閑話
転生石(前編)
タラリオン共和国の首都ユリア=タラリオン。
私はタラリオン大議事堂の南にある国立中央図書館の四階の一室――タラリオン共和国歴史史資料保管室にいる。資料保管室は関係者以外立ち入り禁止となっているので、いつ来てもひと影はほとんど見当たらない。元々、私が行政員として勤務する国立図書館の歴史資料編纂部は、行政機関のなかでも場末の職場であって予算も行政員の給与も
ともあれ、私は本棚から黒い背表紙の分厚い本を手にとった。
この本は私の著作である。
『
諸般の事情でこの原稿は本書に収録できなかった――。
私は未収録分の原稿にそう走り書きをして自作に挟み込むとそれを本棚へ戻した。今、内密に歴史資料とした未収録分の原稿は自作が出版される直前、私のもとへ訪れたジークリット・ウェルザー共和国軍名誉参与――最後の三ツ首鷲の騎士から脅迫されて本書への収録を断念した箇所になる。その他の箇所も自作は大幅な修正を余儀なくされた。
「未知の力を多分に持った『転生石』に関する情報は、まだ一般へ開示すべき段階ではない」
それがタラリオン共和国の総意なのだろう。
私はクジョー・ツクシのすべてを諸君へ伝えたかったのだが、今はそれが困難な状況にあるということだ。
ならば私は未来へ伝えよう。
異界から到来したひとりの男の物語。
残侠の伝説を――。
§
西暦二〇一六年、場所は日本の東海地方某所。
葉山黒人は精密電子機器の開発分野で世界的名声を得ていたH社の本社ビルから飛び降り自殺をしたのだが、しかし、H社の社員ではなかった。H社内の情報システムを構築するSEだった葉山黒人は入社以来、自社の製品開発技術を中華人民共和国の某企業へ売り渡して私腹を肥やしていた。その不正行為が三年前に発覚し、H社ITシステム整備課係長補佐だった葉山黒人は解雇された。醜聞を恐れてか、会社側はこれを表沙汰の事件にはしなかった。これは寛大な処分といってもいい。だが、エリート・サラリーマンの道から脱線した葉山黒人は、実家に引き篭もって無職生活を三年続けたあと、朝一番にH本社ビルへ不法侵入し、その屋上から投身自殺を敢行した。むろん、これは会社に対する腹いせである。このときに冥府へ散るべき葉山黒人の魂は因果の鎖に囚われた。
葉山黒人の生きる世界が変わる――。
§
カントレイア世界、帝歴九八四年。
魔賢帝九番目の皇后フェデルマが男子を出産した。その赤子は産まれたときに石ころをひとつ握り締めていた。不思議な石を見て周辺のひとは首を捻ったが、何しろ、カントレイア世界に名が轟く大英雄、魔賢帝デスチェイン・ヨイッチ=フィオと、永劫の観察者にして双子の黒不死鳥の姉であるフェデルマ・ジェニノス・ニジェルフォニックス=レヴィアタンの間に産まれた子なのだから、何があっても不思議ではなかろうと、そう考えて納得した。
魔帝国に産まれた九番目の皇太子の名はエンネアデスと名づけられた。あとの魔帝国の長、魔帝エンネアデス・ヨイッチ=ハガルである。このエンネアデスは前世の記憶を持っていた。H社のサラリーマン、葉山黒人三十九歳であった頃の記憶だ。このとき、前世から社会への破壊願望と復讐心を持続した究極の邪悪がカントレイア世界に転生したのである。この邪悪を待ち望んでいたものが当時の魔帝国にはたくさんいた。魔帝国の水面下で邪悪の到来を待ち望んでいたのは、時代の大変革期にあるカントレイア世界においても、多種族と異文化へ強烈な差別意識を持つ純潔の魔人族、その大多数だった。
エンネアデスの誕生から二十八年後。
帝歴一〇一二年。
グリフォニア大陸の北西部をデ・フロゥア山脈から東外海へ向かって流れる大河アルーノ・リーベル。この大河を挟んで南北に展開したエンネアデス魔帝国軍とタラリオン王国軍は睨み合いを続け北部戦線は膠着状態に陥った。
エンネアデス魔帝軍の南下作戦を足止めしている要因は複数ある。
まず、東外海に展開し戦況を注視しているタラリオン王国の同盟国、コテラ・ティモトゥレ首長国連邦の連合艦隊の存在。コテラ・ティモトゥレが派遣中の兵力は軍艦百五十隻、輸送船四百五十隻、兵員にして三万名を超える大艦隊であり、海軍力の不足する魔帝国はこれを無視した作戦行動ができない。
