て繋がる何本もの太い導熱管を通して、白鯨宮殿の下面と後方に計三十四基設置されている魔導式推進器へ送られている。この機関室にある魔臓機関が生み出す熱導力を使って白鯨宮殿は飛行しているのである。余談だが、魔臓機関の動力を利用して白鯨宮殿内の全区画に空調設備も備えつけられているので、冬でも夏でも高高度を飛行中でも、室内の温度と気圧は一定に保たれ過ごしやすい。

「ラド主任、熱量の充填が終わった機体はあるのか?」

 エンネアデスが横に立つ異形種機関兵ヴァリアント・モーター開発・整備主任のラドニール・スクレニチュカ特務少佐へ訊いた。ラドニール・スクレニチュカ特務少佐は初老の男性で種族は魔人族である。この彼は十二分に出世できる実績があるにも関わらず、チェルノボーグ造兵廠の現場で工具を振り回していたのを目に留めたエンネアデスが連れてきた人材だ。少しシワのある丸い顔に気難しさを浮かべ、機械油の染みた作業着を着込み、頭にのせた軍帽まで煤やら油やらで汚している様子を見ると、ラドニール特務少佐は市井にある職工親父のような印象だった。

「すぐ稼働できるのは七番機イナンナと一番機ルサリィだけですな。他の機体は熱量充填に想定以上の時間がかかっておりますわ。本体にある蓄熱器の問題か導熱管に接点不良でもあるのか――まだ分解バラして調べてはおりませんがね。どうデショ、陛下、これからすぐにでも――」

 ラドニール特務少佐が魔導式ゴーグルを外した。魔帝国の旗艦に滞在中ということで、何階級か特進の佐官身分だが、彼の部下はこの職人気質で頑固な親父を「ラド親父」と呼んで慕っている。

「ラド主任、分解は実戦投入実験のあとにしてくれ。現状で起動できるのは二機だけなのか?」

 エンネアデスが顔をしかめた。ラド主任は仕事に忠誠を誓っている男であり、新しい技術と新しい機械をいじっていれば寝食を忘れる優秀な技術者であって、エンネアデスもその手腕を高く評価している。しかし、いささか、ラド主任は職務に対する態度が熱心すぎるきらいがあった。

「そうですな、飛行に熱量を取られている魔臓機関へかかる負担を考えると、異形種機関兵への熱量充填速度を上げることは難しいですわ。しかし、地上へ着艦中なら話は別ですな。熱量供給の効率は三倍以上になる計算。半月もあれば全機体が出撃可能になるでショ――」

 ラド主任が魔臓機関を眺めながら応えた。魔帝国の最高権力者に対する口の利き方としては乱暴な感じだが、それでエンネアデスが機嫌を損ねている様子もない。それに、このような口振りでも、ラド主任はエンネアデスへ敬意を払っている。先帝の時代――魔賢帝の治世時代、白鯨宮殿にある魔臓機関の研究は禁止されていた。長い寿命を持つ魔人族は保守的な考えの持ち主が多い。エンネアデスは魔帝国屈指の魔導式研究者であるし、技術開発に関しては投資を惜しまない男だ。魔人族の開発者や研究者から好意的に見られている。

 導式や魔導式を扱う原理は、機械へ指示を与えるプログラム言語のそれと概念が似ていた。前世でIT関連の仕事をしていた葉山黒人は、カントレイア世界を統べる奇跡の扱い方を理解することも容易かった。これは、幼少の頃から神童と騒がれたエンネアデスのみが知る秘密である。

「――ン。多次元熱量変換器マルチ・デモンタル・コンバーターの調子はどうだ」

 エンネアデスが魔臓機関の下部を見やった。そこで魔臓機関へ導熱管をうねうねと突き刺して備えつけられた馬車ていどの大きさの魔導式具――多次元熱量変換機が稼動している。この多次元熱量変換機を通して、鋼鉄製の繭のなかに寝かせられた異形種機関兵の十一機へ彼らへ適合した形に変換された熱量エネルギーが分配されていた。多次元熱量変換器が設置された周辺は黒金くろがねで造られた病棟の一室のように見える。しかし、鋼鉄のベッドで眠る危険な病人たちの周囲で作業しているのは、医療関係者ではなく魔帝国から厳選された兵器開発者と整備兵だ。

