十六節 独裁者の蜘蛛(肆)

「おひゃらはあれあ(お前は誰だ)!」

 まさしく舌足らずで叫んだニバスが刺突短剣を引き抜いた。

「ああもう面倒くさ。死ね!」

 クラウンも叫んだ。叫んだときには、クラウンの落涙の刺青がニバスの眼前に迫っていた。クラウンが一気に間合を詰めたのだ。地を這うようなクラウンの姿勢だった。

 走る影のように――。

 クラウンの二刀のククリ・ナイフが夜闇を裂いてニバスを襲う。

 ニバスは路面を蹴った。

 クラウンが振るった右のククリ・ナイフは、ニバスの眼球を横一閃に狙っていた。クラウンの左のククリ・ナイフは、ニバスの喉を狙う軌道だった。紙一重で、ニバスは背後へ跳んで敵から距離を取った。まだ若い吸血鬼であるニバスは魔導の胎動を利用してひずみ効果オーラを放出しても、さほどの距離を飛べない。せいぜい数歩分、暗殺者の刃からニバスは身を離しただけである。

 それでも、手傷を負うことは免れた筈であったが――。

「――らんらろ(何だと)」

 着地したニバスが目の下に手を置いた。新たな流血で顔面が濡れている。紙一重でかわした筈の刃は深い切り傷を作っていた。クラウンが前傾姿勢を保ったまま、今度はゆっくりとニバスとの間にある距離を詰めた。だらりと下げたクラウンの両手から下がるククリ・ナイフから、どのような攻撃か繰り出されるか、ニバスは見当もつかない。

 その女の動きは音もなく――。

 このヒト族の女は冒険者か、もしくは名もなき盗賊ギルドの構成員。

 それも相当な手練てだれだ。

 まさか、この道化の女は、クジョー・ツクシの仲間なのか――。

 ニバスは何者かの集団につけ狙われている可能性を考えだして顔が引きつった。同時に、まだ攻撃の間合にないニバスが腰を落として、手に持った刺突用短剣を振り抜く構えを見せる。

「――ちょっと、その短剣って!」

 クラウンの薄い笑顔が悲鳴と一緒に引きつった。

 ニバスの短剣にある周辺の空間が揺らいでいる。クラウンへ刃の届かない位置からニバスは刺突用探検短を振ると、先にあった空間が膨張して炸裂した。魔導式具が作った衝撃波を食らったクラウンが後方へ吹き飛び、路地の脇にあった木製の屋台へ突っ込むと。破壊された屋台の木片と一緒に土埃が上がった。ニバスは刺突用短剣――魔導式具に組み込まれていた魔導式陣・雷烈波ヴァジュラを機動させたのだ。

 吸血が必要だ――。

 顔面を血まみれにしたニバスは、屋台の上に倒れて動きを止めたクラウンを睨んだ。

 若い女の血はニバスの大好物だ。

 顔に新しい傷を作られた恨みもあるからな――。

 吸血鬼の牙を剥いたニバスが足を一歩踏み出すと、路地の奥から馬の蹄の音が聞こえてきた。それはヒト族の聴覚では聞き取れないほどに小さいものだったが、吸血鬼のニバスの耳には届く。

 馬の蹄の音は三頭分。

 倒れた女の仲間か――。

「――きゅひょ(クソ)!」

 ニバスは悔し紛れに一声吼えると踵を巡らせた。

 むろん、馬の蹄の音とは逆の方角である。

 ニバスが逃げ去ったあと、現場にやってきたのは、黒駒に乗ったアルバトロスと、栗毛の馬に乗った悠里だった。空の背の白い馬を一匹つれている。

 アルバトロスは木片の上に倒れていたクラウンへ馬を寄せて、

「クラウン、ニバスを逃がしたのか?」

 クラウンは仰向けのまま馬上のアルバトロスを見上げて、

「――アル。あいつが短剣の魔導式具を持っているなんて、あたし、聞いてないよ?」

「へぇえ、クラウンから逃げたのかあ。さすがは吸血鬼ですかね――」

 悠里はニバスが逃げ去った路地の奥を眺めている。

「よっ、と――」

 クラウンは掛け声と一緒に両足を揃えて上へ跳ね上げて反動をつけると、その場にヒョイと立ち上がって、

「こうしていればさ、あたしの血を吸いにくるかな、とか。あいつって吸血鬼だし。でも予想はハズレ。ニバスは何かに怯えていたみたいだよ。それに、やり合う前からかなりの深手だった。あの傷はカルロかフェデルマがやったの?」