さらに、急襲を受けて混乱していたタラリオン王国側の足並みが、今では整いつつあった。タラリオン王国の北西に隣接するドワーフ公国、タラリオン王国の南に隣接するコテラ・ティモトゥレ首長国連邦、グリーン・オーク共和国とエルフォネシア連邦が主体となって形成されるドラゴニア連帯会議、大内海の中央西よりに浮かぶ海洋国家の倭国、タラリオン王国はこれらの国家から支援の約束を公に、あるいは秘密裏に取りつけていた。反面、侵略戦争の口火を切ったエンネアデス魔帝国は国際的に孤立している。タラリオン王国は持久戦の構えを見せていた。
元はアウフシュナイダー領内へ、アルーノ・リーベル河へ北からせり出すようにして建造された魔帝軍の前線基地――大要塞ネルガル。この要塞には魔帝軍の精兵である『
その大要塞ネルガルへ駐屯中であった兵員三万名近くが、すべて兵舎から出て広場へ整列している。巨大な白鯨が上空にあった太陽を隠して広場に影が落ちていた。
巨大飛空艇・
魔帝国の長へと代々受け継がれてきた『魔臓機関』を動力に持つその巨大飛空艇は、太古の技術を駆使して建造された機関部分の解析が今も終わっておらず、カントレイア世界で最大の『
今は天空をゆく白鯨宮殿。
その前面上部に魔帝の展望執務室が配置されている。展望執務室の前面百八十度に設置されたガラス窓から地平線が見える。
これは北部戦線のパノラマだ。長く掘られた塹壕がうねうねと対峙し、遠くに近くに飛び交う野砲の弾丸が炸裂した箇所から黒煙が上がっている。それでも冬の鋭利な陽の光を浴びて広がる戦場の広野は美しかった。
遠目に見る限りは美しい戦場の大パノラマ――。
展望執務室からその光景を真紅の瞳に映していた少年の背へ、
「陛下、バンクォー参謀長が参られました」
「――ン。通せ」
返事をした少年――元は葉山黒人で今は魔帝エンネアデスが窓際から振り返った。エンネアデスの実年齢は三十四歳である。しかし、純血魔人族として産まれたその男はまだヒト族でいうと十代後半の外見だった。魔人族は成人近くまでその肉体が成長すると急速に老化の速度が衰える。簡単にいうと魔人族は青年の肉体である期間がヒト族よりもずっと長い。エンネアデスは魔人族の少年といったような風貌で貫禄に欠ける。しかし、猜疑心に満ちた赤い瞳と、青白い中性的な顔を不愉快そうにしかめた様子が、その印象に冷酷さを加味して、支配者に足りない風格を補っていた。
エンネアデスは中央のソファへ座るとテーブル上の戦略ボードを見つめた。そのソファの後ろで控えたダーク・ハーフの少女が二名、飲み物や果物を持って、エンネアデスへ身を寄せた。エンネアデスは少女の手で差し出された杯や果物を手で払った。少女二人はどんよりと曇った視線を落とした。この肌の露出が多い服を着て首輪をつけたこの二人のダーク・ハーフ少女はエンネアデスの後宮に勤める性奴隷である。金髪のツイン・テールが十三歳で茶色い髪のショートヘアが十五歳。それぞれ男性を惹きつける容姿だが顔からは表情が抜け落ちている。
エンネアデスが戦略ボードを見つめたまま、
「ああ、来ていたのか、バンクォー参謀総長」
「はい、遅くなりました、皇帝陛下!」
展望執務室の出入口で控えていた黒い帝国陸軍服姿の中年男が背筋を伸ばして応えた。この彼はバンクォー・イド・ニーズクロック魔帝国軍参謀総だ。ハゲあがった頭に丸眼鏡で神経質そうなバンクォー参謀総長の見た目は軍人としての迫力が欠ける印象だった。
「輸送してきた『
エンネアデスが戦略ボード上の黒い塔を睨んだ。
そこに禁忌の塔――漆黒のジグラッドが位置している。
「しかし、皇帝陛下。偵察の報告によりますと漆黒のジグラッドは未だ周辺の時空が安定せずとのこと。不安定領域内では『
軍人としての迫力は少し欠けるが、バンクォー参謀総長は魔帝国軍学会主席卒の秀才なので弁は立つ。
「――バ、ン、ク、ォ、ォ、オ!」
エンネアデスはソファに立て掛けてあった黒い王錫を手元に引き寄せた。
「はい!」
バンクォー参謀総長が顔を強張らせて視線を上に向けた。豪華なシャンデリアと天井画で彩られた展望執務室の天井だ。同族だろうと他種族だろうと反抗するものの命を奪うことに躊躇しないエンネアデスへの恐怖もある。だが、バンクォー参謀総長が最も恐怖しているのは、エンネアデスが手に引き寄せた王錫だ。黒い柄の先に金色の
