十九節 囚われびと

 二万とんで四千十五年と百六十五日、六時間五十七分、三十四秒――。

 この数単位が今回『星幽の聖域アストラル・サンクチュアリ』にある円柱状の巨大(無限大に巨大な――)情報集積用構造物――世界記録媒体アカシック・レコードへの干渉アクセスに、フロゥラが要した時間である。星幽の聖域には時間の概念が存在している。しかしそれは、運命を記録した箇所を測る尺度でしかない。ゆえに星幽の聖域において経過した時間は、フロゥラが実存する世界へ影響することはない。自身の存在の再構成を成功させたフロゥラが、ベッドの脇の置時計へ目を向けると、実存世界の時間は一秒も経過していなかった。絶大なる歪みの力――魔導の胎動の全出力で時空を歪め、自身を『星幽的存在アルトラル・イオン』化したフロゥラは、星幽の聖域へ突入ダイヴ、複数の世界に跨る世界記憶媒体への干渉を実行した。

 そこへの扉は誰の目の前にもあるが、誰でもそこへ入れるわけではない――。

 結論からいうと、フロゥラが世界記録媒体へ行った干渉は成功した。だが、それは失敗ともいえた。フロゥラは以前、輪廻蛇環ウロボロス号を再生するために世界記録媒体へ干渉を行ったときと、まったく変らない結果を持って帰ってきた。結局、フロゥラがこの世界に誕生させたのは、主人の許可を受けて再生されているだけの存在――囚われびと。

 場所はネスト管理省の直下千二百メートル付近にある違法建築物――吸血鬼の女王の贅沢な別荘の二階にあるフロゥラの私室である。

 長い紫色のソファに座る、真っ赤なカクテルドレス姿の(例によって肌の露出が多い)吸血鬼の女王フロゥラ・ラックス・ヴァージニアは濃い溜息を吐いた。

 確固たる存在の証明を得れば、フロゥラは世界記録媒体へ干渉をして、その存在を再生することができる。だが、フロゥラは世界記録媒体に記録された運命を書き換えること――過去を変えることに今回の突入ダイヴでも失敗した。世界記録媒体は記録された運命を永劫へ輸送するために、存在の証明を持たずに干渉しようとする対象を排除し、さらには外部から改ざんを受けた箇所を修復する防衛機能――進化的運命暗号鍵エヴォルメ・マナ・セキュリティを備えている。フロゥラよりもずっと研究熱心で、冥の英知に関する知識が深い骸の女王イデア・エレシュキガルをもってしても、未だに世界記録媒体に一旦記録された運命を書き換えることは不可能だ。

 二千年以上、イデアは世界記録媒体を相手に格闘している――。

 フロゥラは肩を震わせた。フロゥラの知るイデア・エレシュキガルは歴史が曖昧になるほど昔から、強烈な負けず嫌いなのだ。もちろん、今でもそうだった。

「まあ、私であれ、イデアであれだ――」

 フロゥラは考えた。

 世界記録媒体へ干渉できても、そこへ記録された運命を書き換えることができない以上、大局は変化しない。

 だから、この干渉は所詮、私の自己満足にすぎないのだ――。

 笑っていたフロゥラから表情がすべて消えた。

「無意味だが、しかし、私のわがままで再生したものを、私のわがままで消し去るわけにもいかん――!」

 決意を固めたフロゥラは自分の胸元に両手を置いて、「えいやっ!」と胸から魔導の胎動を引きずり出した。可視化した魔導の胎動は立方体の各面に魔導の紫炎が駆け巡っている。フロゥラはその側面で何かを摘み上げる仕草をした。すると、円筒状の情報集合体――『魔導円筒デモニック・ローター』が飛び出てくる。フロゥラは魔導円筒を巡る魔導の術式をひとしきり眺めたあとに頷いてまぶたを閉じた。フロゥラの青白い指先が魔導円筒に触れた。指先から紫色の火花が散る。

