二十節 お小遣い制度

 翻訳用の導式具――虎魂のネックレスのお陰で会話に不便はないが、ツクシは未だにカントレイア世界の文字が読めない。しかし、ユキを膝の上へ乗せると、ツクシは新聞を読んでもらえる。週に三度発行される(最近、発行日が増えた)新聞紙『タラリオン・キャピタル・インフォルメーション』――通称で王都新聞を読む必要があると考えたツクシは、ベッドに腰かけてユキを呼んだ。

 お昼を少し過ぎた時間帯だ。

 貸し部屋にいるツクシは休日で、同じ貸し部屋にいるユキはお昼の休憩中だった。開け放した窓から秋の陽光と一緒に吹き込んでくる風は肌寒さを感じさせる。ツクシは黒いキャミソール・ドレスから覗く、ユキの白い肩越しに新聞を眺めて、もう少し厚手の服をユキへ買ってやろうかなと考えた。それに、自分の冬服もそろそろ調達しないとなとも考えだしたツクシの顔色が悪くなった。ツクシの懐では季節おかまいなしで寒風が吹き荒んでいる。

「現在、ウェスタリア大陸では、ちゅうおうで興った新国家『彩』が覇権を唱え、近隣の小国へと次々と兵を派遣してりょうどを拡大。この戦乱によって発生した大量のせんそうなんみんが、グリフォニア大陸やドラゴニア大陸へ脱出する目的で、ウェスタリア大陸南東を領土とする『黄龍ホァンロン』の港へさっとうしており――」

 新聞を読むユキが猫耳を使ってツクシの首元をくすぐっている。

 衣替え以前にだよな。

 今月分の家賃の支払いを、どう誤魔化してやろうか――。

 心ここに在らずだったツクシは、はっと現実へ戻ってきて、

「――あっ、ああ、ユキ、そこは国際面だぜ」

「ツクシ、ここは違うの?」

 眉を寄せたユキが後頭部でツクシの胸をドスドスどついた。

「げっふん――ええと、ユキ、ちょっと待てよ――たぶん、俺が読みたいのはこの挿絵のところだ。随分と小さな記事だよな。あれだけの大事おおごとでも一面に載らねェのかよ。治安が悪すぎるんじゃないか、この国は――」

 ツクシは新聞をめくって三面記事のひとつを指差した。

「『倉庫街の切り裂き魔は吸血鬼?』――ツクシが読みたいのはこれ?」

 ユキが顔を右に傾けた。

「ああ、それだ、それ。ユキ、頼むぜ」

 ツクシが顔を左に傾けた。

「んっ。読むね――」

 猫っぽい笑顔をツクシへ見せたあと、ユキが新聞の音読を始めた――。


 ――去る空竜月の下旬。

 王都十二番区マディアの倉庫街周辺で発生した暴動の後、倉庫街の北区画五九〇三番地の貸し倉庫内外で五十六名の惨殺体に加え、貸し倉庫の地下室から百以上の変死体が発見された。十二番区区役所の治安維持警備対策本部は、これを殺人事件と断定して捜査中であったが、先日行われた定例の記者会見の席上で、この大量殺人事件の容疑者は吸血鬼であるとの見解を『十二番区倉庫街切り裂き魔事件特捜班』の捜査主任アルフレッド・セッツァー警備部長補佐が発表した。以下は、セッツァー警備部長補佐の談話である。

 暴動発生と同日の夜、大量殺人が発生した現場から北北東約五千三百スリサズフィート(※スリサズフィートはカントレイア世界の距離単位。おおむねヤード単位に該当)の路上で見つかった不審な遺体を検視解剖した結果、吸血鬼であると判明した。状況証拠や目撃証言から見て、大量殺人の起こった現場から容疑者と思しき吸血鬼が逃亡した可能性は極めて高い。この問題を重く見たエリファウス聖教会は、何名かの武装布教師を十二番区治安警備対策本部へ派遣する予定。