「そっちは至極順調ですわ。負荷テストにもならんですな」

 ラド主任が苦く笑った。たいていは気難しそうな顔をしているこの技術屋は、仕事が上手くいったときにだけ苦味のある笑顔を他人に見せる。

「ここまでの負荷はどのくらいの数字になってるのだ?」

 エンネアデスは足場の階段を降りた。

「最大熱量変換率の三割程度デショ――」

 ラド主任が魔帝の後ろについて階段を降りながら応えた。

「ン。ラド主任、七番機イナンナと一番機ルサリィを起動して正面大門へ回してくれ。地上へ一緒に降りたい」

 エンネアデスが命令をした。

「了解です、皇帝陛下」

 ラド主任が魔導式ゴーグルを目につけた。


 §


 砂嵐に近い。

 白鯨宮殿が土埃を巻き上げながら大要塞ネルガルの中央広場へ着陸した。鋼鉄の咆哮と共に口を開けると格納式の白い大階段が押し出されてくる。魔帝が住まう白鯨宮殿の玄関口――正面大門だ。

 集まった三万の魔帝兵から地響きのようなどよめきが起こる――。


 白鯨大門へ続く長い廊下に近衛兵隊が整列している。

 魔賢帝の治世時代、世界中から来賓があった歴史のある廊下だ。かつては、カントレイア世界の玄関口とまで称されたこともあった。だが今は武装した魔帝兵が行き交うのみだ。長い赤い絨毯の上を、金刺繍で縁取られた黒いマントを羽織って転生石の王錫を持つ魔帝エンネアデスが歩いてゆく。すぐ後ろに女執事ネメスが続く。その後ろには五十名にも及ぶ性奴隷一団が続いていた。種族はヒト族、猫人族エルフ族、ダーク・ハーフ、それに、魔人族――。

 エンネアデスは人種差別主義者ではないのだ。この転生者・葉山黒人は、カントレイア世界に生きるすべての種族を「異世界土人は馬鹿ばかりだ」と平等に軽蔑している。性奴隷の一団の後ろから続くのは、紫色をシンボル・カラーにした魔導式剣術兵メイガス・ソードマンの一団『聖なる嵐の騎士団エリスヴォロチ』である。そのあとから、金刺繍の入った深紫色のフード付きローブで全身を覆った魔導師の一団『宮廷魔導師団メイガス・テンプラー』が続く。この二つの集団は魔帝の親衛隊になる。

 白鯨大門の手前で、二人のひと影がエンネアデスとその行列を待ち構えていた。

「おっはよ、ひっさしぶりい、マスター!」

「HI、マスター!」

 二名のひと影が魔帝エンネアデスへ挨拶をした。

 双方ともに女性の声である。

「イナンナ、ルサリィ、女性型の異形種機関兵ヴァリアント・モーターには、そんな軽い調子の会話プログラムしか入力されていないのか?」

 エンネアデスが顔をしかめた。

「そーゆーことだね、マスター!」

 異形種機関兵の七番機イナンナである。黒い防護スーツを着込んだイナンナは、赤い長い髪を後ろへ流して鬢に青いメッシュを入れた成人女性型で、身長は百六十センチ弱。顔の形状は若い女性であるが表情はない。イナンナは武器として身の丈の三倍以上ある巨大なソウ・ブレードを背負っている。外見はそのまま無骨な発動機がついた巨大チェーン・ソウだ。

「NO、WAY、マスター」

 異形種機関兵の一番機ルサリィである。白い武装ゴチック・アンド・ロリータ・ドレス姿のルサリィは長々とした黒髪を右に三つ、左に三つに分けて縛ったシックス・テイル(と本体は主張している)にした少女型で身長は百三十センチ強。顔の形状は幼い少女だがやはりそこには表情はない。異形種機関兵に備えられた会話機能は、あくまで『マスター』から与えられる任務を忠実に遂行するために使用される補助機能であって感情は持ち合わせていないのだ。ルサリィは武器として本体の背丈の倍以上あるアイボリー色フレームのプラズマ・加農カノンライフルを背負っていた。このプラスマ・加農ライフルが持つ有効射程距離は三キロメートル。その距離から発砲しても厚さ八十ミリの複合白鉄装甲を楽々と溶解させて風穴を開けることができる異次元の銃火器だ。