それは持つものの望みを叶える奇跡の石――。
エンネアデスは恐怖で身を固めたバンクォー参謀総長を冷ややかに眺めながら、
「バンクォー参謀総長、地上への着艦前にあれの具合を見ておきたい」
「あっ、あれと申しますと――皇帝陛下が直々に開発を指揮した例の変換機ですか?」
バンクォー参謀総長はレンズが曇った丸眼鏡を手にとった。
「それ以外にあるか? 白鯨宮殿の魔臓機関部へ設置した『
エンネアデスがいった。魔帝国領内の北ネストから発掘された十二体のヒト型兵器――異形種機関兵は、ここまで機能を停止させていた。エンネアデスは動作するためにカントレイア世界の法則から外れた
十数年の間、異形種機関兵の研究を続けてきたエンネアデスの目論見通り、戦争開始当初の作戦は順調だった。しかし、順調だったのは当初だけでそのうち問題が発生した。漆黒のジグラッド周辺の次元が歪み始めて強力な異形種――
しかし、ここにきて魔帝国は異形種機関兵を再機動することに成功した。
エンネアデス自らが開発に携わった多次元熱量変換器を介して異形種機関兵への熱量供給が、多次元塔――漆黒のジグラッドに頼ることなく開始されたのである。
「――はい」
ヴァンクオォー参謀総長が眼鏡のレンズをハンカチで拭きなが頷いた。
「多次元熱量変換器の成否に魔帝国の命運がかかってる」
エンネアデスの子供のような声が低くなった。
「あ、はい!」
眼鏡を顔に戻したバンクォー参謀総長が直立不動の体勢をとった。
「違う?」
エンネアデスが睨むと、
「おっしゃる通りです、皇帝陛下!」
バンクォー参謀総長が応えた。
「それと、バンクォー参謀総長。コテラ・ティモトゥレの連合艦隊は無視していい」
エンネアデスは戦略ボード上の東外海に浮ぶ敵戦艦の群れを一瞥した。
「――ええ?」
バンクォー参謀総長が怪訝な顔で歩み寄って戦略ボードを見つめた。
「コテラ・ティモトゥレ首長国連邦側としては海上交易ルートの安全が確保できれば、それでいいのだ。これ以上、タラリオン王国を支援してもコテラ・ティモトゥレ首長国連邦に何の利益もないだろう。自身の利益が見込める場合にのみ、ひとは積極的な行動をとる。これがひとが取る行動の大原則だ。現状、グリフォニア大陸の東沿岸部は我が魔帝国の手中から離れている。コテラ・ティモトゥレが動くつもりなら、すでに上陸作戦へ移行している筈だろう。しかし、その気配はまったくない。つまり、東外海で浮かんでいる連中は、これ以上、我々の戦争に関与するつもりがないということだ。違うかね、バンンクォー参謀総長」
エンネアデスがいった。バンクォー参謀総長は、「うぅむ――」と呻いただけでそれ以上の返事をしない。エンネアデスの軍略には博打的な予断が混じっている。それをバンクォー参謀総長も懸念しているし、エンネアデス本人も自覚している。
しかし、エンネアデスはこう考えていた。
何かを賭けて初めて人生は――戦争は開始される。
俺は前世で賭けに負けて憤死した。
さてさて、今度どうなるか――。
エンネアデスの若い唇が笑みの形に歪んだ。これが前世は葉山黒人、現在は魔帝となったエンネアデスの根本にある性格だ。自分以外の何かを攻撃して搾取を続け、自身の利益を最大にまで確保しなければ満足しない人格の持ち主――
「それよりも当面の問題はこっちだな。西の戦線を突破するのに――屍鬼の国を壊滅させるのに異形種機関兵は何体必要なのか。バンクォー参謀総長、お前の意見を聞かせてみろ。先週、お前は西方制圧軍団の視察をしてきたのだろう?」
エンネアデスが魔帝国領土の西国境を指差した。
そこは魔帝軍西方制圧軍集団と屍鬼の国の軍勢が睨み合っている。
「皇帝陛下、現状では判断しかねます。コテラ・ティモトゥレ首長国連邦とタラリオンが積極的な攻勢にでてこない以上、西へ戦力を多く配分する必要があるということだけは確実でしょう。兵站も休憩も必要としない屍鬼も厄介ですが、特に『
応じるバンクォー参謀長は軍人の顔になっていた。