 ここへきて『倉庫街の切り裂き魔事件』は予想外の展開を見せている――。


 §


「ん、ここに俺の似顔絵はないな――」

 ツクシは王都新聞の紙面に並ぶ賞金首の一覧を確認してひとまず安心した。

 いつもの酒場のいつものカウンター席に座って字の読めない新聞を眺めていたツクシが、手元が暗くなったなと顔を上げると、もう陽が傾く時刻だった。

 ツクシの鼻先が動く。

 食欲を誘う匂いは厨房からだ。

 鯖のソース煮込み、

 香辛料を使った焼き豚。

 ついでに、ラムの香草焼き(これは毎晩出る人気メニュー)、

 牛の骨髄を使ったスープ。

 今日の夕飯はこのうちの何だろな――。

 ツクシは漂ってくる匂いをひとつひとつを嗅ぎ分けながら、酒場の一角で騒がしくしている集団を見やった。暗黙のうちにアルバトロス曲馬団の指定席になっている丸テーブル席でうなだれたアルバトロスが自分のところの団員に囲まれている。自分たちのボスへ野良犬のように吠えかかる団員の顔はどれもこれも険しく、これはどうも、穏やかな雰囲気とはいえない感じだ。

「アル、わたくしにも生活というものがあるのですけれど?」

 ツンツンと厳しい態度のマリー嬢がアルバトロスへ詰め寄った。

「マリーと俺だけ仕事から除けものなんて、ひどいだろ、アルさん!」

 ロランドもアルバトロスへ険のある顔を見せていた。

 腕組みをしてアルバトロスの横に陣取った幼女のフェデルマが、

「それは、どうでもいいわ。でも、今回の報酬が減額ってどういうことなの? アル、私たちへ説明をしてちょうだい」

 その声には幼女らしさのカケラもなかった。

 視線を落としたままのアルバトロスは反応もない。

「ちょっと、それどういう言い草ですの、フェデルマ!」

「どうでもよくはないだろ、フェデルマ!」

 マリーとロランドが抗議した。

「――ロランドは、黙っていなさい」

 フェデルマとしては、ロランドだけうるせえから黙ってろ、ということらしい。

「いつもいつも何だよ、俺にだけその言い方は! 今回ばかりは俺だって――」

 いつもいつも頼りない感じのロランドが珍しくキレた表情を見せた。

「ロランド、黙っていなさい!」

 フェデルマの怒りっぷりはロランドの比ではなかった。

 ぬぐっと表情を変えたロランドは、フェデルマを遠慮がちに睨んで頑張っていたが、結局、うつむいた。

「あうあう、姉さま――」

 フレイアが護符で隠した顔を左右に振って、それぞれ険悪な顔になった同僚を見やっている。

「――奴が持ってくる仕事はいつもこのオチだ。アル、いい加減にジークリットとは縁を切れ」

 これは階段近くの壁に背を預けて立ったカルロの発言である。

「ああ、そうだよな、カルロ。俺としても是非そうしたいんだけどな――」

 アルバトロスが細い声で応えた。

 虚ろな目をしたアルバトロスの右隣に座る悠里が、

「まあ、まあ、みなさん、落ち着いてください。おやっさんだって何とか報酬を全額引き出そうと頑張ってきたん――」

「悠里はアルに甘すぎると思いますわ!」

 マリーにツンと怒鳴られて悠里のお喋りは止まった。

「とにかく、アル。今回の仕事はあたしが一番働いたわけだから、あたしの分の報酬だけは約束の額を支給してよ」

 クラウンが薄く笑った。

 先ほどからずっとクラウンはこの主張一点張りである。

 アルバトロスはずっとだんまりを決め込んでいる。

 困った顔の悠里がいった。

「いや、クラウン、一人だけそういうわけには――」

「悠里にはいってない。あたしが話をしているのはアルだよ、アル。聞こえてる、アル? アルお爺ちゃんはお耳が遠くなっちゃったのかな?」