 永劫不滅の女王が、どこまで続くとも知れない己の運命へ、新たな命令――自身の意思を書き込む――。

 複合魔導式陣を肉体へ埋め込み、生体エネルギーを燃料にして常時機動させる構造の魔導式機関。これが吸血鬼ヴァンパイアが持つ魔導の胎動の正体だ。この半永久的に機動する複合魔導式陣・魔導の胎動へ直接改造を加える技術を持つのは、現状、この魔導式機関の開発者であるフロゥラのみだった。他の吸血鬼は魔導の胎動を使い続けることで勘と経験を積み重ね、その機能をゆっくり進化させるしかない――。

 作業を終えたフロゥラは魔導の胎動を抱きしめた。

 非人間的な性能を肉体へ供給し続けるその魔導式機関は、フロゥラの胸の谷間へ抵抗なく沈んでいった。

 カスタム・アップした魔導の胎動を自身の肉体へ戻したフロゥラは、ソファに深くその身を沈めて懈怠けたいを漂わせる――。

「――今よろしいでしょうか、フロゥラ様、チュ!」

 部屋の扉の外からワーラットの声が聞こえた。

「うん。ポレットか、入れ」

 フロゥラが入室の許可を出すと、部屋の外に控えていた二人の吸血鬼の下僕が、女王様の私室を開放した。

「失礼します、チュ。ついさっき、タラリオン王国の騎士ジークリット・ウェルザーの使者が参りまして、女王様にこれをと。チュウチュ――」

 ポレットは頭を下げて両手で持った小箱をチュウとフロゥラへ突き出してうやうやしい所作だった。

「うん? 素直に返してきたのか。それは意外だ。あの三枚舌の騎士は独裁者ディクタートルのブレスレットの返却に、何か条件を突きつけてくると思っていたが――」

 フロゥラが受け取った小箱の包みを解いた。包みのなかから出てきたのは宝石箱だ。黒檀にブロンズの縁を使って細やかな象嵌ぞうがん細工が施されたその宝石箱はそのものだけでも豪華だった。もっとも、贅沢品に囲まれて暮らしているフロゥラは、その箱を見たところで感心した様子もなかったのだが、しかし、その蓋を開けた途端、

「あ、あの三枚舌の青二才めがっ!」

 女王様は怒髪天を衝いておられるご様子である。

 実際にも、その夜闇のような黒髪が舞い上がっていた。

「――チュウ!」

 ポレットがぴょんと飛び上がった。

「ポレット――?」

 フロゥラが箱の中身をガリガリ睨みつけて唸った。

「チュ、チュウチュウ?」

 ポレットが視線を惑わせた。女王様の私室には本棚の裏側に隠し通路がひとつ、正面に巨大な両開きになった扉がひとつと、二種類の脱出経路が用意されている。

「ジ、ジークリットから私へ言伝ことづてがなかったか?」

 女王様は爆発寸前のご様子である。

「チュ、その、チュウチュ――」

 ポレットはチュウチュウ口篭った。

「何だ、ポレット、早くいえ、少しでも待たせたらすぐにでも、おぬしを殺すぞ!」

 白いこめかみの左右に青筋の稲妻を走らせた女王様の雷鳴である。

「その、チュ、騎士ジークリットの使者は、『ブレスレットを回収したのはクジョー・ツクシと女王陛下に伝えてほしい』とだけ、チュウチュチュチュ――」

 ポレットは首をカクカク振りつつ後ずさりをした。

「こ、この切り口――ま、まさか、あ、あ、あの男の、ツクシのカタナか!」

 フロゥラが吼えた。独裁者のブレスレットは両断されて二個になっていた。核である魔導石の内部へ極小の魔導式を刻み込んで作った魔導式具の繊細な機能は失われている。一応のところ、貴金属としての価値はまだ保っているが、道具としてはガラクタ同然だ。アルバトロスもジークリットも派手に壊れてしまったこの魔導式具の補修を諦めたようである。ここで周辺の空間が揺らぎだした。吸血鬼の女王様が怒りに我を忘れてひずみ効果オーラを放出している。