「早くニバスを追いましょう、おやっさん!」

 悠里が眉間に険がある。

 たいていの時間帯でニコニコしている悠里にしては珍しい表情だ。

 馬上でうつむいていたアルバトロスが、

「――いや、悠里、もうその必要はない」

「え? カルロさんたちは、こっちの区画へ回っていたんですか?」

「いや、違うが――ニバス・デメルクはこれから間違いなく死ぬ」

 アルバトロスは、うつむいたまま悠里に視線を返さずに、右の眼窩にある導式義眼をチカチカ作動させていた。

「あたしの毒で? でも、結構、元気に走っていったけど。吸血鬼に効くかどうかは、試したことがないし――」

 クラウンは唇に薄笑いを貼り付けたままの顔を傾けた。暗殺者クラウンのククリ・ナイフには毒が仕込んである。植物由来の猛毒で、その名も『寝起きの性悪女トライトアジン』。その効果は中枢神経系の機能低下とせん妄状態の誘発である。

「今回の仕事は終わりだ」

 アルバトロスは顔を上げた。

「――はあ、そうなんですか」

 悠里は一瞬、不満気な表情を見せたものの納得したようだ。アルバトロスは導式義眼を通してフレイアの式神で得ている視界を共有している。だから、アルバトロスが死んだというのなら、ニバスは間違いなく死んだのだろうと悠里は考えた。

「ま、アルがそういうならいっか。これで終わりってことは例のブレスレットも回収できたの?」

 クラウンが白い馬の鐙に足をかけた。

「あれなあ、あれはツクシとゴロウが回収しやがった――」

 アルバトロスがものすごく渋い顔になった。

「――ツクシとゴロウが? 何で?」

 クラウンは鐙に足をかけたまま動作を止めてアルバトロスを見つめた。

 アルバトロスはクラウンからソロリと視線を外した。

「マディア・ファナクティクスのアジトへ、ツクシさんが斬り込んでみんな殺したんだよ。僕は現場を確認していないけど、おやっさんは義眼で確認したらしい」

 悠里がクラウンへ状況を説明した。

 クラウンは鐙に足をかけたまま、アルバトロスをじっと見つめて、

「何日もかけて、あたしが根回ししたのに? それは、ジョニーの仕事の筈だよ? それだと、段取りが台なしじゃない?」

「まァ、台なしだよな――」

 他人事のようにアルバトロスがいった。

 声が小さい。

「穏便に済まなかったですよね、あはっ!」

 悠里が楽しそうに一声笑った。

「悠里よ、ツクシはレィディに乗ってたぜ。どうも、俺たちはアヤカ嬢ちゃんに一本取られたらしいな――」

 アルバトロスが白々しくも真面目腐った顔で、計画失敗の責任をここにいないものへ押しつけた。

「あっ! アヤカ、あいつ!」

 叫んだ悠里がキイッと顔に苛立ちを見せた。

「そうなんだ、ツクシはアヤカの刺客に使われたんだ。アヤカ本人が来なかっただけマシだったのかな――いったたっ、背中、いた!」

 白い馬に跨ったクラウンが、先ほど打ちつけた背中を、今さら痛がりだした。

 ニバスの攻撃でまったく負傷しなかったわけではないようである。

「悠里、宿へ帰る前に区役所と警備隊詰め所に寄る」

 アルバトロスが馬を進めた。

「え、何でです?」

 悠里がアルバトロスの横について馬を進めた。

「行くよ、ピクシー」

 白い馬に乗ったクラウンがそのあとに続く。

 この白い馬の名前をピクシーというらしい。

「このまま、ツクシをお尋ねものにしておくか?」

 アルバトロスが苦く笑った。

「ダ、ダメですよ、そんなの、もちろん、僕も付き合います」

 悠里は必死な表情だ。

「そうだろ? やれやれ、仕事が増えて面倒だな、もう――」

 溜息と一緒にアルバトロスが馬の脚を早めた。


 §


 ニバスはブカブカと柔くなった石畳の路地を踏み、闇に揺れる倉庫と倉庫の間を潜り抜けて、逃げ続けた。本人は全力で走っているつもりだ。だが実際のニバスはふらふら左右に蛇行しながら力なく歩いているだけだった。恐怖に追跡されているニバスは何度も後ろを振り返った。振り返ると、そこには追っ手ではなく暗い追憶があった。それを瞳に映すたび、ニバスは叫んで涙をこぼした。