 このルサリィは北ネストで最初に発見された異形種機関兵である。何かの拍子で設定がリセットされていたその機体は、再起動して目を開けた際に見とめたエンネアデスを「マスター」と呼んだ。当時、実母に疎まれて半ば帝都を追放されたような形になっていたエンネアデスは、暇つぶし半分、興味半分で手勢を引き連れて辺境にあった北ネストを探索していたのだ。

 これは、何かに使えるかな――。

 そう考えたエンネアデスは実母フェデルマの暗殺をルサリィへ命令した。これが失敗したところで、エンネアデスは何も失うものがない。気楽なものだった。

 その結果である。

 ルサリィの有効射程距離限界からプラズマ・加農ライフルを使用し、皇后フェデルマを狙撃、その心臓を吹き飛ばした。異形種機関兵の戦闘能力に驚愕したエンネアデスは、北ネスト(これは発見された時点で廃墟だった)内部を徹底的に探索、このルサリィを含め十二体の異形種機関兵を手に入れた。これがエンネアデスに邪な野望が発生した瞬間でもある。

 しかし、このとき同時にエンネアデスの脅威も発生した。

 ルサリィによって暗殺された筈の皇后フェデルマは死んでいなかった。心臓が破壊された瞬間、皇后フェデルマは双子の黒不死鳥が持つ異能力――輪廻再生を発動させて幼体になった――。

「――イナンナ、ルサリィ。私の示しがつかん。兵士たちの前ではなるべく黙っていろ」

 エンネアデスが渋い表情でいった。魔帝国の全権力を握ったエンネアデスには気がかりな逃亡者が四人いる。

 まずは前述した漆黒のジグラッドから逃亡した異形種機関兵の十二番機キュベレイ。

 次に魔帝国から逃亡した魔賢帝の第八子ローランド・ヨイッチ=ウィンである。魔賢帝の息子たちのなかで、もっともデキが悪くどんな青年で周辺から軽んじられていた――出来損ないの間抜け呼ばわりされていたローランドに対しては、猜疑心の塊のようなエンネアデスですら警戒心が薄かった。その間隙をついた何名かの反乱分子が暗躍し第八子ローランドは国外へ逃亡することに成功した。

 それらも十分に不安材料であったが、エンネアデスが最も神経を尖らせているのは、ローランドの国外逃亡と同時期に魔帝国から行方を暗ませた双子の黒不死鳥だった。

 姉のフェデルマ・ジェニノス・ニジェルフォニックス=レヴィアタン。

 妹のフレイア・ジェニノス・ニジェルフォニックス=バハムート。

 魔帝国で双子の黒不死鳥と呼ばれるその姉妹は、成体ならば双方ともカントレイア世界最強の魔導師メイガスである。もっとも、ルサリィの狙撃によって輪廻再生の機会をずらしたことで彼女たちが持つ本来の力は失われた。双子の黒不死鳥は死のときがくると冥界の炎で我が身を包み、幼生へ返る異能力を持っている。姉が幼生のときは妹が成体を維持する。妹が幼生のときはその逆になる。このような形で、絶大な魔導の力を維持しながら永劫のときを生き永らえ、魔帝の補佐役を担ってきた双子の魔神、それがフェデルマとフレイアの双子姉妹だ。

 魔「人」であっても、魔「神」ではない(魔神の血を引いてはいるが――)エンネアデスにとって、魔帝国から失踪したフェデルマとフレイアは最大の脅威である。しかし、現状ではエンネアデスにとって不利なばかりではない。双子の黒不死鳥は幼生でいる間に限り本来持っている力を発揮できない。