 品のない言い方をすると、これはお漏らしである。

「チューウアァ!」

 ポレットは部屋の扉に取りついてバンバン叩いた。ポレットは長い口ひげをブルブル震わせて必死だ。部屋の外で控えていた下僕の二名が異変を察して扉をさっと開いた。間髪いれず、二転三転と転がったポレットが女王の私室からチュウと逃げだした。ねずみなのに脱兎のごとくだった。女王様の大爆発は毎度のことなので、部屋の外に立った二人の下僕も扉の開閉のタイミングが手慣れた感じである。

「お、おのれ、ツクシめ。ぜ、ぜ、ぜ、絶対に逃がさんぞ――!」

 私室に一人残って身をガタガタ震わせるフロゥラの発言である。

 絶対に逃がさないらしい。

 愛憎入り混じった凄惨な表情のフロゥラは、私室の空間を歪の効果でぐわんぐわん揺るがした。部屋の壁一面にある大きな本棚から魔導式や導式に関する分厚い背表紙の稀覯本が全部ぶっ飛んだ。バー・キャビネットに並んだとびきり上等な酒の瓶がパンパン割れて、床一面へ敷かれた高価な赤い絨毯をびしょびしょに濡らした。暖炉にあった灰が舞い散って周辺をしつこく汚している。べろんべろんに酔っ払ったポルターガイストが部屋に出現したような有様だ。女王様の癇癪で散らかった部屋を片付けるのはポレットの仕事になっている。

 長い時間をかけて存分に怒り狂ったあと、ようやくフロゥラが歪の効果の放出を停止させて、箱と一緒にぶっ壊れた独裁者のブレスレットを、ポイッと放り捨てた。捨てる方向を見もしない。

「ああ、このブレスレットに記述された支配の魔導式を私の魔導の胎動へ移植して、あの男ツクシに使ってやろうと思っていたのだが――」

 邪な計画を実行前に頓挫させられた女王様が、ソファでふんぞり返ってムスッと不満を持続していると、

「ご主人様、お茶が入りましたよ」

 部屋の外から少女の声だ。

「――うん、何だ!」

 女王様はご機嫌斜めな返事だ。

「あっ、あとにしましょうか――」

 部屋の外から帰ってきた声は明らかに怯えていた。

 フロゥラは、ぷっしゅーと長い息を吐いたあと、

「――いや、今すぐもらう。一服して落ち着きたい気分だ」

「はい、では、お持ちします――」

 女王の私室の扉が開いた。

 銀色に輝くティー・ワゴン(※ティー・セットを運ぶキャスターのついた小さめの台車)を押して、メイド服姿の少女が入ってくる。

「カレラ――」

 フロゥラが声をかけた。

「はい、何でしょうか、ご主人様?」

 カレラはティー・ワゴンの上のティー・ポットを睨むようにして見つめていた。

 グラス製の丸いティー・ポットのなかで紅茶の葉が対流に身を任せ踊っている。

「カレラは私を恨んでいるか?」

 フロゥラが訊いた。

「――えっ?」

 カレラは紅茶を注ごうとしていた手を止めて顔を上げた。

 主人の返答は少しの間なかった。

 やがて、意を決した様子のフロゥラが顔を上げて、

「生きている間におぬしをひとで無くした上、今度は勝手な考えで死んだおぬしを『囚われびと』にした。私が死ぬまで、おぬしは私に囚われる」

 魔の眷属は『ありえぬ結果』と寄り添って生きる――。

「あの、それは――」

 カレラが瞳を伏せた。

「うん、やはり恨むよな。よいぞ、カレラ、私を恨んでも――」

 うつむいたフロゥラは唇を笑みの形に作り変えて自分自身を嘲笑った。

「――あの、フロゥラ様!」

 カレラが顔を上げて長い一本三つ編みを跳ね上げた。

「――うん?」

 気の抜けた返事をしたフロゥラが顔を上げると、カレラの顔から、いつもつけている仮面が外れている。吸血鬼の女王の瞳に映るのは、かつて愛した、これからも愛するであろう、カレラ・エウタナシオの本質だった。