 舌を失ったニバスの口からは、まともな悲鳴は上がらない――。


 ――ニバスの父親が怒鳴りながらニバスの母親を殴りつけている。

 幼いニバスは母親の泣き喚く声を聞きながら、狭い我が家の食卓で勉強をしていた。テーブルの上に広げた白い背表紙の教科書は帝国中央魔導学会中等部で学ぶ魔導数式学2だった。

 母親の悲鳴がまた上がった。

 ニバスは顔を歪めて両耳を手で塞ぐ。

 ニバスの父親は純血の魔人族で若い頃、旅芸人一座に加わって演劇役者をしていた。顔は二枚目であったが才能は三枚目。芸事に魂を捧げる覚悟もなかった。結局、ニバスの父親は役者として上手くいかなかった。

 役者を諦めたあと、ニバスの父親は魔帝国の首都――帝都チェルノボーグで魔人の貴族サンタバレウス伯爵の馬番の職にありついた。旅芸人一座とあっちこっち馬を使って移動しているうち、ニバスの父親は馬の世話に熟練していたのだ。だが、ニバスの父親は虚栄心を満たすためだけにたいして好きでもない演劇役者などをしていた男だ。馬番のような裏方の仕事を糧にしている自分の立場が気に入らない。ニバスの父親は自分の立場と自分の仕事が嫌で嫌で、とにかく毎日毎日苛立っていた。そのうち、ニバスの父親は旅芸人をしているうちに連れ合うようになった自分の嫁へ――ニバスの母親へ当り散らすようになった。

 気は弱いがヒステリックなニバスの母親はヒト族だった。魔人族の平均寿命は八百年前後でヒト族の平均寿命は七十年前後。必然的にヒト族は魔人族より早く老いる。ニバスの父親は自分より速く老いて醜くなる妻を見て益々苛立った。

 純血の魔人族をめとることができなかった無駄に自尊心が高い負け犬で貧乏人の父親。

 解放労奴の子で窮すれば泣き喚くことしかできない愚かな母親。

 物心ついた頃、ニバスは自分の両親を心底から憎むようになり、その忌まわしい家庭から何とかして逃げだそうと学業に身を入れた。

 時代は魔賢帝デスチェイン・ヨイッチ=フィオの千年帝国ミレニアム治世時代その後期だ。

 魔帝国では純血種優遇法(※純血の魔人族の優遇法)が撤廃され、人種差別は表向き禁止になっていた。だが、老いた魔賢帝の政治影響力が弱くなると(決してこの大英雄は老醜を晒したわけではない。しかし、長く生きすぎて少し耄碌もうろくした――)、それまで革新派の旗手であるデスチェインへの鬱憤を溜め込んでいた純血の魔人族、そのうちでも主に貴族階級が体制へ反旗を翻す準備を水面下で整え始めた。魔帝国でニバスが学生生活を送っていたのは、この不穏な空気が漂いだした時代である。エンネアデス魔帝国のグリフォニア大陸南下作戦が始まる五十年ほど前だ。

 魔人族とヒト族の混血であるダーク・ハーフのニバスは帝国魔導学会の試験でいくら良い成績を収めても、望んだエリート・クラスへ組み入れられることはなかった。その時点で、魔人族以外の種族にも開放的だった帝国中央魔導学会の雰囲気も変質していた。世界各国から集まっていた留学生は格段に減って、学徒組合(※生徒会)は、すべて魔人族の生徒で占められるようになり、魔人族ではない教官はあれやこれやと理屈をつけられて職を追われた。

 それに加えてである。

 ダーク・ハーフのニバスは魔導式を扱う学問の分野において、どうやっても、生まれもって魔導を扱う術に長けた純血の魔人族に遅れをとった。結局、純血の魔人族が支配階級を牛耳る社会のなかでニバスは異分子でしかなかったのだ。前述の通り、表面上、魔帝国はありとあらゆる人類種は差別を受けないと謳っている。だが、現実的に純血の魔人族でないものは搾取される対象だった。

 ニバスの母親がそうであるように――。

 苦い涙をこぼし、呻き声を上げ、両の拳を握って手のひらに血を滲ませ、かなわぬ望みに悶えて日々を過ごすうち、ある朝、ニバスは絶叫した。それは呪いの絶叫だった。

 魔帝国中央魔導学会の大学部進学試験。その不合格通知を受け取ったニバス十八歳の誕生日。

 ニバスは魔帝国と魔人族、呪われた血を自分の肉体へ流し込んだヒト族の女、そのすべてに復讐を誓って、まずは忌むべき負け犬の父親と愚かな母親を惨殺した。ニバスは旅立ちの朝、両親が寝ていたベッドを血の海にして、死体を二つをそこへ浮かべたのである。