 アルバトロスを薄く笑いながら見つめるクラウンの瞳は冷え切っている。冒険者でありながら名もなき盗賊ギルドにも籍を置く暗殺者クラウンは、今回の仕事の目標――ヤサグレ貴族フランク・ド・ダッシュウッドと吸血鬼ニバス・デメルクを彼らのアジトから誘い出して穏便に抹殺するため、組織の幹部であるジャダ・バッドコックを通じ、吸血鬼ジョニー・コガラシ率いる王都九番区の餓鬼集団レギオン・ダタイ・スピアーズへ応援を要請した。ダタイ・スピアーズは名もなき盗賊ギルドの舎弟組織であるし、ダタイ・スピアーズ本体としても横紙破りでやりたい放題のマディア・ファナクティクスには以前から業を煮やしていたのだ。クラウンの要請がきっかけで、ジョニーはマディア・ファナクティクスのアジト襲撃を決断した。アルバトロスから指令を受けて、この工作に奔走していたのはクラウンである。クラウンはここ数日、アルバトロス曲馬団のなかで一番忙しく働いていた。

「ああ、なァ、クラウン。そんなに俺を睨むなよ――」

 周囲の叱責を一身に受けて、かなり老け込んだように見えるアルバトロスは、視線を上げなかった。

 このアルバトロス曲馬団解散の危機をのほほんと眺めつつ、エールをちびちびやっていたツクシの背へ、

「いよう、ツクシ」

「おばんです、ツクシさん」

 二人の男の声がかかった。

「お、ゴロウにヤマさん――ヤマさんは随分とまたやつれた顔をしているな、大丈夫なのかよ?」

 ツクシはタンブラーと新聞を片手に、怪訝な顔でカウンター席を立った。ツクシへの来客が複数人あると近くの丸テーブル席へ移動して着席するのが最近のお約束になっている。

「へへっ、ツクシさん、何でもないっすよ何でも――」

 丸テーブル席についたヤマダがねちっこい笑顔を浮かべた。

 ツクシは怪訝な顔のままだ。

 ゴロウは黙って着席した。

「――善い夕べだな、皆の衆」

 遅れて挨拶をしたのは、頭に中折れ帽子を乗せてフロック・コートを羽織ったリカルドだ。帽子も外套も上品な海老茶色でキメたリカルドは秋の装いだった。

「お、今日はリカルドさんも来てたのか。身体の具合はどうなんだ?」

 ツクシが訊いた。

「ウム、上々よ」

 帽子を取って応えたリカルドが、外套を脱いで椅子の背もたれへかけた。

「そうか――まあ、座りなよ」

 そういったものの、ツクシはリカルドの顔色が優れないように見えた。

「――フム。ここの宿もどうやら落ち着いたようだな」

 椅子に腰を落ち着けて、リカルドがいった。

「まあな――」

 ツクシの視線が空になったタンブラーの底へ落ちた。

「やっぱり悔しいっすよね――」

 ヤマダが不貞腐れたような口調でいった。それでも、グェンの名前を口に出さなかった。

「すべてが丸く収まったわけじゃねえ。そういうこったなァ――」

 髭面を曲げたゴロウが唸ったところで、

「ご注文はお決まりですか?」

 マコトが注文を取りに来た。

「いよう、マコト、赤ワインだ」

 顎髭を撫でながらゴロウは即決だ。

「ウム、我輩も赤をもらおう」

 リカルドも迷いはない。

「――うぅん、やっぱり、僕はスタウト(※上面発酵の黒ビール)で」

 ヤマダは眉間に谷を作って迷ったあとに決めた。

「ワインは太いボトルでお持ちしますか?」

 マコトは伝票と鉛筆を片手に表情をひとつも動かさない。

「うーん、そう、するかなァ――」

 ゴロウはリカルドの顔を横目で眺めながら歯切れ悪くいった。

「ムッ! それがよいな」

 リカルドは気合十分である。

 黙っていても、ツクシへはエールが出てくる。それがゴルゴダ酒場宿で一番安価な酒だからだ。マコトが厨房へ戻ってしばらくすると、干し無花果いちじくの生ハムとクリームチーズ乗せが盛られた大皿と一緒に頼んだ酒類がミュカレの手で運ばれてきた。