 現在、双子の黒不死鳥は双方幼生で力が弱く、脅威にはならん。

 だが、奴らが成体になる前に必ず対応する必要がある。

 心臓を撃ち抜いても殺せないとなると、奴らを転生石の力で亜空間へ叩き込んで、この世界から完全に消し去るしか――。

 エンネアデスが手に持った転生石の王錫を見つめながら考え込んでいると、

「なーに突っ立ってんのお、マスター!」

「HURRY、HURRY、マスター、TIME、IS、MONEY!」

 イナンナとルサリィからわあわあと急かされた。

 ふざけた人工知能プログラムだが、おそろしく高度なものだ。

 異形種機関兵は一体、どのていどの文明レベルを持った世界から来たのだろう。

 それよりもだ。

 私はさっき、こいつらへ「黙ってろ」と命令した筈だが、全然、聞いていない。

 まだどこか壊れているのかも知れないぞ。

 本当に実戦へ投入して大丈夫なのかな――。

 おちゃらけた発言を繰り返す二機の異形種機関兵を、怪訝な顔になったエンネアデスが見やったところで、

「皇帝陛下、ご機嫌麗しゅう――」

 横から老いた声がかかった。滅紫色のフロック・コートを羽織った白髪の老人が若い女従者――首輪をつけたメイド服姿の労奴を二名を引き連れて通路の脇に控えている。

「――何だ、グルマルキンもいたのか」

 エンネアデスは魔人の老貴族――グルマルキン侯爵を一瞥したあと白鯨大門へ歩きだした。その後ろに異形種機関兵と手下もぞろぞろ続く。

異形種機関兵ヴァリアント・モーターの再起動に、とうとう成功しましたか――」

 グルマルキン侯爵は魔帝が率いる隊列に加わった二機の人形兵器――イナンナとルサリィを凝視していた。赤ら顔の小太りで、目尻や頬のシワがなければ赤子のように見えるこの小柄な老人は魔人族の有力な貴族である。いつも表情に作り笑いを固定して、決して本心を他人に知られないように生きてきた政争の得意な男だ。だが今、エンネアデスが見やっているグルマルキン侯爵の作り笑いは明らかに頬が強張ったものだった。

 グルマルキン侯爵はこれ以上の戦争を望んでいない――。

「――ン。再起動した異形種機関兵を兵士にお披露目してやろうと思ってな。あいつらの士気を、ここらで上げておく必要がある。違うかね、グルマルキン侯爵?」

 エンネアデスは嫌味のある笑顔だ。

「はっ、はい。皇帝陛下のお考え通りかと――」

 グルマルキン侯爵は笑い顔をさらに堅くした。

「――フン」

 エンネアデスが鼻を鳴らしたところで軍楽団の演奏が始まった。

 魔帝エンネアデスと、その後ろに続く二機の異形種機関兵――魔帝軍初期侵攻作戦において圧倒的な火力の差をタラリオン王国軍に見せつけた魔帝国の決戦兵器が、白鯨大門から姿を現すと、広場に集まった魔帝兵が騒ぎだした。それは全体に広がって歓声へ変わった。

 誰かが興奮して歌った。

 釣られて誰かも歌い出した。

 そして、そこにいたすべてが歌い出した。

 総勢三万名余の魔帝兵精鋭による突撃行軍歌アサルト・サング――『魔帝国に栄光の勝利あれ』の大合唱だ。

 死と破壊の賛美歌で大要塞ネルガルが振動する――。

 歓喜の合唱に包まれてエンネアデスとその行列は階段を降りていった。

 カモシュ・イド・グルマルキン侯爵は正面大門に佇んだまま魔帝の背中を見つめている。エンネアデスを魔帝国最高権力者の座に据えるために尽力したのは、このグルマルキン侯爵だ。しかし、エンネアデスは魔帝の座につくと魔人の貴族の長老格であるグルマルキン侯爵を危険視し白鯨宮殿へ軟禁した。

 このグルマルキン侯爵は頭の回転が早く老獪だが野心家とはほど遠い老人である。彼が望んだことは二つだけ。魔帝国での労奴制度(※おおむねの奴隷制度)と優位種保護法(※純血魔人族の優遇制度)の復活だった。魔帝国が魔賢帝の政治改革以前の姿へ戻って、純血魔人族へ利権が優先される社会構造になれば文句はない。典型的な懐古主義的保守派のグルマルキン侯爵には、このていどの考えしかなかった。