 ニバスは一体、何に復讐を果たすつもりなのか。

 ニバスは一体、何者になりたいのか。

 ニバスは一体、どうすれば満たされるのか。

 曖昧模糊とした復讐の旅がこの日から始まった。

 ニバスが立ち去ったあとだ。

 帝都の下街にあった小さな貸家の小さな食卓の下には、ニバスの両親がそれぞれ用意した一人息子への誕生日プレゼントが隠してあった。カントレイア世界での十八歳は子供から大人へ変わる大事な節目にあたるので両親は貧乏ながらに奮発した。ニバスの母親が息子のために用意したのは、ぴかぴかとした黒い軸に金のペン先がついた、つくりの良い万年筆だった。母親は口数が極端に少なく暗い性格ではあるが、必死の態度で学業に専念する息子を誇りに思っていた。父親が息子のために用意したのは、雪毛有角馬ウェンディゴ・エボの革を使って仕立てた丈夫で暖かいダスター・コートだった。

 魔帝国の冬は長く厳しいので、愛する息子が悪い風邪を引かないように――。


 ――何度目になるか。

 追跡してくる恐怖に怯えて振り返り、そのたび自分の暗い追憶を目にして、声のない悲鳴を上げていたニバスが、また恐怖に負けて振り返った。そこでニバスの足がとうとう止まった。倉庫の石壁にニバスの父親と母親が埋め込まれている。目を見開いたニバスの前で、壁に埋め込まれた父と母が、ニバスの名を呼ぶような口の動きを見せ、そして、笑った。開いた目には眼球がなく開いた口に歯が一本もない。ニバスが愛せなかった両親の眼窩と口から血が溢れ出た。石壁へずるずる血の流れができる。

 何度でも、何度でも、俺はお前らを殺してやる!

 お前ら負け犬と俺は違う!

 お前らなんかと俺は――。

 ニバスは大粒の涙をこぼして絶叫したが声は出ない。悲鳴の代わりに吐き気がせり上がった。ニバスは嘔吐した。血の混じった涎が路面へ向かって糸を引く。そのままニバスの視線が路面へ釘付けになった。これまでに命を奪ってきた女たちが路面に折り重なっている。女たちは死体であり、腐敗し、死臭を発し、そのひとつひとつが動きをみせていた。それは死体が動いているのではなく、その内側を這う蟲の動きだった。死斑の浮く肌を食い破って、白い蛆やら黒い蟻やら茶色い油虫やらの蟲が大量に湧き出てきた。

 たまらずにニバスが目を背けると、そこにこれまで何の気なしに殺害してきたひとびとの死体が路地の脇にうず高く積みあがって屍骸の塔を作っていた。その塔がきゃらきゃらと笑うような悲鳴を上げながら崩れ落ちてくる。

 顔色を完全に失ったニバスは、逃げても逃げても追いすがってくる暗い記憶へ、よろよろ背を向けた。

 道の先は明るい大通りの脇に続いていた。

 光と一緒にひとが行き交う気配と、その会話がニバスの足元へ流れてくる。そこで、ニバスの魂に小さな火が点った。それはダーク・ハーフから吸血鬼ヴァンパイア変異体化ミューテーションしてから、一度も実感したことがない感覚だった。

 ニバスはひとのぬくもりを感じている。

 そのひしゃげた魂は、肉体を犯した毒物が見せる幻覚によって、ほんのいっとき浄化されていたのだ。何呼吸分か、ほんの数秒、短い時間――子供のように無垢な表情をニバスが見せていた。だが、すぐニバスは顔を歪め、乾いた血がこびりついた青い唇の間から吸血鬼の牙を見せた。