 おい、俺たちはそんなもの頼んでねェだろ――。

 驚いたツクシがミュカレを見上げた。

 目が合って何かを勘違いをしたミュカレが艶かしい微笑みを返した。

 いや、そうじゃあねェよ、ミュカレ。

 このおつまみの値段を教えろ、高そうだろうが、コレ――。

 顔を強張らせたツクシがそういいかけたところで、

「みんな、ゆっくりしていって」

 常連客向けの軽い挨拶をしたミュカレが、プラチナ・ブロンドの長髪をふわりと浮かせて背を向けた。諦めたツクシは干し無花果の生ハムチーズ乗せを手にとった。注文をしなくても料理や酒がどんどん運ばれてくるのがゴルゴダ酒場宿の常だ。文句をいっても仕方がない。

 若い葬儀の陰気がツクシの丸テーブル席にまだ残る。

 各々が杯を手にとったが乾杯の動作はなかった。

「――ところでゴロウ、俺に何か用事でもあるのか?」

 ツクシはエールで口を湿らせたあとに訊いた。

「ああ、そうだそうだ、忘れてた――」

 頷いたゴロウが赤ワインを一息に飲み干した。

 リカルドも一気飲みだ。

 リカルドさん、見るたびに酒の飲み方が下品になるよな――。

 ツクシは手酌でダバダバとワインを注ぐリカルドを見て不安になった。リカルドの横で、ヤマダが干し無花果の生ハムチーズ乗せを片手に、スタウトが入ったタンブラーをゆっくり舐めている。

「――それで、何だ、ゴロウ」

 改めてツクシが訊いた。

「ツクシ、女は欲しいか?」

 ゴロウはおつまみの大皿へ手を伸ばした。

「おまんこならいつだって必要だぜ。男ならみんなそうだろ。だが、それがどうした?」

 ツクシは即答だ。

「あァ、ローザがな――」

 動きを止めたゴロウは、考えは変らないのかなと、そんな感じでツクシを見つめたが、

「おう、あのいい肉体からだの女かよ。ゴロウ、はやく要件を伝えろ、この野郎」

 そう急かされた。

「――そのローザがな。良ければツクシへ格安で女を用意してやるってよ。あいつは流しの娼婦連中に顔が利くんだ」

 諦めたゴロウが用件を伝えると、

「商売女か。ゴロウ、それは何人までだよ?」

 ツクシが眉根を寄せた。

 真剣で深刻そうな表情である。

「ああよォ、何人って――まァ、いえばそれなりの数をつれてくると思うぜ。ローザあいつなりに考えた礼らしい。まァ、おめェはローザにとって命の恩人だからな。ああ見えて、ローザは義理堅いところがある。女衒街で長く暮らしてる奴らは、たいてい、そういうきらいはあらァな。で、ツクシ、どうする――うああァっ!」

 ゴロウはそういっている最中に絶句した。

「よし、すぐ行くぞ、ゴロウ――クッソ!」

 腰を浮かせたツクシが頭を抱えて椅子へ戻った。

 頭の上へ落ちてきた硬いお盆が、ツクシの行動を阻止したのだ。

「死ねばいいのに、このどすけべ!」

 お盆を縦に持ったユキが猛々しく吼えた。

 ツクシの石頭を背後から急襲したのはユキである。

 カッとなって振り向いたツクシが、

「ユキ! お盆はひとを殴るためのものじゃな――おう、ニーナもここへ来てたのかよ。良くないと思うぞ、ひとの背後に無言で立つのは。それってすごく危険らしいからな。ニーナは知ってるか? ゴルーゴうんちゃらって狙撃手スナイパーの漫画があってだなあ――」

 猫のしっぽを膨らませたユキの横で、ニーナが腕組みをして佇んでいた。

「――元気そうね、ツクシ。あら、お父様もここにいたの?」

 ニーナは凍えた声で挨拶した。

 ツクシは視線を合わさないようにそのニーナを眺めた。

 黒いニット帽をかぶり、海老茶色のニット生地を使ったタイトなワンピースを着て女性の肉体のラインを主張しつつ、足元は黒いロングブーツでキメて、健康的な白いふとももを印象的に見せた本日のニーナはシックな秋の装いだ。これは見蕩れるほどのいい女である。