 魔賢帝デスチェインの没後、後継者争いが勃発した魔帝国には魔賢帝の実子が五人もいて、そのうち四人が魔帝の後継者として名乗りを上げた。当時の魔帝国議会の議員を務めていたグルマルキン侯爵は魔賢帝の第九子エンネアデスに目をつけた。このエンネアデスは扱いが面倒だった(グルマルキン侯爵にとっては)皇后フェデルマから疎んじられているし、魔帝の息子たちのなかで一番若い。

 傀儡くぐつとして使うのなら、先帝の影響力が少なく若いエンネアデスが御しやすかろう――。

 エンネアデスを旗印にしたグルマルキン侯爵は、ここまでの革新・融和政策に不満を見せていた貴族階級の同志を束ねて帝国議会内に派閥を形成すると政争に明け暮れた。

 当時、魔帝の後継者候補はそれぞれを支持する派閥があった。

 魔賢帝デスチェインとエルフ族の皇后メルロゥスとの間に産まれた第五子、セレデス・ヨイッチ=ライドの支持派閥。

 魔賢帝デスチェインと魔人族の皇后アリスとの間に産まれた第六子、フェランデス・ヨイッチ=ギューフの支持派閥。

 魔賢帝デスチェインと猫人族の皇后ティファとの間に産まれた第七子、メガデス・ヨイッチ=ケナズの支持派閥。

 それに、グルマルキン侯爵一派が支持を表明したエンネアデス支持派である。(※魔賢帝デスチェインの第一子~第四子は、魔人族である魔賢帝と他種族の皇后の間に生まれた混血児であったので寿命が短く、早くに夭逝した)。敵対する派閥から抵抗はあったが、政争に長けたグルマルキン侯爵率いるエンネアデス支持派は反対勢力を排除に成功し、満場一致する形で自分たちの傀儡――まだ若かったエンネアデスを魔帝国の長の座へ座らせることに成功した。

 これで我ら魔人族の貴族の権益は約束されよう――。

 グルマルキン侯爵は作り笑いの仮面の下で高笑いをしたが、しかし、エンネアデスは権力の座についた途端に豹変した。エンネアデスはカントレイア世界に産まれ落ちた直後から辛抱強く猫を演じ続けて、いずれ虎となる機会を窺っていたのだ。エンネアデスにとって「虎」とは、魔帝国最高権力者の座――魔帝の座につくことだった。

 グルマルキン侯爵があっと顔色を変えたときにはもう遅い。

 そのあと吹き荒れた粛清の嵐は、グルマルキン侯爵が望んだところではない。魔帝エンネアデスは腹違いの兄弟と彼らの母親、それに彼らへ与したものを、反乱分子と称してすべて断頭台ギロチンへ送り込んだ。老若男女を問わず徹底的に殺しつくした。北ネストの探索で異形の戦力を手に入れていた魔帝エンネアデスは実母フェデルマも――魔帝国の守護神をも抹殺した。血の粛清を終えたあとに魔帝エンネアデスが開始した悪政も、グルマルキン侯爵は望んでいなかった。その数年後に開始されたグリフォニア大陸南下作戦――雷鳴の舞台も、グルマルキン侯爵は望んではいなかった。グルマルキン侯爵はただ、滅びゆく高貴な種族――魔人族ディアボロスと自分の立場を守ろうと考えていただけであって――。

 魔帝エンネアデスを称える怒涛の合唱はまだ続いていた。

 終わる気配がない。

 この戦争は続く。

 グルマルキン侯爵は作り笑いのまま視線を落とした。

 近年、医学と薬学の進歩で人類の幼児生存率と平均寿命が格段に上がったカントレイア世界では、どの国でも人口が増加している。出生率が元より高いワーラット族などは人口爆発に耐え切れず、秘密裏に地下通路を拡大し元から住んでいたグリフォニア大陸の北部から南部へ移動を続けていた。ワーラット族の密航移民政策は最も顕著な例だが、他の種族もていどの差はあれ似たようなものだ。