「あっ、申し訳ありません。わたし、大きな声を――」

 頬を染めたカレラが自分を見つめる夜の双眸から目を逸らした。

「うん、それはいいが――カレラ、何だ?」

 フロゥラが微笑んだ。

 動揺した様子のカレラは、肩を竦ませながら胸へ右の手を置いたが、

「あの、わたしは今、すごく嬉しいのです」

 しかし、はっきりと伝えた。

「――嬉しいか?」

 女王の仮面を外したフロゥラがカレラを見つめた。

「はい。わたしは、わたしの居場所ができました」

 頷いたカレラが女王のティー・カップへ紅茶を注いだ。

「うん。そうか――」

 緩慢に呟いたフロゥラが、カレラの手で置かれたティー・カップを見つめた。側面に鮮やかな緑色と豪華な金色で茨文様が描かれた白磁のカップだ。

 そこから揺らめく湯気が紅茶の香りを女王様へ届けている。

「――はい。ミルクとお砂糖は、いつもの加減でよろしいでしょうか?」

 カレラが彼女の女王様へ身を寄せた。

「うん――」

 怠けものな吸血鬼の女王様は砂糖もミルクも家政婦メイドの手で紅茶へ入れさせる。

 ミルクはたくさん。

 砂糖はティー・スプーン二杯分――。

「――できました。ご主人様」

 カレラが笑った。ソファから身を起こしたフロゥラは、朱華色の唇へティー・カップを寄せて、その紅茶をひと口飲んで――。

「――うん。カレラ、おぬしは紅茶を煎れるのが本当に上手いな。私の友人におぬしと同じくらい紅茶を煎れるのが上手い女がいた。病弱な肉体を捨て魔導の胎動を得たあとも、ずっと片田舎に引っ込んで暮らしていた女だ。変な奴だったよ。そいつの名はセシリアといってな――ああ、突っ立っていないで座れ。おぬしも茶を飲んで一息入れろ」

 フロゥラがソファをバシバシ叩いた。

「――はい」

 顔をうつむけて、小さな声で返事をしたカレラは胸の高鳴りを覚えていたが、それでも努めて無表情を装いつつ、主人の横へそっと腰を下ろした。

 吸血鬼の女王フロゥラ・ラックス・ヴァージニアの思い出話は二千年分以上ある。

 この日、不死者ノスフェラトゥとなったカレラ・エウタナシオへは、それをすべて聞き取る時間が与えられた。


 §


 王都の北端にある丘陵には大タラリオン城が鎮座している。

 その北に位置するタラリオン王国防衛省の八階にある参謀執務室を訪れたアルバトロスは、仕事の報酬の減額を叫ぶジークリットを相手に丁々発止ちょうちょうはっしとやり合った。

「――とにかく、今回の出せる報酬は半額だ。これだって失敗した仕事の報酬にしては払いすぎだぞ。君との話はこれで終わり、終了! 僕は騎士団長に呼ばれているから、北部の戦線へすぐ戻らないといけない。だから、僕はすごく忙しい。よーし、わかったらここからすぐ出ていけ、アルフォート!」

 交渉の最後に、ジークリットはアルバトロスへそう伝えた。もとい、そう吼えた。ジークリットは王都をすぐ離れるといったが、あれはまた嘘だろうなとアルバトロスは考えている。