「――ン。それは報告書で知った。だが、信じられんな。ただの動く死体というよりもこれは生体兵器か。向こうの戦略兵器は数がまだ不確定、私の手持ちはたかだか十一体だ。こうなると、あの一体を逃しただけでも痛い。バンクォー参謀長、漆黒のジグラッドから逃走したあの機体の――十二番機キュベレイ探索は、一体どうなってるの?」
手元の資料の一つを手にとったエンネアデスは中間管理職が部下を問責しているような口振りである。
「はあ、それがですな。まだ諜報部から芳しい報告はなく、そのですな――」
バンクォー参謀長が言葉を濁すと、
「バ、ン、ク、オ、ォ、オ――」
エンネアデスが唸り声を聞かせた。
「はい、皇帝陛下!」
いい返事と一緒にバンクォー参謀総長はまた直立不動だ。
しばらく、エンネアデスはバンクォー参謀総長を睨んでいたが、
「もういいよ。とにかく、ミトラポリスへネルガルの軍集団を進撃させろ。私の手に異形種機関兵がある限り、兵站をどうだとか、相手の出方が云々かんぬんは後回しでよい。それはもう実証済みだろう。何人死のうが殺そうが一向にかまわん。できることはすべてやれ。今後の作戦の第一目標は漆黒のジグラッドの奪還だ。これを最優先しろ」
「――はっ、了解しました皇帝陛下。では、失礼します」
敬礼をしたあと、バンクォー参謀総長は展望執務室を退出した。
参謀総長が去ったあともエンネアデスは戦略ボードを眺めていたが、しかし、今は戦争とはまた別の事柄を考えていた。漆黒のジグラッドから逃走した異形種機関兵だ。熱量供給を急ぎ時空が不安定になった瞬間、「何らかの意志」が熱量供給中の異形種機関兵の一体――少女型の十二番機キュベレイへ入り込んだ。
それまでも不安定になった時空から「不測の来客」はあった。
異形種機関兵に取り憑いたあれは何だったのか。
何かに憑依されたらしいキュベレイは自らの意志で時空を切り裂き、不安定な時空の範囲外へ逃亡した。北ネストに繋がっていたらしい異界――カントレイア世界ではない平行世界で製作されたと思わしき人形兵器――異形種機関兵にあのような機能――時空を切り裂く機能は付属していなかった筈だが――。
考えあぐねたエンネアデスは王錫へ視線を送った。転生石の王錫だ。これにも時空を切り裂く力がある。ひと一人ていどなら時空の割れ目に叩き落とし、この世から消し去ることは容易だった。漆黒のジグラッドと呼ばれる異形の塔の最上階には、この王錫の先端にあるものと同じ転生石が配置されている。他次元に存在する世界から大量のエネルギーを常時召喚できるほど巨大で強力な――。
「まだまだ、この世界はわからんことが多いな――」
顔をしかめたエンネアデスがソファから立ち上がって、部屋の隅で控えていた執事服姿の女性へ呼びかけた。
「ネメス」
「はい、皇帝陛下」
執事服の女性――ネメスが微笑んで応えた。
「こいつらの顔も
エンネアデスが目を向けたのは、ソファの後ろで控えていた性奴隷の少女二名だった。魔帝の言葉を聞いても、まだ若い彼女たちはその意味がすぐに理解できなかったようだった。きょとんと虚ろな目で二人の少女は自分たちの主を見つめている。
「――はい」
ネメスは瞳を細めた。この女執事ネメスも性奴隷の少女たちと同じ藤色の瞳だ。藤色の瞳は魔人族とヒト族の混血――ダーク・ハーフ特有の色であり、エンネアデス魔帝国における被差別民の証でもある。
しかし、この女執事ネメスは魔帝の性奴隷とは違う立場にいた。
魔賢帝デスチェインの九番目の妃フェデルマは我が子エンネアデスの本性を――転生者であることをおぼろげながら見抜き、何度も亡き者にしようと試みた。しかし、それでもエンネアデスは魔帝国最高権力者の実子だ。皇后の意向と魔帝国後継者候補の安全。どちらも尊重する必要があった周囲のひとは一計を案じて、幼いエンネアデスを乳母へ預け、実母フェデルマから引き離した。その乳母がこの女執事ネメス・フリアエである。
エンネアデスは魔帝の座につくと、この世界で唯一信用できる乳母を自分の執事として近くに置いた。魔帝後継者の乳母から魔帝の女執事となったあとでも、ネメス・フリアエは義理の息子エンネアデスへ無償の愛情を注いでいる。
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