 しかし、同族同士で婚姻した場合、極端に出生率が低くなる種族特性を持つ魔人族だけは、その人口が年々減り続ける一方だった。魔帝国における魔人族の優位性を確保する上でも労働用の奴隷身分――労奴は必要不可欠だとグルマルキン侯爵は考えている。これは、魔賢帝の治世に廃止された労奴制度を復活させ、魔帝国内に住む混血児――ダーク・ハーフをすべて労奴階級として扱えば済む問題だった。エンネアデスが国を挙げて推進しているこの戦争は必要ないのだ。

 だが、おおむねの魔人族はエンネアデスの推し進める戦争政策に賛成した。魔人族は魔導の力を扱うことに優れ、寿命は長く、若いうちは外見も美しい。我々はカントレイア世界において最も優秀な種族である――そんな差別意識が魔人族に根強く残っている。もっとも、本来ならもっと長くある魔人族の寿命を削り取っているのは、日常生活でも利用している魔導式の副次的な作用であると、最近の研究で判明したようだが――何にしろ、「種の存続」に危機を感じていた純血の魔人族は、魔帝エンネアデスを――邪悪を受け入れた――。

「ご主人様、顔色が優れないようですが――」

「ご主人様、無理をせずにお部屋へ戻られたほうがよろしいかと」

 二人の女従者――労奴ユカ・ハーリエルと労奴イライザ・ニカンドロヴァが声をかけた。

 グルマルキン侯爵は自らが望んだ労奴たちを見やった。

 双方、ダーク・ハーフの若い女性でなかなか美人である。魔賢帝の治世に製造が禁止された魔導式具――隷属の首輪を装着したユカとイライザの呼吸は主人の――この場合、グルマルキン侯爵の気分一つで停止させることができる。長く呼吸を停止させれば、当然、ユカとイライザは死ぬ。隷属の首輪は魔導の力を利用した道具なので、強い魔導の力を持つ魔人族には効果が薄い。これは魔人族が他の種族を奴隷として制御するために使用する魔導式具である。

 エンネアデスが労奴制度が復活させて十年近くになる。

 魔帝国に暮らす被差別民は労奴の身分にもうさほどの抵抗感がなくなった。グルマルキン侯爵が好んで引きつれているユカとイライザは本当に心配そうな顔で自分の主人を見つめている。

「――そうじゃな」

 グルマルキン侯爵が、手を上げて兵士たちの歓声に応えるエンネアデスへ背を向けたところで、

「グルマルキン、この愚かもの、俺の邪眼に映る覚悟はできたか――?」

 魔人の老貴族がその長い生涯のなかで最も恐れた男の声が響く。

 邪眼の異能力を持つカントレイア世界最強の英雄が白鯨宮殿の長い中央通路に佇んでいた。

 先帝デスチェイン・ヨイッチ=フィオである。

 魔賢帝は怒りの形相を見せていた。

 巨大肉食恐竜のような相貌だ。

 それは相手の認知能力を破壊し、確実な精神の死へ至らしめる邪眼の――。

 ぎょっ、と仰け反ったグルマルキン侯爵が、

「あっ、いひ、ひいぃっ! デ、デ、デスチェイン皇帝陛下! お、お許しを! わ、わ、わわわ、私が浅はかでしっ――」

 その老いた顔からは作り笑いが消えた。

 今、グルマルキン侯爵の顔面にあるのは引きつった恐怖のみだ。

「――侯爵、私がお部屋まで護衛を」

 グルマルキン侯爵が先帝と見誤った男――魔導師メイガスのミハエル・イド・ドラゴウンが平淡な声で告げた。このミハエルは幻視を誘発させる魔導式陣の扱いが得意な魔人族の男で、グルマルキンの警備役という名目だが、しかし実際は、エンネアデスが遣わした緩慢な死を呼ぶ暗殺者である。

 グルマルキン侯爵が胸元を両手で押さえて崩れ落ちた。

「あっ、ご主人さま! ああ、たいへん!」

 ユカが床で丸まったグルマルキン侯爵の背中を抱いた。

「ご主人さま、ご主人さま! おくすりです、お気を確かに、はやく!」

 ユカより年上でしっかり者のイライザが、エプロンの前ポケットから茶色い小瓶を取り出した。

 中身は狭心症発作の対処薬である。

「ぐっ、ぐふ、ぐふっ――」

 グルマルキン侯爵は自分の奴隷が差し出した白い錠剤を震える手で受けとった。

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