 あのクソ野郎は頭のてっぺんから足の爪先まで大嘘の塊だ。

 畜生め、呪われろ、できる限り苦しんで死ね。

 だいたいな、毎度毎度あの偉そうな態度は何なんだ。

 不愉快だ。

 この俺はあの若造の大先輩なんだぞ――。

 顔をしかめて歩くアルバトロスの視線は薄暗い路面を辿っている。時刻は夜の七時を回ったところだ。王都の陽はすでに西へ落ちたが、王都十三番区ゴルゴダは路地裏にも街路灯が設置されているので手に灯りを持たなくても歩ける。ゴルゴダ酒場宿の厩舎に愛馬ココアを預けて、ここまでのそのそと歩いてきたアルバトロスが足を止めた。

 ゴルゴダ銭湯の裏手から、路地へ少し突き出すような形で増設されている小屋の前だ。

 隣には銭湯のボイラー室がある。

「――入るぞ」

 アルバトロスが小屋の扉を開くと蝶番が錆びた音を鳴らした。

「アルか――」

 小屋のなかにいたラウが顔を上げずにいった。古新聞の束やら、空の酒瓶やら、ボイラー室から溢れた薪やら、手桶の山やら、小さなベッドやら、帳簿やら筆記用具や算盤が積まれた机やら――雑多な生活用品でゴミゴミとした部屋の真ん中で、丸椅子に腰をかけたラウは床に置かれた陶磁器の七輪を眺めていた。

 それには木炭で火が入っている。

い夜だな、ラウ――何だよ、その白いの。マシュマロか? それがお前の晩メシなのか?」

 アルバトロスが訊いた。

 ラウは七輪の上で白くて四角い何かを炙っている。

「これは餅だ」

 ラウは長い菜箸を使って餅をつつきながら短く応えた。

「――モチ?」

 腰を屈めたアルバトロスが、七輪で炙られている餅へ顔を寄せた。右の眼窩にある導式義眼がチカチカ点滅している。義眼に記録してある情報を参照してみたものの、適合する情報は見つからなかったようで、アルバトロスは餅を睨んだまま怪訝な顔だ。

「ああ、もち米でつくる――」

 頷いたラウは七輪の上に並べた餅をずっと眺めている。

「おっ、膨らんできた! これの原料はコメなのか? だが、粒々してないな?」

 驚いた顔のアルバトロスが訊いた。

 年老いても好奇心旺盛な男なのである。

「もち米を臼で練るとこうなる」

 ラウがまた短く応えた。

「ほお、モチコメを練るとこうなるのか。ラウ、これって旨いのか? どこの国の食い物なんだ?」

「これは倭国の食い物だ。あのジジイは倭国贔屓でな――」

「あー、なるほど、倭国の特産品か。倭国だけは俺も行ったことないんだよなあ。うーん、くたばるまでに一度くらいはと思うが――で、ラウ。そのモチが今回の仕事の報酬なのか?」

 アルバトロスがラウの横顔を見つめた。

「そのつもりらしい。ケチな話だ――俺に何の用だ。はっきりといいな」

 舌打ちをしたラウがアルバトロスを横目で睨んだ。

「一応、確認にきただけだ。正直、お前が出張ってきたのは意外だった」

 アルバトロスが唇の端を吊り上げた。

「ニバス・デメルクの件か。あの仕事は前々から組合ギルドに――ゴブリン・ロードジジイに頼まれていた。こっちは全然、乗り気じゃなかったんだぜ。俺はもう冒険者でもぞくでもねえからな。だが、気を利かせて頭を低くしているうちに風向きが変わっちまった――」

 ラウがギョロリと大きいゴブリンの目を細くした。

 グェンたちと諍いになっている餓鬼集団レギオンマディア・ファナクティクスは、吸血鬼ニバス・デメルクと、吸血鬼の女王フロゥラの本宅から盗み出された魔導式具――独裁者ディクタートルのブレスレットが関係しているヤバイ集団らしい――。