 ただ、ツクシを睨むニーナの非情な目つきは非常に怖い。

「ウヌゥウ――」

 観念した様子のリカルドは下唇を噛みながら視線を落とし、手元にあった空の杯を見つめた。ニーナは無言で丸テーブル席へ着席した。対角線上にあった椅子へ腰を下ろしたニーナはツクシを視界の真正面に捉える位置取りだ。そのニーナは頭へのせていたニット帽を手にとって、案の定、ツクシを突き刺すように睨みつけた。

 ツクシが力なく視線を落とすと手元のタンブラーは空である。

「あ、ユキ、俺にエールのお代わりをだな――」

 ツクシが声をかけた。聞こえている筈だが、ユキは返事をせずに厨房へ消えた。そのうちに陽が完全に落ちて、来客が増えたゴルゴダ酒場宿はいつも通り騒がしくなった。

 ツクシたちの丸テーブル席だけお通夜だった。

「――ウム! 散歩も終えたし、我輩は先に失礼するぞ。あとはゆっくりやれ、皆の衆」

 白々しい台詞を吐きながら、最初にリカルドがゴルゴダ酒場宿から逃げだした。

 その直後、「俺ァ、便所へちょっとな――」そんなことをごにょごにょいい残して、ゴロウは裏口から行方を暗ませた。

「ツクシさんたちの邪魔をするのもアレですから、自分も失礼するっすよ」

 ヤマダも席を立った。

「いや、ヤマさん、全然、邪魔じゃないぞ」

 ツクシは呼び止めたが、鹿打ち帽子ディア・ハンターを目深にかぶり直したヤマダは冷笑的な笑みを口元に浮かべただけで返事をしない。

「おい、ヤマさん!」

 ツクシは強く呼びかけたが、ヤマダは何も応えず表情も変えずに踵を巡らせた。そうして、煤けた背中をツクシへ見せつけながら、ヤマダはゴルゴダ酒場宿から立ち去った。

「――ああ、ニーナ。と、とりあえずお前も何か――酒でも飲むか、ん?」

 低姿勢になったツクシが一人残ったニーナへ訊いた。

 ニーナの返事はない。

 切羽詰ったツクシは無言と無表情を貫くニーナへ夕食をご馳走することにした。会話のない静かな(もっとも、周辺は騒がしかったが)二人きりのディナーを済ませたあと、ツクシは「家まで送るか?」とニーナへ媚びへつらった態度で訊いた。ニーナは「いらない!」とツクシを冷たく拒絶した。

 王都の夜の治安は良いとはいい辛い。だが、頭に血が上っているニーナに対してよからぬ行為をはたらく暴漢には死あるのみであろう。ニーナは元軍人なのである。その体力や暴力の技術は間違いなく並みの男性以上だった。下世話な話も混じる。ニーナの肉体の性能をツクシは熟知している。

「まあ、ニーナなら夜に一人で出歩いても平気だろうな――」

 そう判断したツクシは、それでも宿の表まで出てニーナを見送った。ニーナは夜更けでもひと波の絶えないゴルゴダ酒場宿前の大通りをずんずん歩いて帰っていった。鼻息荒く交差点を東へ曲がったところで、ニーナは立ち止まって後ろを振り返った。

 ツクシは追ってこない。

 街路灯の灯りの下を、忙しく行き交うヒトの流れのなか、独り佇んだニーナは淋しい表情かおをした。


 肩と視線を落としたツクシが、カウンター席へ戻ると、カルロが指定席で酒の杯を傾けていた。カルロが好んで飲むのはぶどうの粕取り焼酎――グラッパである。

 今日のカルロさんは酒の飲み方が荒っぽいな――。

 物珍しさを覚えたツクシは、カルロへ視線を送りながら、その左隣へ腰を落ち着けた。ここがツクシの指定席である。

「――アルバトロスは金銭感覚が昔からゆるい。あれの元は、この王国の貴族だったらしいな。その所為だろう」

 滅多にないことだ。カルロが積極的にツクシへ話しかけてきた。驚いたツクシが顔を上げてカルロへ視線を送った。水色の瞳に真っ白な肌。目、鼻、顔立ちと絵で描いたようなエルフの男の顔だった。カルロの外見は青年のように見えるが百歳に近い年齢らしい。エルフ族は平均的に五百年以上生きる。