 大通りから差し込む光を背景に、小さなひと影がひとつ立ってニバスを眺めている。

「――ああ、旦那がニバス・デメルクでやんすか? ウヒヒ!」

 逆光で影になった小男が訊いた。

 ひび割れた高い声。

 身長は百四十センチ前後。

 子供のような背丈だ。

「ひょんひょは、らんら(今度は何だ)――」

 ニバスが逆光に目を凝らした。

 黒装束を着た小男だ。

 長い黒髪を後ろで一本に縛っている。

 目は大きく黄緑色で瞳孔が縦に裂けていた。

 唇から上下に突き出した四本の細い牙がある。

 尖った鷲鼻で耳の先端が尖り青い肌の色。

 身体のわりにその小男の腕は長い。

 これはゴブリン族である。

 ゴブリン族の男は刃物を背負っていた。

 背から飛び出して見えるその柄巻きは、濡れたような色合いの黒い絹を使って、柄頭は金色だった。

 王都では滅多に見れない繊細な拵え。

 ニバスはゴブリン族の男が持つ武器を目にして一身に怖気立おぞけだつ。

 その形状は、あの死神の刃の柄とほとんど同じ――。

「――あぁぁぁぁあっ!」

 ニバスが刺突用短剣を引き抜いて振り回した。魔導の力が極短い精神変換サイコ・コンヴァージョンで機動して、前方の空間が炸裂する。近くの店舗の裏口に積まれていたゴミ袋が飛んで、なかのゴミが舞い散った。路地の石畳が割れて破片が飛んだ。まともに食らえばとても立ってはいられない衝撃だ。しかし、そのゴブリンの男はニバスが放った魔導の衝撃波を受けても、まだそこへ佇んでいた。微動だにしない。

 ニバスが必死に攻撃をしていたのは毒に犯された神経が錯乱して作った恐怖の幻影――。

 ニバスは血と涙に濡れた顔をぐしゃぐしゃに歪ませて、

「ひゃれら、ひゃれらら(誰だ、誰なんだ)!」

「冥途の土産に俺の名を持っていきな、地獄の鬼どもに自慢ができるぜ――」

 ゴブリンの男がドスの利いた声でいった。

 そのひび割れた高い声は闇の濃い方向からニバスの耳へ届いた。

 いつの間に移動したのか。

 音もなく。

 走る影のように。

 ゴブリンの男はニバスの背後へ回り込んでいた。

「ひゃ、ひゃにもろ(な、何者)――」

 ニバスは首をゆっくり後ろへ回した。

 身体が自由にならない。

 関節の節々がすべて恐怖で錆びついている。

「――ラウアール」

 ゴブリンの男が名乗ると同時に、ニバスの視界の片隅に白い光が一筋映った。

「ふ、ふひゃへひゃあって(ふ、ふざけやがって)――」

 振り返ったニバスがあっと驚愕した。藤色の瞳に映り込んだのは王都の夜空に浮かんだ丸い月だ。ニバスは夜空を見上げている。刀のハバキが鞘の鯉口へぢゃっと音を鳴らして納まると、ニバスの首が路面へ転がった。

 ゴブリンの男は、すでに一閃、ニバスのそっ首を刎ねていた。

 この刀の銘は『小狐丸』という。さる刀匠が稲荷大明神と相槌を打って鍛え上げたとされる妖刀の切れ味の凄まじさ、ご覧の通りである。あまりの切れ味に首を失ったことに気づかぬニバスの胴体はまだそこへ佇んでいた。おやおや、俺の首がないようだが――胴体がようやく自覚すると、驚きの声を上げる代わりに、首の切断面から血飛沫を高く飛ばして、黄色い満月を濡らした。

 ニバスの胴体が首に遅れて地へ落ちる。

かたきは取ったぜ、ってか?」

 ゴブリンの男――ラウはいったのだが、

「――ガラでもねえや」

 すぐ顔を歪めて呟いて、後ろへするする下がった。その姿は路地の闇に霞んで、煙のように、音もなく消え去った。

 残ったニバスのなま首へ大通りから差し込む光がかかっていた。


 遥か昔、名もなき盗賊ギルドを結成した大盗賊ラウアール。この盗賊頭は年老いて引退するときに自分の名を懐刀へ譲り渡した。

 有名になりすぎたその名を捨ててしまうと、小悪党チンピラに名を語られて面倒だ。

 とはいっても、有名になりすぎたその名を背負って堅気で生きてゆくのは差支えがある。

 そんな理由で、大盗賊ラウアールの名は、名もなき盗賊ギルドに所属するもののなかで一番の腕っこきへ代々引き継がれるしきたりになっていた。ラウアールの名は今もってして、カントレイア世界の表社会においても、裏社会においても、みだりに名乗ることが許されていない。ゴルゴダ銭湯と酒場宿の仕事を切り盛りしているこのラウアールは、半ば盗賊稼業から引退をしている身なので半分だけその名を使うことにしている。

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