 名もなき盗賊ギルドを経由して情報を得たラウは、グェンたちを追い回して宿の仕事を常時より多く与えていた。俺の目の届く範囲に子供ガキどもがいれば、とりあえずは安全だろうと考えたのである。だが、団体の予約客が入ったあの日、忙しさにかまけたラウがグェンから目を離したその隙だった。

 ラウはモグラやアリバと一緒にグェンもボイラー室で寝ていると思い込んでいて――。

「――ラウアールの腕は錆びついてないな。ホークスが生きていた頃と何も変わらんぜ。見事なものだった」

 沈黙したラウへ、アルバトロスがいった。

 かつてのアルバトロス――アルフォート・フォン・バトロースは、ゴルゴダ酒場宿の従業員たちと一緒に高名な冒険者団に所属していた。その名はホークス冒険者団。今はもう、ホークス冒険者団は存在しない。そこに所属していた団員は、そのほとんどが鬼籍に入っている。カントレイア世界で最強の冒険者団を自負していたホークス冒険者団の四十二名は禁断の地へ足を踏み入れたとき、全滅寸前まで追いやられた。

 今から十年前になる。

 ドラゴニア大陸の中央を東西に走るディ・ラクエラリア山脈の麓にあった難攻不落の地下遺跡『醜い竜の大迷宮』――通称で南ネストをホークス冒険者団がアタックした。その結果、南ネストの奥底に巣食っていた異形種の攻撃を受けて、ホークス冒険者団は壊滅した。グリーン・オーク族の冒険団団長ホークス・ジオ・ウパカも憤死した。命からがら地上へ逃げ帰ったホークス冒険者団は解散することになった。そのあと、ホークス冒険者団の生き残りだったグリーン・オーク族の女戦士エイダ・メル・ウパカの呼びかけで、同じく南ネストから生還したホークス冒険者団の、

 エルフ族の精霊使い、ミュカレ・エルドナ=ウンディーネ、

 ドワーフ族の重騎士、セイジ・ヴィンダールヴル、

 ゴブリン族の盗賊、ラウアール、

 それに、ヒト族の導式剣術使い、アルフォート・フォン・バトロース(※現アルバトロス)が共同出資をしてタラリオン王国はその王都十三番区ゴルゴダにあった酒場宿を買い取ったものが、今あるゴルゴダ酒場宿だ。

 だが結局、旅と冒険への浪漫を捨て切れなかったアルバトロスは、自身の冒険者団を結成して今も冒険者を続けている。幾多の冒険者を呑み込んできた南ネストは、何年か前に制圧されてただの廃墟となったらしい。南ネストへ展開していたグリーン・オーク共和国軍が制圧したのではないかという噂だが詳細は定かでない――。

「――アル、俺は錆びついた」

 ラウが苦々しく笑った。

「うん?」

 アルバトロスがラウの横顔を見やった。

「――俺は錆びたのさ」

 ひび割れた声で唸ったラウは菜箸を使って、七輪の上から砂糖醤油の入った小皿へ焼けた餅を移した。

 俺が頼まれた仕事をさっさと片付けておけば、グェンは――。

 餅を眺めるラウのゴブリン面が歪んでいる。

「――そうか」

 アルバトロスは表情を変えずにそれだけいった。

「ああ、そうだ――っち、ち、畜生!」

 焼いた餅を手で持って食おうとしたラウが悲鳴を上げた。

 アルバトロスは、ラウの指先にくっついて、みょーんと伸びた餅を眺めながら、

「おい、ラウよ」

「何だよ、アル?」

 ラウは火傷した指先に息を吹きかけている。

「モチってのはどんな味なんだ。俺にもひとつくれ」

 アルバトロスは導式義眼をチカチカさせながら餅を凝視した。

「少銀貨八枚だよな」

 金額で応えたラウが作った笑い顔をアルバトロスへ見せた。

「お前は相変わらずケチだよな。こんなにたくさんあるだろ、なあ?」

 アルバトロスが呆れ顔を見せた。

 ラウは知らん顔で焼き餅を頬張った。

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