 やはりこれも人間とは全然違うよな――。

 ツクシがカルロの美貌を眺めていると、そのカルロがマコトを呼んで杯を頼んだ。

 マコトは杯をツクシの前に置く。

「ツクシ、俺に付き合え」

 カルロがツクシの杯へグラッパを注いだ。

 ツクシはニンマリ口角をゆるませて、

「酒の奢りは遠慮しないぜ。カルロさん、冒険者稼業も楽じゃあないみたいだな」

「好きでやっているから苦にならん」

 カルロは自分の杯を乱暴に干した。

「さっき、カルロさんは、タラリオンを『この王国』といったよな。そうなると、カルロさんは王都の出身じゃないのか?」

「俺の故郷クニはウビ・チテム大森林の西だ。エルフォネシア連邦国。ここからずっと南――ドラゴニア大陸の西端にある」

「連邦ということは――カルロさんの故郷クニは、タラリオンみたいな王政じゃないのか――」

 眉根を寄せたツクシがグラッパの杯へ口を寄せた。大酒飲みのツクシは長くやるなら強い酒――ウィスキーだとか焼酎だとかが好みだ。だが、カントレイア世界の蒸留酒は生産量が少ないようで、麦酒やワインに比べると値段が少々高い。貧乏なツクシの選択はどうしても麦酒に偏りがちになる。

「エルフォネシアは何百年か前に、エルフの支族が集合して作った国だ。それまではエルフ族の間でも争いがあった。今あるエルフォネシア連邦は国家の意志決定機関として、各支族の代表が作るエルフォン評議会を設置している。だから、エルフ族にはもう王がいなくなった」

 青年のような容姿のカルロが経年の重量がある声で説明した。

「なるほど、カントレイアでも国によって社会制度が全然違うんだな。評議会――議会政治? カルロさん、エルフォネシア連邦はタラリオン王国よりもリベラルな政治をやってるのか?」

 空になった杯へツクシが視線を落とすと、

「リベラル――どういう意味だ?」

 そう訊き返しながら、カルロがツクシの杯へグラッパを注いだ。

「ああ、悪いな、カルロさん、こんなにたくさん。リベラルじゃわからんか――ああと、革新派というか進歩的な考え、だな」

 考えながらそういったあと、ツクシがなみなみと強い酒が注がれた杯を手にとった。

「リベラルは進歩的な考えか。それはないな。エルフの老人どもは総じて頭が固い。海路が開かれた今でも異文化を嫌う。エルフの国は外から見れば窮屈で閉鎖的だ」

 カルロが自分の杯へグラッパを注いだ。

「へえ、そうなのか――」

 杯に口をつけたまま、ツクシがカルロを横目で見やった。

「そうだ。だから俺は冒険者を選んだ」

 頷いたカルロは正面を向いたままだ。

「なるほどな――」

 ツクシはカルロの瞳に意志を持った決別を見た。

 ひとそれぞれだな――。

 杯につけたツクシの口角が歪む。

「ツクシ」

 呼びかけたカルロが顔を向けた。

「ん?」

 杯の上から、ツクシがカルロへ視線を返した。

「俺は今回の件でお前を高く買った。どうだ、ツクシ、俺たちの冒険者団に――アルバトロス曲馬団に――」

 強い酒精とカルロの言葉が、ツクシの胸を熱く焼いたのだが――。

「――ツクシ、ちょっといいかい。すまないね、カルロ、話の途中にさ」

 話を遮ったのは厨房から出てきたエイダだ。

「――いや、女将さん、気にするな。そろそろ俺は寝る」

 少しの笑みを見せて、カルロは席を立った。

「おっ、俺も寝ようかな――?」

 ツクシが爛々と燃えるエイダの瞳が自分を捉えているのを意識しつつ腰を浮かせると、

「ツクシはちょっと待ちな!」

 エイダが吼えた。

 これは鬼の咆哮である。

「おうっ!」

 顔を強張らせたツクシの尻がストンと椅子へ落ちた。

「今、わたしゃ、ユキから聞いたよ! ツクシ、借金を抱えてまで女遊びとは大層なご身分じゃあないか。今月分の家賃の払いは一体どうするつもりだい? そもそも借金ツケを返せるアテがあるのかね?」

 債権者エイダが債務者ツクシの隣へズドンと腰を下ろした。エイダの全体重を受けて、カウンター席の椅子がミッシィと悲鳴を上げる。何とか椅子を破壊せずに腰を落ち着けたエイダは半身をツクシへ向けると、まくり上げたシャツの袖から覗く逞しい腕をカウンター・テーブルへドスンと置いた。それだけで、カウンター・テーブルがビリビリ振動する。

 この鬼の腕ならひと一人ていど片手で捻り殺せそうだ。

「そ、それはそうだよな、女将さん。かっ、返す言葉もねェぜ――」

 クッソ、あの猫娘めが、また余計なことを――。

 カウンター席の上で身を固めて、表情もまた完全に固めてうつむいたツクシの頬を冷や汗が流れ落ちる。現在、ゴルゴダ酒場宿にあるツクシの借金は、タラリオン金貨で三十枚以上となっている。正確には、金貨が三十二枚、銀貨が六枚、少銀貨が四枚である。今週は月末なので宿賃として金貨六枚と銀貨五枚がツクシの借金へ加算される。本日、ゴルゴダ酒場宿でツクシが飲み食いした金額は、ニーナへ奢った夕食代を含めて金貨二枚に銀貨八枚だった。ゴロウとヤマダとリカルドが会計前に逃げ出したので驚くほど高くついた。ツクシの財布には小さい銀色の硬貨と茶色い硬貨数枚しかなかった。だから、これも当然ツケだ。少銀貨以下の細かいお金はミュカレに負けてもらった。しかし、ミュカレもミュカレで大雑把な計算をする。「細かいのは負けてあげるわね」とミュカレがいったところで、本当に支払う金額が少なくなっているかどうかは怪しいものだと最近のツクシは考えている。

 とにかく、今ある俺の借金の総額は金貨四十枚以上。

 ネスト・ポーターの日当は一潜り平均で金貨二枚と銀貨が五枚。

 俺はどうやって借金を返すんだろうな、これな――。

 混乱したツクシが適当な算盤を使って大雑把な金額を弾きだした。計算して借金が減るわけでもないのに馬鹿な男である。

「――アンタさ、このままじゃあ、いつまでたっても宿の借金を返せないだろ。こっちが黙ってたら増える一方じゃないかね?」

 エイダが角度も鋭くうなだれたツクシを厳しく睨む。

「そ、そうだな、女将さん、まったく、その通りだ――」

 としか、ツクシにはいえない。

 実際、ツクシはエイダに視線すら返せなかった。

「そこで、わたしからツクシに提案なんだけどね――」

 深夜まで続いた話し合いの結果である。

 ツクシがネストで稼いできた金は宿へ帰る都度つど、債権者であるエイダがすべて取り上げる約束になった。せめてせめて、手取りの半額を納める形にならないかなあとツクシは粘ったが、エイダは一切聞く耳を持たない。こうして、ツクシが生活に必要な金はエイダと逐一交渉して引き出すしかなくなった。

 九条尽、三十四歳、男性、婚歴ゼロ。

 ここにきて、お小遣い制を適用された。

 ふらりとカウンター席から立ち上がったツクシは、がっくりうなだれたまま、自分とユキの貸し部屋へ向かった。


(六章 魔刀、月下を奔る 了)

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